古代東アジア世界史年表
                       
西暦 月日 日本 中国 朝鮮 日本年号 中国年号 朝鮮年号 渤海年号
事項 出典史料 事項 出典史料 事項 出典史料
581 2     楊堅、北周静帝の禅譲を受けて皇帝に即位。隋建国。       敏達10 大定1 真平王3(新)  
10・9     隋に遣使朝貢の百済王扶余昌を上開府・儀同三司・帯方郡公に冊封する。 隋書1高祖上 百済王扶余昌、隋に遣使朝貢する。「上開府儀同三司帯方郡公」に冊封される。 史記27 (周・静帝) 平原王23(高)
北史11高祖文帝  開皇1 威徳王28(百)
隋書81百済 (隋・文帝)  
北史94百済 太建13  
冊府963 (陳・宣帝)  
12・27     隋に遣使朝貢の高句麗王高湯を大将軍・遼東郡公に冊封。毎年朝貢を欠かさないという。 隋書1高祖上 高句麗平原王、隋に遣使朝貢する。「大将軍遼東郡公」に冊封される。 史記19    
隋書81高麗     
北史94高句麗    
冊府963    
582 1・26     高句麗・百済、隋に朝貢する。 隋書1高祖上 高句麗・百済、隋に遣使して朝貢する。 史記19 敏達11 開皇2(隋) 真平王4(新)  
北史11高祖文帝  史記27 太建14(陳) 平原王24(高)
冊府970   威徳王29(百)
10 新羅、安刀奈末・失消奈末を遣わして、調を進めるが納めずして還す。 書紀        
11・6     高句麗、隋に朝貢する。 隋書1高祖上 高句麗隋に遣使して朝貢する。 史記19    
冊府970    
12     陳宣帝、没。後主、即位。          
583 1・24     高句麗、隋に朝貢する。 隋書1高祖上 高句麗、隋に遣使して朝貢する。 史記19 敏達12 開皇3 真平王5(新)  
冊府970 (隋) 平原王25(高)
1     陳、改元。       至徳1 威徳王30(百)
4・3     高句麗、隋に朝貢する。 隋書1高祖上 高句麗、隋に遣使して朝貢する。 史記19 (陳・後主)  
5・7     高句麗、隋に朝貢する。 隋書1高祖上        
冊府970    
7・1 紀国造押勝・吉備海部直羽嶋を遣わし、火葦北国造阿利斯登の子の日羅を百済より召喚しようとする。 書紀            
元亨釈書20    
10 紀国造押勝等、百済より還り復命。百済王が日羅の召喚を拒否したことを奏する。 書紀            
元亨釈書20    
12 新羅使、滞在。 書紀            
        高句麗、隋に遣使して朝貢する。 史記19    
この年* 再度吉備海部直羽島を遣わし、日羅を百済より召喚。日羅、吉備児島屯倉に到る。朝廷、大伴糠手子連を遣わし労う。大夫らを難波館に遣わし、日羅を訪ねさせる。また、阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を遣わし、国政について日羅に問う。日羅、百済による筑紫の侵略計画などについて語る。百済使は12月30日に至り、日羅を殺害。殺害した徳爾らは捕えられて殺される。百済使、帰国。 書紀            
扶桑略記    
元亨釈書20    
584 2・8 難波吉士木蓮子を新羅に遣わす。任那に至る。 書紀         敏達13 開皇4(隋) 真平王6(新)  
        高句麗、隋に遣使して朝貢する。 史記19 至徳2(陳) 平原王26(高)
4・15     隋、突厥・高麗・吐谷渾の使者を大興殿にて饗宴する。 隋書1高祖上 隋の文帝、高句麗の使臣を大興殿にて饗宴する。 史記19   威徳王31(百)
9* 百済より鹿深臣、弥勒の石像一軀、佐伯連、仏像一軀を持って来る。蘇我馬子、仏像二軀を請う。また鞍部村主司馬達等・池邊直氷田を四方に遣わし修行者を訪ね求め、播磨国にて高麗の還俗僧の恵便に出会い、師とする。仏殿を宅の東方に造り、弥勒の石像を安置し、10月に善信尼ら大会設斎を行う。 書紀            
書紀敏達13年是歳条    
扶桑略記    
聖徳太子伝暦    
元興寺資財帳    
元亨釈書18善信尼    
元亨釈書20    
11・20     百済、陳に朝貢する。 陳書6後主 百済、陳に遣使して朝貢する。 史記27    
南史10後主    
冊府969    
585 3 任那の再建のため、坂田耳子王を使とするも、敏達と物部守屋が瘡を患ったため、遣使できず。橘豊日皇子に詔して、任那の政を修めさせる。 書紀         敏達14 開皇5(隋) 真平王7(新)  
7         新羅僧智明、陳へ求法する。 史記4 至徳3(陳) 平原王27(高)
12・21     高句麗、陳に遣使して方物を献じる。 陳書6後主 高句麗、陳に遣使して朝貢する。 史記19   威徳王32(百)
南史10後主    
冊府969    
586 9・30     百済、陳に遣使して方物を献じる。 陳書6後主 百済、陳に遣使して朝貢する。 史記27 用明1 開皇6(隋) 真平王8(新)  
南史10後主 至徳4(陳) 平原王28(高)
冊府969   威徳王33(百)
この年   契丹の別部、高句麗を離れ隋に内附する。        
587 4 百済仏工の鞍部多須奈、用明のために出家し、丈六仏像と坂田寺を造る。 聖徳太子傳暦         用明2 開皇7(隋) 真平王9(新)  
扶桑略記         禎明1(陳) 平原王29(高)
6 百済の調使が来朝する。大臣、使人と尼等の留学について話し合う。 書紀           威徳王34(百)
元興寺資財帳    
元亨釈書18善信尼    
元亨釈書20    
588 3 百済、僧、技術者等を遣わし仏舎利を献ずる。馬子、百済の僧等に受戒の法を問う。 書紀 是歳条         崇峻1 開皇8(隋) 真平王10(新)  
扶桑略記 禎明2(陳) 平原王30(高)
元興寺資財帳   威徳王35(百)
聖徳太子伝暦    
元亨釈書20    
4 善信尼らを百済使の恩率首信等に随行させ、法を学ばせるために派遣する。 書紀 是歳条        
元興寺資財帳        
元亨釈書18善信尼        
元亨釈書20            
589 1     隋、陳を滅ぼす。南北統一する。     崇峻2 開皇9 真平王11(新)  
3 善信尼ら大戒を受ける。 元興寺資財帳       平原王31(高)
3*     新羅の僧円光、隋に来る。 続高僧伝13 新羅僧円光、陳へ求法する。 史記4 威徳王36(百)
遺事4円光西学  
海東高僧伝  
この年     百済、隋の漂流船を送り、遣使して陳の平定を祝賀。高祖、詔書を下して、往復が困難であるので、これからは毎年入貢しなくてよい旨を告げる。 隋書81百済 躭牟羅国に漂流した中国船が、自国へ帰ろうとして百済を通過。王は手厚く資送し、使臣と表文を隋に送り、陳平定を賀する。隋の高祖、詔書を下して、往復が困難であるので、これからは毎年入貢しなくてよい旨を告げる。 史記27  
北史94百済  
590 3 学問尼善信ら百濟より還りて、桜井寺に住む。 書紀         崇峻3 開皇10 真平王12(新)  
扶桑略記 平原王32/嬰陽王1(高)
元興寺資財帳 威徳王37(百)
聖徳太子伝暦  
元亨釈書18善信尼  
元亨釈書20  
7・26*     高句麗、開皇年間の初めにしきりに朝貢する。陳の平定後、高句麗は隋を恐れ、軍備を強化する。隋、高句麗の軍備について問責。高句麗王湯、陳謝しようとするが病死。隋、湯の子の元を封じて遼東郡公とする 隋書2高祖下 高句麗王、陳が隋に滅ぼされたことを聞いて恐れ、防守の策を講じる。隋の高祖、王に璽書を送ってこれを責める。王、陳謝しようとするが崩御する。長子の嬰陽王が即位すると、隋の文帝遣使し、王を「上開府儀同三司」とし、「遼東郡公」の爵を継がせ、衣服を賜る。 史記19  
*なお、北史の本紀は、隋書本紀と同文であるので、掲載は省略する。(以下も同様) 隋書81高麗 史記20  
  北史高句麗  
  冊府963  
  冊府996責譲  
  通鑑178  
591 1・18     高句麗、朝貢する。また、王の冊封を請う。文帝、これを許す。 隋書2高祖下 高句麗、隋に遣使して謝恩し、あわせて王の冊封を請う。文帝、これを許す。 史記20 崇峻4 開皇11 真平王13(新)  
冊府963 嬰陽王2(高)
冊府970 威徳王38(百)
通鑑178  
3     高句麗嬰陽王を高句麗王に冊封する。 隋書81高麗 隋文帝、高句麗嬰陽王を高句麗王に冊封し、車服を賜う。 史記20  
冊府963  
5*     高句麗、朝貢する。 隋書2高祖下 高句麗王、隋に遣使し、謝恩する。 史記20  
冊府970  
8・1 崇峻、群臣と共に任那の再建について協議する。 書紀          
聖徳太子伝暦      
11・4 紀男麻呂・巨勢猿・大伴囓・葛城烏奈良を大将軍とする。紀男麻呂宿禰等、軍勢を率いて筑紫に赴く。また、吉士金を新羅、吉士木蓮子を任那に遣わし、事を問わせる。 書紀          
聖徳太子伝暦  
扶桑略記  
592 1     高句麗、朝貢する。 冊府970 高句麗、隋に遣使して朝貢する。 史記20 崇峻5 開皇12 真平王14(新)  
11・3 崇峻、暗殺。           嬰陽王3(高)
11・5 駅使を筑紫の将軍の所に遣わし、内乱によって外事を怠らないよう戒める。 書紀         威徳王39(百)
593 1・16 仏舎利を法興寺の刹柱の礎の中に置く。馬子ら100余人、百済服を着用して参列する。 書紀         推古1 開皇13 真平王15(新)  
聖徳太子伝暦 嬰陽王4(高)
扶桑略記 威徳王40(百)
594 この年     新羅、朝貢する。金真平を封じて上開府・楽浪郡公・新羅王とする。 隋書81新羅 隋の高祖、詔書を下して新羅の真平王を「上開府楽浪郡公新羅王」に封じる。 史記4 推古2 開皇14 真平王16(新)  
北史94新羅 嬰陽王5(高)
冊府963 威徳王41(百)
冊府996鞮譯  
595 4 漂着した沈水香木を用い、百済の工に観自在像を作らせ、吉野の比蘇(蘓)寺に安置する。 聖徳太子伝暦         推古3 開皇15 真平王17(新)  
扶桑略記 嬰陽王6(高)
元亨釋書20 威徳王42(百)
5・10 高麗の僧慧慈、来朝。厩戸皇子の師となる。 書紀          
聖徳太子伝暦  
扶桑略記  
上宮聖徳法王帝説  
元亨釋書20  
7 新羅征討将軍ら、筑紫より至る。 書紀          
この年* 百済の僧慧聡が渡来する。 書紀          
聖徳太子伝暦  
扶桑略記  
元亨釋書20  
596 3         新羅、隋に使臣を遣わして方物を献上する。また僧曇育、入隋して求法する。 史記4 推古4 開皇16 真平王18(新)  
11 法興寺の造営が終了する。馬子の男善徳を寺司に任じる。また、慧慈・慧聡を法興寺に住まわせる。 書紀         嬰陽王7(高)
聖徳太子伝暦 威徳王43(百)
元亨釋書20  
597 4・1 百済王、王子阿佐を遣わし、朝貢する。 書紀         推古5 開皇17 真平王19(新)  
聖徳太子伝暦 嬰陽王8(高)
扶桑略記 威徳王44(百)
元亨釋書20  
5・23*     高句麗、隋に朝貢する。 隋書2高祖下 高句麗、遣使して朝貢する。 史記20  
冊府970  
11・22 難波吉士盤金を新羅に遣わす。 書紀          
598 2・4以前     高句麗、遼西に侵入。栄州総管の韋沖がこれを退ける。 隋書81高麗 高句麗、隋の遼西に侵すが、栄州総管これを退ける。 史記20 推古6 開皇18 真平王20(新)  
北史高句麗 嬰陽王9(高)
通鑑178 威徳王45/恵王1(百)
2・4     文帝、高句麗の遼西侵略を聞いて怒り、高句麗を攻める。 隋書2高祖下 隋の文帝、高句麗の遼西侵略を聞いて怒り、これを討つ。 史記20  
隋書81高麗   
北史94高句麗  
通鑑178  
冊府984  
4 難波吉士盤金、新羅より至りて、鵲2隻を献じ、難波社で養育する。 書紀          
6・27     高麗王高元の官爵を剥奪する。高句麗に進軍するが、兵糧不足や疫病発生。周羅睺、東莱から海路で平壌を攻めようとしたが、暴風に遭い多くの船が漂没。 隋書2高祖下 隋の文帝、詔書を下して高句麗王の官爵を剥奪する。隋軍、高句麗に進軍するが、兵糧不足や疫病が発生。周羅睺、東莱から海路で平壌を攻めようとしたが、暴風に遭い船が多数漂没。 史記20  
隋書81高麗   
北史94高句麗  
通鑑178  
8・1 新羅、孔雀1隻を貢進する。 書紀          
聖徳太子伝暦  
扶桑略記  
9・21     隋の全軍、高句麗から撤退する。高句麗、遣使して隋に謝罪し、「遼東糞土臣元云々」の上表文を進める。隋は戦役を中止し、前と同じ待遇とする。また、百済、長史の王辯那を遣わして隋軍の先導となることを要請。高祖、百済使を手厚くもてなして帰国させる。高句麗王、このことを知り、百済に侵攻する。 隋書81高麗 隋の全軍、撤退する。高句麗、遣使して隋に謝罪し、隋は戦役を中止し、前と同じ待遇とする。百済王の昌(威徳王)、隋に遣使して対高句麗戦の先導となることを要請するが、高句麗謝罪の後であったため、征伐しない旨を伝え、帰国させる。高句麗王、このことを知り、百済に侵攻する。 史記20  
北史94高句麗 史記27  
隋書81百濟  
北史94百済  
通鑑178  
冊府980  
12         百済威徳王薨。恵王即位する。 史記27威コ王  
史記27惠王  
599 9・1* 百済、駱駝1匹・驢1匹・羊2頭・白雉1隻を貢進する。 書紀     推古7 開皇19 真平王21(新)  
聖徳太子伝暦         嬰陽王10(高)
扶桑略記 恵王2/法王1(百)
この年*     百済王餘昌が死去し、餘宣が立つ。 隋書81百濟 百済恵王薨ず。法王即位する。 史記27惠王  
  史記27法王  
600 1・1     突厥・高句麗・契丹、隋に朝貢。 隋書2高祖下 高句麗、隋に遣使して朝貢する。 史記20 推古8 開皇20 真平王22(新)  
1         百済王興寺創建。僧30人を置く。 史記27 嬰陽王11(高)
2* 新羅と任那戦う。境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍に命じ、任那のために新羅と戦う。新羅、降伏する。難波吉師神を新羅、難波木蓮子を任那に遣わす。新羅・任那、日本に使者を遣わし上表し、毎年の貢調を約束する。また、使者を遣わし将軍等を召還する。この後、新羅、再び任那を侵略する。 書紀       法王2/武王1(百)
聖徳太子伝暦        
扶桑略記          
5*     百済王餘宣が死去し、餘璋が立つ。 隋書81百済 百済法王薨ず。武王即位する。 史記27  
北史94百済 史記27  
この年* 『釋日本紀』所引の「延喜講記」によれば、隋文帝の開皇年間、小野妹子が使として入唐とある。 釋日本紀1開題 倭王、隋に遣使朝貢 隋書81倭国      
北史94倭  
新唐220日本伝  
通典185倭  
冊府966継襲  
宋史491日本国  
この年         入隋していた新羅僧の円光、朝聘使の諸文・横川とともに帰国する。 史記4  
史記45貴山伝  
601 1・1     仁寿に改元。       推古9 仁寿1 真平王23(新)  
3・5 大伴囓を高麗、坂本糠手を百済に遣わし、任那救援を要請する。 書紀         嬰陽王12(高)
聖徳太子伝暦 武王2(百)
扶桑略記  
9・8 新羅の間諜迦摩多、対馬に至る。これを捕え、上野に配流する。 書紀          
聖徳太子伝暦  
11・5* 新羅を攻撃することについて話し合う。 書紀          
聖徳太子伝暦  
602 1 厩戸皇子、数万の征軍を興して新羅を伐つことを奏す。 聖徳太子伝暦         推古10 仁寿2 真平王24(新)  
2・1 来目皇子を撃新羅将軍に任じ軍衆二万五千人を授ける。 書紀         嬰陽王13(高)
聖徳太子伝暦 武王3(百)
扶桑略記  
4・1 将軍来目皇子、筑紫に至る。島郡に駐屯し、船舶を集めて軍糧を運ぶ。 書紀          
聖徳太子伝暦  
扶桑略記  
6・3 大伴連囓・坂本臣糠手等、百済より至る。この時、来目皇子、病に臥して征討すること叶わず。 書紀          
聖徳太子伝暦同年4月条  
扶桑略記同年4月条  
8月以前         新羅、大奈麻上軍を隋に遣使して方物を進上する。 史記4  
8         百済、新羅の阿莫城を攻める。新羅王、将兵を派遣してこれを破る。また新羅、小陀・畏石・泉山・甕岑の4城を築き、百済国境を攻める。百済王、解讎を派遣して4城に侵攻する。新羅の将軍乾品・武殷、応戦し、百済を破る。この時、武殷の息子貴山、戦死する。 史記4  
史記27  
史記45貴山  
9         新羅僧智明、入朝使の上軍と共に帰国する。王、智明の戒行を尊敬して、大徳とする。 史記4  
10* 百済の僧観勒が来朝する。暦本・天文地理書・遁甲方術の書を貢上する。書生3、4人を選び観勒に学び習わしめる。 書紀          
三実 貞観3・6・16条  
聖徳太子伝暦  
扶桑略記  
伝通縁起  
元亨釋書20  
閏10・15 高句麗の僧、隆・雲聡が来朝する。 書紀          
聖徳太子伝暦  
元亨釋書20  
603 2・4 来目皇子、筑紫にて没する周防の沙婆にて殯。 書紀         推古11 仁寿3 真平王25(新)  
聖徳太子伝暦 嬰陽王14(高)
扶桑略記 武王4(百)
4・1 来目皇子の兄当麻皇子を新羅征討の将軍に任命する。 書紀          
7・3 当麻皇子、難波より船で発する。 書紀          
7・6 当麻皇子、播磨に至るが、妻の舎人姫王が明石にて没する。明石の檜笠岡の上に葬する。当麻皇子、引き返し、新羅征討は中止となる。 書紀          
8         高句麗、将軍の高勝を派遣して新羅の北漢山城を侵す。新羅王みずから兵1万を率いてこれを防ぐ。 史記4  
史記20  
12・5 冠位十二階を制定            
604 1・1 暦日を始めて使用する。 政事要略25         推古12 仁寿4 真平王26(新)  
4・3 憲法十七条をつくる           嬰陽王15(高)  
7・21     丁未(13日)に文帝没。煬帝即位。(即位日は『通鑑』による)       (煬帝) 武王5(百)  
7         新羅、大奈麻万世・恵文らを遣わして隋に入朝させる。 史記4    
605 1・1     大業に改元。       推古13 大業1 真平王27(新)  
3         新羅僧曇育、入朝使の恵文と共に隋より帰国する。 史記4 (煬帝) 嬰陽王16(高)
4・1* 鞍作鳥に命じて丈六の仏像を建立させる。高句麗の大興王(嬰陽王)、これを聞いて黄金300両を貢進。また隋帝、東国に綵1000匹を貢す。 書紀           武王6(百)
聖徳太子伝暦    
元興寺資財帳    
扶桑略記    
太子伝玉林抄所引天台付法縁起    
元亨釋書20    
8         新羅、兵を発して百済を攻める。 史記4    
史記27    
606 4・8 丈六の仏像の建立が終了し、丈六仏の銅像を元興寺の金堂に安置する。この年より初めて寺毎に四月の八日・七月の十五日に設斉。 書紀         推古14 大業2 真平王28(新)  
聖徳太子伝暦 嬰陽王17(高)
元興寺資財帳 武王7(百)
扶桑略記  
元亨釋書20  
607 3*     百済、燕文進を隋に派遣し、朝貢する。 隋書81百済 百済、燕文進を隋に派遣し、朝貢する。 史記27 推古15 大業3 真平王29(新)  
嬰陽王18(高)
武王8(百)
  北史94百済        
  冊府998        
  5         高句麗、百済の松山城を攻めるも、陥落できず。また、石頭城を侵攻し、男女3千人を捕虜とする。 史記20        
  史記27        
  7・3* 小野妹子を大唐に遣わす。また、鞍作福利を通事とする。さらに僧侶数十人が従う。聖徳太子、『法華経』の将来を妹子等に託す。 書紀 倭国王、隋に遣使朝貢して「日出ずる処の天子…」の国書を進める。煬帝これをみて悦ばず。倭國僧・會丞、遣隋使に従って入隋し、阿育王塔の存否について問答する。 隋書81倭国            
  天書 北史倭国伝            
  聖徳太子伝暦 上 通典185            
  釈日本紀1 冊府997悖慢            
  釈日本紀14 宋史491日本国            
  元亨釈書20            
  善隣記 法苑珠林38            
  異本上宮太子伝 集神州三宝感通錄 上20            
  8・9*     煬帝が突厥の啓民河汗の帳に行幸した時、高句麗使者もその場に居たため、共に煬帝にまみえる。煬帝、黄門侍郎の裴矩の進言により高句麗王の入朝を求め、王の入朝がなければ、征討することを告げる。 隋書3煬帝 隋の煬帝が突厥の啓民河汗の帳に行幸した時、高句麗使者もその場に居たため、共に煬帝にまみえる。煬帝、黄門侍郎の裴矩の進言により高句麗王の入朝を求め、王の入朝がなければ、征討することを告げる。 史記20        
  隋書81高麗         
  隋書84突厥        
  北史高句麗        
  通鑑182        
  冊府990        
  この年*     百済、隋に高句麗攻撃を要請。煬帝、これを許し、高句麗の動静を伺うよう言いつける。しかし百済はひそかに高句麗とも通じており、詐って隋を窺っていたという。 隋書81百濟 百済、王孝鄰を派遣して、高句麗を討つことを請う。煬帝、これを許し、高句麗の動静を伺うよう言いつける。 史記27        
  北史94百済        
  冊府998        
608 2         高句麗、新羅の北境を侵し、8千人を捕虜とする。 史記4 推古16 大業4 真平王30(新)  
史記20 嬰陽王19(高)
3・19* 倭国使、隋に入貢 善隣記 百済・倭国ら、方物を貢ぐ。 隋書3煬帝上 百済、隋に使臣を派遣して朝貢する。 史記27 武王9(百)
隋書81流求国  
北史12煬帝  
冊府970・朝貢  
通鑑181  
4 小野妹子、大唐より至る。また、大唐の使人使裴世清・下客十二人、妹子に従い筑紫に至る。難波吉士成を遣わし、大唐の客裴世清等を招く。また、唐客のために新館を難波の高麗館の上に造る。 書紀 裴世清を、倭国へ遣わす。 隋書81倭国 隋の裴世清、倭国へ向かう際、百済の南路を通る。 史記27  
法華経将来。 元興寺資財帳 北史倭国伝  
  聖徳太子伝暦 下 冊府662奉使部・絶域  
  扶桑略記  
  元亨釈書20  
  善隣記  
  異本上宮太子伝  
  天書  
4         高句麗、新羅の牛鳴城を攻め奪う。 史記4  
史記20  
6・15* 客等、難波津に泊まる。飾船三十艘を以って客等を江口に迎えて、新館に安置する。この時、中臣宮地連烏麻呂・大河内直糠手・船王平ら以って掌客とする。また、小野妹子、帰国するにあたり、百済国を経過する日に国書を紛失した旨を奏する。 書紀 倭王、小徳の阿輩臺(北史では「何輩臺」)を派遣し、数百人を従えて、儀杖を設け、鼓や角笛を鳴らして歓迎する。 隋書81倭国      
聖徳太子伝暦 下 北史倭国伝  
善隣記 通典185倭  
8・3* 唐客、京に入る。飾騎75匹を遣わし、唐客を海石榴市の衢において迎える。また、額田部比羅夫、礼辞を述べる。 書紀 倭王、大礼の哥多毗を派遣し、飾騎200疋を従えて唐客を迎す。倭の都に至る。 隋書81倭国      
聖徳太子伝暦 下 北史倭国伝  
元亨釈書20 通典185倭  
8・12 唐客を朝廷に召し、使の旨を奏させる。この時、阿倍鳥臣・物部依網連抱等を客の導者とする。裴世清、「皇帝、倭皇に問う、云々」の国書を進める。阿倍臣、国書を受けて進み、大伴囓連等、国書を受け取り、大門前の机上に置いて奏する。 書紀 倭王、裴世清と会見して大いに悦び、隋が礼儀のよく行われている国であることを聞いて、隋に遣使朝貢した等の旨を言う。裴世清これに答え、倭王が隋皇帝の徳を慕っているので、私(裴世清)を派遣したのである、と言う。 隋書81倭国      
元興寺資財帳 北史倭国伝  
聖徳太子伝暦 下  
善隣記  
異国牒状記  
8・16* 唐客等に饗を給う。 書紀 倭王、裴世清を饗す。 隋書81倭国      
通典185倭  
9・5 裴世清らを難波大郡にて饗を給う。 書紀          
9・11* 唐客裴世清等が帰国する。この際に、小野妹子を大使、吉士雄成を小使、副利を通事となし、同行させる。ここに天皇、「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、云々」の国書を託す。また、唐国に倭漢直副因等の学生八人を遣わす。 書紀 裴世清を、送り帰す。 隋書81倭国      
聖徳太子伝暦 下 通典185倭  
扶桑略記 唐会要99倭国  
釈日本紀1  
善隣記  
異国牒状記  
天書    
この年 多くの新羅人が帰化する。 書紀          
この年         新羅王、高句麗がしばしば領土を侵すのを患え、隋に援軍を要請する。僧円光にその文書をつくらせる。 史記4  
609 4・4 筑紫の大宰、百済の僧道欣・惠彌を首として十人、俗七十五人が肥後国の葦北津に泊まったことを奏上する。また、難波吉士コ摩呂・船史龍を遣わす。 書紀         推古17 大業5 真平王31(新)  
元亨釈書20 嬰陽王20(高)
天書 武王10(百)
5・16 コ摩呂・龍の二人を遣わし、百済の人等を本国に送らせる。対馬に至りて留住を希望した人等11人を元興寺に住まわせる。 書紀          
9 隋より小野妹子が帰るも、通事鞍作福利は至らず。 書紀          
元亨釈書20  
扶桑略記  
善隣記  
天書  
この年     高句麗、隋に朝貢する。 冊府970      
610 1・27*     倭国使、遣使して方物を貢ずる。 隋書3煬帝上     推古18 大業6 真平王32(新)  
冊府970 嬰陽王21(高)
3 高麗の王、僧曇徴・法定を貢進する。 書紀         武王11(百)
7 新羅の使人沙喙部奈末竹世子、任那の使人喙部大舎首智買とともに筑紫に到る。 書紀          
9 使いを遣わし、新羅・任那使を京に召す。 書紀          
10・8 新羅・任那使、京に到る。額田部連比羅夫を新羅の客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那の客を迎える荘馬の長とする。 書紀          
10・9 客等、朝廷に拜す。秦造河勝・土部連菟を新羅の導者とし、間人連鹽蓋・阿閉臣大籠を任那の導者とする。新羅・任那使、使の旨を奏する。 書紀          
10・17 使人等に朝に饗す。河内漢直贄を新羅の共食者とし、錦織首久僧を任那の共食者とする。 書紀      
10・23 新羅・任那使、還る。 書紀          
611 2・4     百済、隋に朝貢。隋の煬帝、まさに高句麗を討とうとしており、百済王が国智牟を派遣して出征の期日を聞くと、煬帝は喜んで手厚く賞を与え、席律を遣わして謀議させる。 隋書3煬帝上 百済、隋に遣使して朝貢する。隋の煬帝、まさに高句麗を討とうとしており、百済王が国智牟を派遣して出征の期日を聞くと、煬帝は喜んで手厚く賞を与え、席律を遣わして謀議させる。 史記27 推古19 大業7 真平王33(新)  
隋書81百済 嬰陽王22(高)
北史12煬帝 武王12(百)
北史94百済  
冊府970  
2・26     煬帝、詔書を下して高句麗を討伐しようとする。 隋書3煬帝上 隋の煬帝、詔書を下して高句麗を討伐しようとする。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑181  
冊府984  
4・15     煬帝、(高句麗征伐のため)涿郡の臨朔宮に至る。 隋書3煬帝上 煬帝、(高句麗征伐のため)涿郡に行と、兵も涿郡に集結する。 史記20  
通鑑181  
8 新羅、沙喙部奈末北叱智、任那、習部大舎親智周智を遣わし、共に朝貢する。 書紀          
10         百済、新羅の椵岑城を攻める。県令の讃徳、防戦するも戦死し、城が陥落する。 史記4  
史記27  
史記47奚論  
12・8     高句麗討伐の戦士及び糧食運搬者、役に苦しみ、群盗となる。 隋書3煬帝上      
通鑑181  
この年         新羅王、隋に使臣を遣わして、更に救援兵を要請する。隋の煬帝、承知し、出兵する。 史記4  
612 1・1     涿郡に大軍が集結する。段文振を左侯衛大将軍とする。 隋書4煬帝下     推古20 大業8 真平王34(新)  
通鑑181 嬰陽王23(高)
1・2     煬帝、高句麗攻撃の詔を下す。兵の規模は113万ほどであったが200万と号し、糧食の運搬者はこれに倍する数であった。 隋書4煬帝下 隋煬帝、高句麗出兵の詔を下す。兵の規模は113万ほどであったが200万と号し、糧食の運搬者はこれに倍する数であった。 史記20 武王13(百)
通鑑181  
1・3     高句麗討伐の第一軍、出発する。 隋書4煬帝下      
通鑑181  
3・14     煬帝、高句麗に親征する。 隋書4煬帝下 煬帝、親征して遼河へ到着する。 史記20 同年2月条  
通鑑181  
3・15     隋・高句麗両軍、遼水橋に布陣し、対峙する。 隋書4煬帝下 隋・高句麗両軍、河を挟んで対峙する。 史記20 同年2月条  
通鑑181  
3・19     高句麗軍に阻まれ、隋軍は渡河できず。麦鉄杖・銭士雄・孟金叉ら戦死する。 隋書4煬帝下 高句麗軍、川を挟んで堅守し、隋軍の渡河を防ぐ。この時、麦鉄杖・銭士雄・孟金叉ら戦死する。 史記20 同年2月条  
通鑑181  
3*     隋軍、河を渡り、東岸にて高句麗軍と戦い、破る。遼東城を囲む。 隋書4煬帝下 隋軍、河を渡り、東岸にて高句麗軍と戦う。隋軍、これを破り、遼東城を囲む。 史記20 同年2月条  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑181  
5     煬帝、軍の進退についてすべて奏聞し、回答を待ち、独断なきよう訓戒する。諸将、その旨を奉じていたため、遼東城攻略の好機に対処できず。 隋書4煬帝下 隋煬帝、軍の進退についてすべて奏聞し、回答を待ち、独断なきよう訓戒する。このため、隋の各将、遼東城攻略の好機に対処できず。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑181  
6・11     煬帝、遼東城に幸し、諸将が遼東城を陥落できない事を責める。城の西数里に留まり、六合城に居す。 隋書4煬帝下 煬帝、遼東城に幸し、諸将が遼東城を陥落できない事を責める。城の西数里に留まり、六合城に居す。高句麗諸城堅守する。 史記20  
通鑑181  
6     高句麗王、敵の虚実を探るため、乙支文徳を降伏の使者と偽って派遣する。隋は文徳を帰し、宇文述に命じて追撃させる。薩水を渡って、平壌城の30里手前まで進軍し、文徳、再度偽って降伏。宇文述は降伏を信じ、兵を撤退し、高句麗軍に攻撃される。 通鑑181 高句麗王、敵の虚実を探るため、乙支文徳を降伏の使者と偽って派遣する。文徳、帰還にあたり、隋将宇文述に追撃され、また偽って降伏する。宇文述は降伏を信じ、兵を撤退し、高句麗軍に攻撃される。 史記20  
7・24     宇文述ら薩水で敗戦。辛世雄戦死する。遼東城に戻ったのは2千余騎であった。 隋書4煬帝下 宇文述ら、薩水まで撤退するも、大敗する。はじめ遼東に来たとき約30万の軍勢が、今遼東城に戻る時は2千7百人まで減ってしまう。 史記20  
隋書 宇文述伝  
通鑑181  
7・25     煬帝、兵を引き連れて帰る。、隋はこの戦役においてただ遼東の西にある高句麗の武守エ(国境地帯の監視所)を陥れ、遼東郡と通定鎮を設置するのみであった。 隋書4煬帝下 煬帝、兵を引き連れて帰る。はじめ、百済王璋(武王)は隋に高句麗征討を請うたがこの時、高句麗とも通じていたという。また、隋はこの戦役においてただ遼東の西にある高句麗の武守エ(国境地帯の監視所)を陥れ、遼東郡と通定鎮を設置するのみであった。 史記20  
隋書81高麗  史記27  
隋書81百済  
北史高句麗  
北史94百済  
通鑑181  
この年   高句麗征討に従ったことに対して、突厥を賞す。 冊府974    
この年 百済から渡来した人々に、御所の南庭に須弥山及び呉橋などを作らせる。また、百済人味摩之、帰化し、桜井に安置し、少年を集めて伎学の舞を習わしめる。 書紀          
613 1・2     煬帝、詔書を下し、高句麗征討のために兵を徴発して涿郡に集させる。 隋書4煬帝下 隋の煬帝、詔書を下し、兵を徴発して涿郡に集める。また、遼東の古城を修理して軍糧を蓄えさせる。 史記20 推古21 大業9 真平王35(新)  
通鑑182 嬰陽王24(高)
2・壬午*     宇文述の官爵を復す(前年11月に官爵を剥奪している)。高句麗征討のため徴兵する。 隋書4煬帝下     武王14(百)
通鑑182      
2     煬帝、再度の高句麗征討について議論する。左光禄大夫郭栄が諫めるも聞かず。 隋書50郭榮 煬帝、再度の高句麗征討について議論する。左光禄大夫郭栄が諫めるも聞かず。 史記20  
通鑑182  
3・4*     煬帝、高句麗の遼東へ幸す。 隋書4煬帝下 煬帝、高句麗の遼東へ幸す。 史記20  
通鑑182  
4・27     煬帝、親征して高句麗の遼水を渡る。諸軍に適宜事に従うよう勅す。諸将、道を分て高句麗の諸城を攻撃。 隋書4煬帝下 煬帝、高句麗の遼水を渡る。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
4・29     宇文述・楊義臣を高句麗の平壤に向わせる。 隋書4煬帝下 隋の煬帝、宇文述・楊義臣を高句麗の平壤に向わせる。 史記20  
通鑑182  
4     隋軍、高句麗の新城、遼東城を攻めるが陥落できず。 通鑑182 高句麗、新城、遼東城を隋軍の攻撃から守る。 史記20  
6・3     楊玄感、黎陽において反乱する。(8月に鎮圧) 隋書4煬帝下 隋の楊玄感、反乱。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
6・26     兵部侍郎斛斯政、高句麗に逃亡する。 隋書4煬帝下 隋の斛斯政、高句麗に逃亡。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
6・28     煬帝、楊玄感反乱のことを聞き、大いに懼れて、兵を引き連れて帰る。 隋書4煬帝下 隋軍、撤退する。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
7         隋の使臣、王世儀、新羅の皇竜寺に来て百高座を設け、僧円光らを迎えて経文を講義する。 史記4  
遺事4円光西学  
海東高僧伝  
614 2・3     煬帝、百官に詔書を下し、高句麗征討を議論するが、数日たっても申し述べるものが無かった。 隋書4煬帝下 隋の煬帝が百官に詔書を下し、高句麗討伐について議論させようとしたが、数日たっても申し述べるものが無かった。 史記20 推古22 大業10 真平王36(新)  
通鑑182 嬰陽王25(高)
2・20     煬帝、詔を発して、高句麗討伐の兵士を徴発する。 隋書4煬帝下 煬帝、高句麗討伐の兵士を徴発。 史記20 武王15(百)
通鑑182  
2・23     煬帝、高句麗征討の詔を発し、進軍する。 隋書4煬帝下 煬帝、高句麗に進軍。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
3・14     煬帝、涿郡に到着する。 隋書4煬帝下      
通鑑182  
6・13 犬上君御田鋤・矢田部造を隋に派遣する。 書紀          
天書  
旧事本紀  
7・17     煬帝、懐遠鎮に到着する。 隋書4煬帝下 煬帝、懐遠鎮に到着するが、天下が乱れ、徴発した兵が集まらず。 史記20  
通鑑182  
7・28     高句麗王、遣使して降伏を請い、先に亡命した、斛斯政を送ると、煬帝大いに喜ぶ。 隋書4煬帝下 隋の将軍来護児、高句麗の卑奢城を攻略し、平壌に進軍しようとする。高句麗王、隋に遣使して降伏を請い、先に亡命した、斛斯政を送ると、煬帝大いに喜び、来護児を召還する。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
7     百済、遣使して方物を貢ずる。 冊府970      
8・4     煬帝、懐遠鎮より兵を引き連れて帰る。 隋書4煬帝下 煬帝、懐遠鎮から兵を引き上げる。 史記20  
通鑑182  
10・25     煬帝、京師(長安)に戻る。高句麗の使者のことを太廟に親告し、彼らを拘留する。高句麗王の元(嬰陽王)に入朝を求めるが、入朝せず。煬帝、再び挙兵しようとするが、天下大乱のため、高句麗出兵を断念する。 隋書4煬帝下 煬帝、西京(長安)に戻る。高句麗王に入朝要求をするが、高句麗王聞き入れず。煬帝、再び高句麗遠征を図るが、実現されず。 史記20  
隋書81高麗   
北史高句麗  
通鑑182  
この年     百済王、遣使して朝貢する。この後、隋の天下が乱れたため朝貢が途絶える。 隋書81百済      
北史94百済  
615 1・1     新羅、隋に朝貢する。 隋書4煬帝下     推古23 大業11 真平王37(新)  
冊府970 嬰陽王26(高)
8     隋、突厥強勢のため、高句麗攻略を停止する。 通鑑182     武王16(百)
冊府990  
9 犬上君御田鋤・矢田部造、隋より帰る。また、百済使、犬上君に従い至る。 書紀          
天書  
11・2 百済の客に饗を給う。 書紀          
11・15 高句麗の僧慧慈、帰国する。 書紀          
天書  
616 3〜7 掖玖人、3月に3人、5月に7人(夜勾人)、7月に20人(掖玖人)を合わせた計30人が帰化する。朴井に安置する。還るに及ばず全員死亡。 書紀     推古24 大業12 真平王38(新)  
        嬰陽王27(高)
7 新羅、奈末竹世士を遣わして仏像を貢進する。 書記         武王17(百)
扶桑略記  
10         百済、奇に命じて兵8千を率い、新羅の母山城を攻させる。 史記4  
史記27  
617 11・15     李淵、代王の侑を擁立(恭帝)。義寧に改元。       推古25 大業13/ 真平王39(新)  
義寧1(恭帝) 嬰陽王28(高)
  武王18(百)
618 3・11     煬帝、宇文化及らにより殺害される。       推古26 義寧2 真平王40(新)  
5・14     李淵、恭帝より禅譲を受ける。隋滅亡。唐建国。       唐・武徳1 栄留王1(高)
5・20     高祖即位。武徳に改元。       (高祖) 武王19(百)
8・1 高句麗、遣使して方物を貢じ、隋・煬帝が軍30万を率いて攻撃したことを告げる。 書紀            
9         高句麗嬰陽王、崩御。栄留王即位。 史記20    
この年 河辺臣を派遣し、安芸国に船を造らせる。 書紀            
この年         新羅北漢山州の軍主・辺品、椵岑城を奪い返そうと百済に出兵する。この時、奚論が従軍したが、戦死する。奚論は(611年の椵岑城の戦で戦死した)讃徳の子である。 史記4    
史記27    
史記47奚論    
この頃     新羅、大業年間以来、毎年隋に朝貢する。新羅の地は峻嶮な山地が多いため、百済と抗争するも、百済は新羅を降すことができないという。 北史94新羅        
619 2     高句麗、遣使来朝。 旧唐199上 高麗 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20 推古27 武徳2 真平王41(新)  
栄留王2(高)
冊府970 武王20(百)
620 8 掖玖人2人、伊豆島に流れ着く。 書紀         推古28 武徳3 真平王42(新)  
栄留王3(高)
武王21(百)
621 7・22     高句麗、朝貢。 旧唐199上 高麗 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20 推古29 武徳4 真平王43(新)  
通鑑189 栄留王4(高)
10     新羅、遣使朝貢する。高祖、自ら使臣を慰問し、璽書・綿綵を賜う。 庾文素を新羅に遣わす。 高祖、海東の三国(新羅・高句麗・百済)が互いに怨みを持ち、不和である事に対し、和睦するようすすめる。また、新羅の使節に怨みの原因を問う。 旧唐199上 新羅 新羅王、使臣を唐へ遣わし方物を貢す。唐の高祖、自ら使臣を慰問し、璽書・綿綵を賜う。 唐使の庾文素を同行して帰国。   史記4 武王22(百)
新唐220新羅  
冊府970  
10     高句麗、遣使朝貢する。 旧唐199上 高麗      
冊府970  
10     百済、遣使朝貢し、果下馬を献上する。 旧唐199上 百済 百済、使臣を唐に遣わし、果下馬を献上する。 史記27  
新唐220百済  
唐会要95  
冊府970  
この年 新羅使奈末伊弥買、来朝し書を進める。新羅の上表のはじめ。 書紀          
この年         新羅、倭との外交を掌る倭典(倭典の創置時期は不明)の号を改めて領客典とする。後にまた別に倭典を置く。 史記38  
622 2・22 聖徳太子、没。(49歳)           推古30 武徳5 真平王44(新)  
この年     高句麗、隋との交戦時の残留者を唐に還す 旧唐199上 高麗 高句麗の栄留王、使臣を唐へ遣わす。また、唐高祖の詔書を受けて、隋との交戦時の残留者を唐に送り還す。 史記20 栄留王5(高)
新唐220高句麗 武王23(百)
冊府970  
通鑑190  
623 7 学問僧恵済・恵光、医師恵日、倭漢福因等、新羅使奈末智洗爾・任那使達率奈末智に伴われて唐より帰国する。恵日ら、在唐留学生は学業を終了しているので召還すべきこと、唐は法式の優れた国家であるので通交すべきことなどを朝廷に進言する。 書紀         推古31 武徳6 真平王45(新)  
元亨16恵済 栄留王6(高)
元亨20 武王24(百)
善隣記  
伝暦 下  
続紀 天平宝字2・4・28条  
10     新羅、朝貢 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣わす。 史記4  
10*         百済が新羅の勒弩県を襲う。 史記4  
史記27  
12     高句麗、朝貢 旧唐61温彦博 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20  
冊府970  
624 1・己酉*     沈叔安を遣わして、高句麗王高武を「上柱国・遼東郡王・高麗王」として冊封する。また、道士を高句麗に派遣、『老子』を講ず。 旧唐1 高祖 高句麗の栄留王、唐に使臣を派遣して、班暦を請う。唐は、沈叔安を遣わし、王を冊封して「上柱国遼東郡公高句麗王」とした。また、道士に、天尊像と道法を持たせて派遣し、『老子』を講ずる。 史記20 推古32 武徳7 真平王46(新)  
旧唐199上 高麗 栄留王7(高)
新唐220高句麗 武王25(百)
唐会要95  
冊府964  
冊府977  
通鑑190  
1・己酉     百済王扶餘璋を「帯方郡王・百済王」として冊封する。これ以降、毎年朝貢するという。 旧唐1高祖 百済の武王、大臣を唐に派遣し、朝貢する。唐の高祖、使臣を遣わし「帯方郡王百済王」に冊封する。 史記27  
旧唐199上 百済  
新唐220百済  
冊府964  
通鑑190  
1・己酉     新羅王金真平を「柱国・楽浪郡王・新羅王」として冊封する。 旧唐1高祖 唐の高祖、使臣を遣わして新羅真平王を「柱国楽浪郡公新羅王」に封じる。 史記4  
旧唐199上 新羅  
新唐220新羅  
冊府964  
通鑑190  
4・17 勘勒を僧正、鞍部徳積を僧都、阿曇某を法頭に任ず。 書紀          
5     百済、遣使朝貢する。 冊府970      
7     百済、遣使朝貢する。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記27  
9     百済、明光鎧(光明甲)を献ず。 旧唐199上 百済      
新唐220百済  
冊府970朝  
10         百済、新羅の6城を攻めとる。この際、新羅の訥催戦死。 史記4  
史記27  
史記47訥催  
12     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記20  
625 1・7 高句麗王、僧恵灌を貢進する。恵灌を僧正に任じる。 書紀         推古33 武徳8 真平王47(新)  
11     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、唐へ使臣を遣わして、高句麗が唐へ入朝する路を塞いでいること、またしばしば(百済が)新羅を侵していることを訴える。 史記4 栄留王8(高)
11     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記27 武王26(百)
この年     高句麗、仏教・道教を求法。 冊府999 高句麗、人を入唐させ、仏法・老法を求法させる。唐帝、これを許す。 史記20  
626 6・4     玄武門の変。       推古34 武徳9 真平王48(新)  
8     高祖譲位し、太宗、即位。         武徳9 栄留王9(高)  
8         百済、新羅の主在城を攻める。主在城主の東所、捕らえられ殺害される。 史記4   (太宗) 武王27(百)  
        史記27        
この年*     新羅、高麗、百濟、朝貢する。新羅使、高句麗の交通妨害と百済の侵略について訴える。百済は光明鎧を献上し、高句麗による交通妨害を訴える。高祖は朱子奢を派遣して三国に和睦するよう諭す。三国皆上表して謝罪する。 旧唐2 太宗上 新羅、高麗、百濟、朝貢する。百済、光明鎧を献上し、高句麗の塞路を訴える。唐の高祖、三国に和睦するよう諭す。高句麗王、陳謝の書を奉じ、二国との和平を請う。 史記4        
  旧唐189上 朱子奢 史記20        
  旧唐199上 高麗 史記27        
  旧唐199上百済          
  新唐198朱子奢          
  新唐220高句麗          
  新唐220百済          
  冊府970          
  冊府1000          
  通鑑192          
627 1・1     貞観に改元。       推古35 貞観1 真平王49(新)  
6     新羅、朝貢 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣わす。 史記4 (太宗) 栄留王10(高)
7         百済、新羅の西鄙2城を奪う。百済の武王は、新羅が奪った土地を取り戻そうと、挙兵して熊津に駐屯する。新羅の真平王、これを聞いて、唐に遣使し、急を告げる。武王、このことを聞いて、中止する。 史記4   武王28(百)
史記27    
8     唐、百済の新羅侵攻を責める。百済、遣使して陳謝。しかし、内心では仇として怨むことは以前と変わりないという。 旧唐199上 百済 百済王、姪(甥)の福信を唐に遣わして朝貢する。唐の太宗は百済王に璽書を賜って、新羅侵攻を責める。百済、表を奉って陳謝する。しかし、表面では命令に従うよう見せかけながらも、内心では仇として怨むことは以前と変わりないという。 史記27    
新唐220百済    
11     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記4    
628 2         百済、新羅の椵岑城を攻める。 史記4 推古36 貞観2 真平王50(新)  
史記27 栄留王11(高)
3・7 推古崩御。           武王29(百)
9*     3月に唐が東突厥を破ったのを祝して、高句麗が遣使し奉賀。あわせて封域図を進上する。 旧唐199上 高麗  高句麗、唐が東突厥の頡利可汗を捕らえたことを賀する使を派遣し、あわせて封域図を進上する。 史記20  
新唐220 高麗  
冊府970  
推古期   行善、高句麗に留学。 霊異記上6          
629 1・4 舒明即位。           舒明1 貞観3 真平王51(新)  
4・1 田部連を掖玖に派遣する。 書紀         栄留王12(高)
8         新羅、高句麗の娘臂城を破る。 史記4 武王30(百)
  史記20  
  史記41金庾信伝  
9     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣して朝貢。 史記4  
9     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐へ遣して朝貢。 史記20  
9     百済、朝貢。 新唐220 百済、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記27  
冊府970  
この年     玄奘、インドへ向け出発(〜645年1月)。        
630 3・1 高句麗大使宴子抜・小使若徳、百済大使恩率素子・小使徳率武徳、ともに朝貢する。 書紀         舒明2 貞観4 真平王52(新)  
8・5 犬上御田鍬・薬師恵日らを唐に派遣する。(第1回遣唐使)翌年11月に、太宗に謁見する。(翌年11・12の事項参照) 書紀         栄留王13(高)
続紀 天平宝字2・4・28条 武王31(百)
8・8 高句麗・百済使を饗す。 書紀          
9・4 高句麗・百済使帰国する。 書紀          
9 田部連、掖玖より帰朝する。 書紀          
この年 難波大郡及び三韓館を改修する。 書紀          
631 2・10 掖玖人、帰化する。 書紀         舒明3 貞観5 真平王53(新)  
3・1 百済王義慈、王子豊璋を派遣して質とする。 書紀         栄留王14(高)
7*     新羅から献上された美女(楽師)二人を魏徴の進言により送り返す。 旧唐199新羅 新羅、唐に使臣を遣わして美女二人を献上する。唐の太宗、魏徴の進言により、二人を送り返す。 史記4 武王32(百)
新唐220新羅  
冊府168  
通鑑193  
8・17     高句麗に遣使して京観を毀す。また、長孫子を派遣して戦亡隋人の骨を収む。高句麗、長城を築いて唐に備える。 旧唐3太宗下 唐、高句麗に遣使して、戦亡隋人の骨を収む。また、高句麗の京観を毀す。これより先の2月、高句麗、長城を築いて唐に備える。 史記20  
旧唐199上 高麗   
新唐2太宗  
新唐220高麗  
通鑑193  
9     百済、朝貢する。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記27  
11* 倭国遣使。太宗、その遠い道のりをあわれみ、歳貢を免ず。高表仁をつけて送らせる。 善隣記 倭、朝貢。唐、歳貢を免除する。高表仁、帰国に同行する。 旧唐199上 倭国      
新唐220日本  
通典185倭  
唐会要99倭国  
冊府662  
冊府664高表仁  
冊府970  
通鑑193  
法苑珠林38  
集神州三宝感通錄 上20  
新羅・真平王期           彗星があらわれ、心大星を犯そうとするのを見た3人の花郎、楓岳遊覧を中止しようとする。時に融天師、歌を作ってうたうと、星は忽ち滅し、日本兵は国に帰ったという。 遺事5融天師彗星歌  
書紀推古8年条の境部臣の新羅出兵にかかわるか。  
632 1*     新羅の真平王薨ず。その娘善徳を王とする。太宗、詔書を送って新平王に左光禄大夫を贈り、賻物200段を賜う。 旧唐199上 新羅 新羅の真平王薨ず。唐の太宗、詔書を送って王に左光禄大夫を贈り、絹200段を賻儀として賜う。 史記4 舒明4 貞観6 善徳王1(新)  
新唐220新羅 栄留王15(高)
通鑑193 武王33(百)
7         百済、兵を発して新羅を攻める。 史記27  
8 犬上御田鍬、唐使高表仁に送られて帰国の途につく。入唐留学僧霊雲・日文・学問生勝鳥養らも同行。新羅を経て、この月、新羅の送使と共に対馬に帰着。 書紀          
続後紀 承和3・12・3条    
元亨16僧旻    
善隣記    
10・4 唐使高表仁ら、難波津に着。大伴馬養を江口に派遣して歓迎し、客館に安置する。 書紀 高表仁、難波津に到る。 唐会要99倭国      
略記 冊府662  
冊府664失指  
12     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記5  
12     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記27  
633 1・26 唐使、高表仁ら帰国する。吉士雄摩呂らに対馬まで送らせる。 書紀 高表仁、倭王と礼を争い、朝命を宣べずに帰途につく。表仁、帰国後「綏遠の才無し」と評される。 旧唐199上 倭国     舒明5 貞観7 善徳王2(新)  
新唐220日本 栄留王16(高)
通典185倭 武王34(百)
唐会要99倭国  
冊府664失指  
7         新羅、使臣を唐へ遣わして朝貢する。 史記5  
8         百濟、新羅の西谷城を攻め、陥落させる。 史記5  
史記27  
634               舒明6 貞観8 善徳王3(新)  
栄留王17(高)
武王35(百)
635 6・10 百濟使、達率柔ら、朝貢する。 書紀         舒明7 貞観9 善徳王4(新)  
7・7 百濟使を饗す。 書紀         栄留王18(高)
11     百済、来朝。 冊府970     武王36(百)
この年     新羅善徳王を封じて、「柱国・楽浪郡王・新羅王」とする。新羅人は善徳王に聖祖皇姑の称号を奉ったという。 旧唐199上 新羅 唐、持節使を派遣して、新羅善徳王を「柱国楽浪郡公新羅王」に冊封し、父王の封爵を承襲させる。 史記5  
新唐220新羅  
冊府964  
636 2     百済、来朝する。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わして朝貢。 史記27 舒明8 貞観10 善徳王5(新)  
5         百済、新羅の独山城を襲撃する。百済の将軍于召捕らえられる。 史記5 栄留王19(高)
史記27 武王37(百)
遺事1善徳王知幾三事  
この年         新羅の慈蔵、入唐留学する。 遺事3皇竜寺九層塔  
史記5  
皇龍寺九層木塔刹柱本記  
637 12・11     百済太子隆、来朝。鉄甲と雕斧を献上する。太宗、錦袍及び彩帛3000段を賜う。 旧唐3太宗下 百済、使臣を唐に遣わし鉄甲と雕斧を献上する。唐の太宗、錦袍及び彩帛3000段を賜う。 史記27 舒明9 貞観11 善徳王6(新)  
旧唐199上 百済 栄留王20(高)
新唐220百済 武王38(百)
冊府970  
638 10・25     百済、金甲雕斧献上。 旧唐3太宗下     舒明10 貞観12 善徳王7(新)  
10         高句麗、新羅の七重城を攻める。 史記5 栄留王21(高)
史記20 武王39(百)
11         新羅の将軍、閼川、七重城で高句麗兵と戦い、打ち勝つ。 史記5  
この年 百済・新羅・任那、朝貢する。 書紀          
この年*         新羅僧慈蔵、門人を率いて入唐する。 史記5  
遺事3台山五万真身  
遺事4慈蔵  
皇龍寺刹柱本記  
続高僧伝24  
639 9 入唐学問僧恵隠・恵雲、新羅を経て帰国。新羅送使とともに入京する。 書紀         舒明11 貞観13 善徳王8(新)  
元亨16恵隠 栄留王22(高)
善隣記 武王40(百)
10     百済、金甲と雕斧献上する。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わし金甲と雕斧を献上する。 史記27  
11・1 新羅使を饗し、冠位を給う。 書紀          
略記  
この年     高句麗、新羅、朝貢する。 旧唐3      
640 2〜5*     2月10日、太宗、国子監に行幸。即位以来、太宗は天下の有名な儒学者を多く呼び寄せて学官にし、国子監で講義させしばしば行幸した。大経に通じた学生の官吏登用、校舎増設し学生を増員した。そのため、各地から学ぶ者が京師に集まり、高句麗・百済・高昌・吐蕃などの諸国からも子弟を送って入学させ、その数は8000余人に及んだという。 旧唐189上 2月、高句麗王、太子の桓権を唐に遣わして朝貢する。また、子弟の国学入学を請う。 史記20 舒明12 貞観14 善徳王9(新)  
  新唐44 2月、百済王、子弟を唐に遣わし、国学への入学を請う。 史記27 栄留王23(高)
  新唐198 5月、新羅王、子弟を唐に派遣して、国学への入学を請う。 史記5 武王41(百)
  唐会要35学校 この時、唐の太宗、天下の有名な儒学者を多く呼び寄せて学官にし、国子監にて講義させる。学生で、よく大経に通じたものは官吏に登用できるようにし、また、校舎を増設して学生を増員した。そのため、各地から学ぶ者が京師に集まり、高句麗・百済・高昌・吐蕃などの諸国からも子弟を送って入学させたという。    
  通鑑195      
10・11 入唐学問僧請(清)安・学生高向玄理、新羅・百済使に送られて帰国する。新羅・百済朝貢。位を給う。 書紀          
元亨20  
12・23*     高句麗太子桓(相)権、来朝して方物を貢す。 旧唐3太宗下 高句麗王、太子の桓権を唐に遣わして朝貢する。 史記20  
旧唐199上 高麗    
新唐220高句麗    
冊府970    
冊府974    
百済・武王朝           百済の武王の代(600〜640)、高句麗と結託・倭国と交通して新羅を侵す 史記6文武王5・8条  
      遺事1太宗春秋公  
641 3*     百済王、扶餘璋が没したことを聞き、太宗、扶餘義慈を冊封し、父王の位を嗣がせて、帯方郡王とする。 旧唐3 太宗下 同年5・15条 百済の武王薨ず。唐に使臣を遣わし、このことを伝えると、太宗は玄武門にて挙哀する。また、鄭文表を遣わして、光禄大夫を追贈し、賻物を贈り、義慈王を「柱国帯方郡王百済王」に冊封する。 史記27 舒明13 貞観15 善徳王10(新)  
旧唐199上 百済 史記28 栄留王24(高)
新唐220百済 武王42/
冊府964 義慈王1(百)
通鑑196  
8・10     これより先、太宗、高句麗王の太子桓権の入朝に対し、陳大徳を遣わして答礼させる。大徳、使者としての立場を利用し、高句麗の国情を探る。また、隋末従軍で取り残された人々が大徳に親戚の状況を聞こうとして道観に集まる。 新唐220高句麗 唐の太宗、高句麗王の太子桓権の入朝に対し、陳大徳を遣わして答礼させる。大徳、使者としての立場を利用し、高句麗の国情を探る。また、隋末従軍で取り残された人々が大徳に親戚の状況を聞こうとして道観に集まる。 史記20  
8月10日、大徳、高句麗より還り、太宗に奏上。太宗、大いに悦ぶ。 通鑑196  
8         百済王、使臣を唐に遣わして、表文をもって感謝を述べ、あわせて方物を献上する。 史記28  
10・9 舒明天皇崩御。            
642 1・15 皇極天皇即位。           皇極1 貞観16 善徳王11(新)  
1・19 これより先、阿曇比羅夫、百済使を伴って筑紫に帰着する。この日、比羅夫、単独入京。舒明天皇の死去にあたっての百済義慈王からの弔使派遣、葬儀に参列するための自身の入京、百済の国情の乱れなどを奏する。 書紀         栄留王25
1     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐に遣わして方物を献上する。 史記5 /宝蔵王1(高)
1     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記20 義慈王2(百)
1     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記28  
2・2 阿曇比羅夫らを百済弔使のもとに派遣し、来日の事情を問う。百済使、国内の乱れなどを語る。 書紀          
2・6 高句麗使、難波に到る。 書紀          
2・21* 諸大夫を難波郡に遣わし、高句麗使の献上品を検じさせる。高句麗使、前年の王弟の太陽王の死や、大臣泉蓋蘇文による王及び大臣など180余人の殺害、太陽王の子を王とし(宝臧王)、親族を大臣にしたこと等を述べる。 書紀          
2・22 高句麗・百済使を難波に饗す。津守大海を遣高句麗使、国勝吉士水鶏を遣百済使、草壁真跡を遣新羅使、坂本長兄を遣任那使に任じる。 書紀          
2・24 百済義慈王弟の翹岐を、安曇山背連比良夫の家に住まわせる。 書紀          
2・25 高句麗・百済使を饗す。 書紀          
2・27 高句麗・百済使、帰国。 書紀          
3・6 新羅の賀騰極使・弔喪使来朝する。 書紀          
3・15 新羅使、帰国する。 書紀          
4・8 百済大使翹岐、従者を率いて拝朝する。 書紀          
4・10 蘇我馬子、翹岐らを畝傍の家に招き、歓談し、馬・鉄を贈る。 書紀          
5・5 河内国依網屯倉前に翹岐らを招き、射猟を見せる。 書紀          
5・16 遣百済使国勝水鶏、百済調使を伴って帰国し、難波津に着。 書紀          
5・18 百済使、調を進める。国勝水鶏復命する。 書紀          
5・21 翹岐の従者1名死去。 書紀          
5・22 翹岐の子死去。翹岐と妻、葬儀に臨席せず。百済・新羅の風俗によるとする。 書紀          
5・24 翹岐、妻子と共に百済大井の家に移り、人を派遣して子の遺体を石川に葬らせる。 書紀          
7・22 百済使大佐平智積らを饗す。健児の相撲を翹岐らに見せる。饗宴終了後、智積ら翹岐の門を拝す。 書紀          
7     百済義慈王、自ら兵を率い、新羅西部の40余城を攻略。 旧唐199上 百済 百済義慈王、自ら兵を率い、新羅西部の40余城を攻略。 史記5  
新唐220百済 史記28  
8・6 百済使参官らに帰国のための船を給う。同夜、暴風雨のため破損する。 書紀          
8・13 百済の質達率長福に小徳を授く。中客以下にも位一級を授ける。 書紀          
8・15 百済使参官らに船を給い、帰国させる。 書紀          
8・16 高句麗使帰国する。 書紀          
8・26 百済・新羅使帰国する。 書紀          
8     百済、高句麗と結び新羅を侵略する。党(新唐は「棠」に作る)項城を攻めとり、新羅から唐に通じる路を絶とうとする。新羅王、唐の太宗に急を告げる。 旧唐199上 百済 百済、高句麗と共謀して党項城を攻めとり、新羅から唐に通じる路を絶とうとしたため、新羅王、唐の太宗に急を告げる。またこの月、百済の将軍允忠、新羅の大耶城を攻め、城主の品釈らを殺害する。 史記5  
  新唐220百済  
10・15 新羅の弔使・賀騰使ら、壱岐島に着く。 書紀          
10* 高句麗大臣泉蓋蘇文、王及び大臣など180余人を殺害、太陽王の子を王とし(宝臧王)、親族を大臣にする。 書紀 同年2・21条 高句麗の大臣、蓋蘇文、その君、高武を殺害し、武の弟(あるいは)の子、蔵を王とする。 旧唐3太宗下 高句麗泉蓋蘇文、王などを殺害し、栄留王弟(大陽王)の子を王として擁立(宝蔵王)し莫離支となり国事専制。 史記20  
旧唐199上 高麗 史記21  
新唐220高句麗 史記49蓋蘇文  
11・5*     張倹、高句麗の大臣蓋蘇文が高武を殺害したことを奏す。太宗、高句麗王の死を聞いて苑中で挙哀し、賻物を賜い、持節使を遣わして故王を弔祭させる。 旧唐199上 高麗 唐の太宗、高句麗王の死を聞いて苑中で挙哀し、賻物を賜い、持節使を遣わして故王を弔祭させる。 史記20  
新唐220高句麗  
通鑑196  
11     亳州刺史裴行莊、高句麗討伐を請うが、太宗、高句麗王の喪であることと山東が疲弊していることを理由に出兵せず。 通鑑196      
        新羅王、大耶城戦役の報復のために、百済征伐をはかり、高句麗に金春秋を遣わして、援軍を請う。高句麗王(宝蔵)は、竹嶺の返還を条件に出兵をするとしたが、春秋は拒否し、怒った高句麗王は金春秋を拘留する。このことを知った新羅王は、大将軍の金庾信に命じ、兵を高句麗へ送る。高句麗王、これを聞き、金春秋を釈放し、本国へ帰す。 史記5  
史記21  
史記41金庾信 上  
643 1     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐に遣わして方物を献上する。 史記5 皇極2 貞観17 善徳王12(新)  
1     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記21 宝蔵王2(高)
1     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記28 義慈王3(百)
3・13 難波の百済客館で火災。 書紀          
3         高句麗王、泉蓋蘇文の求めに応じ、唐に使を遣わして、道教の教授を要請する。太宗、道士の叔達ら8人を高句麗に遣わし、同時に老子の道徳経を送る。 史記21  
3         新羅の入唐僧慈蔵、帰国する。 史記5  
遺事4慈蔵  
4・21 筑紫大宰、馳駅して、百済王子翹岐らが調使とともに来着したことを報じる。 書紀          
6・13 筑紫大宰、馳駅して、高句麗使の来着を報じる。 書紀          
6・23 百済の進調使大使ら、難波津に到る。 書紀          
6     ケ素、高句麗より還る。懐遠鎮の戍兵を増兵して高句麗を逼迫させることを請うも、太宗、その必要は無いという。 通鑑197      
閏6・21*     太宗、泉蓋蘇文の専横に対し、契丹と靺鞨に高句麗を討たせることを下問。長孫無忌、討つには時期尚早という。 冊府991 太宗、泉蓋蘇文の専横に対し、契丹と靺鞨に高句麗を討たせることを下問。長孫無忌、討つには時期尚早という。 史記21  
通鑑197  
閏6・21     太宗、高句麗王藏を封じて遼東郡王・高麗王とする。 旧唐199上 高麗 太宗、高句麗王藏を封じて遼東郡王・高麗王とする。 史記21  
新唐220高麗  
冊府964  
通鑑197  
9・4     新羅、遣使して高句麗と百済がしばしば侵略してくることを訴え、救援を要請する。太宗、新羅を攻めてはならない旨の璽書を持たせ、相里玄奨を高句麗と百済に派遣する。(翌1月着) 旧唐199上 高麗 百済と高句麗、和親して新羅の党項城を攻めて唐への入朝路の杜絶を図る。新羅、唐に使臣を遣わし、高句麗と百済がしばしば侵略してくることを訴え、救援を要請する。百済王これを知り断念する。 史記5  
旧唐199上 百済 史記21  
旧唐199上 新羅 史記28  
新唐220高句麗    
新唐220百済    
新唐220新羅    
冊府991    
冊府995    
通鑑197    
11     新羅、遣使して朝貢する。 冊府970      
この年 百済太子余豊璋、三輪山で蜂蜜を放養するがふえず。 書紀          
644 1*     新羅・高句麗・百済朝貢。 旧唐199上 高麗 新羅・高句麗・百済、使臣を唐に遣わして方物を献上する。 史記5 皇極3 貞観18 善徳王13(新)  
    相里玄奨、平壌に至るが、これより前に高句麗は新羅の2城を攻め取っていた。高句麗に新羅を攻めてはならない旨を説諭するが高句麗の泉蓋蘇文は聞き入れなかった。 新唐220高麗 また、唐の太宗、相里玄奨を高句麗・百済に遣わして、両国に新羅を攻めてはならない旨を説諭する。百済王は陳謝したが、高句麗の泉蓋蘇文は聞き入れなかったため、太宗は高句麗への出兵を決意する。 史記21 宝蔵王3(高)
    文館詞林664慰撫 百済王詔 史記28 義慈王4(百)
    文館詞林664慰撫 新羅王詔    
    冊府970  
    冊府985  
    通鑑197  
2・1     相里玄奨、唐に帰国。泉蓋蘇文の言を奏上する。諫議大夫の褚遂良らが諫めるも、太宗は高句麗出兵を決意する。 旧唐199上 高麗      
新唐220高麗  
「諫太宗親征高麗疏」(『文苑英華』694)  
冊府991  
通鑑197  
7・20     太宗、勅を下して高句麗攻撃のため、船400艘を造らせ、兵糧を輸送する。 新唐220 唐、高句麗攻撃のために船を造る。 史記21  
冊府985  
通鑑197  
7・23*     営州都督の張倹、幽州・営州の兵及び契丹・奚を率いて、高句麗を討とうとするが、遼水があふれていたため、還る。 新唐2太宗      
新唐220高麗  
冊府985  
冊府991  
通鑑197  
9・25     高句麗泉蓋蘇文、白金を献上するが、受けず。また、官員50人を遣わして宿衛させようとするが、太宗怒って、彼らを大理(刑官)にまかせる。 新唐220高麗 高句麗泉蓋蘇文、唐に白金を献上するが、これを受けられず。また、官員50人を遣わして宿衛させようとするが、太宗怒って、彼らを大理(刑官)にまかせる。 史記21  
通鑑197  
9         新羅王、金庾信を大将軍に任じ、百済の7城を取る。 史記5  
史記28  
史記41金庾信 上  
10・14     太宗、自ら高句麗を討伐することを欲し、洛陽に行幸する。また、軍糧を営州に運び、穀物を古大人城に蓄えさせる。 新唐220高麗 太宗、自ら高句麗を討伐することを宣する。また、軍糧を営州に運ぶ。 史記21  
冊府117親征2  
通鑑197  
11・24*     李世勣を遼東道行軍ハ管・張亮を平壌道行軍ハ管に任じ、兵を募って高句麗を討伐する。この時、太子(後の高宗)は、定州に留まることを命じられた。 旧唐3太宗 下 唐の太宗、張亮を平壌道行軍大ハ管・李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じ、両道に分かれて、諸軍及び新羅・百済・奚・契丹に命じて、高句麗を討たせる。 史記21  
旧唐4高宗 上  
旧唐67 李勣  
旧唐199上 高麗  
新唐2太宗  
新唐220高麗  
冊府117親征2  
通鑑197  
12・1     李大亮卒す。高句麗討伐を罷めることを請う表を遺す。 通鑑197      
12・14     諸軍及び新羅・百済・奚・契丹に道を分けて高句麗を攻撃するよう、詔を下す。 冊府117親征2      
通鑑197  
645 1     新羅、遣使して朝貢する。 冊府970 新羅、唐に使臣を遣わして方物を献上する。また金庾信、百済より帰還するも百済の大軍がまた辺境を攻めたので、これを防ぐ。 史記5 皇極4 貞観19 善徳王14(新)  
1     百済、太子扶余康信を派遣して朝貢する。 冊府970     宝蔵王4(高)
1         遼東道行軍大ハ管の李世勣、幽州に到着。 史記21 義慈王5(百)
2・12     太宗、高句麗攻撃のため、みずから六軍を率いて洛陽を発つ。 旧唐3太宗 下      
旧唐199上 高麗  
新唐2太宗  
新唐220高麗  
通鑑197  
冊府259 監国  
冊府985 貞観21・3条  
3・9     この日、定州着(通鑑)。丁亥(19日)、太宗、遼東攻撃の理由について述べ、病気の兵卒を見舞う(通鑑)。壬辰(24日)、定州を発する(旧唐・通鑑)。また、李世勣、柳城を出発。懐遠鎮へ進軍するよう見せかけ、ひそかに北へ甬道を通って高句麗の不意をつこうとする。 旧唐3太宗 下 太宗、定州に到着。李世勣、柳城を出発。懐遠鎮へ進軍するよう見せかけ、ひそかに北へ甬道を通って高句麗の不意をつこうとする。(李世勣の柳城出発は、旧唐3によれば、貞観18年11月庚子のこと。) 史記21  
通鑑197  
3         金庾信、再度百済侵攻の報に接し、討伐に向かう。 史記41金庾信 上  
4・1 高句麗への留学僧ら帰国し、同学の鞍作得志が高句麗人に毒殺されたことを告げる。 書紀          
4・1     李世勣、玄菟郡に到着。高句麗大いに驚き、城門を閉じ堅守する。 通鑑197 李世勣、玄菟郡に到着。 史記21  
4・5     遼東道副總官の江夏王道宗軍数千、新城に至る。営州都督の張倹、建安城を陥落させる。 通鑑197 営州都督の張倹、建安城を陥落させる。 史記21  
4・26*     唐、高句麗の蓋牟城を抜く。 旧唐3太宗 下 李世勣らは蓋牟城を陥落させる。また、平壌道行軍大ハ管の張亮、海路から卑沙城を攻める。 史記21同年5月条  
旧唐199上 高麗  
新唐2太宗  
新唐220高麗  
通鑑197  
5・2     平壌道行軍ハ管の程名振、卑沙城を抜く。男女8千口を没する。 新唐2太宗 卑沙城陥落する。男女8千口を没する。 史記21  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
通鑑197  
5・17*     これより先、李世勣・太宗、遼東城下に到る。この日(17日)、高句麗の遼東城を抜き、この地を遼州とする。新羅、唐を助けて5万の兵を率い、高句麗の水口城を攻める。百済、隙に乗じて新羅の7城(旧唐百済伝は10城とする。)を奪回する。 旧唐3太宗 下 李世勣・太宗、自ら高句麗の遼東城を攻め、陥落させる。新羅、唐軍を助ける。百済、その隙をねらって新羅の7城を奪回する。新羅、金庾信に命じて百済を討たせる。 史記5  
旧唐199上 高麗 史記21  
旧唐199上 百済 史記28  
旧唐199上 新羅 史記41金庾信 上  
新唐2太宗    
新唐220高麗    
新唐220百済    
新唐220新羅    
通鑑197    
6・1     5月乙未(28日)、白巌城に進軍。丙申(29日)、高句麗軍を破る。この日、高句麗の白巌城を落し、巌州を置く。 新唐2太宗 李世勣、進軍して白巌城を攻める。白巌城、降伏する。 史記21同年5月条  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
通鑑197  
通鑑198  
6・8 中大兄皇子、蘇我倉山田麻呂に三韓進調の日に蘇我入鹿を殺害する計画を謀る。麻呂、許諾する。 書紀          
6・12 大極殿において、蘇我倉山田麻呂が三韓の表文を読み上げるとき、中大兄皇子ら、蘇我入鹿を殺害する。 書紀          
6・14 譲位。孝徳即位。19日、大化に改元。           大化1(孝徳)  
6・20     唐軍、高句麗の安市城に到る。 旧唐3太宗 下 太宗、安市城を攻める。 史記21同年5月条  
新唐220高麗    
通鑑198    
6・21*     安市城救援のため、高句麗の別将、高延壽・高恵真、援軍15万を率いて、唐軍に抵抗するも、これを大いに敗る。 旧唐3太宗 下 安市城救援のため、高句麗の別将、高延壽・高恵真、援軍15万を率いて、唐軍に抵抗するも、敗れる。 史記21同年5月条  
新唐2太宗同月己未(23日)条    
旧唐199上 高麗    
新唐220高麗    
通鑑198    
7・10 高句麗・百済・新羅使ともに朝貢。百済の調使は任那使を兼ね、任那の調を進める。百済大使佐平縁福、病気により津館(難波客館)に留まり、入京せず。巨勢徳太、詔を高句麗使・百済使に宣す。また、三輪東人・馬飼某を遣百済使に任じ、鬼部達率意斯の妻子を送り届けさせる。 書紀          
7*     唐軍、高句麗の安市城を攻める。 旧唐3太宗 下      
旧唐199上 高麗  
通鑑198  
冊府991  
8・8 仏教興隆の詔を発する。狛大法師・福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙を十師に任命する。 書紀          
8・8     泉蓋蘇文の間諜を捕らえる。太宗、間諜に食事と履を賜い、送還する。 新唐220高麗      
通鑑198  
8・10     安市城の南に徒営する。 通鑑198      
9・18     唐軍、安市城を攻めるが、寒さと兵糧不足のため退却する。太宗、城主の固守したことを嘉賞し、縑を下賜し、君主に対する忠誠を励ます。20日(乙酉)、遼東に至り、21日(丙戌)、遼水を渡る。 旧唐3太宗 下 唐軍、寒気で兵馬が留まれないため、退却する。安市城城主、城に登り礼拝して見送る。太宗、城主の固守したことを嘉賞し、縑を下賜し、君主に対する忠誠を励ます。 史記21同年5月条  
旧唐199上 高麗    
新唐2太宗    
新唐220高麗    
通鑑198    
10     1日、唐軍、渤錯水を渡る。この際、風雪のために死ぬ者が続出する。太宗、詔して戦没者の骸骨を集め、柳城に葬り、祭る。この役では、玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巌・卑沙・夾谷・銀山・後黄など10城を陥落し、遼州・蓋州・巌州の戸口中国に移し、その数は7万であったという。 新唐220高麗 太宗、蒲溝に至って馬を駐め、道に土を積むのを監督する。渤錯水を渡る際、風雪のために死ぬ者が続出する。この役では、玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巌・卑沙・夾谷・銀山・後黄など10城を陥落し、遼州・蓋州・巌州の戸口中国に移し、その数は7万であったという。 史記21  
通鑑198  
この年         皇竜寺の九層塔成る。『東都成立記』に、新羅第27代の女王(善徳王)の世は徳はあったが、威が無かったため、九韓の侵略を受けた。もし竜宮の南の皇竜寺に九層の塔(第一層を日本とする)を建立すれば隣国の災いを鎮めることができよう、とある。 史記5  
遺事3皇竜寺九層塔  
この年     吐蕃、遣使して高句麗攻撃を賀す 旧唐196吐蕃上      
646 1     高句麗、朝貢する。 新唐220高麗     大化2 貞観20 善徳王15(新)  
冊府970 宝蔵王5(高)
2・1     高句麗討伐で功のない者は勲一等を減じる。 新唐2太宗     義慈王6(百)
2・15 高句麗・百済・任那・新羅使来朝し、調賦を献ずる。 書紀          
2         太宗、この度の高句麗出兵失敗の理由を家臣に問う。 史記21  
3・7     太宗、高句麗より帰還する。 新唐2太宗      
5     高句麗、遣使して謝罪し、あわせて美女2人を献上するも受けず。 旧唐199上 高麗 高句麗王と泉蓋蘇文、使臣を唐に遣わして謝罪し、あわせて美女2人を献上する。太宗、受けず。 史記21  
新唐220高麗  
通鑑198  
冊府168  
9 小徳高向黒麻呂(玄理)を新羅に派遣し、人質を貢進させ、任那調の貢進を廃止する。 書紀          
9*     太宗、高句麗から帰還後に弓・服を蓋蘇文に賜ったが、謝恩の使を派遣しなかったため、高句麗の朝貢を受け取らないよう命じ、高句麗征討を議する。 新唐220高麗 太宗、高句麗の朝貢を受け取らないよう命じ、再び討伐することを議論する。 史記21同年5月条  
通鑑198    
冊府996責譲    
647 1・8以前         新羅の上大等毗曇、善徳女王の退位を求めて挙兵する。 史記5 大化3 貞観21 真徳王1(新)  
1・8*     新羅女王善徳死す。遣使してその妹真徳を新羅王に冊立する。 旧唐3貞観22・是歳条 新羅善徳女王、薨ず。真徳王即位。 史記5善徳王16年条 宝蔵王6(高)
旧唐199上 新羅 史記5真徳王即位前紀 義慈王7(百)
新唐220新羅  
通鑑198貞観22・1月条  
冊府964  
1・15 高句麗・新羅使来朝して調賦を貢する。 書紀          
1・17         毗曇を誅する。連座する者30人。 史記5善徳王16年条  
史記5真徳王元年1・17条  
2         唐の太宗、持節使を新羅に派遣し、前王を光禄大夫を追贈し、ついで新王を冊命して柱国とし、楽浪郡王に封じる。 史記5  
3・2     2月太宗、再度高句麗に出兵しようとし、この日、牛進達を青丘道行軍大ハ管、李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じる。 新唐2太宗 太宗、再度高句麗に出兵する。牛進達を青丘道行軍大ハ管、李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じる。李世勣、南蘇城などを攻める。 史記22  
新唐220新羅  
冊府985  
通鑑198  
5*     李世勣、南蘇城などを攻める。 通鑑198 李世勣、南蘇城などを攻める。 史記22  
7         新羅、唐に遣使して、冊封の謝恩をし、改元して太和とした。 史記5  
7     牛進達ら、高句麗の石城・積利城を陥落する。 冊府985 牛進達ら、石城・積利城を陥落する。 史記22  
新唐220高麗  
通鑑198  
9     高句麗討伐のために大船350艘を造らせる。 冊府985 太宗、大船数百隻をつくらせる。 史記22同年7月条  
通鑑198  
10         百済、将軍の義直に命じて新羅の3城を攻めさせる。新羅の将軍金庾信、これを破る。この時、庾信の部下丕寧子とその子、挙真が戦死。 史記5  
史記28  
史記41金庾信 上  
史記47丕寧子  
12*     高句麗、王子の任武を唐に派遣して謝罪する。 新唐220高麗   史記22  
通鑑198  
冊府980  
この年 新羅の上臣大阿飡金春秋ら、高向黒麻呂・中臣連押熊を送って来日し、孔雀・鸚鵡を献じる。金春秋を質とする。(中臣連押熊、前年9月に高向黒麻呂と共に新羅に渡ったか。) 書紀          
648 1・1     高句麗、遣使して朝貢する。 冊府970 高句麗、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記22 大化4 貞観22 真徳王2(新)  
新羅、遣使して朝貢する。 冊府970 新羅、唐に遣使朝貢する。 史記5 宝蔵王7(高)
1・25     太宗、薛万徹を青丘道行軍大ハ管に任じ、三たび高句麗出兵。 新唐2 太宗、薛万徹を青丘道行軍大ハ管に任じて、兵三万余人及び楼船・戦艦を従えて高句麗を攻撃する。 史記22 義慈王8(百)
旧唐199上 高麗  
旧唐199上 百済  
新唐220高麗  
通鑑198  
冊府985  
2・1 三韓(高句麗・新羅・百済)に学問僧を派遣する。 書紀          
3     百済、新羅の10余城を攻め取る。このため、数年の間朝貢がとぎれる。 旧唐199上 百済 百済の将軍義直、新羅の腰車城など10余城を取る。 史記5  
新唐220百済 史記28  
4         百済兵、玉門谷へ進軍。新羅の将軍金庾信、これを迎え、破る。 史記5同年3月条  
史記28  
史記41金庾信 上  
4・14     烏胡鎮将の古神感、海より高句麗を攻める。 旧唐199上 高麗 烏胡鎮将の古神感、海より高句麗を攻める。 史記22  
    冊府985  
    通鑑199  
6・27*     薛万徹、高句麗と泊灼城にて戦う。これを破る。 新唐2 太宗、将軍の薛万徹を遣わして高句麗の泊灼城を攻めおとす。 史記22同年9月条  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
冊府985  
6*     太宗、明年に高句麗を一挙に滅ぼそうと相談する。 通鑑199 太宗、明年に高句麗を一挙に滅ぼそうと相談する。 史記22同年4月条  
新唐220高麗  
7         太宗、強偉を剣南道に遣わして舟鑑を造らせる。また別に使者を派遣し、水路より萊州に行かせる。 史記22  
9・5     薛万徹、高句麗討伐より還る。 通鑑199      
9・11     新羅、百済の城13城を破ったことを奏す。 通鑑199      
閏12・7*     新羅の真徳王、王弟の金春秋及びその子文王を派遣する。金春秋に特進の称号を、文王に左武衛将軍の称号を授ける。春秋、国学に行き、釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、許される。さらに『晋書』を賜わる。 旧唐3 新羅、金春秋とその子文王を、百済の侵攻に対する救援兵派遣を要請のため唐に遣わす。春秋、国学に行き、釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、許される。さらに『晋書』を賜わる。また、礼服を唐制に改めたいと請うと、太宗、衣服を賜い、。金春秋に特進の称号を、文王に左武衛将軍の称号を授ける。文王を宿衛として唐に留める。春秋帰国時、高句麗の巡邏兵に会い、従者の温君解が春秋と間違えられて殺される。 史記5  
旧唐199上 新羅 史記7文武王11・7・26条  
新唐220新羅 史記41金庾信 上  
通鑑199 遺事1太宗春秋公  
冊府974 金仁問墓碑文  
  聖住寺朗彗和尚碑銘  
  東国通鑑  
        新羅、邯帙許を唐に入朝させる。太宗、新羅の別年号使用を責める。 史記5  
この年 新羅使、来朝して調を貢する。この時、新羅使に唐への上表文を託すか? 書紀          
この年     倭国、新羅に付託して表文を進める 旧唐199上 倭国      
新唐日本伝  
649 1         新羅、唐の衣冠を服す。 史記5 大化5 貞観23 真徳王3(新)  
2・18     新羅使、金春秋帰国する。 冊府974     宝蔵王8(高)
5・1 小華下三輪色夫・大山上掃部角麻呂らを新羅に派遣する。 書紀         義慈王9(百)
5・26*     太宗、没。高句麗攻撃中止。高句麗王、遣使して奉慰する。 旧唐3 太宗、没。高句麗攻撃を中止する。 史記22同年4月条  
新唐2  
旧唐199上 高麗  
新唐220高句麗  
6・1     高宗即位。       (高宗)  
8*         百済将軍殷相、新羅の石吐など7城を取る。新羅、金庾信らを派遣し、道薩城にて百済を破る。 史記5  
史記28  
史記42金庾信 中  
この年     高宗即位後も任雅相・蘇定方・契苾何力らが前後して高句麗を討ったが、大功なく還る。 旧唐199上 高麗      
この年 新羅、沙飡金多遂を質として遣わす。従者37人とともに来朝する。 書紀          
650 1・1     永徽に改元。       大化6 永徽1 真徳王4(新)  
2・9 穴戸(長門)国司、白雉を献上する。百済君(豊璋)・僧道登・僧旻ら、中国の故事を引き吉祥の由を述べる。道登、かつて遣唐使が3足の烏の死骸を持ち帰ったことを述べる。 書紀         宝蔵王9(高)
2・15 白雉と改元する。改元儀式に、百済王子豊璋・その弟塞城・忠勝、高麗侍医毛治・新羅侍学士らも参列する。 書紀         白雉1 義慈王10(百)
4 新羅、貢調する。 書紀          
6     新羅、王弟の法敏(後の文武王)を派遣して、百済軍を撃破したことを報告する。五言詩の太平頌を献じる。高宗、これを喜び、法敏を大府卿に任じて帰国させる。 旧唐199上新羅 新羅、使臣を派遣して、百済軍を撃破したことを報告する。新羅王、五言詞の太平頌を金春秋の子、法敏に託して献上する。高宗、これを喜び、法敏を大府卿に任じて帰国させる。 史記5  
新唐220新羅 史記6文武王即位前紀  
冊府962 遺事1真徳王  
冊府995    
唐会要95    
文苑英華167    
この年 倭漢直縣・白髪部連鐙・難波吉士胡床を安芸国に遣わして、百済舶2隻を造らせる。 書紀          
この年         新羅、唐の年号を使用する。 史記5  
651 2         新羅、波珍飡の金仁問を唐に遣わし朝貢し、宿衛させる。唐の高宗、金仁問に左領軍衛将軍を授ける。 史記5 白雉2 永徽2 真徳王5(新)  
史記44金仁問 宝蔵王10(高)
6 百済・新羅使が調を貢ぎ、物を献上する。 書紀         義慈王11(百)
 
11     百済遣使し、朝貢する。高宗、新羅と高句麗を攻めないように戒める。使に璽書をくだす。 旧唐199上 百済 百済、使臣を唐に遣わし、朝貢する。使臣、戻る際に高宗より璽書を与えられる。 史記28  
新唐220百済  
通鑑199  
この年 新羅貢調使知万沙飡ら、唐国の服を着て筑紫に到着。みだりに風俗を改めたことを非難し、帰国させる。巨勢大臣(徳陀古)、新羅征討・問罪を主張する。 書紀          
652 1     新羅より使者が来て、朝貢する。 通鑑199 新羅、唐に使臣を遣わし、朝貢する。 史記5 白雉3 永徽3 真徳王6(新)  
冊府970 寶臧王11(高)義慈王12(百)
高句麗より使者が来て、朝貢する。 通鑑199 高句麗、唐に使臣を遣わし、朝貢する。 史記22  
冊府970  
百済より使者が来て、朝貢する。 通鑑199 百済、唐に使臣を遣わし、朝貢する。 史記28  
冊府970  
4 新羅・百済、遣使して調を貢ぎ、物を献じる。 書紀          
653 5・12 遣唐使を2船に分乗して派遣する。1船には大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒、学問僧道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵・安達・道観、学生巨勢薬・氷老人など121名が乗船。もう1船には大使大山下高田根麻呂・副使小乙上掃守小麻呂・学問僧道福・義向など120名が乗船。 書紀 日本僧、道照が入唐求法する。三藏僧玄奘に師事する。 宋史日本国伝     白雉4 永徽4 真徳王7(新)  
伝通縁起 仏祖統紀39 寶臧王12(高)義慈王13(百)
続紀 文武4・3・10条    
元亨1道昭    
元亨9定慧    
元亨21    
善隣記    
貞恵伝    
6 百済、新羅の使い、調を貢し、物を献じる。所々の大道を修治する。 書紀          
7 遣唐使高田根麻呂ら乗船の船が薩摩の曲・竹島間で遭難する。5人のみ助かる。この5人に金および位禄を賜う。 書紀          
8         百済王、倭国と通好する。 史記28  
11     新羅より使が来て、朝貢し、金総布を献上する。 冊府970 新羅、唐に使臣を遣わし、金総布を献上。 史記5  
この年         新羅の金仁問、唐より帰国。 史記44金仁問  
654 2* 遣唐使大錦上(一説、大華下)高向玄理・大使小錦下河辺麻呂・副使大山下薬師恵日・判官大乙上(一説小山下)書麻呂・宮阿弥陀・小乙上岡宜・置始大伯・小乙下中臣間人老・田辺鳥ら2船に分乗して、新羅道を通り、唐に向かう。 書紀         白雉5 永徽5 太宗武烈1(新)  
3*     新羅、真徳王薨ず。唐の高宗、この知らせを聞いて挙哀し、大常丞張文収を遣わして弔祭する。 旧唐199上新羅 新羅、真徳王薨ず。唐の高宗、この知らせを聞いて挙哀し、大常丞張文収を遣わして弔祭する。太宗武烈王即位。 史記5 寶臧王13(高)  
新唐220新羅 義慈王14(百)  
冊府974    
閏5・18*     唐、使者を派遣し、王弟金春秋を冊封して開府儀同三司新羅王とする。王、唐に遣使して謝恩する。 旧唐199上新羅 唐、使者を派遣し、太宗武烈王を冊封して開府儀同三司新羅王とする。王、唐に遣使して謝恩する。 史記5    
冊府964    
通鑑199    
唐会要95    
7・24 遣唐大使吉士長丹・副使吉士駒ら、百済・新羅の送使と共に筑紫に帰着する。この月、唐の皇帝と会見し、多くの文書・宝物を齎した功により、吉士長丹に小華下を授け、封200戸と呉の姓を賜い、吉士駒に小山上を授ける。 書紀            
書紀 白雉5・7月是月条      
略記    
10・10 孝徳天皇、難波宮で没す。巨勢稲持らを新羅に派遣し、天皇の死去を報じる。新羅、翳飡金春秋に応接させる。 書紀            
書紀 持統3・5・22条    
10     高句麗、契丹を攻めるも大敗する。契丹、戦勝のことを唐に告げる。 新唐220高句麗        
通鑑199    
冊府995    
12・12 高向玄理ら長安に到りて、高宗と会見する。琥珀・瑪瑙などを献じる。また、東宮監門郭丈挙の日本の地理などに関する質問に答える。高宗、書を与え、新羅危急の際には救援すべきことを命じる。この後、日本の遣唐使は帰途に就くが、高向玄理は唐で没す。 書紀 白雉5・2条 倭国、遣使して琥珀・瑪瑙などを献じる。高宗、書を与え、新羅危急の際には救援すべきことを命じる。 旧唐4 高宗上        
善隣記 唐会要99 倭国    
冊府959    
冊府970    
新唐220 日本    
宋史491日本国    
この年 高句麗・百済・新羅がそれぞれ遣使し、孝徳天皇の喪を弔す。 書紀            
655 1*     新羅より使者が来て、高句麗・百済・靺鞨が攻めてきたことを訴え、救援を求める。 旧唐199上 百済 新羅、高句麗が百済と連合して攻めてきたため、金仁問を唐に遣わし、救援を求める。翌年帰国。 史記5 斉明1 永徽6 太宗武烈2(新)  
新唐220高句麗 寶臧王14(高)  
新唐220百済 史記22 義慈王15(百)  
新唐220新羅 史記28 同年8月条    
通鑑199      
冊府986    
冊府995    
2・25     唐、蘇定方・程名振らを派遣して高句麗を討たせる。 新唐3 唐、蘇定方・程名振らを派遣して高句麗を討たせる。 史記22    
冊府986 史記5同年3月条    
3     唐の程名振、貴端水で高句麗を破る。(あるいは5月13日と同一事項か?) 旧唐4 高宗上        
5・13     唐軍、貴端水にて高句麗を破る。 新唐3        
通鑑199    
冊府986    
7・11 難波朝廷において、北(越)蝦夷99人、東(陸奥)蝦夷95人、百済の調使150人を饗す。 書紀            
8・1 遣唐使河辺麻呂らが帰国。この時、入唐僧の道昭が同行して帰国する。 書紀            
続紀 文武4・3・10条    
9         金庾信、百済の刀比川城を攻め、これを破る。 史記42金庾信 中    
この年 高句麗・百済・新羅、遣使して朝貢する。新羅、質の身代わりとして級飡弥武を才伎12人と共に遣わすが、弥武は病死する。 書紀            
永徽年中       新羅・日本、通好。使者を遣わす。 広記481     白雉〜斉明 永徽年中    
656 7以前か         唐に救援を求めるために遣使された新羅王子金仁問、帰国する。 史記5 斉明2 顯慶1 太宗武烈3(新)  
3     新羅から遣使が来て、百済を破ったと報告。 冊府995     寶臧王15(高)
唐会要95 義慈王16(百)
7         新羅、文王を唐に派遣し、朝貢する。 史記5  
8・8 高句麗、大使達沙・副使伊利之ら81人を派遣して、調を進める。 書紀          
9 遣高句麗大使に膳葉積・副使坂合部磐鍬・大判官犬上白麻呂・中判官河内書某・小判官大蔵衣縫麻呂。 書紀          
10     新羅王、子の文王を派遣し、朝貢する。(史記には7月とあるが、本国出発が7月で、唐到着が10月であるか) 冊府970      
12     高句麗から遣使が来て、皇太子の冊立を祝賀する。 冊府970 高句麗、唐に使臣を遣わし、皇太子の冊立を祝賀する。 史記22  
この年 高句麗・百済・新羅使が来朝する。紺の幕をめぐらして饗す。また、西海使佐伯栲縄・小山下難波国勝らが百済より帰国し、鸚鵡を献じる。 書紀          
657 この年* 遣新羅使、僧智達・間人御厩・依網稚子らを伴い新羅に行き、新羅使の入唐に智達を同行するよう要請するも新羅、承諾せず智達ら新羅より帰国する。西海使小華下阿曇頬垂・小山下津傴僂、百済より帰国し、駱駝1頭・驢2頭を献じる(斉明4・是歳条にも阿曇頬垂帰国記事あり)。 書紀         斉明3 顕慶2 太宗武烈4(新)  
寶臧王16(高)
義慈王17(百)
658 6・1     唐の将軍程名振、赤烽鎮(冊府986、「去烽鎮」とする)にて高句麗を攻める。 旧唐4 高宗上 高句麗、唐の程名振、薛仁貴が攻め入るも撃退。 史記22 斉明4 顯慶3 太宗武烈5(新)  
新唐3 寶臧王17(高)
新唐220 高麗 義慈王18(百)
通鑑200  
冊府986  
7 沙門智通・智達ら、新羅船にて入唐し、玄奘に師事する。 書紀 日本僧智通ら、入唐求法する。 宋史日本国伝      
略記 仏祖統紀39  
伝通縁起    
元亨16智通    
元亨21    
善隣記    
この年 出雲国、雀魚大量死のことを報じる。ある説では百済滅亡の前兆かという。また、西海使小華下阿頬垂、百済より帰国。百済の馬の異常行動を伝え、ある説では敵に滅ぼされる前兆かという。 書紀          
659 4*     新羅、百済討伐のため、唐に援軍を請う。 通鑑200顕慶5・3・10条 新羅、百済討伐のため、金仁問を遣わして唐に援軍を請う。 史記5 斉明5 顯慶4 太宗武烈6(新)  
史記44金仁問 寶臧王18(高)
遺事1太宗春秋公 義慈王19(百)
4         百済、新羅の独山・桐岑の2城を攻める。 史記28  
7・3 遣唐使小錦下坂合部石布・大仙(山)下津守祥ら、2船に分乗して難波三津浦を出発。筑紫に向かう。道奥蝦夷男女2人同伴。 書紀          
略記 同年7月条  
8・11 遣唐使坂合部石布ら、筑紫大津浦を出発。 書紀 同年7・3条          
9・13 遣唐使坂合部石布ら、百済南辺の伊志奈利島に至る。 書紀 同年7・3条          
釈紀14    
9・14 遣唐使船2艘、百済の伊志奈利島を出帆する。 書紀 同年7・3条          
釈紀14    
9・15 坂合部石布の船が逆風に遭い、南海の爾加委島に漂着し乗員多数が殺害。東漢長阿利麻ら5人が島を脱出し、唐の括州に着き、のちに洛陽に至る。 書紀 同年7・3条          
続紀 天平宝字1・12・9条          
9・16 津守吉祥の船、越州会稽県須岸山に至る。22日、越州余姚県を経て、閏10月1日、越州州衙に到着。 書紀 同年7・3条          
10         新羅王、同年4月、唐に要請した援兵について未だ回答が無いことを憂う。すると、亡臣が現れて翌年には唐が百済を討伐することを告げたという。 史記5  
閏10・15 津守吉祥ら越州を出発し、29日に洛陽に到着。 書紀 同年7・3条          
閏10・30* 津守吉祥、蝦夷と共に高宗に会見。高宗、倭の国情や蝦夷のことなどについて尋ねる。蝦夷、白鹿皮・弓・箭などを献上する。 書紀 同年7・3条 蝦夷国、倭国使に随って入朝する。 唐会要100 蝦夷国      
  冊府970  
  冊府997  
  通典185東夷上 蝦夷  
  御覧782蝦夷  
  宋史491日本国伝  
11・1 津守吉祥ら冬至の会に参列。再度、高宗と謁見する。 書紀 同年7・3条          
11     唐の将軍薛仁貴、高句麗を横山で破る。 通鑑200 高句麗、唐の薛仁貴と横山で戦い、敗れる。 史記22  
12・3 遣唐使、随員韓智興の{人の讒言により、唐朝に処罰される。伊吉博徳の奏言で許されるが、唐に「海東の政」計画があるため、一行を帰国させない勅旨が出され、長安に幽閉される。 書紀 同年7・3条          
書紀 斉明7・5・23条    
この年 高句麗からの使者、羆皮1枚を60斤で売ろうとするが、取り合ってもらえず。高麗の絵師子麻呂、高句麗使を招き、官の羆皮70枚を借りて席を設ける。高句麗使、驚き恥じて退席する。 書紀          
660 1・1 高句麗使乙相賀取文ら100余人、筑紫に到着する。 書紀         斉明6 顯慶5 太宗武烈7(新)  
3・10*     唐、蘇定方に百済攻撃を命ず。新羅王にも派兵を命ず。 旧唐4 高宗上 唐の高宗、唐の蘇定方と在唐中の新羅王子金仁問に百済討伐を命じる。また、新羅王(金春秋)にも百済討伐を命じる。 史記5 寶臧王19(高)
旧唐199上 百済 史記28 義慈王20(百)
旧唐199上 新羅 史記44金仁問  
新唐3 遺事1太宗春秋公  
新唐220百済    
新唐220新羅    
通鑑200    
冊府986    
5・8 高句麗使乙相賀取文ら、難波に到着する。 書紀          
5・26         新羅王、百済討伐のため兵を率いて京を出発する。 史記5  
6・18         百済王、南川停に到着。蘇定方は莱州より出発し、その軍船は千里にわたって連なっていた。 史記5  
史記42金庾信 中  
6・21         新羅王、太子の法敏に命じて蘇定方・金仁問を徳物島にて迎えさせる。この時新羅王は今突城に車駕を留める。 史記5  
史記28  
史記42金庾信 中  
史記44金仁問  
遺事1太宗春秋公  
7・9         新羅の将軍金庾信、黄山の原に至り、百済軍を破る。この時、新羅将軍官昌・百濟の将軍階伯ら、戦死する。またこの日、蘇定方は金仁問と共に伎伐浦にて百済軍を大破する。百済王子使を遣わして唐の将軍に撤兵を懇願する。 史記5  
史記28  
史記42金庾信 中  
史記47金令胤伝  
史記47官昌伝  
史記47階伯伝  
遺事1太宗春秋公  
7・12         唐・新羅連合軍、百済の王城を囲むべく所夫里の原に進軍。百済王子、再び撤兵を請うも、これを退ける。 史記5  
史記28  
7・13*     百済義慈王、子の驍ニともに北鄙に避難する。王の次男、泰は自立して王となり、衆徒を率いて王城を堅守する。また、義慈王の孫、文思、降伏する。 旧唐83蘇定方伝 百済義慈王、子の孝と共に熊津城に避難する。王の次男、泰は自立して王となり、衆徒を率いて王城を堅守する。また、義慈王の子、隆、降伏する。 史記5  
新唐220百済 史記28  
新唐111蘇定方伝 遺事1太宗春秋公  
通鑑200同年8月条    
冊府986    
7・16 高句麗使乙相賀取文ら帰国する。 書紀          
7・18*     蘇定方・新羅軍、百済を攻略し、義慈王を面縛し、高宗に献じる(11月1日項参照)。これ以後、新羅は次第に高句麗・百済の旧地を領有する。 旧唐4 高宗上 同年8・12条 唐・新羅軍が百済の王城に迫り、百済の義慈王、太子以下を率いて城を出て唐軍に降伏。百済滅亡。 史記5  
旧唐199上 新羅 史記28  
新唐3同年8・12条 遺事1太宗春秋公  
通鑑200同年8月条    
冊府986    
7・29         新羅、唐に弟監天福を遣わし、戦功を告げる。 史記5  
8・2         新羅王・蘇定方ら、酒宴を開き、諸将をを労う。 史記5  
9・3         唐の将軍蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官93人と人民一万二千人を連れて、泗沘を出発し、高宗のもとへ行く。金仁問と沙飡の儒敦、大奈麻の中知らも同行。 史記5  
史記28  
史記42金庾信 中  
史記44金仁問  
遺事1太宗春秋公  
9・5 百済人達率某・沙弥覚従らが到り、さる7月に新羅が唐軍と百済を攻め、国王を捕えたこと、その後、西部恩率鬼室福臣及び達率余自進らが遺臣を集めて立ち上がり、反撃していること、国人は2人を尊んで佐平福信・佐平自進と称していることなどを奏す。 書紀          
9・12 幽閉されていた遣唐使津守吉祥、帰国を許され同月19日に長安を出発する。 書紀 斉明6・7・16条          
9・23*     高宗、百濟に五都督府を設置し、左衛中郎将の王文度を熊津都督に任命する。 旧唐199上 百済 百濟の残兵、泗沘城で反乱する。これに呼応し、叛いたものは20余城に達する。唐の高宗、百濟に五都督府を設置し、郎将の劉仁願に都城を守らせ、左衛中郎将の王文度を熊津都督に任命する。 史記5  
  新唐220百済 史記28  
  通鑑200同年8月条 遺事1太宗春秋公  
  通鑑200龍朔1・3月条    
9・28* 王行則(王文度=小野勝年氏説)、東蕃を征伐して没落。 巡礼行記開成5・2・28条 王文度、海を渡って急死する。劉仁願をこれに代える。 旧唐199上 百済 王文度、三年山城に至って、唐高宗の詔書を伝える。この時、王文度、急死する。 史記5  
  新唐220百済    
  通鑑200龍朔1・3月条    
10・16 遣唐使津守吉祥ら洛陽に到着する。坂合部石布の船に乗っていて助かった東漢長阿利麻ら5人と会う。 書紀斉明6・7・16条          
10・18         新羅王、同月9日に尒礼城を攻め、この日、同城を取り、官吏を置いて守る。百濟の20余城、懼れてみな降伏する。 史記5  
10・30         泗沘城南嶺の軍柵を攻め、1500を斬首する。 史記5  
10* 百済の鬼室福信の使佐平貴智ら、唐人の捕虜100余人を連れて来朝。救援軍の派遣、質として日本にいる百済国王子余豊璋の帰国を要請する。 書紀 百済遺臣鬼室福信ら反乱、倭国に遣使して、王子扶余豊の帰国を要請する。 旧唐199上 百済      
巡礼行記開成5・2・28条 新唐220百済  
通鑑200龍朔1・3月条  
11・1* 唐の将軍蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。 書紀 斉明6・7・16条 蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。義慈王、唐に到着後、数日で病死する。金紫光禄大夫・衛尉卿を贈る。 旧唐4高宗上 蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。義慈王、唐で病死する。 史記28  
旧唐199上 百済 遺事1太宗春秋公  
新唐3    
新唐220百済    
通鑑200    
冊府974    
11・1         高句麗、新羅の七重城を攻める。新羅の軍主、匹夫戦死する。 史記5  
史記47匹夫伝  
11・7         新羅王、同月5日に王興寺岑城を攻め、この日勝って700人を斬首する。 史記5  
11・22         新羅王、百済から戻り、戦功者に行賞する。 史記5  
11・24 遣唐使津守吉祥ら、19日に賜労され、この日洛陽を出発する。 書紀 斉明6・7・16条          
12・16*     契苾何力・蘇定方・劉伯英らに高句麗を攻めさせる。 新唐3 唐、契苾何力・蘇定方・劉伯英・程名振らに高句麗を攻めさせる。 史記22    
新唐220高麗    
通鑑200    
冊府986    
12・24 斉明天皇、百済の鬼室福信の要請に応えて、救援軍の派遣を決す。筑紫に向かうため、難波宮に幸して軍器を備える 書紀            
この年 百済救援に用いる船を駿河国に建造させるが、故なく艫舳が反りかえる。信濃国、蠅の変異を報じる。共に救援軍敗戦の前兆かという。 書紀            
661 1・19     河南・河北・淮南等67州の兵を募り、高句麗の平壌・帯方道に行営する。 旧唐4高宗上 唐、河南・河北・淮南等67州の兵を募り、高句麗の平壌・鏤方道に行営する。 史記22 斉明7 顯慶6 太宗武烈8(新)  
通鑑200 寶臧王20(高)
1・22     蕭嗣業に高句麗を討伐させる。 新唐3      
通鑑200  
冊府986  
1・25 遣唐使津守吉祥ら、越州に到着。 書紀 同年5・23条          
2*     百済遺臣鬼室福信・僧道琛ら反乱、泗沘城の劉仁願を攻める。余豊璋を王となす。唐、劉仁軌と新羅とに討たせる。 旧唐199上 百済 百済の残賊(鬼室福信・僧道琛)、反乱し、泗沘城を攻める。倭国に質として滞在していた余豊璋を王となす。新羅王、救援のため、諸将を派遣する。また、唐の高宗、劉仁軌を救将として派遣する。 史記5  
新唐220百済 史記28  
冊府966    
通鑑200 同年3月条 史記42金庾信 中  
3・1     龍朔に改元する。       龍朔1  
3・5         泗沘城救援の将軍品日、麾下の軍を先発させ、豆良尹(伊)城の南で営地を調べさせる。百済人これを攻め、破る。 史記5  
3・12         新羅軍、豆良尹城を攻めるも、1ヶ月6日経っても勝てず。 史記5  
3*     百済の僧道琛ら、2つの柵を熊津江に立て、唐・新羅連合軍と戦うも、敗れる。このため、泗沘城の包囲を解き、任存城に退いて守備を固める。 旧唐199上 百済 百済の鬼室福信ら、2つの柵を熊津江に立て、唐・新羅連合軍と戦うも、敗れる。このため、泗沘城の包囲を解き、任存城に退いて守備を固める。 史記28  
新唐220 百済  
通鑑200  
冊府986  
4・1 津守吉祥ら、越州より帰国の途につく。7日、檉岸山に至る。8日、檉岸山を出帆するも漂流し、9日8夜経ってに耽羅島に到着する。その後、耽羅王子阿波伎を伴い耽羅島を出発する。 書紀 同年5・23条          
4・16*     契苾何力を遼東道大總管、蘇定方を平壌道大總管、任雅相を浿江道大總管に任じて高句麗を攻める。高宗、親征しようとするも、李君・武后の反対され、親征をやめる。 旧唐4同年5・2条 唐軍、高句麗に向けて進軍。高宗、自ら出兵しようとするも李君球・武后に諫められ、中止する。 史記22  
新唐3  
新唐220 高麗  
冊府986  
4・19*     新羅軍、食糧が尽きたため、百済より引き返す。 旧唐199上 百済 新羅軍、食糧が尽きたため、百済より引き返す。還る途中、下州軍は賓骨壌で百済軍と遭遇し敗退する。上州軍は角山において百済軍と遭遇し、これを破る。新羅王、自軍の敗報を聞き、増援するも、新羅軍の撤退を聞いて引き返す。 史記5  
新唐220百済 史記28  
通鑑200  
4 百済の鬼室福信の使者が来て、質となっていた王子余豊璋の送還を求める。ただし、他の史料には同年2月に余豊璋(扶余豊)を迎え、王とした、と見える。 書紀          
5・9あるいは11         高句麗・靺鞨連合軍、新羅の述川城、次いで北漢山城をを攻めるも勝てず。 史記5  
史記22  
史記42金庾信 中  
5・23 遣唐使の津守吉祥ら、耽羅王子の阿波伎を伴い、筑紫に到着する。 書紀          
6         新羅太宗武烈王薨じる。文武王即位。 史記5 文武王1(新)
6         唐に宿衛していた新羅の金仁問、儒敦らが帰国。唐の皇帝が高句麗征伐のため兵を派遣し、文武王にも呼応するよう命じたと告げる。 史記6 寶臧王20(高)
史記42金庾信 中  
史記44金仁問  
7・17〜9・27         新羅王、金仁問・金庾信らを率いて高句麗討伐のために進軍するも、百済の残賊が路を塞ぎ、前進できず。説諭しても聞かなかったため、これを破り、降伏させる。 史記6  
史記42金庾信 中  
史記44金仁問  
7・24 斉明、朝倉宮にて崩御する。中大兄皇子、称制。           (天智)  
7 唐の将軍蘇(定方)・突厥王子契苾何力ら、水陸より高句麗城下を攻める。 書紀 天智即位前紀            
8・11*     将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。 新唐3 唐の将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。 史記22    
新唐220高麗    
通鑑200    
冊府986    
8 百済に救援として、前将軍として大華下阿曇比羅夫・小華下河辺百枝ら、後将軍に大華下阿倍比羅夫・大山上物部熊・大山上守大石らを任命して派遣。また武器・食料なども送る。 書紀 天智即位前紀            
9・1*     新羅王金春秋(太宗武烈)が薨じたことを聞き高宗、挙哀し、使を遣わして弔う。また、子の法敏を開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王とする。 旧唐4同年是歳条 新羅王金春秋(太宗武烈)が薨じたことを聞き唐の高宗、挙哀する。 史記5同年6月条    
旧唐199上 新羅    
新唐220新羅    
通鑑200    
冊府964    
冊府974    
9 百済王子余豊璋に織冠を授け、多蒋敷の妹を妻とする。大山下狭井檳榔・小山下秦田来津ら兵5000余人に本国に護送させる。入国時、百済の鬼室福信、稽首し、国政を委ねる。 書紀 天智即位前紀            
9     蓋蘇文の子男生、唐の将軍契苾何力軍に潰走する。唐軍、撤退の詔により、還る。 通鑑200 蓋蘇文の子男生、唐の将軍契苾何力軍に潰走する。唐軍、撤退の詔により、還る。 史記22    
10・29         唐からの使者、新羅の都に到着する。前王を祭祀し、彩絹五百段を送る。また、唐の劉徳敏が来て唐帝の勅旨を伝え、平壌へ兵糧を送るよう命じた。12月10日、金庾信ら、兵糧を載せて高句麗境内に入る。 史記6    
史記42金庾信 中    
11 百済の鬼室福信、唐人の捕虜、継守言ら106人を送ってくる。ついで唐人を近江国墾田に居住させる。 書紀同年11・7条            
この年     百済の残将、道琛・鬼室福信、唐の将軍劉仁軌に蜂起の理由を述べる。仁軌、使者を派遣し、説諭しようとするも、使者をそのまま返す。仁軌、高宗に上表して新羅と兵力を併せるるよう請う。新羅王、これをうけて将帥の金欽を派遣し、仁軌に合流させようとするも、福信がこれを迎え討って破ったため、新羅は再び出兵しなかった。また福信、道琛を殺害し、その兵を合併する。 旧唐199上 百済 百済の残将、道琛・鬼室福信、将軍を自称し蜂起。劉仁軌、高宗に上表して新羅と兵力を併せるよう請う。新羅王、これをうけて将帥の金欽を派遣し、仁軌に合流させようとするが、福信がこれを迎え討って破ったため、新羅は再び出兵しなかった。福信、道琛を殺害し、その兵を合併する。 史記28    
新唐220百済    
通鑑200 661・3月条    
662 1・27 鬼室福信に矢10万隻・糸500斤・綿1000斤・布1000端・韋1000張及び稲種3000斛を賜う。 書紀         天智1 龍朔2 文武王2(新)  
1         新羅の客館に留まっていた唐使、この時に至って文武王を開府儀同三司上柱国楽浪郡王新羅王に冊命する。また、新羅王、金庾信らに命じて兵糧を平壌に運ばせる。 史記6 寶臧王21(高)
史記44金仁問  
2         耽羅国、新羅に降伏。 史記6  
3・24     蘇定方、葦島で高句麗軍を破る。 旧唐4 高宗上      
1〜3月*     唐軍、蛇水で高句麗に敗れる。この時、将軍の龐孝泰戦死。また、包囲していた平壌から撤退。 旧唐4 同年3・癸丑(24)条 新羅、唐の蘇定方らに軍糧を贈る。高句麗、唐軍を蛇水で破る。唐の蘇定方、高句麗の平壌城を包囲していたが、大雪のため撤退。それを聞いて、新羅軍も兵を引き上げる。 史記6  
新唐3 同年2・戊寅(18日)条 史記22  
新唐220 高麗 史記42金庾信 中  
通鑑200 史記44金仁問  
  遺事1太宗春秋公  
3・4 百済の余豊璋に布300端を賜う。 書紀          
5 大将軍大錦中阿曇比羅夫ら、船師170艘を率いて余豊璋らを百済に送る。勅して余豊璋に王位を継がせ、鬼室福信に金策を授け、爵禄を賜う。 書紀          
6・28 百済、達率万智らを遣わし、調を進め物を献じる。 書紀          
7*     唐、福信ら百済遺民を攻める。劉仁願・劉仁軌ら、熊津の東でこれを撃破し、支羅城・及尹城、大山・沙井等の柵を攻め落とす。福信ら、真峴城に兵を集め、ここを守るも、仁軌、新羅兵を率い、この城を占拠する。その結果、新羅の唐軍への運糧の道が通じる。援軍として、孫仁師に兵7000を率いさせて派遣。 新唐3 唐、福信ら百済遺民を攻める。劉仁願・劉仁軌ら、熊津の東でこれを撃破し、支羅城・及尹城、大山・沙井等の柵を攻め落とす。福信ら、真峴城に兵を集め、ここを守るも、仁軌、新羅兵を率い、この城を占拠する。その結果、新羅の唐軍への運糧の道が通じる。要請により、皇帝は孫仁師に兵四十万を率いさせて派遣。翌年徳物島に到り熊津に向かう。 史記28  
旧唐199上 百済 史記6・文武王3・5月条  
新唐220 百済  
通鑑200  
冊府366  
冊府986    
通鑑 龍朔3・9・8条    
7         新羅、唐に金仁問を遣わし、方物を貢ぐ。 史記6  
史記44金仁問  
8         百済の残賊、内斯只城に結集して悪事をはたらいたため、欽純らを派遣して討伐する。 史記6  
12・1 百済の豊璋・鬼室福信ら狭井某・朴秦田来津らに州柔(周留)城は周囲に田畑がなく、長期駐留に向かないため、南方の避城に遷ることを諮る。田来津は反対するものの、豊璋らは避城に遷都。 書紀          
12・24     高句麗・百済討伐のため河北民に労が多かったため、封禅と洛陽への行幸を停む。 通鑑200      
663 2・2 百済、達率金受らを遣わし、調を進める。新羅に百済南畔四州を焼き、安徳などの要地を奪われ、避城が賊に近いため州柔城に移ったことを伝える 書紀         天智2 龍朔3 文武王3(新)  
2         新羅の欽純・天存、兵を率い、百済の居列城・居勿城・沙平城・徳安城を攻略 史記6 寶臧王22(高)  
3 前将軍上毛野稚子・間人大蓋、中将軍巨勢神前訳語・三輪根麻呂、後将軍阿倍比羅夫・大宅鎌柄に兵27000人を率いさせ、新羅征討に向かわせる 書紀            
4     新羅を雞林州都督府とし、新羅王法敏を雞林州都督とする 冊府964 唐、新羅を鶏林大都督府とし、新羅王を鶏林州大都督とする 史記6    
旧唐199上 新羅    
通鑑201    
唐会要95新羅    
5・1 犬上某、高句麗より帰国し、百済にて豊璋と会見して鬼室福信の罪を聞くことを伝える 書紀            
6* 前将軍上毛野稚子ら、新羅の沙鼻・岐奴江の2城を奪取。 書紀 百済王豊璋、鬼室福信を殺害 旧唐84劉仁軌 百済王豊璋、鬼室福信を殺害 史記28    
旧唐199上 百済    
新唐108劉仁軌    
新唐220百済    
通鑑200龍朔2・7条    
6〜7* 百済王豊璋、鬼室福信を殺害 書紀 同年6月条 百済王豊璋、鬼室福信を殺害。高句麗と倭に援軍を求め、唐軍を阻むも孫仁師の軍がこれを破り、劉仁軌・劉仁願の軍と合流する。堅固な加林城よりも周留城を先に攻めることを議し、仁師・仁願と新羅王金法敏の軍は陸から進軍し、仁軌と杜爽・扶餘隆は水軍と糧船を率いて、熊津江から白江に行き、陸軍と合流して、周留城に向かう 旧唐199上 百済 百済王豊璋、鬼室福信を殺害、豆率(周留)城を本拠とし、倭に援軍を請う。7月17日、新羅王、将軍らを率いて征討の途につく 史記6 同年5月条    
旧唐84劉仁軌 史記28    
新唐108劉仁軌 史記42金庾信 中    
新唐220百済      
冊府366      
通鑑200龍朔2・7条      
通鑑 同年9・8条      
8・13 百済王豊璋、新羅の州柔城攻撃を知り、倭の援軍の廬原某が到着するため、これを迎えるために白村江に行くことを諸将に告げる 書紀            
8・13         新羅軍、豆率(周留)城に到る 史記6 同年5月条    
  史記7文武王11・7・26条    
  史記42金庾信 中    
8・17 新羅、州柔城を包囲。唐軍の船170艘が白村江に布陣 書紀            
8〜9* 8月27日、百済への援軍、白村江に到着して唐軍と戦うも退却。 書紀 同年8・27条 9月8日、劉仁軌の水軍、白江河口にて倭軍に大勝。また、周留城も攻略。百済王豊璋、高句麗へ脱出。扶餘忠勝・忠志らおよび倭国や眈羅国、降伏。遅受信のみ任存城によって降伏せず 旧唐84劉仁軌 倭軍、白村江で唐軍に大敗。また、新羅軍と唐軍と豆陵(良尹)城・周留城などを攻略。百済王豊璋、脱出。一説、高句麗に逃げる。王子忠勝・忠志や倭人、降伏。ただ、遲受信のみ任存城に拠って抵抗 史記6 同年5月条    
28日、白村江で唐軍と再戦し大敗。溺死者多数で朴市田来津が戦死。百済王豊璋、高句麗に逃げる。 書紀 同年8・28条 旧唐199上 百済 史記7文武王11・7・26条    
9月7日、唐軍、百済の州柔城を攻略。百済の人々、倭の援軍と協議。 書紀 同年9・7条 新唐3同年9・8条 史記28    
11日に弖礼城に向けて出発し、13日到着 書紀 同年9・11条 新唐108劉仁軌 史記42金庾信 中    
書紀 同年9・13条 新唐220百済      
  冊府358      
  冊府366      
    通鑑 同年9・8条      
9・24 倭の船団、および佐平余自進・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留並びに国民ら、弖礼城に到着。翌日、倭に向けて出発 書紀            
10・21         新羅と唐、仁存城を攻めるも勝てず。11月4日に至り兵を返す。舌利停に至り論功行賞。衣裳を作り駐留唐軍に給付 史記6 同年5月条    
    史記7文武王11・7・26条    
  史記28    
  11・20         新羅、京師に帰り金庾信ら將卒に賞賜 史記42金庾信 中    
664 1・1     改元       天智3 麟徳1 文武王4(新)  
2         新羅の金仁問・天存、唐の勅使劉仁願、扶餘隆、熊津にて盟す 史記6 寶臧王23(高)  
3 百済王善光らを難波に居住させる 書紀            
3         百済の残兵、泗沘山城に拠って叛乱。熊津都督、兵を発しこれを破る 史記6    
史記43金庾信 下    
3         新羅、星川・丘日ら二十八人を(熊津)府城に派遣し、唐楽を学ばせる 史記6    
4 唐の百済鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰らを遣使して、牒書一函と献物とを進める。郭務悰ら対馬に至る 書紀 同年5・17条            
善隣記            
5・17 郭務悰ら、筑紫に至る。大山中采女通信侶・僧智弁らを遣わして応接させる 書紀            
7         新羅、(熊津)府城の兵とともに高句麗の突沙城を攻略 史記6    
9 大山中津守吉祥・大乙中伊吉博徳・僧智弁ら、郭務悰に百済鎮将の私使であり、牒状もまた私信であるので、使者の入京は許さず、牒状も朝廷に進上しない旨の勅旨を筑紫大宰の辞として告げる 善隣記            
10・1 中臣鎌足、沙門智祥物を遣わし郭務悰に賜物す 書紀            
10・4 郭務悰らを饗す 書紀            
10・6     劉仁軌上言。高宗、扶余隆を熊津都督とする 旧唐84劉仁軌        
  旧唐199上 百済        
  新唐108劉仁軌        
  新唐220百済        
  冊府366        
  冊府966        
  通鑑201        
12・12 鎮西将軍の牒状を郭務悰に付し、帰国させる 書紀            
書紀 同年10・1条    
善隣記    
この年 百済救援時、唐の捕虜になり抑留中の筑後国上陽東Sの大伴部博麻、土師富杼ら4人と唐の情報を日本に伝えることを企てる 書紀 持統4・10・22条            
665 2 亡命した鬼室集斯に、百済の官位を勘案し、また佐平鬼室福信の功績によって、小錦下の位を授ける。また百済人男女400余人を近江国神前郡に居住させる 書紀         天智4 麟徳2 文武王5(新)  
8 耽羅、遣使して来朝 書紀         寶臧王24(高)  
8・13     熊津都督扶余隆と新羅王、熊津城にて盟誓。倭国使も参列。劉仁軌、新羅・百済・耽羅・倭の使者を連れて、高宗封禅の儀に参列するため、泰山に向けて出発 旧唐84劉仁軌 新羅文武王と熊津都督扶余隆、熊津就利山にて盟誓 史記6    
旧唐199上 百済 史記28    
新唐108劉仁軌 遺事1太宗春秋公    
新唐220百済      
唐会要95新羅      
冊府981      
通鑑201      
9・20 唐、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高・右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰ら254人を遣使。7月28日に対馬に至り、9月20日に筑紫に至る。22日、表函を進める。僧定恵、同行して唐より帰国 書紀 同年9・23条            
書紀 白雉5・2月条    
貞恵伝    
10・25*     高句麗王子福男、来朝 旧唐4 高句麗宝蔵王、太子rjを唐に遣わす。 史記22 宝蔵王25年条    
旧唐199上 高麗    
新唐220高麗    
通鑑201同年8・13条    
10・29     高宗、洛陽から泰山に向けて出発。倭国・新羅・百済・高麗らの諸蕃酋長も従う 旧唐4        
  冊府36    
11・13 唐使劉徳高らを饗す 書紀            
懐風藻    
12・14 劉徳高らに物を賜う。徳高ら帰国 書紀            
この年 唐に小錦守大石・小山坂合部石積・大乙吉士岐弥・吉士針間らを派遣する 書紀            
この年         唐高宗、梁冬碧・任智高らを遣使して來聘。また金庾信を冊して奉常正卿平壤郡開國公食邑二千戸とする 史記43金庾信    
この年         唐に奉使していた新羅の鄭恭、帰国 遺事4    
666 1・1     高宗、泰山に到着。この日、泰山封禅 旧唐5 新羅の金仁問・高句麗の福男、高宗の泰山封禅に随う。 史記6 文武王5・8条 天智5 麟徳3 文武王6(新)  
旧唐84劉仁軌 史記22 寶臧王25(高)  
旧唐199高麗 史記44 金仁問    
新唐3      
新唐108劉仁軌      
新唐220高麗      
通鑑201      
通鑑201麟徳2・8・13条      
唐会要95新羅 麟徳2・8条      
1・5     改元       乾封1    
1・11 高句麗、前部能婁らを遣使して進調。耽羅、王子姑如らを遣使して、貢献 書紀            
4     新羅僧順m、乾封中の使臣に随行して入唐はこのときか 宋高僧伝4 新羅、天存の子の漢林と金庾信の子の三光を入唐させて宿衛とする。高句麗攻撃の兵を請う 史記6    
史記43金庾信 下    
6・4 高句麗使の能婁ら、帰国 書紀            
6・7* 高句麗大臣泉蓋蘇文、没。高句麗太兄男生、王都平壌を出て巡国。平壌の二弟、側助士大夫の悪言を聞き、入城を拒絶。これにより、男生は唐に亡命する 書紀 天智3・10 高句麗泉蓋蘇文、没。蘇文の後を継いだ泉男生と二弟間で内紛が発生。男生、子の獻誠を遣使して唐に救援を請う。唐高宗、派兵を命じる。男生、唐に亡命を図る。 旧唐5 高句麗泉蓋蘇文、没。蘇文の後を継いだ泉男生と二弟間で内紛が発生。男生、唐に救援を請い、唐高宗、派兵を命じる。男生、唐に亡命を図る 泉男生墓誌    
書紀 天智6・10月条 旧唐67李勣 史記22宝蔵王25年冒頭条    
  旧唐83薛仁貴 史記22    
  旧唐199上 高麗 史記49 蓋蘇文    
  新唐3      
  新唐93李勣      
  新唐110契苾何力       
  新唐110泉男生      
  新唐111薛仁貴      
  新唐220高麗      
  通鑑201      
8         高句麗泉男建、莫離支兼知内外兵馬事となる 史記22    
9     龐同善、高麗兵を大破する。このとき泉男生は兵を率い同善と合流して戦う。高宗は男生を特進、遼東大都督、兼平壤道安撫大使とし、玄菟郡公に封じる 旧唐199上 高麗 唐皇帝、泉男生を特進遼東都督兼平壤道安撫大使とし玄菟郡公に封じる 史記22    
新唐220高麗      
通鑑201      
10・26 高句麗、大使乙相奄鄒・副使達相遁・二位玄武若光らを遣使して進調 書紀            
12・18*     李勣を遼東行軍大総管として高句麗征討軍を派遣。 旧唐67李勣 唐、李勣を遼東行軍大総管として高句麗征討軍を派遣。 史記6    
  旧唐199上 高麗 史記22    
  新唐3      
  新唐93李勣      
  新唐220高麗      
  通鑑201      
12*     蓋蘇文の弟淨土、領土を割いて投降を請う 新唐220高麗 高句麗の淵浄土、12城の民を率いて新羅に投降 史記6    
この冬 百済の男女2000余人を東国に居住させる 書紀            
667 2・27 大田皇女の葬儀に、高句麗・百済・新羅人、参列 書紀         天智6 乾封2 文武王7(新)  
2*     李勣、高句麗の新城に至る 旧唐199上 高麗     寶臧王26(高)  
新唐220高麗    
7         唐、新羅王弟らを将軍として高句麗侵攻に赴かせる。新羅、唐に汁恒世を派遣し、朝貢。唐高宗、二方向から軍を平城に向かわせる 史記6    
7・11 耽羅、佐平椽磨らを遣使して貢献 書紀            
8         新羅王、金庾信ら30将軍と京師を発ち、9月に漢城停に到り、唐の李勣を待つ 史記6    
9・14     李勣、高句麗の新城を攻略 新唐3 唐軍、高句麗の新城を攻略。 史記22    
新唐110契苾何力     
新唐111薛仁貴    
通鑑201    
10・2         唐の李勣、平壤城の北二百里に到り、漢城の新羅王に書を送り出兵の期を促す。新羅王これに従い11月11日獐塞に到るも、李勣の帰ることを聞き王の軍も帰る 史記6    
11・9 唐の百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣使。坂合部石積らを送使とする 書紀            
11・13 司馬法聡、帰国。小山下伊吉博徳・大乙下笠諸石を送使とする 書紀            
閏11・11 錦・纈・緋・紺布・桃染布及び斧・ソ・刀子等を耽羅使椽磨らに賜う 書紀            
12         唐の留鎮将軍劉仁願、新羅王に高句麗の征討を助けよとの勅命を伝え、大将軍の旌節を賜与 史記6    
668 1・23 熊山県令司馬法聡の送使、伊吉博徳ら帰国。白雉5年に入唐した留学僧妙位・法勝、学生氷老人・高黄金ら12人、別倭種韓智興・趙元宝らが随行して帰国するか。 書紀         天智7 乾封3 文武王8(新)  
書紀 白雉5・2月条 寶臧王27(高)  
1・27     劉仁軌を遼東道副大総管とする 通鑑201        
2・28     唐軍、高句麗の扶餘・南蘇・木底・蒼巖城を攻略。 新唐3 唐の将軍李勣等、高句麗の扶餘城を破る。 史記22    
新唐110契苾何力     
新唐111薛仁貴    
新唐220高麗    
通鑑201    
唐会要95高句麗    
3・6     改元          
        新羅、元器・浄土を遣使入唐させる。浄土は留って帰らず。元器は帰還。今後女人の献上を禁じるとの勅あり 史記6 総章1    
4・6 百済、末都師父らを遣使して進調 書紀            
4・16 百済使末都師父ら帰国 書紀            
6・12         唐の劉仁軌、皇帝勅旨を奉じ、宿衛の金三光と党項津に到る。新羅王、金仁問を派遣し大礼を以て迎えさせる。劉仁軌、泉岡に向かう 史記6    
6・21         新羅王、金庾信を筆頭に高句麗攻撃の総官らを任命 史記6    
史記43金庾信下    
6・22         劉仁願、高句麗の大谷・漢城等二郡十二城の帰服を知らせる。新羅王、真功を遣使して賀を述べさせる。仁問ら、7郡及び漢城州兵馬を率いて唐の軍營に赴く 史記6    
6・27         新羅王、京師を発ち唐軍に赴く。 史記6    
6・29         新羅の諸道総管発つ。王は金庾信の病風を以て京師留める。仁問ら、李勣に会い嬰留山下に進軍 史記6    
7・16         新羅王、漢城州に到って、諸総管に(唐の)大軍と会するようにさせる。文穎ら高句麗兵と蛇川之原で遭遇。対戦して大いに破る。 史記6    
7 高句麗、越の路より遣使して進調。風浪高く帰国できず 書紀            
8・9     卑列道行軍總管・右威衛將軍の劉仁願、高麗遠征での軍期遅れにより、姚州に流刑 新唐220高麗        
通鑑201    
9・12* 唐に亡命した高句麗の泉男生、謀って高句麗を滅ぼす 書紀 天智6・10月条 唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。 旧唐5 唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。 史記6    
旧唐39 史記22    
旧唐67李勣 史記44 金仁問    
旧唐83薛仁貴       
旧唐84劉仁軌      
旧唐199上 高麗      
新唐3      
新唐39      
新唐108劉仁軌      
新唐110契苾何力       
新唐110泉男生      
新唐111薛仁貴      
新唐220高麗      
冊府986      
通鑑201      
唐会要95高句麗      
9・12 新羅、沙㖨級飡金東厳らを遣使して調を進める。 書紀            
9・26 中臣鎌足、僧法弁・秦筆を遣わし、新羅の金庾信に船1隻を賜い、金東厳に託す 書紀            
9・29 布勢耳麻呂を派遣し、新羅王に御調輸送船1隻を賜い、新羅使の金東厳に託す 書紀            
10・22         新羅、征高句麗諸将に論功行賞 史記6    
史記43金庾信 下    
10・25         新羅王、帰国 史記6    
11・1 新羅王に絹50匹・綿500斤・韋100枚を賜い、新羅使金東厳らに託す。また東厳らにも賜物 書紀            
11・5 小山下道守麻呂・吉士小鮪を新羅に派遣。新羅使金東厳ら、帰国 書紀            
11・5         新羅王、高句麗人捕虜七千とともに入京 史記6    
11・6         新羅王、先祖廟に百済・高句麗征討を告げる 史記6    
11・18         新羅、死事者に幣帛を贈る 史記6    
12*     李勣ら帰還後、高藏を司平太常伯、泉男産を司宰少卿、僧信誠を銀青光祿大夫とし、泉男生を右衛大將軍とする。李勣以下にも褒賞する。また泉男建は黔中に、扶餘豐も嶺南に流刑。高句麗の地を編成し、平壌に安東都護府を置き統治する 旧唐39 唐、李勣らの帰還後、宝藏王を司平太常伯、泉男産を司宰少卿、僧信誠を銀青光祿大夫とし、泉男生を右衛大將軍とする。李勣以下にも褒賞する。また泉男建は黔中に流刑。高句麗の地を編成し、平壌に安東都護府を置き統治する 史記22宝蔵王同年10月条    
旧唐199上 高麗 史記22    
新唐39      
新唐220高麗      
通鑑201      
唐会要95高句麗      
この年 僧道行、草薙剣を盗み、逃げて新羅に向うも風雨により迷って戻る 書紀            
略記    
熱田太神宮縁起    
古語拾遺    
この年         唐が船艘を修理し、倭国を征伐するとしながら、内実は新羅を討伐しようとしているとの報が伝わるとする 史記7文武王11・7・26条    
この年         唐皇帝、金庾信に詔書を下し褒賞し、入朝させようとするも果たせず 史記43金庾信 下    
669 1         唐僧法安、新羅に来て、皇帝の命を伝え磁石を求める。 史記6 天智8 総章2 文武王9  
2・21         新羅、百済・高句麗平定のためとし赦令。また穀米の借入について返済を免除 史記6  
2         高句麗王の庶子安勝、四千余戸を率いて新羅に投ずる 史記22  
3・11 耽羅、王子久麻伎らを遣使して貢献 書紀          
3・18 耽羅王に五穀の種を賜う。耽羅王字久麻伎ら、帰国 書紀          
5・23*     高句麗の民28200戸(あるいは「民3万」・38200戸)を唐内各地の空閑地に移す 旧唐5 唐、高句麗の民38300戸を唐内各地の空閑地に移す 史記22  
新唐220高麗  
通鑑201  
5         新羅、唐に祇珍山を派遣し、磁石を献上。また金欽純と金良図を派遣して(百済の旧領・遺民を奪ったとの問責について)謝罪 史記6  
9・11 新羅、沙飡督儒らを遣使して進調 書紀          
11 小錦中河内鯨らを唐に遣使。唐の普光寺で仏足石図を写した日本使黄文本実はこの時入唐か 書紀 同年是歳条 倭国使来朝し、方物を献ず。新唐220は659年にみえる蝦夷入朝をこの年とするか 新唐220 日本      
仏足石記 冊府970  
        唐使、新羅に到り詔を伝え弩師の仇珍川を連れて帰る。唐はまた弩の木材を求めて来たので、福漢を遣使して木材を献上 史記6  
この年 佐平余自信・鬼室集斯ら百済人男女700余人を近江国蒲生郡に移住 書紀          
この年 唐、郭務悰ら二千余人を派遣 書紀          
670 1         新羅が謝罪使として唐に派遣していた金欽純の帰国が許可される。金良図は獄死 史記6 天智9 総章3 文武王10  
3・1     改元        
3     倭国王の使者到る。高句麗平定を賀す 新唐220日本     咸亨1  
冊府970  
唐会要99倭国  
3         新羅の薛烏儒と高句麗の高延武とで、各兵1万を率い鴨江を渡り靺鞨兵と対峙。4月4日に対戦して勝利。唐兵が続いて到ったため、軍を保白城に退く 史記6  
4・28*     高句麗の酋長鉗牟岑が謀叛、高蔵の外孫安舜を主とするが、左監門大將軍高侃が東州道行軍総管として、右領軍大將軍李謹行が燕山道行軍総管としてこれを伐つ。安舜は鈕牟岑を殺し新羅に投降する 新唐3 高句麗遺臣の劒牟(年)岑、国家復興を図って遺民を糾合し、唐の官人や僧の法安らを殺す。王の外孫(あるいは大臣淵淨土の子)安舜(勝)を漢城に迎え君主とする。新羅に多式らを遣使して、再興と藩屏となることを請う。新羅王は彼らを金馬渚に住まわす。唐高宗、大將軍高侃を東州道行軍総管として兵を発してこれを討つ。安舜は劒牟岑を殺し、新羅に逃げる 史記6  
新唐220高麗 史記22  
冊府429    
通鑑201    
7         新羅、百済の残党と戦いこれを破る 史記6  
7         新羅、安勝を高句麗王に封じる 史記6  
9・1 阿曇頬垂を新羅に派遣する 書紀          
9         新羅、唐に奏上するために使者を派遣したが、風浪悪く漂流し入唐できずとする 史記7文武王11・7・26条  
12         倭国が国号を日本と改めたとする(703年の誤りか) 史記6  
12         新羅の漢城州総管藪世、百済と関連する事象によって誅される(欠字のため文意不詳) 史記6  
671 1・9 高句麗、上部大相可婁を遣使して調を進める 書紀         天智10 咸亨2 文武王11  
1・13 唐の百済鎮将劉仁願、李守真らを遣使して上表 書紀          
1 佐平余自信・法官大輔沙宅紹明に大錦下、学識頭鬼室集斯に小錦下、達率谷那晋首・木質貴子・憶礼福留・答㶱・春初・㶱日比子賛波羅金羅金須・鬼室集信に大山下、達率徳頂上・吉大尚・許率母・角福牟に小山上を授ける。この他の達率ら50余人に小山下を授ける。 書紀          
1         新羅軍、熊津で唐軍と戦う。靺鞨兵が舌口城を囲むが、新羅軍300余人を斬殺。唐による百済救援を聞き、眞功らを派遣し甕浦を守らせる 史記7  
2・23 百済、臺(一説、壹。吉川年表)久用善らを遣使して調を進める 書紀          
6・4 百済使が要請する軍事について宣す 書紀          
6・15 百済、羿真子らを遣使して調を進める 書紀          
6 新羅、遣使して調を進める 書紀          
6         新羅、将軍竹旨らを派遣し百済の加林城を攻め、唐兵と石城で戦い斬首五千三百級。百済将軍2人、唐果毅6人を捕える 史記7  
7・1     東州道総管の高侃、高麗余衆を安市城に破る 旧唐84 郝處俊 唐の高侃、高句麗余衆を安市城にて破る 史記22  
冊府43  
通鑑202  
7・11 唐人李守真ら、百済使ら、ともに帰国 書紀          
7・26         唐の薛仁貴、新羅僧琳潤を遣わして書を送達。新羅の叛意を責め、唐への恭順を要請する。また、所夫里州を置き、阿飡眞王を都督とする。 史記7  
8・20 高句麗使可婁ら帰国 書紀          
9         唐将軍高侃ら、蕃兵4万を率いて平壤に到り、溝を深くし塁を高くし帯方を侵攻 史記7  
10・6         新羅、唐の漕船70余艘を撃つ。郎将鉗耳大侯と士卒百余人とを捕える 史記7  
10・7 新羅使沙飡金万物ら、帰国 書紀          
11・2 これより先、唐使郭務悰ら2000人、船47隻で日本に向かい、途中比知島に停泊。郭務悰、同行した日本僧道久・筑紫薩野馬・韓島娑婆・布師磐の4人を先遣し、この日、道久ら対馬に到着。郭務悰の入朝の意向を伝える。対馬国司、この旨を大宰府に報じる。その後、郭務悰ら筑紫に到着。大津館に安置。 書紀 同年11・10条          
善隣記  
11・29 新羅王に絹50匹・絁50匹・綿1000斤・韋100枚を賜う。 書紀          
12・3 天智天皇没            
12・17 新羅使金万物ら帰国。 書紀          
天智期 僧智蔵入唐留学する。持統期に帰国する。 懐風藻                
伝通縁起                
672 1         新羅、百済の古省城を攻め勝利 史記7 天武1 咸亨3 文武王12  
2         新羅、百済の加林城を攻めるも勝てず 史記7  
3・18 これより先、内小七位阿曇稲敷を筑紫に派遣し、天智天皇の喪を郭務悰らに告げさせる。こ郭務悰ら喪服を着て挙哀 書紀          
3・21 唐使郭務悰ら、再拝。書函と信物とを進める 書紀          
善隣記  
異国牒状記  
5・12 甲冑・弓矢を唐使郭務悰に賜う。また絁1673匹・布2852端・綿666斤を賜う 書紀          
略記  
5・28 高句麗、前部富加抃らを遣使して進調 書紀          
5・30 唐使郭務悰ら、帰国 書紀          
6 壬申の乱            
7         唐将高侃が1万、李謹行が3万の兵を率い平壤に到る 史記7  
8         高侃ら、韓始城・馬邑城を攻め勝利。白水城付近に陣営を作る。新羅軍、高句麗軍と共に反撃して斬首数千級。高侃ら退却。追って石門で戦い、新羅軍敗北 史記7  
9         新羅王、百済の要請により侵攻した唐軍を討伐したことについて、原川・辺山を遣使し、捕虜の鉗耳大侯・王芸・王益・司馬禰軍・司馬法聡・軍士170を送還するとともに上表して謝罪。また、銀・銅・針・牛黄・金・布を進貢 史記7  
11・24 新羅使金押実らを筑紫で饗し、禄物を賜う 書紀          
12・15 船1隻を新羅使に賜う 書紀          
12・26 新羅使金押実ら、帰国 書紀          
12     東州道行軍総管左監門大將軍高侃、高句麗餘衆と白水山にて戦い、これを大破。新羅の救軍も水にて破る 旧唐5 唐の将軍高侃と新羅救援軍、高句麗餘衆と白水山にて戦い、これを大破する。 史記22  
冊府358  
通鑑202  
673 閏5・13     燕山道総管の李謹行、高句麗の叛党を瓠盧河の西にて破る。高句麗平壤の余民、逃げて新羅に入る 旧唐5 唐の将軍李謹行、高句麗の叛党を瓠盧河にて破る。高句麗平壤の余民新羅に逃げる。 史記22 天武2 咸亨4 文武王13  
冊府358  
冊府986  
通鑑202  
閏6・6 百済人大錦下沙宅昭明、没。外小紫を贈位し、重ねて本国の大佐平位を賜う 書紀          
閏6・8 耽羅、王子久麻芸・都羅・宇麻らを遣使して来朝、朝貢。 書紀          
閏6・15 新羅、韓阿飡金承元・阿飡金祇山・大舎霜雪らを遣使して来朝。天皇の即位を賀す。また一吉飡金薩儒・韓奈末金池山ら、天智天皇の喪を弔す 書紀          
閏6・24 新羅使貴干宝・真毛らを筑紫において饗す。禄物を賜う 書紀          
7・1         阿飡大吐が謀叛して唐に付くことが発覚し誅される 史記7  
8・20 高句麗使上部位頭大兄邯子・前部大兄碩干ら、新羅使韓奈末金利益に送られて筑紫に至り、朝貢 書紀          
8・25 新羅賀騰極使金承元ら中客以上27人を京師に召す。耽羅使は慶賀使ではないため召さず。国王及び王子久麻芸らに大乙上の位を授けて帰国させる。 書紀          
9・28 新羅使金承元らを難波で饗す。種々の楽を奏し、禄物を賜う 書紀          
9         新羅、各地に城を築く。徹川らを派遣し兵船100艘を率いさせて西海を守らせる。唐兵と靺鞨・契丹兵、北辺を侵攻。九戦して新羅勝利。斬首二千余級  史記7  
11・1 新羅使金承元ら帰国 書紀          
11・11     高句麗遺民高鐃苗、死去 高鐃苗墓誌      
11・21 高句麗使邯子・新羅使薩儒らを筑紫大郡において饗し、禄物を賜う 書紀          
        唐兵、高句麗牛岑城を降す。契丹・靺鞨兵、大楊城・童子城を滅ぼす。太宗武烈王が百済を滅ぼしてから戍兵を罷めていたが復置 史記7  
674 1・10 百済の王昌成没。小紫位を贈る 書紀         天武3 咸亨5 文武王14  
1         唐に宿衛していた徳福が帰国。学んできた暦術を用いて暦法を改正する 史記7  
2・2*     新羅が高句麗の叛衆を受け入れ、また百済の故地を占拠したため、高宗の怒りを買い、官爵を剥奪される。新羅王弟金仁問に新羅王として立つよう命じ帰国させる。劉仁軌を雞林道大総管、李弼・李謹行を副官として派兵させる 旧唐84劉仁軌 新羅、唐に叛いた高句麗の叛衆を受け入れ、また百済の故地を占拠したため、唐の高宗の怒りを買い、官爵を剥奪される。金仁問、新羅王として立つよう命じられ帰国の途につく。文武王、謝罪使を送る。唐、劉仁軌を雞林道大ハ管とし来攻 史記7文武王14・1条  
新唐3 史記43金庾信 下  
新唐108劉仁軌 史記44金仁問  
新唐220新羅    
唐会要95新羅    
冊府358    
冊府986    
通鑑202同年1・壬午条    
9         安勝を封じて報徳王とする→670年 史記7  
11     改元       上元1  
675 1・1 舎衛及び吐火羅の女・百済王善光・新羅仕丁ら、大学寮の学生らと共に、薬及び珍貴な品物を献ず 書紀         天武4 上元2 文武王15  
2 新羅王子金忠元ら、送使金風那らと共に来朝し調を進める 書紀          
2*     劉仁軌、新羅の民を七重城で破る。李謹行、安東鎮撫大使となり、新羅の買肖城を破る。前後三戦して、新羅はいずれも敗北。新羅は遣使入朝して伏罪し、方物を献ずる。許しを得て、王金法敏は官爵を旧に復す 旧唐5 唐将の劉仁軌、新羅を破る。安東鎭撫大使の李謹行、新羅を経略。文武王、遣使入貢して謝罪。皇帝これを許し、王の官爵を復す。金仁問、帰国途中で引き返し臨海郡公に改封せらる。しかし、新羅は百済の地を多く取り、遂に高句麗南境も州郡とする。また、唐軍と契丹・靺鞨軍との侵攻を聞き。九軍を出してこれを待つ 史記7  
旧唐84劉仁軌 史記44 金仁問  
新唐3    
新唐108劉仁軌    
新唐220新羅    
唐会要95新羅  
冊府358  
冊府986  
通鑑202  
3・14 新羅送使金風那らを筑紫において饗す。ついで風那ら帰国 書紀          
3 高句麗使大兄富干ら、来朝し朝貢。また、新羅使級飡朴勤修ら、来朝し調を進める 書紀          
4 新羅使王子金忠元、難波に到る 書紀          
7・7 小錦上大伴国麻呂を大使に、小錦下三宅入石を副使に任じ、新羅に遣わす 書紀          
8・1 耽羅の調使王子久麻伎、筑紫に到る 書紀          
8・25 新羅王子金忠元、使命を果たし、難波より帰途に就く 書紀          
8・28 新羅・高句麗2国の調使を筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
9・27 耽羅王姑如、難波に到る 書紀          
9         9月、唐将の薛仁貴、泉城に侵攻。新羅の将軍文訓等迎え撃ってこれに勝つ。29日、唐将の李謹行兵二十万を率いて買肖城に駐屯。新羅軍、これを破る。 史記7  
遣使入唐して方物を貢ずる。
また、安北河沿いに関城を設け、また鉄関城を築く。靺鞨が阿達城を劫掠し、城主素那戦死。唐軍と契丹・靺鞨軍来攻して七重城を囲み勝てず。小守の儒冬戦死。靺鞨はまた赤木城を囲み滅ぼす。県令脱起戦死。唐兵はまた石城を囲みこれを抜く。県令仙伯・悉毛等、戦死。また新羅軍、唐軍と大小十八戦してみな勝つ。
10・16 筑紫より送られてきた唐人30名を、遠江国に居住させる 書紀          
この年         唐、買蘇川城を攻める 史記43金庾信 下  
676 2・6     高句麗余民の叛乱により、安東都䕶府を遼東故城に移す 旧唐5     天武5 上元3 文武王16  
旧唐39  
新唐39  
冊府991  
通鑑202  
2・24 耽羅客に船1隻を賜う 書紀          
2 遣新羅使小錦上大伴国麻呂ら、新羅より帰国 書紀          
7・8 耽羅客、帰国 書紀          
7         唐軍、道臨城に来攻して之を抜き、県令の居尸知戦死 史記7  
9・13 諸蕃の人らに、百官人と共に禄物を賜う 書紀          
9*     新羅王金法敏、遣使して方物を献ずる。 冊府970      
10・10 大乙上物部麻呂を大使に、大乙中山背百足を小使に任じ、新羅に遣わす 書紀          
11・3 新羅使沙飡金清平、来朝して政を請う。また、汲飡金好儒ら調を進める。送使奈末被珍那ら、清平らを筑紫まで送る。粛慎人7人、清平に従って来朝 書紀          
11・8     改元       儀鳳1  
11・23 高句麗大使後部主簿阿于ら、新羅大使大奈末金楊原に送られて筑紫に到り朝貢 書紀          
11         新羅、所夫里(百済の旧都泗沘)州の伎伐浦で唐軍と戦う 史記7  
677 2・1 遣新羅使物部麻呂ら、新羅より帰国 書紀         天武6 儀鳳2 文武王17  
2・25     高蔵(高句麗宝蔵王)を遼東州都督とし、朝鮮王に封じて安東府に帰し、高句麗の余民を安撫させる。高蔵、靺鞨と通じて叛を謀るも発覚。配流 旧唐5 唐、高句麗宝蔵王を遼東州都督とし、朝鮮王に封じて遼東に帰し、唐の諸州に居た高句麗人も共に帰国させる。また、安東都護府を新城に移し、遼東を統括させる 史記22  
旧唐39  
旧唐199上 高麗  
新唐39  
新唐220高麗  
唐会要95高句麗  
冊府966  
冊府1000  
通鑑202  
2・25     扶余隆(百済義慈王の子)を熊津州都督とし、帯方郡王に封じて、百済の余民を安撫させる。また、安東都護府を新城に移し、これらを統括させようとするも、隆は還らず 旧唐5 唐、扶余隆を熊津都督帯方郡王とし、帰国させる。また、安東都護府を新城に移して百済故地を統括させる。このとき新羅強勢で隆は入国できず、高句麗に寄留していたが、そこで死去。のちに則天武后、百済義慈王の子の扶余隆の孫の敬に王位を継がせたが故地は新羅・渤海・靺鞨に分割されていて、ついに国系は断たれる 史記28  
旧唐199上 百済  
新唐220百済  
冊府966  
通鑑202  
2 多禰島人を飛鳥寺西槻下において饗す 書紀          
3・9     儀鳳令格式、成る        
3・19 新羅使金清平以下13人を京に召す 書紀          
3         新羅、所夫里州より白鷹の献上を受ける 史記7  
4・14 新羅送使被珍奈らを筑紫において饗す。ついで被珍奈ら、帰国 書紀          
5・3 大博士百済人率母に大山下位を授け、封30戸を賜う。また、倭画使音檮に小山下位を授け、封20戸を賜う 書紀          
5・7 新羅人阿飡朴刺破、従者3人・僧侶3人と共に血鹿島(値嘉島)に漂着 書紀          
8・27 新羅大使金清平ら、漂着新羅人朴刺破ら、共に帰国 書紀          
8・28 耽羅王子都羅、来朝し朝貢 書紀          
678 1・22 耽羅人、京に向かう 書紀         天武7 儀鳳3 文武王18  
2・19     唐に帰順して、日本にも遣使された百済の袮軍が死去。10月2日雍州乾県高陽里に葬られる。 「袮軍墓誌」      
9・19 律宗を学んで帰国した入唐留学僧道光、行法選定の勅命を受ける。ついで『依四分律抄撰録文』1巻を作る 伝通縁起          
この年 新羅送使奈末加良井山ら、調使級飡金消勿らを送って日本に向かう。途中、海上で暴風雨に遭い四散。井山ら、無事着岸するも、消勿ら行方不明 書紀          
679 1・5 新羅送使加良井山ら、京に向かう 書紀         天武8 儀鳳4 文武王19  
2・1 高句麗使上部大相桓父ら、新羅送使奈末甘勿那に送られて筑紫に到り、朝貢 書紀          
2         新羅、耽羅を略す 史記7  
6・3     改元       調露1  
9・16 遣新羅使、帰国して拝朝 書紀          
9・23 遣高句麗使・遣耽羅使、帰国して拝朝 書紀          
10・17 新羅使阿飡金項那ら、来朝し朝貢。調物は10余種にのぼる。また、別に天皇・皇后・太子に金などを献上 書紀          
11・23 大乙下倭馬飼部連を大使に、小乙下上光父を小使に任じ、多禰島に遣わす。よって爵一級を賜う 書紀          
680 2・27 新羅の仕丁8人、帰国(→675.1.1) 書紀         天武9 調露2 文武王20  
          新羅、報徳国王安勝(高句麗王)に王の妹(姪?)を嫁がせる 史記7  
4・25 新羅使金項那らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
5・13 高句麗使南部大使卯問ら、新羅使大奈末考那に送られて筑紫に到り、朝貢 書紀          
6・5 新羅使項那ら帰国 書紀          
8・23     改元       永隆1  
11・4 斉明天皇の葬儀に参列したまま滞留していた高句麗使19人、帰国 書紀          
11・24 新羅使沙飡金若弼ら、来朝し調を進める。日本語を学ぶもの3人を伴う 書紀          
681 4・17 高句麗使卯問らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀         天武10 永隆2 文武王21  
5・26 高句麗使卯問ら、帰国 書紀          
6・5 新羅使金若弼を筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
7・1*     新羅王金法敏、薨ず。その子政明を冊立して新羅王とし、父の官爵を襲う 旧唐5開耀1・10・22条 新羅文武王、死。神文王即位。唐高宗、遣使して新羅王に冊封、先王の官爵を継承させる 史記7 神文王1  
旧唐199上 新羅 史記8即位前紀  
新唐220新羅    
唐会要95新羅  
冊府964  
冊府966  
通鑑202  
7・4 小錦下采女竹羅を大使に、当摩楯を副使に任じ、新羅に遣わす。また小錦下佐伯広足を大使に、小墾田麻呂を小使任じ、高句麗に遣わす 書紀          
8・10 三韓の諸人に詔、10年間の課税免除の特典はすでに終わるも、帰化の際に伴った子孫とともに課役を免除 書紀          
8・13         報徳国王、新羅に遣使して謀反の平定を祝賀 史記8  
8・20 多禰島に遣わした使者、帰国。多禰国図を進め、地理・風土などを報告。新羅使金若弼、帰国 書紀          
9・3 遣新羅使・遣高句麗使、帰国して拝朝 書紀          
9・14 多禰島人を飛鳥寺西河辺において饗す 書紀          
9・30     改元       開耀1  
10・20 新羅使沙喙一吉飡金忠平・大奈末金壱世、来朝し調を貢す。また、別に天皇・皇后・太子に金などを献上 書紀          
10 新羅使、来朝し文武王の没するを報ずる 書紀          
12・10 小錦下河辺子首を筑紫に遣わし、新羅使金忠平を饗す 書紀          
この年     高句麗王高藏、安東に至ると、靺鞨と通じて叛乱を謀る。発覚して召還され邛州に配流。その民は分けて移住させ、河南・隴右諸州に散る。、貧弱者は安東城傍に在留 旧唐199上 高麗 高句麗宝蔵王が遼東に至ると叛乱を謀り、密かに靺鞨と通じたため、唐により卭州に召還される 史記22  
新唐220高麗    
  唐会要95高句麗    
  冊府1000    
682 1・11 筑紫において、新羅使金忠平を饗す 書紀         天武11 開耀2 神文王2  
2・12 新羅使金清平、帰国 書紀          
2・19     改元       永淳1  
4・22 越の蝦夷伊高岐那らが俘人70戸をもって郡を建てるを請うこと、許す 書紀          
5・16 遣高句麗使佐伯広足ら、帰国し、使旨を御所に報告 書紀          
6・1 高句麗使下部助有卦婁毛切・大古昴加、新羅送使大那末金釈起に送られて筑紫に到り、方物を貢す 書紀          
7・25 多禰人・掖久人・阿麻弥人に禄物を賜う 書紀          
8・3 筑紫において、高句麗使を饗す 書紀          
この年     高句麗宝蔵王、死去。唐は衛尉卿を贈り、京師に送致し頡利の墓の左に葬り、其の墓道に碑を建てる。其の民は、往々にして新羅に逃げ、残りは靺鞨や突厥に入った。高氏の君長は遂に絶える 旧唐199上 高麗 高句麗宝蔵王、死去。唐は衛尉卿を贈り、京師に送致し頡利の墓の左に葬り、其の墓道に碑を建てる。其の民は、河南・隴右の諸州に分散して移住し、貧者は安東城(新城)の傍らの旧城に留まった。往々にして新羅に逃げ、残りは靺鞨や突厥に入った。高氏の君長は遂に絶える 史記22  
新唐220高麗  
唐会要95高句麗  
冊府966  
この年         新羅神文王、父文武王の遺志をつぎ、倭兵を鎮めるため東海の辺に感恩寺を創立し、文武王の遺骨を東海口の大石(大王岩)に納める 三国遺事2万波息笛  
683 3・19 多禰に遣わした使者、帰国(発遣年次不詳) 書紀         天武12 永淳2 神文王3  
7〜8 旱により、百済僧道蔵、雨乞いをして雨を得る 書紀          
10         新羅、報徳国王安勝に金姓を賜い、蘇判位を授け、王都に住まわせる 史記8  
11・13 新羅使沙飡金主山ら、来朝し調を進める 書紀          
12・4     高宗死、中宗即位、改元       弘道1  
(中宗)
684 1・1     中宗退位、睿宗即位、改元       天武13 嗣聖1 神文王4  
(睿宗)
2・7     改元       文明1  
2・24 新羅使金主山を筑紫に饗す 書紀          
3・23 新羅使金主山、帰国 書紀          
4・20 小錦下高向麻呂を大使に、小山下都努牛甘を小使に任じ、新羅に遣わす 書紀          
5・14 帰化百済人僧俗男女23人を武蔵国に安置 書紀          
5・28 三輪引田難波麻呂を大使に、桑原人足を小使に任じ、高句麗に遣わす 書紀          
9・6     改元       光宅1  
10・3 県犬養手繦を大使に、川原加尼を小使に任じ、耽羅に遣わす 書紀          
11         報徳王安勝の族子ら、金馬渚にて叛乱。新羅に鎮圧され、住民は南の州郡に移住せらる 史記8  
12・6 これより以前、入唐留学生土師甥ら及び百済救援の役に出征して唐軍の捕虜となった猪使子首ら、唐より新羅に到る。この日、新羅大奈末金物儒に送られて筑紫に帰着 書紀          
685 1・1     改元       天武14 垂拱1 神文王5  
2・4 唐人・百済人・高句麗人合わせて147人に爵位を授ける 書紀          
3・14 新羅使金物儒を筑紫において饗し、ついで帰国。漂着新羅人7人、同行 書紀          
3     垂拱律令格式、公布        
4・17 新羅人金主山、帰国 書紀          
5・26 遣新羅使高向麻呂ら、学問僧観常・霊観らを伴い帰国。新羅王の献上品の馬などを齎す 書紀          
8・20 遣耽羅使、帰国 書紀          
9・20 遣高句麗使、帰国 書紀          
9・27 帰化高句麗人に禄物を賜う 書紀          
10・4 年齢100歳の百済僧常輝に封30戸を賜う 書紀          
10・8 百済僧法蔵・優婆塞益田金鍾を美濃に遣わし、白朮を煎じさせる。よって絁・錦・布を賜う 書紀          
11・24 法蔵ら、煎じた白朮を献上 書紀          
11・27 新羅使波珍飡金智祥ら、来朝し政を請い調を進める 書紀          
12・4 筑紫に向かう途中の防人、海上で漂流し、みな衣裳を失う。よって、衣服料として布458端を筑紫に賜う 書紀          
686 1 新羅使金智祥を饗するため、浄広肆川内王らを筑紫に遣わす 書紀         天武15 垂拱2 神文王6  
2     新羅、遣使来朝す。唐礼(あるいは『礼記』)と雑文章を請う。則天、『吉凶要禮』・『文館詞林』などを賜う 旧唐199上 新羅 新羅、唐に遣使して『礼記』と文章に関する書を請う 史記8  
冊府999  
4・13 新羅使を饗するため、川原寺の伎楽を筑紫に運ぶ。よって皇后宮の私稲5000束を川原寺に納める 書紀          
4・19 新羅使の調物、筑紫より献上。合わせて100余種。また智祥ら別に60余種を献ず。また別に皇后・皇太子及び諸親王らに物を贈る 書紀          
5・9 百済人侍医億仁、病む。臨終に際し勤大壱位を授け、封100戸を賜う 書紀          
5・29 新羅使金智祥らを筑紫において饗し、禄物を賜う。ついで帰国 書紀          
6・2 入唐留学生らに爵位を授ける 書紀          
7・20 建元           朱鳥1(持統称制)  
9・9 天武天皇、没 書紀          
9・30 百済王良虞、百済王善光に代わって誄を奉る 書紀          
10・29 新羅僧行心、大津皇子の謀反に関与した罪で飛騨国の寺に移される 書紀          
閏12 筑紫大宰、高句麗・百済・新羅三国の百姓男女及び僧尼合わせて62人を送上 書紀          
この年     高蔵(高句麗王)の孫宝元を封じて朝鮮郡王とする 旧唐199上 高麗 唐、高句麗宝蔵王の孫の宝元を朝鮮郡王とする 史記22  
新唐220高麗  
冊府966  
687 1・19 直広肆田中法麻呂らを新羅に遣わし、天武天皇の喪を告げる 書紀         持統1 垂拱3 神文王7  
書紀 持統3・5・22条          
3・15 投化高句麗人56人を常陸国に住まわせ、田を支給 書紀          
3・22 帰化新羅人14人を下毛野国に住まわせ、田を支給して農業に従事させる 書紀          
4・10 筑紫大宰、帰化新羅人僧尼及び百姓男女合わせて22人を進上。武蔵国に居住させ、田を支給して、農業に従事させる 書紀          
9・23 新羅王子金霜林ら、来朝。国政を奏請し調を進める。学問僧智隆、同行して帰国。筑紫大宰、霜林らに天武天皇の死去を告げる。即日、霜林ら、喪服を着し東方に向かって三拝し、3度発哭 書紀          
12・10 直広参路跡見を任じて、新羅使を饗する勅使とす 書紀          
688 1・23 天武天皇死去の旨を新羅使金霜林らに宣す。霜林ら3度発哭 書紀         持統2 垂拱4 神文王8  
2・2 筑紫大宰、新羅の調賦10余種及び仏像など10余種、また霜林の献上した種々の珍奇の品物など80余種を進める 書紀          
2・10 新羅使金霜林らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
2・29 霜林ら、帰国 書紀          
5・8 百済人敬須徳那利を甲斐国に移住させる 書紀          
7・20 百済僧道蔵に降雨を祈らせ、まもなく雨、降る 書紀          
8・25 耽羅使佐平加羅、来朝し方物を献ず 書紀          
9・23 耽羅使加羅らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
11・4 皇太子、公卿・百官人ら及び諸蕃の賓客を率いて殯宮に赴き慟哭 書紀          
689 1・1     改元       持統3 永昌1 神文王9  
1・8 遣新羅使田中法麻呂ら、帰国 書紀          
1・9 出雲国司に詔して、漂着の蕃人を上送させる 書紀          
2・13 詔して、筑紫の防人の年限が満ちた者を交替させる 書紀          
4・8 投化新羅人を下毛野に住まわせる 書紀          
4・20 新羅使級飡金道耶ら、来朝。天武天皇の喪を弔し、阿弥陀像などを献ず。また、学問僧明聡・観智、同行して帰国 書紀          
5・22 新羅使金道耶に詔して、種々の違例・無礼を指摘し、この旨を新羅王に伝えさせる 書紀          
6・19 唐人続守言・薩弘恪に稲を給う 書紀          
6・20 筑紫大宰粟田真人に詔して、学問僧明聡・観智らが、新羅の師友に送るための錦各140斤を支給させる 書紀          
6・24 新羅弔使金道耶らを筑紫小郡において饗し、禄物を賜う 書紀          
6・29 諸司に令1部22巻を班賜 書紀          
7・1 新羅使金道耶ら、帰国 書紀          
11・1     周制に依り、子月(11月)を正月とし、永昌1年11月を改めて載初1年正月とする。また、12月を臘月、翌年正月を1月とする       載初1  
690 1・1 持統即位 書紀         持統4 載初2 神文王10  
2・11 新羅僧詮吉・級飡北助知ら50人、帰化 書紀         (持統)  
元亨21            
2・25 帰化新羅人韓奈末許滿ら12人を武蔵国に居住させる 書紀            
5・10 百済人男女21人、帰化 書紀            
8・11 帰化新羅人を下毛野国に居住させる 書紀            
9・9     皇太后武昭儀、即位(則天武后)。国号を周とし、改元         天授1  
9・23 これより以前、入唐僧智宗ら及び百済救援の役に出征して唐軍の捕虜となった筑後国の人大伴部博麻、新羅に到る。この日、新羅大奈末金高訓に送られて筑紫に帰着 書紀           (武則天)  
書紀 白雉5・2月条              
書紀 同年10・22条              
元亨21              
10・10 智宗ら、入京 書紀              
10・15 新羅使金高訓らを、筑紫において饗す 書紀              
11・7 新羅使金高訓らに賞賜 書紀              
11・11 儀鳳暦(麟徳暦)を通行の元嘉暦に併用させる 書紀              
三実 貞観3・6・16条              
12・3 新羅使金高訓ら、帰国 書紀              
691 9・4 唐人音博士続守言・薩弘恪、書博士百済末士善信に、各銀20両を賜う 書紀         持統5 天授2 神文王11  
692         唐中宗、遣使して、唐太宗(李世民)と廟号が同じため、新羅太宗(武烈王金春秋)の改号を命じる(但し中宗は廃立後配流中か) 史記8 持統6 天授3 神文王12  
4・1     改元       如意1  
7*     新羅王金政明卒す。遣使してその子理洪を新羅王に冊立し、父の輔國大將軍・行左豹韜衛大將軍、雞林州都督を襲わせる 旧唐199上 新羅 神文王死。孝昭王即位。唐則天は遣使して、新王を冊封して新羅王輔国大将軍左豹韜尉大将軍鶏林州都督とする 史記8神文王 孝昭王1  
新唐220新羅 史記8孝昭王  
唐会要95新羅    
冊府964    
冊府966    
通鑑205    
9・9     改元       長寿1  
10・11 かつて僧として新羅に留学し、のち還俗した山田御形に務広肆を授ける。 書紀          
11・8 新羅使級飡朴億徳・金深薩ら、来朝し調を進める。また遣新羅使に直広肆息長老・務第弐川内連らを任じ、禄物を賜う 書紀          
11・11 新羅使朴億徳らを難波館において饗し禄物を賜う 書紀          
12・14 唐人音博士続守言・薩弘恪に、水田各4町を給う 書紀          
12・24 新羅の調を、伊勢・住吉・紀伊・大倭・莵名足の5社に奉る 書紀          
693 1・15 故百済王善光に正広参を贈り、賻物を賜う 書紀         持統7 長寿2 孝昭王2  
1・16 漢人、踏歌を奏す 書紀          
2・3 新羅使沙飡金江南・韓奈麻金陽言ら、来朝し、国王の喪を告げる 書紀          
2・30 漂着新羅人牟自毛礼ら37人を新羅使朴億徳らの帰国に同行させる 書紀          
3・16 遣新羅使直広肆息長老・勤第弐大伴子君ら、及び学問僧弁通・神叡らに絁・錦・布を賜う。また、新羅王の賻物託す(帰国の日、不明) 書紀          
6・1 高句麗僧福嘉を還俗させる 書紀          
11・7 耽羅王子・佐平某らに禄物を賜う 書紀          
694 1・17 漢人、踏歌を奏す 書紀         持統8 長寿3 孝昭王3  
1・19 唐人、踏歌を奏す 書紀          
1・23 唐人7名・粛慎人2名に、務広肆等の位を授ける 書紀          
3・18 百済王の一族鵤大寺の徳聡ら、父母の恩に報いるため観世音菩薩像を造る 法隆寺蔵銅板造像記          
5・11     改元       延載1  
11・1     改元       証聖1  
12・6 藤原京に遷都            
この年*     新羅遣使来朝。この年王理洪卒、弟崇基(先天元年に興光と改名とする)冊立とする 唐会要95新羅      
695 3・2 新羅王子金良琳ら来朝。国政を奏請し、調を進め、物を献ず 書紀         持統9 証聖2 孝昭王4  
3・23 務広弐文博勢らを多禰に遣わして、蛮の所居を求めさせる 書紀          
7・26 遣新羅使直広肆小野毛野・務大弐伊吉博徳らに物を賜う 書紀          
9・6 遣新羅使小野毛野ら、出発 書紀          
9・9     改元       天冊万歳1  
12・11     改元       万歳登封1  
696 1・11 百済王南典に直大肆を授ける 書紀         持統10 万歳登封2 孝昭王5  
3・12 越の渡島の蝦夷伊奈理武志と粛慎志良守叡草に、錦等を賜う 書紀          
3・16     改元       万歳通天1  
4・27 唐に抑留されていた伊予国の人物部薬・肥後国の人壬生諸石に追大弐の位を授け、それぞれ絁等を給い戸の調役を免除 書紀          
697 8・1 持統譲位、文武即位           文武1 万歳通天2 孝昭王6  
9・9     改元       神功1  
10・19 陸奥の蝦夷方物を貢す 続紀          
10・28 新羅使一吉飡金弼徳ら、来朝 続紀          
11・11 務広肆坂本鹿田らを陸路より、務広肆土師大麻呂らを海路より、それぞれ筑紫に遣わして新羅使を迎えさせる 続紀          
12・18 越後の蝦夷に物を給う 続紀          
698 1・1 天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。新羅使も拝賀 続紀         文武2 神功2 孝昭王7  
1・3 新羅使金弼徳ら、調物を貢す。ついで15日、これを諸社に供える 続紀          
続紀 同月15日条          
1・19 直広参土師馬手を天武天皇大内山陵に遣わし、新羅の貢物を献ず 続紀          
2・3 新羅使金弼徳ら、帰途に就く 続紀          
3         日本国使、来朝。王、崇礼殿において引見 史記8  
4・13 務広弐文忌寸博士・刑部真木ら8人を南島に遣わし、国を覓めさせる 続紀          
続紀 文武4・6・3条          
6・14 越後国の蝦狄、方物を献ず 続紀          
6     安東都護府を改めて安東都督府とする 旧唐39      
新唐39  
8・20 高安城を修理 続紀          
10・23 陸奥の蝦夷、方物を献ず 続紀          
11・1     改元       聖暦1  
12・21 越後国に、石船柵を修理させる 続紀          
この年     高句麗宝蔵王を進授左鷹揚%大將軍とし、忠誠國王に封じ、安東旧戸を賜与し、統治させようとするも、事ついに行なわれず 旧唐199上 高麗 唐、高句麗宝蔵王の孫の宝元を左鷹揚衛大将軍とし、更に忠誠国王に封じ、安東旧郡を賜与して統治させるも行われず 史記22  
新唐220高麗  
冊府966  
この年 勃海建国 類史193延暦15・4・27条 渤海靺鞨において、唐の聖曆年間に高句麗の別種である大祚榮が自立して振國王となる(渤海建国)。使者を送り、突厥と通行す 旧唐199下 勃海靺鞨     高王1
紀略 延暦15・4・27条 新唐219勃海
  冊府967
通鑑210開元1・2条
699 1・26 京職、林坊の新羅人女性牟久売が1度に2男2女を産んだことを報ず。絁・布・錦・稲及び乳母を賜う 続紀         文武3 聖暦2 孝昭王8 高王2
2     新羅、遣使朝貢 冊府970 新羅、唐に遣使して方物を貢ず 史記8
4・25 越後の蝦狄16人に爵を賜う 続紀        
7・19 多褹・夜久・菴美・度感などの使者、朝宰に従って到り、方物を貢す。度感島との交通はこの時に始まる 続紀        
8・8 南島の献上品を伊勢大神宮及び諸社に奉る 続紀        
9・15 高安城を修理(→大宝1(701)・8・26、高安城廃止。その建物や種々の貯蔵物、大倭・河内の二国に移す) 続紀        
11・4 文博士・刑部真木ら、南島より到る 続紀        
この年     高句麗王の子高徳武を都督となす。これにより安東に居住する高句麗の旧戸は、しだいに減少し、突厥及び靺鞨等に分かれていった。ここに高氏の君長は遂に絶えた。後にしばらくして自立し、元和末年に至り、使者を遣わし楽工を獻ずるともある 旧唐199上 高麗 唐、高句麗宝蔵王の子の徳武を安東都督とする。後に自ら国を建てる。(→元和13年(818)に、遣使入唐して楽工を献ず) 『三国史記』22 高句麗本紀 宝蔵王
新唐220高麗
唐会要95高句麗
冊府1000
700 2・19 越後・佐渡両国に石船柵を修営させる(→和銅2(709)・7・1、蝦夷征討のため、諸国に兵器を出羽柵へ運搬させる) 続紀         文武4 聖暦3 孝昭王9 高王3
3・10 前入唐留学僧道昭、没(72歳) 続紀        
元亨1道昭        
5・5     改元       久視1
5・13 遣新羅使任命。大使直広肆佐伯麻呂、小使勤大肆佐味賀佐麻呂。この他大少位(祐か)各1人、大少史各1人 続紀        
6・3 これより以前、薩末比売・衣評督の衣君県・肝衝難波ら、肥人らを率い、武器を持って覓国使刑部真木らを剽却する。竺志惣領に勅して、犯に准じて決罰させる 続紀        
6・17 唐人勤大壱薩弘恪、大宝律令撰定の功により、刑部親王らと共に禄物を賜わる 続紀        
10・19 遣新羅使佐伯麻呂ら、帰国。孔雀及び珍物を献ず 続紀        
10・26 周防国に舶を造らせる 続紀        
11・8 新羅使薩飡金所毛、来朝。孝昭王の母の喪を告げる 続紀        
701 1・1 天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。蕃夷の使者(新羅使金所毛らか)も参列する。 『続紀』         文武5 久視2 孝昭王10 高王4
(武則天)
  1・3     改元         大足1    
  1・14 新羅大使金所毛、死去する。絁・綿・布等を贈る。小使金順慶以下水手以上に禄物を賜う。 『続紀』                
  1・23 遣唐使を任命。粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)・許勢祖父(邑治ともいう。大位)・鴨吉備麻呂(中位)・掃守阿賀流(少位)・錦部道麻呂(大録)・白猪阿麻留、山上憶良(少録)。この他、大津広人(大通事)・伊吉古麻呂・美努岡麻呂らも選任。 『続紀』                
  『続紀』大宝1・4・10条                
  『続紀』慶雲4・5・15条                
  美努岡万墓誌                
  西本願寺本『万葉集』1ノ62勘物                
  3・21 建元           大宝1      
(文武)
  4・12 遣唐使粟田真人ら、拝朝する。 続紀                 
  5・7 粟田真人に節刀を授ける。留学僧道慈・弁正ら随行する。 続紀                 
    続紀 天平16・10・2条                
    美努岡万墓誌                
    懐風藻 釈道慈                
    懐風藻 釈弁正                
    伝通縁起                
    元亨2道慈                
  10・22     改元         長安1    
  この年 遣唐使、筑紫より出港するが、風浪が激しいため渡航を中止。 続紀 大宝2・6・29条                
702 6・29 遣唐使、昨年出帆するも暴風により渡海できず、この日、改めて筑紫より入唐の途に就く 続紀          大宝2 長安2 孝昭王11 高王5
  7・27*     新羅孝昭王、死去。武則天、孝昭王の死を聞き挙哀。遣使して弔慰。王弟を新羅王に冊立(聖徳王)。將軍・都督号を継承させる(『通鑑』に拠るならば遣使冊立は翌703年閏4月か) 旧唐199上 新羅 孝昭王、死去。弟の聖徳王、即位。唐武則天、孝昭王の死を聞き挙哀。遣使して弔慰。聖徳王を新羅王に冊立。孝昭王の將軍・都督号を継承する 史記8(孝昭王)     聖徳王1  
        唐会要95新羅 史記8(聖徳王)        
        冊府964          
        冊府966          
        通鑑207          
      続紀 慶雲1・7・1条   杜嗣先墓誌            
  10* 遣唐使、楚州塩城県を経て長安に到着。方物を貢ず。麟徳殿で宴。粟田真人、司膳卿同正授をかる。この時、国号を倭から日本に改名したことを報告するか。 続紀 宝亀10・4・21条 日本国、大臣朝臣真人を遣使して方物を貢ず。武則天、麟コ殿にて宴。司膳卿を授ける。杜嗣先・李懐遠・豆慮欽望・祝欽明らも饗応したか 通典185倭            
    私記 旧唐6            
    釈紀1 旧唐199上 日本            
      唐会要100日本            
      御覧782日本            
      冊府962            
      冊府970            
      新唐220日本            
      玉海153唐日本遣使入朝            
      玉海154唐日本貢方物            
      玉海154唐宴日本麟徳殿            
      元和姓纂5            
      宋史491日本            
      全唐文17中宗2            
703 1・9 新羅使金福護・孝元ら来朝。孝昭王の喪を告げる。 続紀          大宝3 長安3 聖徳王2 高王6
    続紀 大宝3閏4・1条                
  1*     新羅、遣使朝貢。 唐会要95新羅 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
        冊府970          
  4・4 高麗若光(天智5年(666)来朝の玄武若光か)に王の姓を賜う。 続紀                 
  閏4・1 難波館において新羅使を饗す。詔して、孝昭王の喪を弔う。使に布帛を賜う。 続紀                 
    略記                 
  5・2 新羅使金福護ら帰国。 続紀                 
  5・3 日本に滞在中の漂着新羅人、金福護らに同行して帰国する。 続紀                 
  7         日本国使204人至る※続紀同年10・25の記事と関連するか 史記8        
          新羅、阿飡金思讓を唐に遣使 史記8        
  9・22 波多広足を遣新羅大使に任命する。 続紀                 
  10・25 天皇、大安殿に御し、詔して遣新羅使波多広足・額田人足にそれぞれ衾1領・衣1襲を賜う。新羅王に賜う錦2匹・絁40匹を付す。 続紀                 
  この年 智鳳・智鸞・智雄が入唐する。 僧補抄                
  伝通縁起                
  元亨16                
  元亨21                
  入唐記                
  入唐僧の弁正法師、李隆基(後の玄宗)と会う。囲碁が上手であることで、しばしば厚遇される。 懐風藻 釈弁正                
  この頃 留学生護勝、唐の内相の味公に書状を貢じるか。または宝亀年間の頃か。 大古18                
704 3         前年遣使した金思讓、帰国して最勝王経を献上 史記8 大宝4 長安4 聖徳王3 高王7
  5・10 改元           慶雲1      
  7・1 遣唐使粟田真人ら、帰国する。 続紀                 
    略記                 
    善隣記                 
  8・3 遣新羅使波多広足ら、帰国する。 続紀                 
  10・9 遣唐使粟田真人ら拝朝する。また、幡文通を遣新羅大使に任命する。 続紀                 
705 1・23     改元       慶雲2 神龍1 聖徳王4 高王8
  1・24     武則天退位              
  1・25     中宗即位         神龍1    
(中宗)
  2・4     国号を唐に復す              
  3     「新羅王金志誠」遣使来朝 冊府970 遣使入唐朝貢 史記8        
          金志全(誠)が尚舎奉御であったとする(『遺事』は尚衣奉御とするが、筆写の際の誤りであろう) 甘山寺阿弥陀如来像造像記        
          遺事3        
  5・24 幡文通ら新羅より帰国する。 続紀                 
  8・11 遣唐使粟田真人に従三位を授ける。その他の遣唐使人にも位を進め、物を賜う。 続紀                 
  9     新羅、遣使して方物を獻ず 冊府970 唐に遣使して方物を獻ず 史記8        
  10・30 新羅貢調使金儒吉・金今古ら来朝する。 続紀                 
  11・13 新羅使を迎えるため諸国の騎兵を徴発し、騎兵大将軍に紀古麻呂を任命する。 続紀                 
  12・27 新羅使金儒吉ら入京する。 続紀                 
  この年     中宗、渤海(振・震国)に侍御史の張行岌を遣わして招慰。大祚栄、子を遣わして唐に入侍させる 旧唐199下 渤海靺鞨            
      冊府170            
      新唐219渤海            
      通鑑210            
      玉海153唐渤海遣子入侍            
      唐、安東都督府を安東都護府に復す 旧唐39地理志 河北道            
      新唐39地理志 河北道            
706 1・1 天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。新羅使金儒吉らも参列する。 続紀          慶雲3 神龍2 聖徳王5 高王9
  1・4 新羅使、貢調する。 続紀                 
  1・7 金儒吉らを朝堂において饗し、諸方の楽を奏す。あわせて叙位、賜録を行う。 続紀                 
  1・12 新羅使金儒吉ら帰国する。帰国に際して新羅国王宛の慰労詔書を付す。 続紀                 
  閏1・13 新羅の調物を伊勢太神宮及び七道諸社に奉じる。 続紀                 
  2・22 粟田真人乗用の遣唐船・佐伯に従五位下を授ける。 続紀                 
  2*     日本国遣使来朝 冊府970            
  4     新羅王金隆基、遣使して方物を獻ず 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
  8・21 美努浄麻呂を遣新羅大使に、対馬堅石を副使に任命する。 続紀                 
    続紀 11・3条                
  8     新羅、遣使貢獻 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
  10     新羅、遣使朝貢 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
  11・3 美努浄麻呂らに、新羅国王宛の慰労詔書を付して発遣する。 続紀                 
707 3・2 遣唐副使巨勢邑治ら唐より帰朝する。 続紀          慶雲4 神龍3 聖徳王6 高王10
  5・15 渡唐したことを以て、巨勢邑治・上賀茂吉備麻呂・伊吉古麻呂らに綿・絁・布・鍬・穀を給う。 続紀                 
  5・26 これより先、百済救済の役に出征して捕虜となり、唐に抑留されていた讃岐国那賀郡の人錦部刀良、陸奥国信太郡の人生王(壬生カ)五百足、筑後国山門郡の人許勢部形見ら、遣唐使と共に帰国する。この日、唐抑留中の労苦を憐れんで錦部刀良らに衣及び塩・穀を給う。 続紀                 
  5・28 遣新羅使美努浄麻呂、学問僧義法・義基・惣集・慈定・浄達らとともに新羅より帰国する。(この時、僧観智も共に帰国したか?→同年10月条参照) 続紀                 
    略記                 
    略記 慶雲4・十月是月条                
    元亨16 浄達                
  6・15 文武死去                  
  7・17 元明即位           慶雲4      
(元明)
  8・16 遣唐副使巨勢邑治を正五位上に、鴨吉備麻呂を従五位下に叙し、その他の使人の位を進める。また水手らの税を10年免ずる。 続紀                 
  9・5     改元         景龍1    
  10 新羅遊学僧観智に維摩詰両本経を講じさせる。(同年5月28日に遣新羅使と共に帰国したか?) 略記                 
  12     新羅、遣使朝貢 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
        驃騎大将軍を授ける 唐会要95新羅            
708 1・11 改元           和銅1 景龍2 聖徳王7 高王11
709 3・14 海陸両道より新羅使金信福らを迎える。 続紀          和銅2 景龍3 聖徳王8 高王12
  5・20 新羅使金信福ら方物を貢ずる。 続紀                 
  5・27 朝堂において新羅使金信福らを饗す。使者に禄物を賜い、併せて国王に贈る絹20匹・美濃絁30匹・糸200絇・綿150屯を付す。この日、右大臣藤原不比等、新羅使を弁官庁内に招く。 続紀                 
  6・1 新羅使金信福ら帰国する。 続紀                 
  6     新羅、遣使貢方物 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
710 1     新羅、遣使来朝 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8 和銅3 景龍4 聖徳王9 高王13
  4     「高麗」、遣使来朝 冊府970            
  6・2     中宗、死去              
  6・4     少帝(温王重茂・殤帝)、即位。改元         唐隆1    
(少帝)
  6・24     少帝を廃し、睿宗、即位         唐隆1    
(睿宗)
  7・20     改元         景雲1    
  この年 入唐学問僧道顕がもたらした柑子を植えさせる。 僧補                
    七年表                 
711 12     新羅、遣使獻方物 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8 和銅4 景雲2 聖徳王10 高王14
712 1・19     改元       和銅5 太極1 聖徳王11 高王15
  2     新羅、遣使朝貢 冊府970 唐に遣使して方物を貢ず 史記8        
  3*     新羅王の名が玄宗と同じため、興光と改名させる 旧唐199新羅 唐、玄宗と王の諱が同じため、盧元敏を遣使して、改名させる 史記8(聖徳王即位条)        
        唐会要95新羅 史記8        
  5・13     改元         延和1    
  8・3     玄宗即位         延和1    
(玄宗)
  8・7     改元         先天1    
  9・19 道首名を遣新羅大使とする。 続紀                 
  10・28 遣新羅使ら辞見する。 続紀                 
  12     新羅、遣使朝貢 冊府971            
713 2*     唐、崔訢を遣使して大祚栄を渤海郡王に冊封。これより毎年遣使朝貢 旧唐199下渤海靺鞨     和銅6 先天2 聖徳王12 高王16
        冊府170            
        冊府964            
        新唐219勃海            
        通鑑210            
        玉海153唐渤海遣子入侍            
  2     新羅、遣使朝貢。太上皇、門楼引見 冊府971 遣使入唐朝貢。玄宗、楼門引見 史記8        
  6     新羅、遣使朝貢。太上皇、門楼引見 冊府971            
  8・10 遣新羅使道首名、新羅より帰国する。 続紀                 
  10         入唐使金貞宗、帰国。詔書により聖徳王進封 史記8        
  12・1     改元         開元1    
714 2・14     新羅王子金守忠来朝、宿衛に留め、宅と帛を賜う。 冊府996 王子金守忠を唐に遣使して宿衞とする。玄宗、宅と帛を賜い、また朝堂にて宴会。717年9月帰国 史記8 和銅7 開元2 聖徳王13 高王17
  2・25     突厥使と新羅王子を朝堂にて宴会 冊府110            
  閏2     新羅、級飡朴裕を遣使賀正。 冊府971 級飡朴裕を唐に遣使賀正。朝散大夫員外奉御を賜って帰国。 史記8        
      玄宗、寧王ら兄弟の内起居注作成の要請に対する返事を日本の紙に書く 松窓雑録            
  3     渤海生徒、六人入学、新羅七人。 玉海153唐渤海遣子入侍            
  5・18     唐使崔訢(忻)、渤海冊封の帰途に井戸を掘り建碑 鴻臚井碑            
  10・29*     新羅使を内殿にて宴会。宰臣および四品以上の清官参席 冊府110 玄宗、新羅使と内殿にて宴会、宰臣および四品以上の諸官参席 史記8        
        冊府974            
  11・11 新羅、重阿飡金元静ら20余人を派遣する。畿内・七道諸国の騎兵990人を徴発し、入朝の儀衛に備える。 続紀                 
  11・15 新羅使を迎えるため、筑紫に遣使する。 続紀                 
  11・26 新羅使を迎えるため、大伴旅人ら6人を左右将軍・副将軍に任命する。 続紀                 
  12・26 新羅使、入京する。布勢人・大野東人、騎兵170人を率いて新羅使を三崎(椅カ)に迎える。 続紀                 
  この年     唐、安東都護を平州に移す 旧唐39地理志 河北道            
        新唐39地理志 河北道            
715 1・16 中門において、百官並びに新羅使金元静らに宴し、諸方の楽を奏す。その後禄を賜う。 続紀          和銅8 開元3 聖徳王14 高王18
  1・17 新羅使、大射に参列する。 続紀                 
  3・23 新羅使金元静ら帰国する。大宰府に綿5450斤・船1艘の支給を命じる。 続紀                 
  7・27 尾張国の席田迩近及び新羅の人74家を美濃国に貫して、席田郡を建てる。 続紀                 
  8・7     「高麗」など、降附 冊府974            
  9・2 元明退位。元正即位。改元           霊亀1      
(元正)
  この頃     紫微舎人呂延嗣、日本国使人とあだ名をつけられる 朝野僉載4            
        広記255魏光乗            
716 3・10*     新羅、金楓厚を遣使賀正。員外郎の位を授けて帰国させる 冊府971 金楓厚を唐に遣使朝貢 史記8聖徳王14・3月条 霊亀2 開元4 聖徳王15 高王19
        冊府974 史記8        
  5・16 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1799人を武蔵国に遷し、高麗郡を置く。 続紀                 
  6・7 馬伊麻呂ら新羅国の紫驃馬2匹を献ず 続紀                 
  8・20 多治比県守(押使)、阿倍安麻呂(大使)、藤原馬養(副使)を遣唐使に任命する。他、大判官1人、少判官2人、大録事2人、少録事2人も任命。 続紀                 
    略記 同年8月条        
  8・26 遣唐副使藤原馬養に従五位下を授ける。 続紀                 
  9・4 阿倍安麻呂に代えて、大伴山守を遣唐大使とする。 続紀                 
  「開元四年丙辰秋作貞□□□□」と背朱書のある墨、正倉院(中倉ー41)に伝わる。唐の貞家がつくり、日本に将来されたか。 正銘1-2                
717 2・1 遣唐使、蓋山の南で天神地祇を祀る。 続紀          養老1 開元5 聖徳王16 高王20
  2・23 遣唐使、拝朝する。 続紀                 
  3     新羅が遣使を派遣し、方物を献ずる。 冊府971            
  3・9 遣唐押使多治比県守に節刀を授ける。遣唐使総勢557人、4船に分乗して入唐の途に。玄ム・大和長岡・阿倍仲麻呂・吉備真備・羽栗吉麻呂(安倍仲麻呂{人)らも随行する。 続紀                 
    続紀 天平18・6・18条        
    続紀 神護景雲3・10・29条        
  類史187        
  略記 霊亀2・8月条        
  帝王系図        
  5     唐に朝貢。方物を献ずる。 冊府971            
  9         唐に派遣していた王子の金守忠が帰国し、文宣王・十哲・七十二弟子の図像を献上し、大学に安置する。 史記8        
  10・1     日本使、長安に到る。勅して、16日に多治比県守らに中書において宴を催すことを告げる 冊府971            
    冊府974        
    旧唐199上 日本伝        
    唐会要100日本国        
    新唐220日本伝        
    宋史491日本伝        
  10・19     鴻臚寺、日本国使の孔子廟堂、寺観への参拝申請を奏し、承認。遣唐使、鴻臚寺において、四門助教の趙玄黙を師として経学を学び賜物をすべて文籍にかえたという。 冊府170            
    冊府974        
    旧唐199上 日本伝        
    唐会要100 日本国        
  11・8 本国の敗戦により投化した高句麗・百済の士卒に対し、課役を終身免除する。また、遣唐使水手以上を出した房戸の徭役を免じる。 続紀                 
  集解 賦役令外蕃還条 所引官符        
718 2・20     渤海より遣使の述藝が来朝し、懐化大将軍を授かり、宿衛に留まる。 冊府974     養老2 開元6 聖徳王17 高王21
  2*     新羅より遣使が来朝し、守中郎将を授ける。 冊府971 唐に使者を派遣し、朝貢する。守中郎将の職を授かる。 史記8        
  冊府974            
  3・20 小野馬養を遣新羅大使とする。 続紀                 
  5・23 遣新羅使、辞見する。 続紀                 
  10・20 大宰府、遣唐使多治比県守らの帰着を報らせる。 続紀                 
  12・13 多治比県守ら帰京する。 続紀                 
    略記         
  12・15 遣唐押使、節刀を返す。今回の遣唐使は使人の闕亡なく無事帰国。大宝2年入唐の遣唐大使坂合部大分・留学僧道慈・行善ら、県守と共に帰国。坂合部大分は、大宝元年の遣唐使任命時は副使。 続紀                 
    続紀 天平16・10・2条        
    伝通縁起        
    元亨2道慈        
    大安寺縁起        
    善隣記         
    霊異記 上6        
    懐風藻 釈道慈        
  12* 大宝2年入唐の遣唐大使坂合部大分、「皇帝敬致書於日本国王」云々に始まる唐皇帝の勅書を進める 善隣記                
  異国牒状記                
719 1・6     新羅の遣使が賀正に来る。 冊府971 唐に使者を派遣し、新年を祝賀する。 史記8 養老3 開元7 聖徳王18 仁安1
(武王)
    冊府974        
  1・10 遣唐使多治比県守ら、唐より授けられた朝服を着用して朝見する。 続紀                 
  2・10 遣新羅使小野馬養ら帰国する。 続紀                 
  5・7 新羅貢調使級飡金長言ら40人が来朝する。 続紀                 
  5・9     新羅より遣使が来て、朝貢する。遣使が死亡したため、太僕卿と絹100匹贈る。 冊府974            
  閏7・7 新羅使、調物と騾馬牡牝各1匹を献じる。 続紀                 
  閏7・11 新羅使金長言らを饗し、禄物を賜い、新羅国王への贈物を付す。白猪広成を遣新羅使に任命する。 続紀                 
  閏7・17 新羅使金長言ら、帰国の途に就く。 続紀                 
  8・8 遣新羅使白猪広成ら辞見する。 続紀                 
  11・1 入唐の功により、道慈に食封50戸を施す。 続紀                 
    元亨22        
720 1・23 諸君鞍男ら6人を靺鞨国に派遣して風俗を観察させる。 続紀          養老4 開元8 聖徳王19 仁安2
  12・25 転経唱礼の作法が濫れているため、唐僧道栄・学問僧勝曉らの作法に準拠させる。 続紀                 
    三代格3                
    元亨16 道栄伝                
    元亨22                
    元亨29                
721 11・6     渤海、靺鞨大首領を使者として、唐に朝貢。 冊府971     養老5 開元9 聖徳王20 仁安3
    冊府974        
  12 新羅貢調使大使金乾安・副使金弼ら筑紫に来着する。元明上皇崩御を理由に、大宰府から帰国させる。 続紀                 
722 4・21 唐人王元仲、飛舟(一説、飛車)を造り、奉る。この功績により従五位下を授ける。 続紀          養老6 開元10 聖徳王21 仁安4
    略記         
    濫觴抄        
  5・10 津主治麻呂を遣新羅使に任命する。 続紀                 
  5・29 遣新羅使津主治麻呂ら拝朝する。 続紀                 
  10・7     新羅から大奈麻金仁壹が遣使として来朝。賀正して方物を献ずる。 冊府971 大奈麻金仁壹を使者として唐に派遣し、新年を祝賀。方物を献じる。 史記8        
    唐会要95新羅        
  10         新羅、慶州東南境の毛伐(毛火)郡に関門を築き、日本の侵入に備える。 史記8        
    遺事2        
  11・4     大臣味勃計を唐に派遣し、鷹を献上する。大将軍の位を授かり、錦袍、金魚袋を賜う。 冊府971            
    冊府975        
  12・23 遣新羅使津主治麻呂ら帰国する。 続紀                 
723 4     新羅から遣使が来朝し、果下馬2匹、人参、牛黄、頭髪、朝霞紬、魚牙紬、鏤鷹鈴、海豹皮、金銀、表文の献上を受ける。 新唐220新羅 唐に使者を派遣して、果下馬1匹、人参、牛黄、頭髪、朝霞紬、魚牙紬、鏤鷹鈴、海豹皮、金銀、表文を献上する。 史記8 養老7 開元11 聖徳王22 仁安5
    冊府971        
    唐会要95新羅        
  8・8 新羅大使金貞宿・副使昔楊節ら15人来貢する。 続紀                 
  8・9 朝堂において新羅使を饗す。大射を行い、諸方の楽を奏す。 続紀                 
  8・25 新羅使金貞宿ら、帰国の途に就く。 続紀                 
724 2・4 聖武即位、改元           神亀1 開元12 聖徳王23 仁安6
(聖武)
  2・15     新羅より遣使の金武勳が来朝、賀正する。遊撃将軍、詔書、礼物、帛50匹を授ける。 冊府971 唐に金武勳を派遣して新年を祝賀する。唐より遊撃将軍を授かる。皇帝より詔書を授かり、礼物、帛50匹を賜う。 史記8        
  冊府975        
  唐会要95新羅        
  2     渤海、賀作慶を使者として送り、新年を祝賀する。遊撃将軍の爵位を受け、帛50匹を受領。 冊府971            
  冊府975        
  5・3     新羅の遣使の金武勳が長安を出発。 冊府975            
  冊府980        
  5・5 この日、剣南道彭州九隴県で七絃琴が製造される。のちに日本に将来する。 法銘58号                
  8・21 土師豊麻呂を遣新羅大使に任命する。 続紀                 
  12*     新羅より遣使の金興光が来朝し、二人の女性の献上を受ける。 冊府170 唐に使者を派遣し、美女の抱貞・貞菀を献上する。 史記8        
  冊府971        
  新唐220新羅        
725 1     渤海より遣使として、大首領烏借芝蒙が来朝、賀正し、方物を献じる。 冊府971     神亀2 開元13 聖徳王24 仁安7
  4 入唐僧玄ム、五台山に向け出発する。 巡礼私記 興福寺                
      渤海、唐に首領謁徳を派遣し、朝貢する。果毅の爵位を授かる。 冊府975            
  5     渤海、唐に王の弟、大昌勃價を派遣し、朝貢、宿衛する。左威衛員外将軍、紫袍、金帯、魚袋を賜う。 冊府975            
  5・22 遣新羅使土師豊麻呂ら帰国する。 続紀                 
  11・10 播磨弟兄、唐より甘子をもたらす。佐味虫麻呂、その種を植え、栽培に成功する。この功績により2人を従五位下に叙す。 続紀                 
  11     新羅の遣使が来朝し、封禅の儀式に参加し、慶賀する。 旧唐23            
726 3・7     渤海、唐に大都利を派遣する。 冊府975     神亀3 開元14 聖徳王25 仁安8
  4     新羅より遣使が来朝し、賀正する。帛100匹を授ける。 冊府971 唐に金忠臣を派遣し、賀正する。 史記8        
    冊府975          
  5・11     新羅より金欽質が遣使として来朝し、郎将を授ける。 冊府971 唐に金欽質を派遣し、朝貢する。郎将を授かる。 史記8        
    冊府975          
  5・24 新羅使金造近(金奏勲)ら来朝する。金順貞が昨年6月30日に没したことを報じる。 続紀                 
    続紀 7・13条        
  6・5 新羅使金造近、調物を貢じる。 続紀                 
  6・6 新羅使を朝堂で饗する。 続紀                 
  7・13 新羅使金造近ら帰国する。金順貞の喪を弔し、賻物として黄絁100匹・綿100屯を贈る旨の璽書を賜う。また帰国の直前に、長屋王、自邸に新羅使を招き、詩宴を催す。 続紀                 
    懐風藻        
  11     渤海、王子大義信を派遣し、朝貢する。 冊府971            
    旧唐8        
727 1・18     新羅の遣使が来朝し、賀正する。奉御の職を授け、緋袍、魚袋を授ける。 冊府971 唐に使者を派遣し、賀正する。 史記8 神亀4 開元15 聖徳王26 仁安9
    冊府975        
  4・5     玄宗皇帝、渤海の遣使の大昌勃價に帰国を許可。 冊府975            
  4・18     渤海の大昌勃價に襄平県開国男を封じ、帛50疋を授ける。また、これより先に渤海王が派遣した利行が来朝し、貂鼠を献上する。降書を与え、綵練100疋を授ける。 冊府975            
  8     渤海、大寶方を遣使として派遣し、朝貢する。 冊府971            
  9・21 これより先、渤海郡王大武芸、寧遠将軍郎将高仁義・游将軍果毅都尉徳周・別将舎航らを日本に派遣する。この日、渤海郡王使出羽国に来着する。高仁義ら24人の内、16名が殺され、高斉徳ら8人のみ難を免れる。存問使を遣わし、時服を賜う。 続紀                 
  続紀 12・29条          
  続紀 神亀5・1・17条          
  続紀 宝亀3・2・28条          
  12・20 渤海郡王使高斉徳ら8人入京する。 続紀                 
  12・29 高斉徳らに衣服・冠履を賜う。 続紀                 
728 1・3 渤海使、王臣・百官とともに朝賀に参列する。 続紀          神亀5 開元16 聖徳王27 仁安10
  1・17 渤海使高斉徳ら、王の書、および方物を進める。その書には渤海が高句麗の旧領に再興したこと、「親仁結援」を求めて使者を遣わし、貂皮300張を送る旨等が書かれる。高斉徳ら8人に正六位上を授け、当色服を賜う。また五位以上と高斉徳らを宴す。 続紀                 
  2・16 引田虫麻呂を送渤海客使に任命する。 続紀                 
  4・16 高斉徳ら8人に綵帛・綾・綿を賜う。また渤海王宛の慰労詔書並びに綵帛10疋・綾10疋・絁20疋・糸100絇・綿200屯を賜う。渤海使、滞京中に長屋王邸に招かれたか。 続紀                 
  長屋王家木簡        
  4・17     渤海王子の大都利行が唐で死去。特進して鴻臚卿も追贈され、絹300匹、粟300石が贈られる。霊輿で本国に送還される。 冊府975            
  6・5 送渤海客使ら拝辞する。 続紀                 
  6・7 送渤海客使の水手以上62人に位を賜う。 続紀                 
  7・22     新羅より金嗣宗が遣使として来朝し、方物を献上する。国学への入学を許可する。果毅を授ける。 旧唐8 唐に金嗣宗を派遣し、方物を献ずる。国学への入学を要請し、許可を受ける。果毅を授かり、宿衛として留まる。 史記8        
    旧唐199上 新羅        
    新唐220 新羅伝        
    冊府975        
  9     渤海、唐に菸夫須計を派遣し、朝貢する。果毅の職を授かる。 冊府975            
729 1         唐に使者を派遣し、賀正する。 史記8 神亀6 開元17 聖徳王28 仁安11
  2     渤海、唐に遣使を派遣し、鷹を献上する。 冊府971            
  3     渤海、唐に大胡雅を派遣し、遊撃将軍の職を受け、紫袍、金帯を授かる。宿衛として留まる。 冊府975            
  3・13     渤海、唐に使者を派遣し、鯔魚を献上。帛20匹を授かる。 冊府971            
  冊府975        
  8・5 大瑞亀出現により天平と改元。河内国古市郡の賀茂子虫を訓導し、大瑞を献じさせた功により、唐僧道栄を従五位下に擬して位禄を給し、緋色袈裟等を施す。 続紀          天平1      
  8・9     渤海、唐に大琳を派遣し、朝貢し、宿衛として留まる。中郎将を授かる。 冊府975            
  9         唐に使者を派遣し、朝貢する。 史記8        
730 1     新羅より遣使が来朝し、賀正する。 冊府975     天平2 開元18 聖徳王29 仁安12
  1     渤海、唐に王の弟の大朗雅を派遣し、賀正し、宿衛として留まる。その後、嶺南に流刑。 冊府971            
  「勅渤海王大武藝書」2        
  「勅渤海王大武藝書」4        
  2     渤海、唐に大首領智蒙を派遣し、朝貢し、馬30匹を献じる。智蒙に対し、中郎将の職を授け、絹20匹、緋袍銀帯を授かる。 冊府971            
  冊府975        
  2・19     新羅より王の姪金志蒲(満)が遣使として来朝し、小馬5匹、狗1頭、金2000両、頭髪80両、海豹皮10張の献上を受ける。それに対し、太僕卿員外置同正員、絹100匹、紫袍、銀鈿帯、魚袋を授ける。 冊府975 唐に王の姪金志満を派遣し、朝貢し、宿衛に留まる。小馬5匹、狗1頭、金2000両、頭髪80両、海豹皮10張を献上する。それに対し、太僕卿員外置同正員の爵を受ける。絹100匹、紫袍、銀鈿帯、魚袋を受領する。 史記8        
  3・27 訳語育成のため、粟田馬養・播磨乙安・陽胡真身・秦朝元・文元貞にそれぞれ弟子2人を取って漢語を教授させる。 続紀                 
  5・26     渤海、唐に烏那達利を派遣し、朝貢する。海豹皮5張、貂鼠皮3張、瑪瑙盃1、馬30匹を献上。果毅、帛を授かる。 冊府971            
  冊府975        
  8・29 遣渤海使引田虫麻呂ら帰国する。越前国加賀郡、「送渤海郡使人使等食料」として50斛を支給する。 続紀                 
  天平二年越前国正税帳        
  9     新羅より遣使が来朝し、朝貢する。 冊府971            
  9・2 引田虫麻呂ら、渤海郡王の信物を進める。 続紀                 
  9・25 使を遣わして山陵6ヶ所に渤海郡王の信物を献じる。併せて藤原不比等墓を祭らせる。 続紀                 
  10・29     新羅より遣使が来朝し、方物の献上を受け、帛を授ける。 冊府975 唐に使者を派遣し、朝貢する。帛を賜う。 史記8        
  10・29 渤海郡王の信物を諸国の名神社に奉る。 続紀                 
731 2     新羅、新年祝賀のために、金志良を派遣して、牛黄・黄金等を献上。玄宗は、金志良に太僕少卿員外置を授け、帛60匹を賜う。また、詔書を下す。 冊府971 金志良を唐に派遣し、新年を祝賀させる。玄宗は、金志良に太僕少卿員外置を授け、帛60匹を賜う。また、詔書を下す。 史記8 天平3 開元19 聖徳王30 仁安13
      冊府975        
      全唐文40        
  2     渤海、新年祝賀のため、来朝。将軍の爵を授け、帛100匹を賜う。 冊府971            
      冊府975            
  4         日本国の兵船300艘、新羅の東辺を襲い、新羅が破る。 史記8        
  7・5 遣唐使神主津守客人、「住吉大社神代記」に署名。 住吉大社神代記                
  7・29 雅楽寮の大唐楽・百済楽・高麗楽・新羅楽・度羅楽・諸県舞・筑紫舞等雑楽生の定員を定める。また百済・高麗・新羅等の楽生には、それぞれの国の出身者を取ることとする。 続紀                 
  10・18     渤海の大取珍ら120人来朝。果穀の官職を授け、帛30匹を賜う。 冊府971            
      冊府975            
  この年 朝衡(阿倍仲麻呂)、左補闕に補される。 古今和歌集目録 安倍朝臣仲麿 朝衡(阿倍仲麻呂)を左補闕に補す 旧唐199上 日本            
  唐会要100 日本国            
  新唐220 日本            
732 1・20 角家主を遣新羅使に任命する。 続紀          天平4 開元20 聖徳王31 仁安14
  1・22 新羅使が来朝する。 続紀                 
  1     新羅、新年祝賀のために来朝。郎将を授け、帛を賜う。 冊府971            
      冊府975            
  2・27 遣新羅使、拝朝する。 続紀                 
  3・5 新羅使金長孫らを大宰府に召す。 続紀                 
  5・11 新羅使金長孫ら40人、入京する。 続紀                 
  5・19 新羅使金長孫ら拝朝し、財物並びに鸚鵡1口・鴝鵒1口・蜀狗1口・猟狗1口・驢2頭・騾2頭を進める。来朝の年期を上奏して裁可を請う。 続紀                 
  5・21 金長孫らを朝堂において饗す。来朝の年期を3年に1度とする。饗宴後、禄を賜い、新羅国王への贈物を付す。 続紀                 
  6・26 新羅使金長孫ら帰国の途につく。 続紀                 
  8・11 遣新羅使角家主ら帰国する。 続紀                 
  8・17 多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、田口養年富・紀馬主・平群広成・秦朝元(判官)、大伴首名(准判官)、その他録事4人を遣唐使に任命する。 続紀                 
  続紀 天平8・11・3条                
  続紀 天平11・10・27条                
  続後紀 承和3・5・10条                
  懐風藻 釈弁正                
  9・4 近江、丹波、播磨、備中4国に遣唐使船4艘を造らせる。 続紀                 
  9・5*     渤海、唐の登州を攻め刺史を殺す。(日付は通鑑による) 旧唐199下 渤海 渤海、唐の登州を攻め刺史を殺す。 史記8同年・7月条        
      旧唐199上 新羅 開元21条        
      新唐219 渤海        
      新唐220新羅         
      通鑑213         
      勅渤海王大武藝書1        
  10・3 造客館司を設置する。 続紀                 
733 1・20*     渤海が前年9月に唐の登州を攻めたため、大門芸に渤海王大武芸を討つよう、派兵を命じる。また宿衛として唐に居た金思蘭を帰国させ、新羅に勃海を攻撃させるが、雪により退却。この功により、新羅王(金興光・聖徳王)に開府儀同三司・寧海軍使を授ける。(日付は通鑑による) 旧唐199上新羅 渤海、唐の登州を攻め刺史を殺したため、宿衛として唐に居た金思蘭を帰国させ、新羅に勃海を攻撃させるが、雪により退却。 史記8同年・7月条 天平5 開元21 聖徳王32 仁安15
      旧唐199下渤海靺鞨 開元20年条 史記43金庾信        
      新唐220新羅         
      新唐219渤海 開元20年条        
      勅新羅王金興光書        
      唐会要95新羅        
      通鑑213         
  3・1 遣唐大使多治比広成、山上憶良宅を訪ねる。 万葉集5-894〜896                
  3・3 山上憶良、「好去好来の歌」を多治比広成に贈る。 万葉集5-894〜896                
  3・21 遣唐使、拝朝する。 続紀                 
  閏3・26 遣唐大使多治比広成辞見する。この時、節刀を授ける。 続紀                 
  閏3 笠金村、送別の歌を詠み、遣唐使に贈る。 万葉集8-1453〜1455                
  4・3 遣唐使多治比広成ら594人、船4艘に分乗して難波津を出発する。多治比広成、入唐にあたり、姓を丹墀と改める。また、僧栄叡、普照らも随行し、入唐する。 続紀                 
  三実 貞観8・2・21条                
  万葉集9-1790〜1791                
  万葉集19-4245〜4247                
  唐征伝                
  要録 1                
  略記 同年7・6条                
  入唐記                
  『日本高僧伝要文抄』3所引『延暦僧録』                
  元亨13 普照                
  元亨22                
  伝通縁起                
  6・2 武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女53人に金の姓を賜う。 続紀                 
  7・6 遣唐使、入唐の途に就く。 略記                 
  入唐記                
  8     蘇州刺史、日本国使の管内来着を報ず。玄宗、通事舎人を蘇州に遣わし慰労させる。 冊府170            
  冊府971            
  12・2     新羅の金志廉来朝し、小馬・狗・金銀・布・牛黄・人参等を献ず。内殿において金志廉を饗し、束帛を賜う。 冊府971 開元22・4条 王の姪、金志廉を謝恩使として唐に派遣。上表文を献ず。 史記8        
      冊府975        
      勅新羅王金興光書        
      唐会要95新羅        
  この年 朝衡(阿倍仲麻呂)、親老のために帰国することを請うも、玄宗に許されず。 古今和歌集目録 安倍朝臣仲麿 朝衡(阿倍仲麻呂)、親老をもって帰国することを請うも、玄宗に許されず 唐詩紀事 趙驊            
734 1     日本留学生井真成、没 井真成墓誌     天平6 開元22 聖徳王33 仁安16
  1*     宿衛として派遣されている新羅王従弟の金忠臣、金志(至)廉が替わりの宿衛として来たため、帰国することを請う。皇帝、これを許す。(しかし、実現せず。) 冊府973 同年2月条 唐へ宿衛として派遣されている金忠臣、金志廉が替わりの宿衛として来たため、帰国することを請う。皇帝、これを許す。(しかし、実現せず。) 史記8        
  2・8 唐人陳延昌、遺教経を日本使朋古満(あるいは羽右満か)に付し、流伝をはかる。 遺教経奥書                
  4 遣唐使、洛陽に到る。判官秦朝元、かつて入唐した父弁正の縁により、玄宗に厚く賞賜される。僧栄叡・普照ら大福先寺の定賓より戒を受ける。 懐風藻 釈弁正 日本使多墀広成ら洛陽に到り、美濃絁200匹・水織絁200疋を献上。判官秦朝元、かつて入唐した父弁正の縁により、玄宗に厚く賞賜される。僧栄叡・普照ら大福先寺の定兼より受戒。 冊府971            
  『日本高僧伝要文抄』3所引『延暦僧録』            
  4*     新羅、賀正の為に大臣金端嵑丹を遣わす。(同年秋に唐より帰朝する。) 冊府971 大臣金端嵑丹を唐に派遣。内殿にて皇帝に引見し、衛尉少卿を授かり、緋襴袍・平漫銀帯・絹を賜る。 史記8        
      冊府975同年正月条        
      勅新羅王金興光書        
      唐会要95新羅 開元20年条        
  9・10 唐人陳懐玉に、千代連の姓を賜う。 続紀                 
  10 遣唐使、蘇州より帰国の途に就くも、悪風に遭い、4船離散する。判官平群広成ら115人の乗った船は崑崙国(「勅日本国王書」には「林邑国」とある)に漂着し、広成を含めわずかに4人のみ生き残る。広成ら、崑崙王に謁見し、升糧を支給され、安置される。 続紀 天平11・11・3条 日本使多墀広成ら蘇州より帰途に就く。まもなく悪風に遭い、4船離散。大使多墀広成の船は越州管内に、副使中臣名代も船は南海に、判官平群広成の船(乗員115人)は林邑国にそれぞれ漂着。あとの1船は行方不明。 勅日本国王書            
  11・20 遣唐大使多治比広成ら多禰島に帰着する。 続紀                 
  12・6 大宰府、新羅貢調使金相貞ら来泊のことを報せる。 続紀                 
  この年     玄宗、「日本国王主明楽美御徳」に諭事勅書を送る。 勅日本国王書            
  羽栗吉麻呂、唐人との間に生まれた子の翼と共に帰国する。 類史187延暦17・5・27条                
735 1     新羅、金義忠ら来朝。 冊府971 金義忠を唐に派遣して、新年を祝賀させる。 史記8 天平7 開元23 聖徳王34 仁安17
  2     新羅使副使、金栄死去。皇帝、光禄少卿を贈る。「勅新羅王金興光書」によれば、賀正使、金義質も相次いで死去した、とある。 冊府975 (遣唐)副使、金栄唐にて死去。光禄少卿を贈られる。 史記8        
      勅新羅王金興光書        
  2     唐、新羅の要請により、浿江(今の大同江)以南の地の領有を認める(新羅、朝鮮半島統一) 勅新羅王金興光書 金義忠帰国時に、唐皇帝より浿江(今の大同江)以南の地の領有を認められる。 史記8        
  2・17 新羅使金相貞ら、入京する。 続紀                 
  2・27 中納言多治比県守を兵部曹司に遣わし、新羅使に来朝の理由を問わせる。新羅国がもとの号を改めて王城国と称したので、使者を帰国させる。 続紀                 
  3・10 遣唐大使多治比広成ら、帰京して節刀を返却する。玄ム・吉備真備・羽栗吉麻呂らも帰国する。また唐人袁晋卿・金礼信・唐僧善意(玄ムの弟子)ら、同行して来日。(共に帰国した人物については、この年の項も参照。) 続紀                 
  続紀 天平18・6・18条                
  続紀 宝亀6・10・2条                
  続紀 宝亀9・12・18条                
  略記                 
  入唐記                
  僧補1                
  七年表                 
  元亨16 玄ム                
  元亨22                
  類史187延暦17・5・27条                
  大般若経                
  三実 元慶7・6・10条                
  性霊集4                
  悉曇蔵5                
  3・25 遣唐使、朝拝する。 続紀                 
  3 正倉院に弘仁八年五月二十七日に返納された金銀平文琴には「乙亥之年」「季春造作」の墨書があり、開元二十三年に唐で作成され、後に日本に将来されたと考えられている。 正銘1-5                
  「正倉院御物出納注文」(平遺4416)        
  3     日本国使、方物を献ず。 冊府971            
  4・26 入唐留学生吉備真備、唐より将来した唐礼、大衍暦経等の典籍、天文具、武具等を献じる。 続紀                 
  見在書目録        
  江談抄3        
  略記         
  帝編        
  5・5 北松林における騎射に際して、遣唐使及び唐人ら、唐・新羅の楽を奏し、弄槍の芸を披露する。 続紀                 
  5・7 遣唐使、請益生秦大麻呂の問答6巻を献じる。 続紀                 
  閏11・14 揚州白塔寺の僧玄G、唐元康撰肇論疏下巻を書写し、遣唐使(中臣名代一行か)に託して流伝をはかる。30日、上巻を書写。 肇論疏巻上                
  永観堂本元康撰『肇論疏』巻下奥書                
  閏11     日本使中臣名代、朝廷に老子経本及び天尊像の下賜を請い、許される。 冊府999            
  閏11*     新羅王従弟、金(忠)相来朝するも、途中で死去。衛尉卿を贈る。 旧唐8同年12月条 新羅王従弟、金相を唐に派遣するも、途中で死去。衛尉卿を贈官される。 史記8 聖徳王35・11条        
      冊府971 同年12月条        
      冊府975        
      唐会要95新羅 同年11月条        
  この年 前年蘇州より出帆後、林邑国に漂着し抑留されていた平群広成ら4人、唐欽州の熟崑崙に救出され、長安に戻る。ついで阿倍仲麻呂を通じて玄宗に拝謁し、渤海を経由して帰国することを請い、許される。 続紀 天平11・11・3条                
  僧玄ム、遣唐使に随って帰国し、経論五千余巻・諸仏像を将来する。この時、大般若波羅密多経奥書を記した善意も来朝するか。(同年3月10日、遣唐大使多治比広成らとともに帰国したか。) 続紀 天平18・6・18条                
  要録 1                
  大般若経                
  唐人袁晋卿、遣唐使と共に来日する。文選・爾雅の音を学び得る。金礼信の来朝もこの時か。安然著の『悉曇蔵』において漢字音を伝えたとする「金」は、この金礼信であると考えられる。(同年3月10日、遣唐大使多治比広成らとともに来朝したか。) 続紀 宝亀9・12・18条                
  三実 元慶7・6・10条                
  性霊集4                
  悉曇蔵5                
  新羅より来朝し、大伴安麿の家に寄住していた尼理願、死去する。 万葉集3-460〜461                
      渤海王族大茂慶等、入朝。(宿衛か。石井正敏「張九齢作「勅渤海王大武藝書」について」) 勅渤海王大武藝書2            
736 2・7 入唐学問僧玄ムに封戸100戸・田地10町・扶翼童子8人を、律師道慈に扶翼童子を6人を施入する。 続紀          天平8 開元24 聖徳王35 仁安18
  略記                 
  要録1                
  2・28 阿倍継麻呂を遣新羅大使に任命する。副使に大伴三中、大判官に壬生宇太麻呂、少判官に大蔵麻呂をそれぞれ任命。 続紀                 
  続紀 天平9・1・26条                
  3・5*     渤海王弟、大蕃、宿衛交替と突厥の軍事情報伝達のため来朝。太子舎人員外を授け、帛を賜う。また、南鄙に追放していた大郎雅らの渤海帰国を許す。 冊府971 開元23・3条            
      冊府975            
      勅渤海王大武藝書2            
      勅渤海王大武藝書4            
  4・17 遣新羅使阿倍継麻呂ら拝朝する。ついで難波を出帆し、豊前国に漂着した後、大宰府に到る。さらに壱岐・対馬を経て、新羅に向かう。なお、入唐時か帰国時かは不明であるが、豊後国、遣新羅使料として舂稲256束を支給する。 続紀                 
  万葉集15-3578〜3722              
  天平九年豊後国正税帳              
  5・18 遣唐副使中臣名代ら、唐僧道璿・婆羅門僧菩提・膽婆国(林邑北天竺国)僧仏哲らを伴い、薩摩国を経て大宰府に帰着する。薩摩国にて遣唐使第2船、穎稲75束6把・酒5石3斗を支給される。なお、「大安寺菩提伝来記」などによれば、同年7月20日に帰着したとする。 婆羅門僧正碑                
  唐征伝                
  道璿和上伝纂                
  天平八年薩摩国正税帳                
  要録 1                
  『東大寺要録』供養章所引「大安寺菩提伝来記」                
  伝通縁起(華厳宗)                
  伝通縁起(律宗)                
  元亨15 菩提                
  元亨15 仏哲                
  元亨16 道璿                
  善隣記                
  6     新羅使、新年祝賀と前年の浿江賜地の謝礼のため、来朝。 冊府971 新年祝賀と前年の浿江賜地の謝礼のため、唐へ遣使。 史記8        
  8・8 中臣名代ら摂津に到着し、ついで入京する。 「南天竺婆羅門僧正碑幷序」                
  8・23 中臣名代ら唐人3人・波斯人1人を率いて拝朝する。 続紀                 
  10・2 唐僧道璿・波羅門僧菩提らに時服を賜う。 続紀                 
  要録 1                
  元亨15 菩提                
  元亨22                
  11・3 帰国した遣唐副使中臣名代に従四位下を授け、准判官大伴首名、来朝の唐人皇甫東朝・波斯人李密翳らにもそれぞれ位を授ける。また在唐中に死去した田口養年富・紀馬主に従五位下を贈る。 続紀                 
  続後紀 承和3・5・10条                
  12 貢進された優婆塞溝辺浄土、唐の唱礼を修得する。 大古24                
737 1・26 遣新羅使大判官壬生宇太麻呂・少判官大蔵麻呂ら帰国し入京する。大使阿倍継麻呂は対馬において卒し、副使大伴三中は病気によって入京できず。 続紀          天平9 開元25 聖徳王36 大興1
(文王)
  1     渤海大首領、木智蒙来朝。 冊府971            
  2・15 遣新羅使、新羅国が常礼を欠き、使旨を受け入れなかった由を報告する。よって官人45名を内裏に召して意見を陳述させる。 続紀                 
  2・22 諸司、新羅対策に関する意見を奏す。或る者は使者を遣わして事情を問わせるべきだと言い、或る者は兵を発して征伐を加えよと述べる。 続紀                 
  2     新羅、賀正の為に金抱質を遣わし、方物を献ず。 冊府971 新年祝賀の使として、金抱質を唐に派遣。聖徳王薨ず。 史記8        
  3・28 遣新羅使副使大伴三中ら40人拝朝する。 続紀              孝成王1  
  4・1 伊勢神宮・大神社・筑紫住吉社・八幡社及び香椎宮に奉幣して、新羅無礼の状を告げる。 続紀                 
  4・5     渤海使、公伯計来朝し、鷹髄を献上する。皇帝、公伯計に将軍を授く。 冊府971            
      冊府975            
  8・6     渤海大首領、多蒙固来朝する。皇帝、多蒙固に左武得衛将軍を授け、紫袍・金帯・帛を賜う。また、「勅渤海王大武藝書」によれば、水手及び渤海側に捕虜となっていた唐人を送還。(ただし、この書の成立年代については石井正敏「張九齢作「勅渤海王大武藝書」について」で異論が出されている。) 冊府975            
      勅渤海王大武藝書3            
  10         入唐していた金抱質帰国する。 史記9        
  12     新羅王金承慶、使を遣わして方物を献上する。 冊府971 唐へ遣使、方物を献上する。(ここで、当年2月に聖徳王が薨じたことを伝えるか。) 史記9        
738 1 大宰府、新羅使金想純ら147人が来朝したことをを報らせる。 続紀          天平10 開元26 孝成王2 大興2
  2*     玄宗、先に新羅の聖徳王が薨じたことを聞き、邢璹を鴻臚少卿に任じて派遣し、哀悼の意を示す。また、金承慶を開府儀同三司新羅王に冊封する。 旧唐9 開元25年2月条 唐皇帝玄宗、先に聖徳王が薨じたことを聞き、邢璹を鴻臚少卿に任じて派遣し、哀悼の意を示す。また、孝成王が開府儀同三司新羅王に冊封される。 史記9        
      旧唐199上 新羅 開元25年条        
      新唐220新羅 開元25年条        
      冊府964 開元25・1条        
      冊府975 開元25・2条        
      唐会要95新羅 開元25年条        
  2*     新羅王承慶妻朴氏を新羅王妃として冊封する。 新唐220新羅 唐により、孝成王妻朴氏を新羅王妃として冊封する。 史記9 同年2月条        
      唐会要95新羅 開元28条        
  3 これより先、遣唐使平群広成ら、玄宗に渤海を経て帰国することを請い、許される。この月、登州を発し、5月、渤海領内に到着する。(あるいは739年とする説もある。石井正敏「第二次渤海遣日使に関する諸問題」(旗田巍先生古希記念会編朝鮮歴史論集所収)参照) 続紀 天平11・11・3条                
  3     新羅、新年賀正の為に金元玄を遣わす。 冊府971 新年祝賀の使として、金元玄を唐に派遣。 史記9        
  4         唐使邢璹、老子道徳経などの書物を王に献上する。 史記9        
  6・24 大宰府に使者を遣わして新羅使金想純らを饗し、ついで帰国させる。 続紀                 
  6・27     渤海、使を遣わして、唐礼三国志晋書三十六国春秋を書写することを請う。これを許す。 唐会要36            
      玉海153唐渤海遣子入侍            
  閏8     渤海、遣使して、豹鼠皮・乾文魚を献じる。 冊府971            
739 1         唐使、邢璹に黄金・布・人参を賜う。 史記9 天平11 開元27 孝成王3 大興3
  2     渤海王弟、大勗進来朝。内殿にて宴し、左武衛大将軍員外置同成を授け、紫袍金帯及び帛を賜う。宿衛として唐に留まる。 冊府971            
      冊府975            
  7・13 渤海副使雲麾将軍己珎蒙ら、日本の遣唐使平群広成ら4人を伴って、出羽国に到る。大使胥要徳ら40人、途中の海上で漂没する。 続紀                 
  続紀 11・3条                
  続紀 12・10条                
  10・16     渤海、謝恩使として受(憂)福子を派遣する。果毅を授け、紫袍・銀帯を賜い、放還する。 冊府971            
      冊府975            
  10・27 平群広成及び渤海使ら入京する。 続紀                 
  略記                 
  11・3 平群広成、拝朝する。唐よりの帰途、崑崙へ漂着し、再び唐に戻った後、渤海を経て帰国するに至る経緯を報告する。 続紀                 
  12・10 渤海使己弥蒙ら拝朝する。渤海王大欽茂の啓ならびに方物を進める。王の啓には、平群広成らの渤海来着、護送に至る経緯及び大虫皮・羆皮各7張、豹皮6張、人参30斤、蜜3斛を送る旨が述べられている。 続紀                 
  12・21 平群広成に正五位上を授け、その他の水手以上にも叙位、祢仁傑に外従五位下を授ける。 続紀                 
740 1・1 渤海使・新羅学語ら、元日朝賀に参列する。 続紀          天平12 開元28 孝成王4 大興4
  1・7 渤海副使己弥蒙らに位を授ける。また朝堂にて宴し、渤海王に美濃絁30匹・絹30匹・糸150絇、調綿300屯、己弥蒙に美濃絁20匹・絹10匹・糸50絇、調綿200屯を賜う。その他の者にも物を賜う。 続紀                 
  1・13 大伴犬養を遣渤海大使に任命する。 続紀                 
  1・16 百官及び渤海使を朝堂において饗す。 続紀                 
  1・17 大射にて、渤海使己弥蒙らにも射させる。 続紀                 
  1・29 使者を客館に遣わして、故渤海大使胥要徳に従二位、首領己閼棄蒙に従五位下を贈り、調布115端、庸布60段を賜う。 続紀                 
  1・30 天皇、中宮の閤門に御す。己珎蒙ら渤海国の楽を奏す。帛綿を賜う。 続紀                 
  2・2 渤海使己珎蒙ら帰国する。 続紀                 
  3・15 紀必登を遣新羅大使に任命する。 続紀                 
  3・17*     新羅国王、金承慶の妻金氏を新羅王妃として冊封する。 冊府975 唐が使を遣わして、孝成王夫人の金氏を冊封して王妃とする。 史記9        
  4・2 遣新羅使紀必登ら拝辞する。 続紀                 
  4・20 遣渤海使大伴犬養ら、辞見する。 続紀                 
  9・21 これより先、大野東人、遣新羅使船が長門国に来泊したことを報せる。この日、東人に遣新羅使船の積載荷物を長門国に納め、使節の中で藤原広嗣追討軍に適任の者がいれば採用すべきことを命じる。 続紀                 
  10・5 遣渤海郡使大伴犬養ら帰国する。 続紀                 
  10・15 遣新羅使紀必登ら帰国する。 続紀                 
  10     渤海、遣使して、貂鼠皮・昆布を献上する。 冊府971            
741 2・17     渤海、新年祝賀のために、失阿利を派遣する。 冊府971     天平13 開元29 孝成王5 大興5
  冊府975        
  4     渤海、使を遣わして、鷹・鶻を献上する。 冊府971            
742 1・1     改元       天平14 天宝1 孝成王6 大興6
  2・3 大宰府(筑前国)、新羅使金欽英ら187人の来朝を報せる。 続紀                 
  2・5 紫香楽宮が造営途中のため、大宰府に紀飯麻呂を遣わして新羅使を饗し、同地より帰国させることを命じる。 続紀                 
  5     新羅使来朝する。 冊府971            
          孝成王薨ず。 史記9        
  10         日本国使、新羅に至るも新羅は国書・信物等を受領せず。 史記9     景徳王1  
  10 入唐留学僧栄叡・普照ら、揚州大明寺の鑑真のもとに到り、来日を要請する。鑑真、受諾する。 唐征伝                
743 3・6 これより先、筑前国、新羅使金序貞らの来着を報せる。この日、多治比土作・葛井広成を筑前国に派遣して、新羅使の応接にあたらせる。 続紀          天平15 天宝2 景徳王2 大興7
  3*     前年5月に薨じた新羅王孝成哀悼のため、玄宗は賛善大夫の魏曜を遣わす。また、孝成王弟金憲英を新羅王として冊封する。 旧唐199上 新羅 前年5月に薨じた孝成王哀悼のため、唐の皇帝玄宗は賛善大夫の魏曜を遣わす。また、孝成王弟金憲英を新羅王として冊封する。同時に御註孝経1部を王に贈る。 史記9        
      新唐220 新羅         
      唐会要95新羅 天宝3年条        
  4・25 多治比土作ら、新羅使が調を土毛と称するなど、常礼を失することを報告する。この日、太政官、新羅使の水手以上を召して失礼の状を告げ、大宰府より放却すべきことを命じる。 続紀                 
  7     渤海王弟、大蕃来朝。左領軍衛員外大将軍を授ける。宿衛として唐に留まる。 冊府975            
  12*     新羅王弟、翌年の新年賀正のため来朝する。に左清道率府員外長使を授け、緑袍と銀帯を賜い、帰国させる。(翌年12月にも同様の記事あり) 冊府975 王の弟を唐に遣わして翌年の新年祝賀をさせる。唐皇帝は、彼に左清道率府員外長使を授け、緑袍と銀帯を贈り、帰国させる。(翌年12月にも同様の記事あり) 史記9        
  この年 栄叡・普照、鑑真を来日させるため、渡航を計画するが、随行の僧の内紛から当局に通報され、失敗。4月、栄叡ら身柄を拘束され、8月に釈放。再び渡航を準備する。銭八〇貫で唐の嶺南道採訪使劉臣隣の軍舟一隻を買い、香料・薬品や経典を揃え、技術者を含む85人が乗船し、12月に出発するが、狼溝浦で遭難する。船を修理し、一ヵ月間好風を待って出帆するが、再び遭難。明州阿育王寺に収容される。 唐征伝                
744 閏2     新羅使新年祝賀のために来朝し、方物を献上する。 冊府971 唐に遣使して、新年の祝賀をし、あわせて方物を献上する。 史記9 天平16 天宝3 景徳王3 大興8
  4     新羅、謝恩の使を遣わして、馬(皮)・宝を献上する。 冊府971 唐に遣使して、馬を献上する。 史記9        
      唐会要95新羅        
  10・2 大宝度入唐留学僧道慈、死去する。(70余歳) 続紀                 
  12*     新羅王弟、来朝する。に左清道率府員外長使を授け、緑袍と銀帯を賜い、帰国させる。(前年12月にも同様の記事あり) 冊府971            
      唐会要95新羅            
  この年 栄叡らが鑑真の日本渡航を計画していると、越州の僧らが密告したため、栄叡、身柄を拘束され、京に送られる。途中、杭州で病を理由にして解放され、明州の鑑真のもとに到る。栄叡ら、福州からの渡航を企て準備を進めるが、鑑真の渡航に反対して揚州に残った弟子霊祐らの通報により、拘束され、揚州に連れ戻される。 唐征伝                
745 4     新羅、遣使して朝貢する。 冊府971     天平17 天宝4 景徳王4 大興9
746 1・7 遣唐使を任命する。大使に石上乙麻呂、ただし派遣は中止。この時の派遣は、東大寺大仏建立のための黄金を買わせることが目的だったという。 大古8-581         天平18 天宝5 景徳王5 大興9
  懐風藻                
  略記 天平21・1・4条                
  2     新羅、賀正のため遣使し、方物を献上する。 冊府971 使臣を唐に遣わして新年を祝賀し、方物を献上。 史記9        
  3     渤海、賀正のため遣使し、馬15匹を献上する。 冊府971            
  6・18 養老度入唐留学僧玄ム、死去する。 続紀                 
  10・9 安芸国に船2艘を造らせる。 続紀                 
  10・14 養老3年に唐よりもたらされた檀像1具・仏舎利5粒がこの日までに法隆寺に施入される。 法隆寺資財帳                
  この年 渤海及び鉄利人1100余人、来朝する。出羽国に安置した後、衣糧を支給して帰国させる。 続紀  是年条                
  この頃     朝衡(阿倍仲麻呂)、儀王友に任命される 旧唐日本伝            
      新唐220日本伝            
747 1     新羅、賀正のため遣使し、方物を献上する。 冊府971 使臣を唐に遣わして新年を祝賀し、方物を献上。 史記9 天平19 天宝6 景徳王6 大興10
      渤海、賀正のため遣使し、方物を献上する。 冊府971            
748 栄叡・普照ら、揚州崇福寺に鑑真を訪ね、来日を乞う。 東征伝         天平20 天宝7 景徳王7 大興11
  6・27 鑑真ら35人、崇福寺を出発する。常州界狼山、越州界三塔山を経て、暑風山に至り、風を待つ。 東征伝                
  10・6 鑑真ら頂岸山を目指して出発するも、11月には逆風に遭い、南に流されて14日間の漂流の後、海南島に漂着する。 東征伝                
  この年     新羅使来朝し、金銀・布類・牛黄・頭髪・人参などを献上。 唐会要95新羅            
749 3     渤海、遣使して鷹を献上する。 冊府971     天平21 天宝8 景徳王8 大興12
  4・14 改元           天平感宝1      
  7・2 改元           天平勝宝1      
  12・27 天皇・聖武太上天皇・光明皇太后、東大寺に行幸し、5000人の僧に読経させる。大唐・渤海・呉楽等を奏す。 続紀                 
750 1・27 肖奈福信ら6人に、高麗朝臣の姓を賜う。 続紀          天平勝宝2 天宝9 景徳王9 大興13
2・16 唐人李元環に外従五位下授位。姓氏録に「唐人正五位下李元環」とあるのは、宝亀2年11月丁未の昇叙によるもの。 続紀                 
姓氏録 左京諸蕃上                
3     渤海、遣使して鷹を献上する。 冊府971            
9・24 遣唐使を任じる。大使藤原清河、副使大伴古麻呂、判官大伴御笠、巨万(高麗)大山、布勢人主ら。 続紀                  
続紀  天平勝宝6・4・7条                
続紀  天平勝宝6・4・18条                
  この年 鑑真ら端州竜興寺に帰着する。栄叡、ここで死去。 東征伝                
751 2・17 遣唐使雑色人113人に授位。 続紀          天平勝宝3 天宝10 景徳王10 大興14
  4・4 伊勢太神宮及び畿内七道諸社に奉幣し遣唐使の平安を祈る。 続紀                 
  11・7 吉備真備を遣唐副使に任じる。 続紀                 
752 1・25 山口人麻呂を遣新羅使に任じる。 続紀          天平勝宝4 天宝11 景徳王11 大興15
  3・3 遣唐使、拝朝。 続紀                 
  閏3・9 遣唐使を内裏に召し、節刀を給う。高麗福信を難波に派遣し、遣唐使藤原清河らに酒肴を賜う。遣唐使、入唐の途に就く。留学生膳大丘、随行。これに先立ち、藤原仲麻呂、遣唐大使藤原清河らを招き送別の宴を催す。大伴古慈悲、遣唐副使大伴古麻呂を招き、送別の宴を催す。 続紀                 
  続紀 神護景雲2・7・30条                
  万葉19‐4242〜4244・4262〜4265                
  閏3・22 大宰府、新羅王子韓阿飡金泰廉・貢調使大使金暄・送王子使金弼言ら700余人の来泊の由を報じる。 続紀                 
  閏3・28 使者を大内(天武・持統)・山科(天智)・恵我(応神)・直山(元明)等の山陵に遣わして、新羅王子の来朝を告げさせる。 続紀                 
  続紀 宝亀10・4・21条                
  6・14 これより先、新羅王子金泰廉らの入京にあたり、宣命し迎馬を賜ったのにたいし、泰廉ら馬上より答謝する。この日、拝朝し、調物を貢す。また使者370余人を率いて入朝した主旨を奏す。 続紀                 
  続紀 宝亀10・4・21条                
  6・17 朝堂で新羅使を饗宴。新羅国王以外の者の来朝にあたっては表文を持参すべきことを告げる。 続紀                 
  6・22 金泰廉ら大安寺・東大寺に赴き、礼仏する。金泰廉ら在京中に交易。 続紀                  
  銘文集成2-250・251                
  新羅使、『法花経』『梵網経』『頭陀経』等を献じる。 大古12‐288                
  6 この月、貴族・官人ら、新羅使より諸々の物品を購入。 鳥毛立女屏風下貼文書13〜27                
  7・24 新羅使金泰廉ら難波館に還る。使者を遣わして絁・布、酒肴を賜う。 続紀                 
  9・24 渤海使慕施蒙ら75人、越後国佐渡島に来着。 続紀                 
  続紀 天平勝宝5・5・25条                
  10・7 坂上老人を越後国に派遣し渤海使の消息を問わせる。 続紀                 
  この頃 正倉院南倉所蔵の佐波理加盤、新羅より日本にもたらされるか。  正倉院佐波理加盤付属文書                
      朝衡(阿倍仲麻呂)、衞尉少卿に任命される 通典185邊防1東夷上 倭            
  日本使(一説新羅使)、蕭穎士の本国招聘をはかるも実現せず 旧唐190下蕭穎士            
  新唐202蕭穎士            
  全唐文395劉太真送蕭穎士赴東府序            
753 1・1 日本使、唐朝の朝賀で新羅と席次を争い、序列を入れ替えさせる。玄宗、朝衡に命じて、遣唐使に府庫を案内させ三教殿(君主教殿・老君之教堂・釈典殿宇)を開いて見学させる。また、大使・副使の影像を作成して蕃蔵に納める。朝衡の推薦で大使・副使に官を授ける。 続紀 天平勝宝6・1・30条         天平勝宝5 天宝12 景徳王12 大興16
  善隣記                
  『東大寺要録』本願章第一所引『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝                
  東征伝                
  2・9 小野田守を遣新羅大使に任じる。 続紀                 
  3     日本、渤海等の国、遣使して賀正する。(同年1月1日と同事項か) 冊府971            
  5・25 渤海使慕施蒙ら、拝朝し、信物を貢ずる。 続紀                 
  5・27 朝堂で慕施蒙らに饗宴。授位賜禄。 続紀                 
  6・8 渤海使慕施蒙ら、帰途に就く。渤海王宛の慰労詔書を与え、渤海王が上表文を進めないことを責める。 続紀                 
  6     日本国使、来朝する。(同年1月1日と同事項か) 冊府971            
  8 日本国使、供養香の処方の書写を得る。 薫集類抄 上・跋語                
          日本国使(小野田守)到る。傲慢にして無礼により引見せずに帰国させる。 史記9        
  10・15 これより先、遣唐使に玄宗皇帝が五言詩を与え、鴻臚大卿に揚州まで送らせる。この日、遣唐大使ら揚州の鑑真のもとを訪れ、日本への渡航を請う。鑑真、承諾する。 『東大寺要録』本願章第一所引『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝                
  10・19 鑑真、随行の僧俗24人とともに江頭において遣唐使の船に乗り、蘇州に向かう。11月21日、遣唐第1・2船、阿児奈波に到着する。 東征伝                
  12・7 遣唐副使吉備真備の船、益久島に帰着する。 続紀 天平勝宝6・1・17条                
  東征伝                
  12・20 遣唐第2船、薩摩国阿多秋妻屋浦に到る。 東征伝                
  この年     朝衡(阿倍仲麻呂)、秘書監となり、次いで衞尉卿を兼ねる。帰国を許され、王維ら送別の詩を贈る 文苑英華268・296            
      全唐詩            
      新唐220日本伝            
754 1・16 遣唐副使大伴古麻呂が唐僧鑑真とその弟子らを伴って大宰府に到着したことが朝廷に報告される。 続紀          天平勝宝6 天宝13 景徳王13 大興17
  東征伝                
  律宗瓊鑑章                
  1・17 大宰府、遣唐副使吉備真備の乗船が昨年12月7日に益久島に帰着したことを報じる。この後、吉備真備の乗船、益久島を発し、紀伊国牟漏埼に漂着する。 続紀                 
  吉備真備持参の唐本霊像、大宰府学業院に置くか。 民経記 貞永1・3・16条                
  1・30 遣唐副使大伴古麻呂、帰京する。昨年元日の唐朝朝賀における席次問題等について報告。 続紀                 
  1     渤海使、賀正のため来朝する。 冊府971            
  2・4 鑑真ら入京する。勅使安宿王が羅城門外で出迎え、東大寺に安置する。 東征伝                
  『東大寺要録』本願章第一所引『延暦僧録』勝宝感神聖武皇帝菩薩伝                
  鑑真大和尚伝                
  3・10 唐国の信物を天智天皇陵に献じる。 続紀                 
  3・17 大宰府、大使藤原清河の遣唐第1船、阿児奈波から奄美島に向かい出帆した後、行方不明であることを報じる。 続紀                 
  続紀 宝亀10・2・4条                
  紀略 延暦22・3・6条                
  東征伝                
  古今和歌集目録 安倍朝臣仲麿                
  4・7 帰国した遣唐第2・3船の乗員に授位。大伴古麻呂・吉備真備に正四位下、大伴御笠・巨万大山に従五位下。この他、222人にのぼる。 続紀                 
  4・18 大宰府、布勢人主らの乗る遣唐第4船が薩摩国石籬浦に帰着したことを報じる。第4船は帰国の途中火災にあうが、川部酒麻呂の尽力で鎮火する。 続紀                 
  続紀 宝亀6・4・10条                
  7・13 布勢人主に従五位下を授ける。 続紀                 
  11・11 大唐学問生無位船夫子に外従五位下を授けるが、夫子、出家を理由に辞退する。 続紀                 
  この秋     李白、朝衡(阿倍仲麻呂)遭難の報を聞き、「哭晁卿衡」詩を作る。 李太白文集            
  朝衡ら安南に漂着する。土人に襲われて170余人は殺され、大使藤原清河、朝衡ら10余人が難を免れる。清河ら長安に戻る。 続紀 宝亀10・2・4条                
  古今和歌集目録 安倍朝臣仲麿                
  この年 この年帰国した「入唐廻使」、経論を多数持ち帰る。 大古15                
755 4     新羅、賀正のために遣使する。 冊府971 賀正のため、唐に遣使する。 史記9 天平勝宝7 天宝14 景徳王14 大興18
  6     日本国遣使方物を献ずる。 冊府971            
  11     安史の乱(〜763年1月)              
756 1*     新羅、賀正のために、成都(玄宗、安史の乱のため避難)へ遣使する。 新唐220新羅 王、唐の玄宗皇帝が蜀にいることを聞き、成都へ遣使朝貢する。玄宗はこれをほめて五言十韻詩を賜う。 史記9 天平勝宝8 天宝15 景徳王15 大興19
  6・22 筑前国の怡土城の築城開始、大宰大弐吉備真備に担当させる。 続紀                
  7・12     粛宗即位。至徳に改元。         至徳1    
(粛宗)
757 4・4 高句麗・百済・新羅の渡来人で給姓を願う者に許す。 続紀          天平宝字1 至徳2 景徳王16 大興20
  後紀 延暦18・12・5条                
  姓氏録 序                
  11・10 蕃礼を欠く新羅を武を用いずに化する法が対策で出題される。文章生紀真象が答える。 経国集20                
758 2・5     乾元に改元。       天平宝字2 乾元1 景徳王17 大興21
  2・10 藤原仲麻呂、自邸で遣渤海大使小野田守のための餞別の宴を催す。 万葉20‐4514                
  2・24 造東大寺司、東大寺大仏殿の天井を彩色するため画師を召す。新羅人伏麻呂・飯万呂も召される。 大古4                
  大古4「二月二十某日付造東大寺司召文」                
  大古4「三月十九日付画師行事功銭注文」                
  3・16 天平勝宝度の遣唐使船「播磨」「速鳥」を従五位下に叙す。 続紀                 
  4 安東都護王玄志が渤海に派遣した使者により、安禄山の乱の最新情報が伝えられ、渤海に滞在中の日本使小野田守も乱の経過を知る。 続紀 同年12・10条                
  8・1 大僧都鑑真に大和上の号を賜う。 続紀                 
  8・24 帰化新羅人の僧32人・尼2人・男19人・女21人を武蔵国の空閑地に移住させ、始めて新羅郡を置く。 続紀                 
  8・25 官号を唐風に改称、太政官を乾政官、太政大臣を大師等。 続紀                 
  8・28     新羅使来朝し、紫宸殿において宴す。 冊府976 唐へ遣使して朝貢。 史記9        
  9・18 遣渤海使小野田守ら、渤海使楊承慶・副使楊泰師ら23人を伴って帰国する。渤海使を越前国に安置。 続紀                 
  10・28 遣渤海大使小野田守に従五位上、副使高橋老麻呂に従五位下を授ける。使人66人にも授位。賀羅からの渡来人の子孫に賀羅造を賜姓する。 続紀                 
  平城宮木簡                
  12・10 遣渤海使小野田守ら安禄山の乱の詳報を報告し、唐の皇帝が渤海国王に宛てた勅書を進める。これを受け、大宰府に勅して安禄山が日本に来寇することに備え帥船王・大弐吉備真備らに厳重に警戒することを命じる。 続紀                 
  12・24 渤海使楊承慶ら入京。 続紀                 
759 1・1 渤海使、大極殿の朝賀に参列し拝賀。 続紀          天平宝字3 乾元2 景徳王18 大興22
  1・3 渤海使楊承慶ら方物を貢じ、聖武の死去を弔う渤海王大欽茂の言を奏する。 続紀                 
  1・18 渤海大使楊承慶に正三位、副使楊泰師に従三位、録事以下にも授位。国王、大使以下に禄物を賜う。朝堂で饗宴を催し、女楽。内教坊、踏歌を奏する。 続紀                 
  1・19 内射。渤海使にも行わせる。 続紀                 
  1・27 恵美押勝、田村第に渤海使を招き餞別の饗宴。内裏から女楽と綿1万屯を賜う。 続紀                 
  経国集13                
  この頃 藤原真楯、渤海使楊承慶らの餞別の宴を催す。 続紀 天平神護2・3・12条                
  1・30 高元度に外従五位下を授け、在唐の遣唐大使藤原清河を迎えるための迎入唐大使使に任命する。 続紀                 
  2・1 渤海王宛に慰労詔書を賜う。このなかで、迎入唐大使使を随伴させるので便宜を請う旨をのべる。 続紀                 
  2・16 渤海使楊承慶ら、迎入唐大使使高元度らを伴って帰途につく。 続紀                 
  6・18 新羅征討のため、大宰府に行軍式をつくらせる。 続紀                 
  8・1 鑑真、唐招提寺を創建する。 東征伝                
  8・6 大宰帥三品船親王を香椎廟に派遣して、新羅征討のことを告げさせる。 続紀                 
  9・4 渡来新羅人で帰国を願う者は粮を支給して帰国させるべきことを大宰府に命じる。 続紀                 
  9・19 新羅征討に用いるため、500艘の造船を諸国に命じる。 続紀                 
  10・18 迎入唐大使使判官内蔵全成ら、渤海使高南申らとともに対馬に漂着。高南申、中台省牒をもたらす。それによると、安禄山の乱により入唐が困難なため、迎入唐大使使高元度ら11人のみを唐に向かわせ、判官全成らは渤海より帰国させることにしたという。 続紀                 
  10・23 渤海使を大宰府に徴す。 続紀                 
  12・19 渤海使高南申、内蔵全成ら難波江口に到る。 続紀                 
  12・24 渤海使高南申ら入京する。 続紀                 
  この年 日本遣唐使一行、渤海経由で入唐の途次、登州開元寺に立ち寄る。 巡礼行記 開成5・3・7条                
760 1・1 大極殿で朝賀。渤海使も参列する。 続紀          天平宝字4 乾元3 景徳王19 大興23
  1・5 渤海使高南申ら、方物と在唐の藤原清河の上表文を献じる。 続紀                 
  1・7 孝謙上皇と天皇、閤門に御し、五位以上の官人及び渤海使、儀式に准じて列する。渤海使一行に授位。ついで饗宴を行う。 続紀                 
  1・17 渤海使、内射に参列する。 続紀                 
  2・20 渤海使高南申ら、帰途につく。外従五位下陽侯玲璆らに送らせる。在唐の遣唐大使藤原清河に文部卿(式部卿)を兼任させる。 続紀                 
  公卿補任                
  4・28 新羅人131人を武蔵国に住まわせる。 続紀                 
  閏4・19     上元に改元。         上元1    
  9・16 新羅使級飡金貞巻来朝。使人の身位が軽微であることを理由に、賓待せずに帰国させる。 続紀                 
  11・11 陽侯玲璆ら渤海より帰国する。玲璆に従五位下を授く。 続紀                
  この頃     朝衡(阿倍仲麻呂)、左散騎常侍、次いで鎮南(安南)都護に任命される 旧唐199日本伝            
      新唐220日本伝            
  この年 袁常照、日本に来朝。 後紀 延暦24・11・19条                
761 1・9 新羅征討のため、美濃国・武蔵国の少年各20人に新羅語を習わせる。 続紀          天平宝字5 上元2 景徳王20 大興24
  2・13     金嶷(新羅王族か)、宿衛となるため来朝する。 通鑑222            
  3・15 百済・高句麗・新羅・中国系の渡来人に姓を賜う。 続紀                 
  3・22 奉写一切経所、天平勝宝6年帰国の遣唐使がもたらした経典24部107巻を写す。 大古15「奉寫一切經所解」                
  3・29 光明皇太后が正倉院に寄進した薬物の一部を唐僧曇浄らに賜う。 大古4「双倉北雑物出用帳」                
  8・12 迎藤原河清使高元度ら、唐使沈惟岳らに送られて帰国。大宰府に安置する。 続紀                 
  沈惟岳とともに、張道光・晏子欽・五税児・徐公卿・孟恵芝・盧如津・沈庭勗らが来朝。 姓氏録 左京諸蕃上                
  10・10 上毛野広浜・広田小床ら6人を安芸国に遣わし、遣唐船4隻を建造させる。また唐皇帝の求めに応じて唐に送るため、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海等道の諸国に牛角7800隻の貢上を命じる。 続紀                 
  10・22 仲石伴を遣唐大使、石上宅嗣を副使に任じる。高麗朝臣大山を遣高麗(渤海)使に任じる。 続紀                 
  11・3 迎藤原河清使高元度に従五位上を授ける。錄事柱I翔は、河Cの所にとどまって帰国せず。 続紀                 
  12・16 唐人李元環に李忌寸の姓を賜う。 続紀                 
762 1・6 藤原真先を大宰府に派遣し、唐使沈惟岳らを饗応させる。 続紀          天平宝字6 上元3 景徳王21 大興25
  3・1 石上宅嗣に代えて、藤原田麻呂を遣唐副使に任じる。 続紀                 
  3・28 造石山寺所、遣渤海使高麗大山に支給する米を下す。 大古15「造石山寺所食物用帳」                
  4・15     宝応に改元。         宝応1    
  4・17 安芸国より難波江口に回航した遣唐船の1隻が破損し、航行不能となったため、遣唐使人を削減し。乗船2隻とし、中臣鷹主に節刀を賜う。 続紀                 
  4・20     代宗即位。         (代宗)    
  5・19 先に唐使副使紀喬容以下が求めていた、大使沈惟岳罷免と副使紀喬容・司兵晏子欽の責任者任命の請いに対する朝廷の対応あり。大使・副使は唐の勅使・蘇州刺史によって定められたものであり、たやすく改めるべきではない旨を明らかにする。 続紀                 
  7 送唐人使中臣鷹主ら、便風がないため渡海できず。 続紀                
  8・9 勅して、大宰府に帰着した唐使沈惟岳らを先例に准じて安置供給すべきこと、送唐人使中臣鷹主らは海路・陸路何れかをとって入京すべきこと、及びその水手は当地より帰郷させるべきことを命ず。 続紀                 
  続後紀  承和3・8・2条                
  9     新羅、遣使朝貢。(粛宗の弔問と代宗即位慶賀のためか。) 冊府972 唐へ遣使して朝貢。 史記9        
  10・1 遣高麗副使伊吉益麻呂ら帰国。随行の渤海使王新福らを越前国加賀郡に安置する。大使高麗大山は渤海からの帰途、船中で罹病し、佐利翼津で没する。 続紀                 
  11・1 借緋多治比小耳を送高麗人使に任じる。 続紀                 
  11・16 藤原巨勢麻呂・土師犬養を派遣して香椎廟に奉幣。新羅征討の軍旅調進を告げる。 続紀                 
  12・11 故遣高麗大使従五位下高麗大山に正五位下を贈位。副使正六位上伊吉益麻呂に外従五位下を授け、判官以下にも授位する。 続紀                 
  閏12・19 高麗使王新福ら入京する。 続紀                 
  この年     渤海郡王、唐より国王に進封される。 旧唐199下渤海靺鞨            
763 1・1 大極殿で朝賀。高麗使も参列し、拝賀する。 続紀          天平宝字7 宝応2 景徳王22 大興26
  1・3 高麗使王新福、方物を貢じる。 続紀                 
  1・7 天皇、閤門に出御。高麗大使王新福に正三位、副使李能本に正四位上など外交使節に授位。国王、使者の{人以上に禄を賜う。 続紀                 
  1・17 閤門に出御。五位以上、高麗使らを饗宴。朝堂で唐・吐羅・林邑・東国・隼人等の楽を作す。高麗使らに綿を賜う。高麗使王新福、唐の安禄山の乱について報じ、史朝義が勢力を伸長し、朝廷が劣勢なこと等をのべる。大宰府に勅して、唐の内乱が終息しないため、唐使沈惟岳らを安置優遇し、帰国を願った場合には駕船・水手を供与すべきことを命じる。 続紀                 
  1・21 高麗使、内射に参列する。 続紀                 
  1・24 造東大寺司主典志斐麻呂ら、高麗客人礼仏会の日、楽器を破損したことを報告する。 大古16-324                
  2・4 恵美押勝、自第で高麗使を饗応する。 続紀                 
  2・10 新羅使級飡金体信ら211人、朝貢。大原今城・池原禾守らを遣わして、先年の金貞巻への命について尋問させる。金体信が貢調の意をのべるばかりで余事は知らずと答えたため、入京を許さず帰国させる。 続紀                 
  2・20 渤海使王新福ら帰途につく。 続紀                 
  4     新羅、遣使朝貢。その使に検校禮部尚書を授ける。 唐会要95新羅 唐へ遣使して朝貢。 史記9        
  7・11     広徳に改元。         広徳1    
  8・12 初めて「高麗国」(渤海)に派遣した船の「能登」に従五位下を授く。 続紀                 
  10・6 これより先、板持鎌束、渤海使王新福を送って渤海に到り、日本人留学生高内弓一家及び入唐僧戒融らを伴って帰途に就く。途中、海上で暴風のため遭難、風を鎮めるため、内弓の妻高氏らを海に投下し、10余日後、隠岐国に漂着。この日、罪を得て禁獄される。 続紀                 
  博雅笛譜 奥書                
764 1・7 在唐の遣唐大使藤原清河に従三位を授ける。 続紀          天平宝字8 広徳2 景徳王23 大興27
  公卿補任                
  7・19 新羅使大奈麻金才伯ら91人、大宰府博多津に来着する。紀牛養・粟田道麻呂らを派遣して尋問させる。日本僧戒融の帰国についての問いに、昨年10月に渤海より帰国した旨を伝える。 続紀                 
  3・10 大宰大弐佐伯今毛人を築怡土城専知官、少弐采女浄庭を修理水城専知官とする。 続紀                
765 4*     新羅王金献英(景徳王)、遣使朝貢。その使に検校禮部尚書を授ける。 冊府972 唐へ遣使して朝貢し、唐帝(代宗)より検校禮部尚書の職を授けられる。 史記9 天平神護1 永泰1 景徳王24 大興28
      冊府976        
  6*     新羅王金憲英(景徳王)卒す。その子乾運(恵恭王)を新羅王とする。 旧唐199上新羅 景徳王薨ず。その子恵恭王即位。 史記9(景徳王24年条)     景徳王24/  
恵恭王1
      新唐220新羅 史記9(恵恭王即位前紀)        
      通鑑224        
  この頃     鴻臚卿高智周、日本から金帛を贈られるも受け取らず、牋に書をしたため副使に与えるという 新唐106高智周            
766 2・8 入唐学問僧普照の母白猪与呂志女に従五位下を授ける。 続紀         天平神護2 永泰2 恵恭王2 大興29
  5・8 上野国の新羅人子午足ら193人に吉井連の姓を賜う。 続紀      
  10・21 前日の舎利会で唐楽を演奏した唐人李元環に従五位上、袁晋卿、皇甫東朝・皇甫昇女に従五位下を授ける。 続紀      
  11・12     大暦に改元。   大暦1
767 7     渤海、遣使朝貢する。 冊府972     神護景雲1 大暦2 恵恭王3 大興30
      旧唐11 同年8月条            
  7*     新羅景徳王が卒し、その子恵恭王が即位したことを以て、新羅はその臣金隠居を遣わして冊命を加えるよう請う。金隠居は翌年5月に帰国か。(翌年5月参照) 旧唐199上 新羅 唐へ金隠居を派遣して方物を貢じ、冊命を加えるよう請う。唐皇帝(代宗)紫宸殿にて引見する。 史記9        
  新唐220新羅        
  冊府965        
  冊府972        
  8     渤海、遣使朝貢する。 冊府972            
  9     渤海、遣使朝貢する。 冊府972            
  11     渤海、遣使朝貢する。 冊府972            
  12     渤海、遣使朝貢する。 冊府972            
  この頃     大暦2年から10年に至るまで渤海、ある時は頻りに、またある時は隔年で来朝し、1年の間に2・3度来朝することもあったという。また、『新唐書』によれば大暦中には25回来朝したとする。 旧唐199下 渤海靺鞨            
      新唐219渤海            
768 1・19     帰崇敬を大使、陸珽・顧愔を副使として冊書を携えて新羅に派遣し、乾運(恵恭王)を開府儀同三司新羅王に冊封し、併せて王母を太妃に冊封する。 旧唐199上 新羅 唐皇帝代宗、倉部郎中兼御史中丞の帰崇敬を遣わして王を冊封して、開府儀同三司新羅王とする。あわせて王母の金氏を大妃に冊封。 史記9 神護景雲2 大暦3 恵恭王4 大興31
  新唐220新羅        
  冊府976        
  2・28 筑前国怡土城、完成する。 続紀                
  5・23     紫宸殿において新羅使に宴す。帰国に際しての宴か(権氏年表)。 冊府976            
  6・28 天智2年に百済から亡命した沙門詠の子孫高丘比良麻呂没する。 続紀                
  7・30 天平勝宝4年の入唐留学の際、唐において孔子を文宣王と称していることを知った膳大丘の請いを認め、我が国でも文宣王と称することを許す。この日、太政官符を下す。 続紀                
  三代格10        
  集解 学令釈奠条所引官符        
  9     新羅遣使朝貢する。 冊府972 唐へ遣使して朝貢する。 史記9        
  10・24 新羅交関物を購入するため、大臣以下に大宰綿を賜う。左右大臣に各2万屯、大納言白壁王・弓削御浄清人に各1万屯、文室浄三に6000屯、文室大市・石上宅嗣に各4000屯、伊福部女王に1000屯。 続紀                
  10・30 井上内親王に大宰綿1万屯を賜う。 続紀                
769 3     渤海、遣使朝貢する。 冊府972     神護景雲3 大暦4 恵恭王5 大興32
  10・29 養老度の入唐請益生大和長岡没する。 続紀                
  11・12 新羅使級飡金初正ら187人と導送者39人、対馬に到着。 続紀                
  12・19 大伴伯麻呂・津真麻呂らを大宰府に派遣して、新羅使に来朝の事情を尋問させる。 続紀                
  12     渤海、遣使朝貢する。 冊府972            
770 1 阿倍仲麻呂(朝衡)没する。潞州大都督を贈られる。 古今和歌集目録 安倍朝臣仲麿         宝亀1 大暦5 恵恭王6 大興33
  3・4 在唐日本人藤原河清・阿倍仲麻呂らが新羅の入唐宿衛王子に託した書状を転送するために派遣されたとする新羅使金初正らにたいし、先年の金貞巻との約束を守らないため賓待しないが唐の情報並びに藤原河清らの書状を伝えたことは嘉尚するとし、大宰府における饗応と禄物支給、新羅国王への贈物などを与える。 続紀                
771 6・27 渤海使壱万福ら325人、17隻の船に駕して、出羽国の賊地野代湊に来着。常陸国に移す。渤海使、8年前に帰国した日本使内雄の安否を問う。 続紀         宝亀2 大暦6 恵恭王7 大興34
  10・14 渤海使壱万福ら40人を朝賀に参列させるため、入京を命じる。 続紀                
  11・1 使者を安芸国に派遣し、遣唐船4隻を建造させる。 続紀                
  12・21 渤海使、入京する。 続紀                
772 1・1 光仁天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。渤海使も参列し、拝賀する。 続紀         宝亀3 大暦7 恵恭王8 大興35
  1・3 渤海使壱万福ら、「表」と方物を貢じる。 続紀                
  1・16 これより先、壱万福が進めた渤海王の表に、日付の下に官品姓名を記さず、書尾に天孫と記すなど違例・無礼の個所があるため、壱万福を責める。 続紀                
  1・19 渤海王の信物を壱万福に返却する。 続紀                
  1・25 渤海使壱万福、表文を改修し、国王に代わって陳謝する。 続紀                
  2・2 五位以上と渤海使を朝堂で饗宴。大使壱万福に従三位、副使慕昌禄に正四位下、大判官に正五位上、少判官に正五位下、録事並びに訳語に従五位下、着緑の品官以下に授位する。国王に贈る美濃絁30疋等を付し、壱万福らにも禄物を与える。 続紀                
  2・28 渤海使壱万福に渤海王宛の慰労詔書を付す。渤海王の書の無礼の個所を指摘し、高句麗王高氏時代に比べて礼に欠ける旨を述べる。 続紀                
  2・29 渤海使壱万福ら帰途につく。武生鳥守らに送らせる。留学僧永忠も同行し、渤海を経て入唐か。 続紀                
  入唐記          
  元亨16永忠          
  善隣記                
  5・27*     新羅使金標石、賀正のため来朝し、衛尉員外少卿を授けて帰国させる。 旧唐199上 新羅 伊飡の金標石を新年賀正のため唐に派遣する。衛尉員外少卿を授かり、帰国する。 史記9 同年1月条        
  冊府972        
  冊府976        
  唐会要95新羅        
  9・21 送渤海客使武生鳥守と渤海使壱万福ら出帆後、暴風に遭い、能登国に漂着。能登国福良津に安置させる。 続紀                
  12     渤海、遣使して朝貢する。 旧唐11            
  冊府972        
  この年 日本僧誡明・得清ら揚州に到り、『勝鬘経義疏』『法華義疏』4巻を竜興寺霊祐に贈る。 勝鬘経義疏義私鈔                
  大毘盧遮那成道経義釈目録縁起        
  平遺9-4541・4542        
773 2・16 太政官符を中務省に下し、安芸国で建造の船を浮かばせるために派遣した物部和麻呂・物部飯床・尾張淡海らに禄を支給させる。 大古21-276         宝亀4 大暦8 恵恭王9 大興36
  2・20 渤海副使慕昌禄没する。従三位を贈り、賻物を賜う。 続紀                
  4     新羅、新年賀正のため遣使し、金銀・牛黄などを献上する。 旧唐199上 新羅 使臣を唐に遣わして、金銀・牛黄・魚牙紬・朝霞紬などを献上。 史記9        
  冊府972        
  唐会要95新羅        
  渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  6・12 能登国、渤海大使烏須弗ら40人の来着を報じる。先年帰国の日本使内雄が、無事に帰着したか不明なため壱万福を派遣したが4年を経過しても万福が帰国しないためだとする来朝の旨を伝える。 続紀                
  6・24 使者を派遣して、渤海使烏須弗に太政官処分を伝えさせる。壱万福らは表文が違例・無礼であったため入京を許さずに帰国させたこと、渤海使は今後旧例により大宰府を経由して来朝すべきことを重ねて告げる。 続紀                
  6     新羅、謝恩使を派遣し、代宗は延英殿にて引見。 冊府972 唐に謝恩使を派遣し、延英殿にて引見。 史記9        
      渤海、新年賀正のため遣使し、代宗は延英殿にて引見。 冊府972            
  10・13 送壱万福使武生鳥守ら、渤海より帰国する。 続紀                
  11     渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  閏11     渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  12     渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
774 1     渤海使来朝する。 冊府972     宝亀5 大暦9 恵恭王10 大興37
  2・22     渤海の質子大英俊、延英殿にて辞見し、放還。前月に来朝した渤海使とともに帰国するか。 冊府996            
  3・3 新羅を警戒して大宰府に四天王像4体を造らせる。 三代格2                
  3・4 紀広純・内蔵全成らを大宰府に派遣し、先に来泊した新羅使沙飡金三玄ら235人の来朝の事情を尋問させる。三玄、国信物と在唐の藤原河清の書状をもたらしたことをのべる。調を信物と称するなどの新羅使の無礼の言動を理由に、渡海料を支給して帰国させる。 続紀                
  4     新羅遣使朝貢する。 冊府972 唐へ遣使して朝貢する。 史記9        
  5・17 大宰府に勅して、最近しきりに来着する新羅人は投化ではなく、漂着が多いため、今後は必要な船や食料を支給して帰国させることを命じる。 続紀                
  三代格18                
  10・3 天智2年に百済から亡命した国骨富の子孫国中公麻呂、没する。 続紀                
  10*     新羅、新年賀正のため遣使来朝する。延英殿にて引見し、衛尉員外郎を授け、帰国させる。 冊府972 新年賀正のため唐に派遣する。延英殿にて代宗に引見し、員外衛尉卿(衛尉員外郎か)を授かり、帰国する。 史記9        
  冊府976同年11月条        
  12     渤海使来朝する。 冊府972            
775 1     新羅、遣使朝貢する。 冊府972 唐へ遣使して朝貢する。 史記9 宝亀6 大暦10 恵恭王11 大興38
  渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  5     渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  6・19 遣唐使を任命する。大使に佐伯今毛人、副使大伴益立、藤原鷹取。判官録事各4人。安芸国で遣唐使船4隻を造らせる。 続紀                
  6     新羅遣使朝貢する。 冊府972 唐へ使臣を派遣する。 史記9        
      渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  8・29 録事羽栗翼に外従五位下を授け、准判官とする。 続紀                
  10・2 前右大臣吉備真備没。 続紀                
  12     渤海、遣使して朝貢する。 冊府972            
  この年 伊與部家守、遣唐使の一員となる(遣唐使明経請益)。唐で『五経大義』『切韻』『説文字躰』を習い、『春秋』公羊・穀梁伝を読習したという。 紀略 延暦19・10・15条                
  集解 学令経周易尚書条所引 延暦17・3・18官符        
776 4・15 紫宸殿において遣唐大使佐伯今毛人・副使大伴益立に節刀を賜う。在唐の藤原河清宛の書を付し、今回の遣唐使とともに帰国すべきことを命じる。 続紀         宝亀7 大暦11 恵恭王12 大興39
  7     新羅使来朝し、方物を献じる。 冊府972 唐へ使臣を遣わして方物を献ずる。 史記9        
  閏8・6 風を得ることができず、博多大津に引き返していた遣唐使船をそのまま待機させる。 続紀                
  9・15 遣唐使を優遇するため、使人に国司を兼ねさせ職田を支給するが、現地には赴任しないので、事力は宛行わないこととする。 三代格 承和1・8・20太政官符所引宝亀7・9・15太政官府                
  10     新羅遣使朝貢する。 冊府972 唐へ使臣を派遣する。 史記9        
  11・15 大使佐伯今毛人、大宰府より帰京し、節刀を返進する。 続紀                
  12・14 遣唐副使大伴益立に代えて、小野石根、大神末足を副使に任命する。 続紀                
  12・22 渤海使史都蒙ら来朝。越前国加賀郡に安置する。光仁天皇の即位を賀し、渤海王妃の喪を告げるため、187人で日本に向かったが、日本近海で遭難。越前国加賀郡・江沼郡に漂着したさいの生存者は46人。 続紀                
777 1・3 遣唐副使小野石根に播磨守を兼ねさせる。 続紀         宝亀8 大暦12 恵恭王13 大興40
  1・8     渤海使、日本国舞女11人及び方物を献ず。 旧唐11            
  旧唐199下渤海靺鞨        
  新唐219渤海        
  冊府972        
  1・20 使者を遣わして、渤海使を尋問させる。来日のさいには大宰府に到るべしとした宝亀4年の太政官処分に反して加賀国に来着したことを質す。史都蒙ら、本国の南海府吐号浦を発して対馬島竹室津を目指したが、悪風に遭って、当地に流されてしまった旨を答える。 続紀                
  2・6 遣唐副使小野石根、天神地祇を春日山麓に祀る。便風なく渡海できなかったこと、遣唐使人が頻りに交替したことによる。 続紀                
  2・20 渤海使史都蒙ら46人を入京させる。はじめ30人に限り入京させようとしたが、史都蒙、来着の経緯を述べ、生存者全員の入京を請うにより、これを許す。 続紀                
  2     渤海、遣使して鷹を献上する。 冊府972            
  4・9 渤海使史都蒙ら入京。 続紀                
  4・10 太政官、使者を遣わして渤海使を慰問。 続紀                
  4・17 遣唐大使佐伯今毛人ら辞見。今毛人、羅城門に到ると病気と称して留まる。 続紀                
  4・21     渤海、遣使朝貢する。 旧唐11            
  旧唐199下渤海靺鞨        
  冊府972        
  4・22 渤海使史都蒙ら方物を貢し、光仁天皇即位への渤海王の賀を奏す。遣唐副使小野石根を先発させ、大使の代行をさせる。 続紀                
  4・27 渤海大使史都蒙に正三位など授位。また国王への禄物を賜う。 続紀                
  5・7 渤海使、騎射に列し、本国の楽を奏す。 続紀                
  5・10 日本への渡海の際に遭難死した渤海使判官高淑源に正五位上、少録事某に従五位下を贈る。 続紀                
  5・23 渤海使史都蒙ら帰途につく。高麗殿継を送使とする。都蒙らに渤海王宛の慰労詔書を賜い、王妃の喪を弔する。なお、年弱冠の橘清友が、良家の子で姿儀魁偉のゆえに渤海使の接待役にあてられる。都蒙、清友を見て、子孫は「大貴」となることを語る。清友の女・嘉智子は嵯峨天皇皇后となり、仁明天皇を産む。 続紀                
  文実  嘉祥3・5・5条        
  6・1 遣唐副使小野石根・大神末足らに勅して、大使佐伯今毛人は重病で同行できないため、唐で大使不在を問われた場合事を量って対応すべきこと、石根は副使と称するが紫衣を著し、持節行事は先勅のごとくすべきことを命じる。 続紀                
  6・24 遣唐船4隻、唐に向け出帆。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  6・24 玄覚法師、八島聖皇(早良親王)の命により遣唐請益となり渡唐するか。 『三論祖師伝集』巻下「三論師資伝」                
  7・3 遣唐使船第1・3船、揚州海陵県に到着。 続紀 宝亀9・10・23条                
  8・29 遣唐使、揚州大都督府に到る。観察使兼長史陳少遊、式例により安置供給する。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  10・15 日本使羽栗翼、先年昆解宮成が丹波国で採掘したとする白鑞という鉱物を持参し揚州の鋳工に見せたところ、「鈍隠」と答える。唐では私鋳銭に用いられるという。この日、日本使副使小野石根・同大神末足ら、長安に向けて出発。安禄山の乱により、路次の館駅が彫弊しているため、上京の員数を限られ、65人で出発。その後、中書門下の牒により、上京に用いる車馬欠乏のため、更に員数を20人に限られる。日本使の要請により23人を加え、総勢43人で長安に向かう。 続紀 天平神護2・7・26条                
  続紀 宝亀9・10・23条        
  続紀 宝亀9・11・13条        
  12     新羅遣使来朝し、方物を献じる。 冊府972            
  渤海遣使来朝し、方物を献じる。 旧唐199下渤海靺鞨        
  冊府972        
778 1・13 日本使、長安に到着。内使趙宝英が迎え、外宅に安置される。遣唐使に加わった「東大寺唐学生」円覚、淡海三船著の『起信論注』を携えて入唐し、越州龍興寺の僧裕覚に示す。 続紀 宝亀9・10・23条         宝亀9 大暦13 恵恭王14 大興41
  続紀 宝亀9・11・13条        
  金剛寺所蔵『龍論鈔』所引『延暦僧録』        
  1・15 日本使、宣政殿において礼見。皇帝、出御せず。この日、国信物・別貢物等を進める。皇帝、大いに喜んで郡臣に班示する。 続紀 宝亀9・10・23条 日本国遣使して朝貢する。 冊府972            
  3・22 延英殿で日本使を謁見。「内裏」で設宴(『続紀』11月13日条は24日とする)。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  4・19 趙宝英らに答信物を持たせて日本に派遣すること、その駕船は揚州に命じて建造させること等の勅旨を監使楊光耀が伝える。 続紀 宝亀9・10・23条                
  4・24 日本使、辞見。唐朝より答信物を受ける。送使趙宝英らと共に帰路につく(『続紀』11月13日条は22日とする)。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  4・30 これより先、宝亀7年に遭難死した渤海使30人の遺体、越前国江沼・加賀2郡に漂着。この日、遺体を埋葬させる。 続紀                
  続紀 宝亀7・12・22条        
  6・24 日本使、揚州に到る。唐使の用船は短期間では完成しがたいため、便宜、日本使船に分乗することとする。第1・2船は揚子江口に、第3船は揚州海陵県に、第4船は楚州塩城県に停泊。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  9・3 日本使第1・2船、揚子江口を発し、蘇州常熟県に停泊し、順風を待つ。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  9・9 日本使第3船、正南風を得て、揚州海陵県を出帆。3日後、逆風に遭って沙上に乗り上げ損壊。修造して10月16日出帆。 続紀 宝亀9・10・23条                
  続紀 宝亀9・11・13条        
  9・21 送渤海客使(渤海客=史都蒙)高麗殿嗣、渤海の送使張仙寿らを伴って、越前国坂井郡三国湊に帰着。越前国に勅して、送渤海使並びに渤海使を便処に安置し、殿嗣1人のみ早く入京させる。 続紀                
  続紀 宝亀9・10・6条        
  続紀 宝亀10・1・1条        
  続紀 宝亀10・1・5条        
  10・6 送渤海客使高麗殿嗣に従五位下を授ける。 続紀                
  10・23 遣唐使第3船、唐使と共に肥前国松浦郡橘浦に帰着。乗船の判官小野滋野、入唐・帰国の経緯を奏す。 続紀                
  10・25 大宰府、遣唐使の帰着を朝廷に報ず。 続紀                
  10・28 大宰府に勅して、遣唐使に同行の唐使を労問すべきこと、判官小野滋野を速やかに上京させるべきことを命ず。 続紀                
  11・5 日本使第1・2船、蘇州を出帆。 続紀 宝亀9・11・13条                
  11・8 日本使第1船、暴風に遭い、乗船の副使小野石根ら38人、唐使趙宝英ら25人、海中に没す。 続紀 宝亀9・11・13条                
  続紀 宝亀10・2・4条        
  11・10 これより先、遣唐使第4船、唐よりの帰途耽羅島に漂着。乗員の内、海上三狩らは島人に抑留されたが、韓国源ら40余人は脱出し、この日、薩摩国甑島郡に漂着。 続紀                
  11・11 日本使船、海上で舳艫に分断される。 続紀 宝亀9・11・13条                
  11・13 遣唐使第2船(副使大神末足ら乗船)、薩摩国出水郡に帰着。また遣唐使第1船に乗り組み、海上で遭難して分断された船の舳に乗った判官大伴継人・在唐の藤原河清の娘(喜娘)ら41人。肥後国天草郡仲島に漂着。同じく艫に乗った主神津守国麻呂・唐使判官孫興進ら56人、薩摩国甑島郡に漂着。 続紀                
  11・18 唐使送還のための船2艘を安芸国に造らせる。 続紀                
  11・19 藤原鷹取・健部人上を遣わして唐使を労問させる。 続紀                
  12・15 唐使の入京を迎えるため、左右京職に命じて、六位以下の子孫で騎兵に堪える者800人を徴発させる。 続紀                
  12・17 布勢清直を送唐客使に、甘南備清野、多治比浜成を同判官に任命。大網広道を送高麗客使に任命。また故唐使趙宝英に絁80匹・綿200を贈る。 続紀                
  続後紀 承和3・4・18条        
  12・18 唐人袁晋卿に姓清村宿禰を賜う。 続紀                
  12・26 唐客の拝朝の儀衛のために蝦夷を陸奥・出羽より召す。 続紀                
779 1・1 光仁天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。渤海使も参列。 続紀         宝亀10 大暦14 恵恭王15 大興42
  1・5 渤海使張仙寿ら、方物を献じ、高麗殿嗣らが遠夷の地に漂着して乗船が破損したため、船2艘を造り、張仙寿らに殿嗣らを送り入朝させる旨の渤海王の奏言を述べる。 続紀                
  1・7 五位以上と渤海使張仙寿らを朝堂で宴す。渤海使に授位と賜禄する。 続紀                
  1・16 五位以上と渤海使を朝堂で宴す。 続紀                
  1・18 内射が行われ、渤海使も参加。 続紀                
  2・2 渤海使、帰国の途につく。渤海王への「璽書」(慰労詔書)と信物を渤海使に付す。 続紀                
  2・4 唐に客死した天平勝宝5年度遣唐大使藤原清河に従二位、宝亀8年度遣唐副使として入唐し、帰途遭難死した小野石根に従四位下を贈る。 続紀                
  2・13 下道長人を遣新羅使に任命し、唐よりの帰途新羅に漂着した遣唐判官海上三狩及び唐使高鶴林らを迎えに行かせる。 続紀                
  続紀 宝亀10・5・17条        
  続紀 宝亀11・1・5条        
  3・10 遣唐副使大神末足ら帰京。 続紀                
  3         金巌を日本に遣わす 史記43 金庾信下        
  東国通鑑        
  4・21 領唐客使、唐使が行列の左右に旗を立てることは禁止、また拝謝の礼について、遣唐使の唐における例、来日新羅使・渤海使の例を挙げ、何れに准拠すべきかを問う。このため進退の礼・行列次第に関する別式を領唐客使の許に送る。また遣唐副使大神末足に正五位下、小野滋野・大伴継人に従五位下、上毛野大川に外従五位下を授ける。 続紀                
  4・30 唐使、入京。将軍ら騎兵200・蝦夷20人を率いて、京城門外の三橋において迎える。 続紀                
  大沢清臣本 壬生官務家文書        
  5・3 唐使孫興進・秦怤期ら朝見し、唐朝の書及び信物を進める。詔報して遠路来朝を慰労。朝見に際し、唐は大国、日本は小国であるので、藩国の儀を用いるべしとする意見と、古より大小強弱にかかわらず、自分の君主を他の君主の上位におこうとするのが忠臣義士の取るべき姿勢であるとする主張が対立。多く後者の意見に理あることを認めるが、礼見に際しては、御座を降る(藩国の儀を取る)という。 続紀                
  大沢清臣本 壬生官務家文書        
  5・17 唐使の饗宴を朝堂において催す。物部(石上)宅嗣、勅を宣し、唐朝の天子以下の安否を問い、また海上で遭難した人々を哀悼し、更に来朝後の道中の様子を問う。孫興進ら、本国平安であること、また路次の国々の供給が法の如く行われていたことを答える。勅して位階を授け、禄物を支給。 続紀                
  5・20 中臣清麿、私第において唐使を饗す。勅して綿3000屯を賜う。 続紀                
  5・21     代宗死去。              
  5・23     徳宗即位。              
  5・25 唐使孫興進ら辞見。物部宅嗣、勅を宣し、新造船2艘に送使を付して送ること等を述べ、航海の無事を祈る。孫興進ら答謝。 続紀                
  5・26 前遣唐留学生阿倍仲麻呂が唐で死亡し、その遺族が窮乏あいているため、勅して東絁100疋・白綿300屯を賜う(送唐客使布勢清直に託して唐に送るか)。 続紀                
  5・27 唐使孫興進ら、帰途に就く。 続紀                
  7・10 大宰府、遣新羅使下道長人ら、遣唐判官海上三狩らを連れて帰国したことを報ず。この時、唐使高鶴林ら5人及び新羅使薩飡金蘭蓀・副使級飡金巌ら共に到る。 続紀     金巌、王命を受けて日本に到る。日本国王、彼が賢明な事を知り、留めようとするも、翌年帰国(翌年1・6に叙位。同日、日本の事項欄参照)。 史記43 金庾信下        
  続紀 宝亀10・10・17条        
  続紀 宝亀11・1・6条        
  9・14 これより以前、渤海と鐡利359人、慕化入朝し、出羽国に滞在。例により供給するが、使者が軽微なため、「賓」とはせず放還。但し、来船の修造を行なう。 続紀                
  続紀 宝亀10・11・9条        
  続紀 宝亀10・11・10条        
  続紀 宝亀10・12・22条        
  9・27 陸奥・出羽国に勅して、常陸国の調絁・相模国の庸綿・陸奥国の税布を用いて渤海・鐡利人らの禄とする。また、出羽国に滞在中の渤海・鐡利人359人については、今は厳寒であり海路も危険が多いため、今年、滞在を願う場合はそれを許す。 続紀                
  10・9 大宰府に勅して、新羅使金蘭蓀らの来朝の事情を尋ね、また表函を所持していれば、渤海の例に准じて案文を書写して進めるべきことを命ず。 続紀                
  10・17 大宰府に勅して、唐使判官高鶴林ら5人及び新羅使金蘭蓀ら来朝の事情を尋問させる。 続紀                
  11・3 大宰府に内蔵全成を遣わし新羅使の入朝理由を問わせる。 続紀                
  11・9 検校渤海人使に勅して、押領高渾弼らが進める表文は無礼であるからこれを京進させないこと。また、筑紫に来航せず巧言して、便宜を求めたことについて、今後そのようなことのないようにさせる。 続紀                
  11・10 検校渤海人使、鐡利官人と渤海通事高説昌が座を争うことを伝える。この日、太政官処分して、高説昌を鐡利官人の上に列す。 続紀                
  12・22 これより以前、検校渤海人使、渤海使押領高洋弼らが乗船が損壊したため、船9隻を給与されることを請い、この日、許される。 続紀                
  是年 これより先、宝亀9年留学僧戒明、帰国。この年、京中の諸僧、大安寺に集まり、『大仏頂経』は偽経であるとして廃棄せんこと奏するため連署するが、戒明、敢えて連署せず。 『日本高僧伝要文抄』3所引『延暦僧録』                
780 1・2 光仁天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。唐使・新羅使らも参列し、拝賀。 続紀         宝亀11 建中1 恵恭王16 大興43
  1・5 新羅使、方物を献じ、調を貢し、兼ねて元正を賀する旨などを述べる。唐使・新羅使の饗宴を朝堂において催す。 続紀                
  1・6 新羅使に授位。大使薩飡金蘭蓀に正五位品上、副使級飡金巌に正五品下、大判官韓奈麻薩仲業・少判官奈麻金貞楽・大通韓奈麻金蘇忠3人に従五品下を授け、当色並びに履を賜う。その他の者にも授位。 続紀     薩仲業(翰林薛仲業・薛判官)は著名な僧元曉の孫で、日本滞在中、日本の上宰(一説に石上宅嗣)と相語るといい、また日本国の真人(一説に淡海御船=真人元開)より贈られた詩序に、『金剛三昧経論疏』の著者元暁の孫に遇えたことを喜び、詩を贈るとあるという。 史記46 薛総        
  高仙寺誓幢和上塔碑文(『朝鮮金石総覧』上)        
  1・7 五位以上及び唐使・新羅使の饗宴を朝堂において催す。 続紀                
  1・16 唐使及び新羅使のために、大射及び踏歌を行う。 続紀                
  2・15 新羅使金蘭蓀ら帰途に就く。新羅国王宛の慰労詔書を託し、金蘭蓀ら表文を所持せず本来ならば入京させずに放置すべきところ、海上三狩ら護送の労により賓礼をもって遇したこと、今後の使者は必ず表文を齎すべきこと、大宰府及び対馬に、表文を所持しない使者は入境させてはならない旨命じたことなどを述べる。 続紀                
  2・19 なお、この時「東大寺唐学生」円覚が、淡海三船著の『起信論注』を携えて入唐し、越州龍興寺の僧覚に示す。 金剛寺所蔵『龍論鈔』所引『延暦僧録』「淡海居士(淡海三船)伝」逸文 日本国大使真人興能、方物を献ず。 冊府972            
  旧唐12        
  台湾国立中央図書館所蔵『唐会要』        
  新唐220日本        
  文献通考324        
  清異録        
  3・3 出雲国、金銅鋳像・白銅香炉ならびに種々の器物が海岸に漂着したことを報ず。 続紀                
  4*     乾運(恵恭王)が死去し、彼には子が無かったので、国人(新羅人)は上相の金良相(宣徳王)を立てて王とした。あるいは783年のことか。(783年この年の項参照。) 旧唐199上 新羅 伊飡金良相ら、挙兵して恵恭王を殺害。良相、王位に即く(宣徳王)。あるいは783年のことか。(783年この年の項参照。) 史記9(恵恭王16年条)     恵恭王16/宣徳王1  
  新唐220新羅 史記9(宣徳王紀)     宣徳王1  
  唐会要95新羅          
  冊府965        
  5・11 左京の人莫姓百足・同真士麻呂らに清津造、左京の人斯搓s麻呂に清海造、右京の人燕乙麻呂らに御山造、韓男成らに広海造、武蔵国新羅郡の人沙良真熊らに広岡造、摂津国豊島郡の人韓人稲村に豊津造の姓を賜う。このうち沙良真熊は新羅琴の名手として知られる。 続紀                
  文実  嘉祥3・11・6条        
  文実  天安2・5・15条        
  10     渤海、遣使朝貢する。 冊府972            
  11・26 唐人沈惟岳に従五位下を授ける。 続紀                
  12・4 唐人沈惟岳に姓清海宿禰を賜い、左京に編付。 続紀                
  姓氏録 左京諸蕃上         
  この年 宝亀度遣唐録事(准判官)羽栗翼、宝応五紀暦経を献じ、唐では現在、大衍暦を停めて、ただこの暦経を用いるのみと述べる。 三実 貞観3・6・16条                
  三代格17貞観3・6・16官符        
781 6・24 送唐客使布勢清直ら、唐より帰国し、節刀を返進。この時、永忠も帰国するか。永忠は『律呂施宮図』・『日月図』・律管を齎すという。 続紀         天応1 建中2 宣徳王2 大興44
  元亨16 永忠伝        
  9・22 送唐客使従五位下布勢清直に正五位下、判官正六位下多治比浜成・甘南備浄野(清野)に従五位下を授ける。 続紀                
  続後紀 承和3・4・18条        
782 閏1     新羅、遣使して朝貢する。 冊府972 唐に使臣を派遣する。 史記9 延暦1 建中3 宣徳王3 大興45
  5     渤海、遣使朝貢する。 旧唐199下渤海靺鞨            
  冊府972        
783 この年*     乾運(恵恭王)が死去し、彼には子が無かったので、国人(新羅人)は上相の金良相(宣徳王)を立てて王とした。あるいは780年のことか。(780年4月の項参照。) 旧唐199上 新羅 伊飡金良相ら、挙兵して恵恭王を殺害。良相、王位に即く(宣徳王)。あるいは780年のことか。(780年4月の項参照。) 史記9(恵恭王16年条) 延暦2 建中4 宣徳王4 大興46
  新唐220新羅 史記9(宣徳王紀)        
  唐会要95新羅          
  冊府965          
784 6・2 唐人賜緑晏子欽・徐公卿らに、姓栄山忌寸を賜う。 続紀         延暦3 興元1 宣徳王5 大興47
  姓氏録 左京諸蕃上         
  6・9 行賀法師を少僧都とする。行賀は天平勝宝4年に入唐留学生として唐に渡り、唐に31年在住し、この頃帰国したらしい。『聖教要文』500余巻を将来する。 類史巻147撰書 延暦22・3・8条                
  略記 延暦22・3・8条        
  紀略 延暦22・3・8条        
  6・14 唐人孟恵芝・張道光らに姓嵩山忌寸、吾税児に姓永国忌寸を賜う。 続紀                
  姓氏録 左京諸蕃上         
  この年     新羅僧道義、使臣の韓粲(大阿飡の別称)金譲恭に随って入唐し、五台山へ赴く。 祖堂集17雪嶽陳田寺元寂禅師            
785 1・13     新羅に蓋塤・孟昌源(冊府による)を派遣して、金乾運(恵恭王)の死に告哀するとともに、金良相(宣徳王)を冊封して検校太尉・キ督雞林州刺使・寧海軍使・新羅王とする。 旧唐12 唐の徳宗、蓋塤を派遣して、宣徳王を冊封して検校太尉・キ督雞林州刺使・寧海軍使新羅王とする。 史記9 延暦4 貞元1 宣徳王6 大興48
以前*
    旧唐199上 新羅        
    新唐220新羅        
    唐会要95新羅        
    冊府965        
  1・13     新羅王金良相卒す。金恵信(元聖王)を王として官爵を襲がせる。 旧唐199上 新羅 宣徳王薨ず。元聖王即位。 史記9     宣徳王6/  
    新唐220新羅 史記10     元聖王1  
    唐会要95新羅          
    冊府965        
786 4         金元全を唐に派遣する。唐より勅書・布類、銀製品などを賜る。 史記10 延暦5 貞元2 元聖王2 大興49
  8・22 唐人盧如津に、姓清川忌寸を賜う。 続紀                 
  姓氏録 左京諸蕃上                 
  9・18 出羽国、渤海使李元泰ら65人が漂着し、一行の中12人が蝦夷に殺害され、現存する者41人と報ず(殺害された者・現存者合わせて53人となり、人数合わず。数時の誤りかあるいは行方不明者があるためか)。 続紀 同日条                
  続紀 延暦6・2・19条                
  10・11         日本王文慶、挙兵して新羅を討とうとするが、新羅に万波息笛が有ると聞き、撤兵。使者を遣わし金50両をもってその笛を請う。 遺事2元聖大王        
787 2・19 渤海使李元泰ら来着の時、賊に柂師・挾杪らを殺害されたため帰国できない旨を述べる。よって越後国に命じて、船1艘及び柂師・挾杪・水手らを付して発遣させる。 続紀          延暦6 貞元3 元聖王3 大興50
  4・1 唐人王維倩・朱政らに姓栄山忌寸を賜う。 続紀                 
  7・7         日本、新羅に使者を遣わし、金1000両をもって重ねて万波息笛を請う。新羅王、所在不明と偽って要請を断り、銀3000両を使者に賜い、金は返却。 遺事2元聖大王        
  8         日本使、帰国。 遺事2元聖大王        
788 2・3 唐僧思託(鑑真に従って来日)、『延暦僧録』を撰す。 金剛寺所蔵『龍論鈔』所引『延暦僧録』目録         延暦7 貞元4 元聖王4 大興51
  5・10 唐人馬清明に姓新長忌寸を賜う。 続紀                 
  姓氏録 左京諸蕃上                 
  8・12 延暦2年11月23日に東大寺で「新羅正本」と校勘された智鏡書写の『華厳刊定記』、この日、「唐正本」と校勘される。 大東急記念文庫所蔵『華厳刊定記』巻5奥書                
789 9         唐に留学経験のある子玉を楊根県の小守に任じたところ、執事使の毛肖、子玉が文籍の試験に合格していないことを理由にこれを反対する。 史記10 延暦8 貞元5 元聖王5 大興52
  10・17 高倉福信没(81歳)。その祖父福徳、高句麗滅亡に際して日本に亡命。 続紀                 
  是年         金俊邕(後の昭聖王)を唐に派遣する。 史記10        
790 3         一吉飡の伯魚を北国(渤海)に派遣する。 史記10 延暦9 貞元6 元聖王6 大興53
  7・17 津連真道ら上表して、百済貴須王の後、王辰爾の子孫としての功績を述べ、朝臣の姓を請う。 続紀                 
  10・3 宝亀度遣唐大使(但し入唐せず)佐伯今毛人没(72歳)。 続紀                 
  11・10 韓国源らもと物部大連の苗裔で、父祖が奉使した国の名をもって姓としたが、三韓の新来と誤解されるので、新たに住地にちなみ高原の姓を賜わらんことを請う。これを許す。 続紀                 
  是年         金彦昇(後の憲徳王)を唐へ派遣する。 史記10        
791 1     渤海、大常靖を遣わして朝貢する。大常靖に衛尉卿同正を授け、帰国させる。(5月9日参照) 旧唐199下渤海靺鞨     延暦10 貞元7 元聖王7 大興54
      冊府976            
  4・8 百済から渡来した王仁の子孫文忌寸最弟らの請により、姓宿禰を賜う。 続紀                 
  5・9     渤海使帰国。 冊府976            
  5・16 唐人王希逸に姓江田忌寸を賜う。 続紀                 
  8     渤海、王子の大貞翰を派遣して、宿衛とさせる。 旧唐199下渤海靺鞨            
      冊府996            
792 5・10 唐人女性李自然に従五位下を授ける。自然は遣唐使の一員として入唐した大春日浄足と結婚し、帰国に同行して来日。 紀略          延暦11 貞元8 元聖王8 大興55
  8         唐に使臣を派遣し、美女の金井蘭を献上する。 史記10        
  11・14 故遣唐大使藤原清河家を寺とすることを許す。済恩院と号す。 類史180                
  閏12     渤海押靺鞨使、楊吉福等35人が来朝し、朝貢する。 唐会要96渤海            
794 1*     渤海王子、大清允等30人来朝する。清允に右衛将軍同正を、随行人にも各々官職を授ける。 旧唐199下渤海靺鞨     延暦13 貞元10 元聖王10 大興57
      冊府976          
      唐会要96渤海          
  3 渤海王欽茂(文王)が死去する。 類史193渤海 延暦15・4・27条 渤海王欽茂(文王)が死去する。その子、宏臨は早死のため、族弟の元義が即位するものの、すぐに国人に殺害される。国人は宏臨の子、華璵(成王)を推して王位に即け、中興と改元する。 新唐219渤海           大興57/
中興1(成王)
  この年 宝亀度送唐客使判官甘南備清野没。 続後紀 承和3・4・18条               中興1(成王)
795 2     内常侍殷志贍に命じて、大崇璘(康王)を渤海郡王・右驍衛大将軍・忽汗州キ督に冊立する。 旧唐199下渤海靺鞨     延暦14 貞元11 元聖王11 中興2/
正暦1(康王)
      新唐219渤海            
      冊府965            
  7・16 唐人ら5人に官を授ける。遠蕃の人を優遇するため。 紀略                正暦1
  11・3 出羽国、渤海使呂定琳ら68人、蝦夷地志理波村に漂着し、危害を加えられた旨を報ず。勅して越後国に移させる。 類史193渤海                
  紀略                 
  12     渤海、靺鞨キ督の密阿古等22人を派遣する。並びに中郎将を授け、放還する。 唐会要96渤海            
796 3・1 和家麻呂、参議となる。家麻呂は百済人の子孫で、蕃人にして相府に入るは、これより始まるという。 後紀 延暦23・4・27条         延暦15 貞元12 元聖王12 正暦2
  公卿補任                
  3・9 唐人に姓を賜う。 紀略                 
  4・27 渤海使呂定琳ら、方物を献ず。また渤海王大嵩璘の書を進める。嵩璘、前王大欽茂が大興57年(794)3月に没したことを告げるために呂定琳らを遣わすことを述べる。また定琳ら、在唐の日本僧永忠らの書状を齎す。 類史193渤海                
  紀略                 
  5・17 渤海使呂定琳ら、帰途に就く。御長広岳・桑原秋成らに送らせる。また渤海王宛の慰労詔書を付し、先王の喪を弔し、新王嵩璘の王位継承を賀すると共に、渤海王啓の旧儀に違えることを述べ、国王に絹20疋・絁20疋・糸100絇・綿200屯を贈る旨を記す。また太政官、在唐日本僧永忠ら宛の書状及び沙金小300両を託す。 類史193渤海 同日条                
  類史193渤海 延暦15・10・2条                
  類史193渤海 延暦15・10・15条                
  紀略 延暦15・10・15条                
  10・2 御長広岳ら、渤海より帰国。渤海王大嵩璘の書を齎す。嵩璘、日本への遣使に用いる造船用の大木が少ないこと、また使節が蝦夷の害に遭う危険が多いことなど、遣使の困難なことをあげ、今後は、使者の員数を20人とし、来朝の年期については日本側の意向に従うこと等を述べ、裁定の使者の派遣を求める。 後紀 同日条                
  後紀 延暦15・10・4条                
  紀略 延暦15・10・15条                
  10・4 御長広岳に従五位下、桑原秋成に外従五位下を授ける。送渤海使使として使命を十分に果たした功による。 後紀                 
  10・15 大納言神王ら、上表して、渤海王の書がこれまでのものと比べて礼儀に叶っており、天皇の徳化の渤海に及ぶことを示すとして奉賀。 後紀                 
797 5・28 神功皇后以来の百済の日本に対する功績を称えて、百済王氏の課・雑徭を永年免ず。 三代格17         延暦16 貞元13 元聖王13 正暦3
  集解13賦役令没落外藩条所引官符                
798 1・14 唐僧恵雲を律師に任ず。 紀略          延暦17 貞元14 元聖王14 正暦4
  3     渤海郡王・右(冊府965は「左」とする)驍衛大将軍・忽汗州キ督の大崇璘に、銀青光禄大夫・検校司空を加えて授け、さらに渤海国王として冊立する。崇璘の父欽茂はかつて開元26年(738)にその父、武藝の位を継いで渤海郡王・左金吾大将軍に任じられ、さらに天宝年間には特進・太子・事賓客の位も加えられた。宝応元年(762)に渤海国王に封ぜられ、続いて大暦年間には司空・大尉の位まで授けられた。しかるに崇璘が王位を継承した時にはただ(渤海)郡王・(驍衛大)将軍を授けられるに過ぎなかった。そこで、崇璘は使者を派遣し、道義を陳述させたところ、さらに冊命を加えらたという。 旧唐199下渤海靺鞨            
      冊府965            
      唐会要96渤海            
  4・24 内蔵賀茂麻呂を遣渤海大使に、御使今嗣を同判官に任命。 類史193渤海                
  5・19 遣渤海使内蔵賀茂麻呂ら辞見。よって渤海王宛の慰労詔書を付し、渤海王より裁定の要請があった来朝の年期等について、人数は特に制限を設けず、期間は6年に1度とするのが妥当である由を回答し、絹・絁各30疋・糸200絇・綿300屯を贈る旨を述べる。また在唐日本僧永忠宛の書状を託し、渤海に転送を依頼させる。 類史193渤海上同日条                
  類史193渤海上延暦17・12・27条                
  紀略 延暦17・12・27条                
  5・27 阿倍仲麻呂の{人、羽栗吉麻呂と唐女との間に生まれ、宝亀度遣唐録事(のち准判官)であった羽栗翼没。 類史187                
  6・20 勅して、唐人嵩山道光・清川是麻呂・清根松山・栄山諸依・栄山千島らに稲を賜い、遠く本国を離れ、日本に居住することを慰労。 類史78賞宴下 賞賜                
  紀略                 
  11・3     渤海王姪の大能信を左驍衛大将軍に、虞候婁蕃長キ督茄富仇を右武衛将軍の位に任じて帰国させる。 旧唐199下渤海靺鞨            
      冊府976            
  12・27 これより先、遣渤海使内蔵賀茂麻呂ら、渤海使大昌泰らを伴って、隠岐国智夫郡に帰着。この日、大昌泰ら方物を献じ、国王大嵩璘の書を進める。嵩璘、入朝の年期が6年に1度では間隔が空きすぎるので再考を求める。 後紀 延暦18・5・13条                
  類史193渤海                
  紀略                 
  12・29*     新羅王金敬信(元聖王)死去し、敬信の嫡孫俊邕(昭聖王)が即位する。 旧唐199上 新羅 元聖王薨ず。昭聖王即位。 史記10        
      新唐220新羅 史記10昭聖王即位前紀        
      唐会要95新羅        
      通鑑235貞元16・4月条        
799 1・1 桓武天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。渤海使も参列。このため四拝を再拝とし、拍手せず。 後紀          延暦18 貞元15 昭聖王1 正暦5
  1・7 豊楽院造営中のため、大極殿前の竜尾道上に仮殿を作り、侍臣及び渤海使の饗宴を催す。 後紀                 
  1・16 侍臣及び渤海使らの饗宴を大極殿において催す。 後紀                 
  1・18 渤海使、朝堂院における射に加わる。 後紀                 
  1・29 唐人李法琬・清川斯麻呂・栄山千島・栄山諸依・清根松山らに月俸を賜い、覊旅を慰める。 後紀                 
  4・15 渤海使大昌泰ら帰途に就く。滋野船白らに送らせる。また渤海王宛の慰労詔書を付し、来朝の年期については特に制限しない旨を述べる。 後紀                 
  後紀 延暦18・9・20条                
  4・16 大伴峰麻呂を遣新羅使に、林真継を同録事に任命。 後紀                 
  5・13 前遣渤海使内蔵賀茂麻呂、昨年渤海より帰国する時、海上を漂流したが、火光に導かれて隠岐国智夫郡に到着。これは比奈麻治比売神の霊験によるものとみられるので、同社を例幣に預らしめんことを請う。これを許す。 後紀                 
  5・20 太政官符を縁海諸国に下し、渤海王の要請により、渤海使来朝の年期を6年に1度とする規定を廃して、年限を特に定めずとしたことを伝える。 三代格18 天長1・6・20官符                
  5・29 遣新羅使の派遣を停止。 後紀                 
  7 天竺人1人、小船に乗り、参河国に漂着。年齢約20歳、身長5尺5分、袈裟のごとき衣を着し、綿種を齎す。始め言語通ぜず、唐人ら崑崙人と評す。後、日本語を学び、自ら天竺人という。近江国分寺に遷住。 後紀                 
          長さ9尺ほどもある人参を得たが、これが珍しいものであったため、使臣を遣わして唐へする進上する。唐の皇帝徳宗、これは人参ではないとして受け取らなかった。 史記10        
  9・20 送渤海使使滋野船白、渤海より帰国。渤海王大嵩璘の書を齎す。大嵩璘、遣使の年期を制限せずとされたことを謝す。 後紀                 
  12・5 甲斐国の人止弥若虫・久信耳鷹長ら190人、天平勝宝9年4月4日の勅旨により、蕃姓改めんことを請う。 後紀                 
  12・29 勅して、諸氏の本系帳を進上させる。三韓諸蕃の諸氏も対象とする。 後紀                 
  是年     倭国の人200人、揚州に到り、市易して還る。 台湾国立中央図書館所蔵『唐会要』            
800 4・12 崑崙人の齎した綿種を紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土左及び大宰府等諸国に植えさせる。 類史199崑崙         延暦19 貞元16 昭聖王2 正暦6
  4・21*     徳宗、権知新羅国事の金俊邕(昭聖王)に開府・検校太尉・雞林州大キ督・新羅国王を嗣がせて冊封する。司封郎中兼御史中丞の韋丹を持節使として派遣するも、6月以降、鄆州に至ったとき、俊邕が卒してその子重興(哀荘王)が即位したことを聞き、引き返す。 旧唐13 唐の徳宗、司封郎中兼御史中丞の韋丹を持節使として派遣して、昭聖王に開府・検校太尉・雞林州大キ督・新羅国王を嗣がせて冊封する。しかし6月以降、鄆州に至ったとき、王が卒したことを聞き、引き返す。 史記10哀荘王即位前紀        
      旧唐199上 新羅        
      新唐220新羅        
      冊府965        
      唐会要95新羅        
      全唐文491        
  6         昭聖王薨じる。 史記10     昭聖王2/哀荘王1  
  8         先に入唐宿衛学生であった梁悦に豆肹(県)の小守を授ける。 史記10     哀荘王1  
  9・2 「蕃客」の来朝に備え、破損した駅家を修理させる。 延暦交替式              
  10・15 伊予部家守没。宝亀度遣唐使に随って入唐留学し、『五経大義』・『切韻』・『説文』等を学ぶ。 紀略               
801 8・10 遣唐使を任命。大使藤原葛野麻呂、副使石川道益、判官菅原清公・三棟今嗣・甘南備信影・高階遠成、録事山田大庭ら4人。 紀略          延暦20 貞元17 哀荘王2 正暦8
  三実   元慶4・8・30条                
802 6・27 宝亀7年(766)格で遣唐使に国司を兼任させ、職田は支給するが、事力は給さずとしたのを改め、事力も現任と同じく支給すべきことを令す。 三代格 6承和1・8・20官符所引同日官符         延暦21 貞元18 哀荘王3 正暦9
  9・7 最澄、上表して円宗(天台宗)を学ぶ留学生・還学生各一人の派遣を請う。円基・妙澄を留学生として派遣することが認められる。 叡山大師伝                
  9・12 最澄、還学生に選任される。 叡山大師伝                
  11・24 遣唐使に国司を兼任させ、職田を支給。 三代格 15承和1・8・20官符所引同日官符                
  12         金均貞に大阿飡を授けて仮王子とし、倭国に質せんとするが、均貞辞退。 史記10        
803 2・4 遣唐大使以下、水手以上に物を賜う。 紀略          延暦22 貞元19 哀荘王4 正暦10
  3・6 天平勝宝度遣唐大使藤原河清(清河)に正二位を贈り、また阿倍仲麻呂に従二位を贈る。 紀略                 
  続後紀 承和3・5・10条                
  3・8 入唐留学僧行賀没(75歳)。25歳で入唐留学、唯識・法華両宗を学ぶ。在唐中百高座の第二に請うぜられ、在唐31年で帰国。経典500余巻をもたらす。 類史147                
  略記                 
  紀略                 
  3・14 遣唐使に彩帛を賜う。 紀略                 
  3・18 遣唐使、朝堂院において拝朝。 紀略                 
  斎部浜成を新羅に遣わす。(遣唐使派遣にあたり、その新羅漂着に備え保護依頼のためか/吉川) 宮内庁書陵部蔵明応本『古語拾遺』識語                
  3・29 遣唐大使藤原葛野麻呂・副使石川道益に漢法による餞別の宴を催す。桓武天皇、葛野麻呂を床下に召して酒を賜い、歌を歌う。次いで葛野麻呂に御被3領・御衣1襲・金200両、道益に御衣1襲・金150両を賜う。 紀略                 
  4・2 遣唐大使藤原葛野麻呂・副使石川道益ら、辞見、節刀を授ける。 紀略                 
  4・14 遣唐使、難波津頭において乗船。 紀略 4・23条                
  4・16 遣唐使、難波津より出発。 紀略 4・23条                
  4・21 遣唐使、海上で暴風に遭い、船舶破損。明経請益生豊村家長ら多数没死。 紀略 4・23条                
  4・23 大使藤原葛野麻呂、21日の事を報ず。これにより日下三方を遣わして事情を調べ、委曲を奏上させる。 紀略                 
  4・25 遣唐大使藤原葛野麻呂上表。 紀略                 
  4・28 藤原貞嗣・物部建麿らを遣わして破損した遣唐使船及び雑物を修理させる。 紀略                 
  5・22 遣唐使、船舶が破損して渡海不能となったため節刀を返進。 紀略                 
  7         日本国と交聘結好。 史記10        
804 3・5 遣唐使、拝朝。 後紀           延暦23 貞元20 哀荘王5 正暦11
  3・25 遣唐大使藤原葛野麻呂・副使石川道益を殿上に召し、餞別の宴を催す。桓武天皇、両人を床下に召し、酒1杯及び宝琴1面を賜う。 後紀                  
  3・28 遣唐大使藤原葛野麻呂に節刀を授ける。 後紀                  
  5・12 遣唐使、摂津国難波を出発。第一船(大使乗船)に留学僧空海・第二船(副使乗船)に請益僧最澄がそれぞれ搭乗する。また、伴少勝雄(囲碁の上手)、久礼真茂・和爾部島継(舞生)らも遣唐使の一員として渡航。 御遺告                
  扶桑略記抄                
  三実   貞観8・9・22条                
  『體源鈔』2ノ上                
  5         日本国、使者を遣わして金300両を進める。 史記10        
  6・27 勅して、渤海使が来着することの多い能登国に客院を造らせる。 後紀                  
  7・6 遣唐使船4隻、肥前国松浦郡田浦を出帆する。 後紀  延暦24・6・8条 この時の遣唐使に随って、空海・最澄ら入唐する。 宋史491            
  凌雲集 賀陽豊年別諸友入唐            
  7・7 遣唐使船相互の火信応じず、4船離散。 後紀  延暦24・6・8条                
  8・10 遣唐大使藤原葛野麻呂の乗る第1船、福州長渓県赤岸鎮已南海口に到着。杜寧県令胡延沂ら迎接して、福州刺使が辞任し、新任刺使未着のこと・当地からの陸行は困難であるので海路で州衙へ向かうべきことを伝える。 後紀  延暦24・6・8条                
  9・1 これより先、副使石川道益・判官菅原清公らの乗る第2船明州に到着。道益、当地で没す(43歳)。この日、清公以下27人明州を発して長安に向かう。 後紀  延暦24・6・8条                
  9・12 最澄らの天台山巡礼を許す牒を明州より発給される。 明州牒(平遺4297)                
  顕戒論縁起                
  9・15 最澄・義真・丹福成・真立人、明州から天台山に向けて出発。 平遺                
  9・18 大伴万里を新羅に遣わして、7月に出発してから行方不明の遣唐使船2艘の消息を尋ねる。 後紀                  
  9・26 最澄ら台州に到着。刺使陸淳に謁す。陸淳の紹介により天台山修善寺座主道邃に会い、その助力により天台宗の経典を書写。次いで天台山へ向かう。 顕戒論縁起                
  10・3 遣唐使第1船、福州に到着。 後紀  延暦24・6・8条                
  10・13 州の使者、遣唐使に文書の提出を求め、船の積荷を検査。大使藤原葛野麻呂、福州観察使に書(空海作)を送る。 性霊集5                 
  10 新任の福州観察使兼刺使閻済備、員数を限って上京を認めるが、空海はその要員には含まれなかったため、入京を求める啓を福州観察使に提出し、入京を許される。 後紀  延暦24・6・8条                
  性霊集5                
  11・3 遣唐大使藤原葛野麻呂以下23人、福州から長安に向けて出発。録事山田大庭らは留まり、第1船を明州に廻航させることとする。 後紀  延暦24・6・8条                
  11・15 遣唐判官菅原清公ら、長安城に到着。外宅へ安置される。 後紀  延暦24・6・8条                
  11     渤海・新羅遣使朝貢する。 冊府972 この時、真鑑禅師(慧昭)も共に入唐するか。 雙谿寺真鑒禪師大空塔碑銘        
  12・21 遣唐大使藤原葛野麻呂ら、長安長楽駅に到着。 後紀  延暦24・6・8条                
  12・23 内使趙忠、遣唐使を出迎え、長安城に引き入れて、先着の菅原清公らの居る外宅に安置される。 後紀  延暦24・6・8条                
  12・24 遣唐使、国信物・別幸物を監使劉昴に付して皇帝に進める。 後紀  延暦24・6・8条 日本国遣使朝貢する。 旧唐13            
  冊府972            
  12・25 遣唐使、宣化殿において礼見するが、皇帝(徳宗)は出御せず。麟徳殿において皇帝と対見し、饗宴・官賞をうける。 後紀  延暦24・6・8条                
  是年     日本、遣使朝貢。橘免(逸)勢・空海ら留学 新唐220日本            
805 1・1 遣唐使、含元殿における元日朝賀に列席する。 後紀  延暦24・6・8条         延暦24 貞元21 哀荘王6 正暦12
  1・23 皇帝徳宗没。 後紀  延暦24・6・8条 徳宗没。              
  1・28 遣唐使、徳宗の葬儀において、亟天門(承天門か)に杖を立てる。また、素衣冠を着し、挙哀する。 後紀  延暦24・6・8条 徳宗葬儀。群臣素服を着す。この日、皇太子即位(順宗)。         (順宗)    
  2・5 遣唐使第1船、福州を発して明州に廻航する。 後紀  延暦24・6・8条                
  2・6 勅して、日本使の上京せずに残留した者に人別5疋の絹を支給。 巡礼行記 開成4・2・6条                
  2・10 遣唐使、答信物を受け、告身を賜る。内使王国文に送られ、明州に向かう。 後紀  延暦24・6・8条 帰国に際して、日本国使に物を賜う。台湾国立中央図書館所蔵『唐会要』には、この年の12月「真人遠誠」を遣使し、朝貢したとの記載がある。 旧唐14            
    台湾国立中央図書館所蔵『唐会要』            
  空海、遣唐使帰国により、西明寺へ移る。諸寺を来訪して、青龍寺恵果に出会い、密教を学ぶ。 僧空海請來目録(平遺4327)                
  2・11 在唐の渤海王子、遣唐大使藤原葛野麻呂を訪ねる。 遊方記                
  2・19 最澄、台州龍興寺浄土院において書写した天台関係の目録を作成。(翌20日に台州刺史陸淳が証明を与える) 僧最澄將來目録(平遺4310)                
  2・28*     順宗、兵部郎中の元季方を派遣して、開府義同三司・検校太尉・使持節・大キ督雞林州諸軍事・雞林州刺史・上柱国・新羅王金重興(哀荘王)を冊封し、寧海軍使を兼ねさせる。また、その母の叔氏を大妃、妻の朴氏を妃とする。 旧唐14 唐の順宗、兵部郎中兼御史大夫の元季方を派遣して、哀荘王を冊封して、開府義同三司・検校太尉・使持節・大キ督雞林州諸軍事・雞林州刺史兼持節充寧海軍使・上柱国新羅王とする。また、その母の叔氏を大妃、妻の朴氏を妃とする。 史記10 同年正月条        
      旧唐199上 新羅        
      新唐220新羅        
      冊府965        
      冊府976        
      唐会要95新羅        
  2 遣唐大使藤原葛野麻呂、書(空海作)を渤海王子に送る。 性霊集5                
  3・1 これより先、最澄ら4人が台州から明州に戻ることを請う牒を台州へ提出、この日に許可が下りる。 僧最澄牒(平遺4302)                
  顕戒論縁起                
  3・29 遣唐使、越州永寧駅に到着。監使王国文、遣唐使に勅書を付し、長安に帰還。越州、新たに使者を添えて遣唐使を明州に送る。 後紀  延暦24・6・8条                
  4・1 遣唐使第1船、福州から明州に到着。 後紀  延暦24・6・8条                
  4・3 遣唐使一行、明州に到着。 後紀  延暦24・6・8条                
  4・6 之より先、最澄ら4人が明州にに経典書写のため越州龍興寺・法花寺に赴くことを請い、この日許可される。 顕戒論縁起                
  5・13 最澄、台州・越州で得た法門の目録を作成。(15日に明州刺使鄭審則が証明を与える。) 僧最澄將來目録(平遺4310〜4312)                
  5・18 遣唐使第1・2船、明州鄮県を出帆。 後紀  延暦24・6・8条                
  5・28 最澄帰朝。 一代要記28                
  叡山大師伝                
  5     渤海使来朝。渤海王大崇璘に位を加えて、金紫光禄大夫・検校・司空とする。 旧唐199下 渤海靺鞨            
      冊府965            
  6・5 遣唐使第1船、対馬下県郡阿礼村に帰着。 後紀  延暦24・6・8条                
  6・8 遣唐大使藤原葛野麻呂入唐から帰国までの経緯及び唐の情勢を奏上。 後紀                  
  6・17 遣唐使第2船、肥前国松浦郡鹿嶋に帰着。乗船の判官菅原清公、奏上。 後紀                  
  7・1 遣唐大使藤原葛野麻呂、節刀を返進。 後紀                  
  7・4 遣唐使第3船、肥前国松浦郡庇良島を発して遠値嘉島に向かう途中、南風を受けて孤島に漂着。判官三棟今嗣らは船より脱出して上陸するが、官私の雑物・射手数人を乗せたまま船が流れ去る。 後紀  延暦24・7・16条                
  7・14 藤原葛野麻呂ら、唐国の答信物を献ず。 後紀                  
  7・15 最澄、上表を添えて将来目録を提出。 平遺4312                
  7・16 大宰府、今月4日に遣唐使第3船が行方不明になったことを報ず。この日勅して、使命の最要は国信物にある。これを失いながら存命を求めた判官三棟今嗣らを厳罰に処すべきことを述べる。 後紀                  
  7・22 能登国、珠洲郡に船1隻が漂着したことを報ず。使者を遣わして船上の雑物を調べさせる。 後紀                  
  7・24 親王以下参議以上、及び内侍に唐国の彩帛を賜う。 後紀                  
  7・25 遣唐大使従四位上藤原葛野麻呂に従三位、判官正六位上菅原清公に従五位下を授ける。故副使石川道益に従四位下、判官正六位上甘南備信影に従五位下を贈る。 後紀                  
  7・27 唐国の信物を山科(天智)・後田原(光仁)・崇道(早良親王)天皇3陵に献ず。 後紀                  
  8・4     順宗譲位。              
  8・5     永貞に改元。              
  8・9     憲宗即位。         永貞1    
(憲宗)
  入唐求法僧最澄を殿上に召して悔過読経させる。また、最澄、唐の仏像・経論を献ず。 後紀                  
  8・16 故入唐副使石川道益のために度者一人を賜う。 後紀                  
  10・19 入唐留学生無位粟田飽田麻呂に正六位上を授ける。 後紀                  
806 1・28 日本使判官高階遠成が、唐より中大夫試太子中充の職に任ぜらる。 朝群20         大同1 元和1 哀荘王7 正暦12
1 空海が、日本からの遣唐使に同行して本国へ帰国することを請う。 性霊集5 日本国使判官高階眞人が橘逸勢と空海らの帰国を請い、これを許す。 旧唐199       
新唐220       
冊府999      
3         日本国使が来朝し、朝元殿において引見する。 史記10  
3 桓武天皇崩御。            
4・24 遣唐使に対する安全祈願の功により、摂津住吉郡住吉大社に、従一位を授ける。 後紀          
4 空海、越州に到着する。前試衛尉寺丞朱千乗が空海に詩を送る。空海は越州節度使に書を送り、内外典を求める。 高野大師御広伝          
性霊集5        
5・14 蕃客の入京に備え、往来の備後・安芸・周防・長門等の駅館の修理を、疲弊している百姓の農閑期に合わせて行なわせることとする。ただし、海辺に臨む長門の駅館のみ、従来の規模の維持を定める。 後紀          
5 平城天皇即位、改元。           (平城)
8 遣唐使判官高階遠成、留学僧空海・留学生橘逸勢らは明州より帰国の途に就く。 略記抄          
高野大師御広伝          
大師御行状集記          
橘逸勢伝          
8     新羅、遣使して朝貢する。 冊府972 唐に遣使して、朝貢する。 史記10  
8     憲宗の第十子(冊府では第七子)である建王恪が、平廬軍節度使・押新羅渤海両蕃使等に任じられる。 旧唐175      
    新唐82      
    冊府281      
10*     渤海国王大嵩璘を検校大尉に任じる。 旧唐14      
    旧唐199下 渤海靺鞨      
    冊府965      
10・22 空海、入唐修行の経緯を記す上表に添えて、請来目録を高階遠成に付して進上する。 御請来目録(『平遺』4327)          
11*     宿衛をしていた新羅王子金獻忠、帰国。試秘書監とする。 旧唐199上 新羅 宿衛をしていた王子金獻忠が帰国。試秘書監とされる。 史記10  
    唐会要95新羅  
    冊府976  
    冊府996  
12・13 遣唐使判官正六位上高階遠成に従五位下を授ける。 類史99          
12・27     新羅、渤海等が遣使して朝貢する。 旧唐14      
    旧唐199下 渤海靺鞨      
    冊府972      
807 1・12 唐国の綵幣を香椎宮に奉納。 紀略         大同2 元和2 哀荘王8 正暦13
1・17 唐国の信物を諸山陵に献ず。 紀略        
1・27 参議以上の上卿に唐国の信物である綾・錦・香薬を班賜す。 紀略        
類史78
4・29 大宰府、観世音寺に牒して、入京の日まで、帰国した空海を同寺に住まわせることを令す。 大宰府牒(『平遺』4330)        
8・8 伊勢大神宮に神宝と唐の信物をに奉納する。 紀略        
類史3
12     渤海等が遣使して朝貢する。 旧唐14    
    冊府972    
この年     渤海の端午使楊光信が逃げ帰り、その途中潼關吏によって捕らえられ、取り調べを受ける。 冊府997    
808 2         日本国使が来朝する。新羅国王、礼をもって厚く遇する。 史記10 大同3 元和3 哀荘王9 正暦14
7*     新羅より金力奇が来朝する。金力奇は帰国の際、故昭聖王らの冊命書の授与を求め、憲宗がこれを許す。また、新羅王の叔父金彦昇ら三人に門戟を与える。 旧唐199上 新羅 金力奇を唐に派遣し、朝貢する。金力奇は帰国の際に、故昭聖王らの冊命書の授与を求め、憲宗がこれに応じた。また、憲宗より新羅王の叔父金彦昇ら三人に門戟を賜り、本国の慣例に準じて与えさせた。 史記10
    新唐220新羅
    唐会要95新羅
    冊府972
    冊府976
806〜808頃     礼部員外郎の職にあった韋貫之は、工巧をもって官仕した新羅人・金忠義が、密かに子を任官させていたことを知り、金忠義親子を弾劾し、ついに金忠義親子は職を追われる。 旧唐158     大同1〜3頃 元和1〜3頃 哀荘王7〜9頃 正暦12〜14頃
    新唐169韋貫之      
    冊府459      
809 1*     渤海王嵩璘が卒す。子である元瑜が即位し、銀光祿大夫・檢校祕書監・充忽汗州都督等の職を与え、渤海国王に冊立する。 旧唐199下 渤海靺鞨     大同4 元和4 哀荘王10 永徳1
      唐会要96      (大元瑜)
      冊府965      
      通鑑237      
  1・21     憲宗が麟徳殿で渤海使等を引見する。 冊府976      
  1     元文政を渤海への弔祭冊立使として派遣する。 冊府980      
  7     新羅の金陸珍来朝し、朝貢する。 旧唐199上 新羅 大阿飡金陸珍を唐に遣使して、前年の冊封に対して謝恩し、方物を進奉する。 史記10  
      唐会要95新羅  
  7*         憲徳王、哀荘王を殺害し即位。8月に伊湌金昌南を唐に派遣し、前王の喪を告げる。憲宗は崔廷を正使に、新羅の質子である金士信を副使に任じて派遣し、弔祭させた。また、彦昇を新羅国王、妻貞氏を妃として冊立し、大宰相の金崇斌ら三人は門戟を賜った。 史記10哀荘王 憲徳王1  
          史記10憲徳王  
  10・1 渤海使(高南容か)が方物を献じ、渤海王元瑜の書を進める。 紀略          
810 1     渤海より高才南らが来朝する。 旧唐199下 渤海靺鞨     弘仁1 元和5 憲徳王2 永徳2
    冊府972    
4・1 鴻臚館において渤海使高南容らを饗宴する。 紀略        
4・8 渤海使高南容らが、帰国の途に就く。渤海王宛の慰労詔書を付す。 紀略        
5・27 渤海使であったが、越前国に残った首領高多仏を、越中国に住まわせ、史生羽栗馬長及び習語生らに高多仏から渤海語を学ばせる。後の弘仁3年12月壬辰に、高多仏は「高庭高雄」の名を賜る。 紀略        
後紀弘仁3・12・8条
略記 延喜20・6・28
7・27 長安の醴泉寺において、元和六年三月八日までに梵来心地観経などの翻訳を開始する。日本の霊仙も次席で参加する。 石山寺所蔵『大乗本生心地観経』巻1跋文        
9・29 渤海使高南容が方物を献じ、渤海王元瑜の書を進める。元瑜は、桓武天皇の崩御・平城天皇の譲位・嵯峨天皇の即位の慶弔について述べ、日本に使の派遣を請う。 後紀        
10     新羅王子金憲章が来朝し、順宗の冥福を祈るための仏像等を献じ、方物を貢す。これを記念して、張九齢が「敕新羅王金重熙書」を作る。ただし、金重熙は哀荘王。 旧唐199上 新羅 王子金憲章を唐に派遣し、順宗の冥福を祈るための仏像等を献上する。 史記10
    唐会要49像
    唐会要95新羅
    冊府972
    白氏文集56
11     渤海王が子である大延真等を派遣し、方物を献上する。 旧唐199下 渤海靺鞨    
      冊府972    
12・4 従六位上林東人に送渤海客使を、大初位上毛野継益を同録事に任命する。 後紀        
この年 新羅人金巴兄・金乘弟・金小巴の三人、本国で穀物を運搬時に海賊に遭い、逃れて日本に漂着する。 後紀 弘仁2・8・12条        
811 1・1 大極殿において皇太弟、渤海使、文武百官と共に朝賀する。 後紀         弘仁2 元和6 憲徳王3 永徳3
1・7 五位以上および渤海使を宴す。 後紀        
1・17 豊楽院において、射を観覧し、渤海使に角弓を射させる。 後紀        
1・20 大納言坂上大宿禰田村麻呂、中納言藤原朝臣葛野麻呂、參議從三位菅野朝臣眞道等に、朝集院において渤海使を饗せしめ、禄を賜う。 後紀        
1・22 渤海使高南容らが、帰国の途に就く。渤海王元瑜宛の書を付し、元瑜が嵯峨天皇即位を慶賀したことに感謝する。また、高南容らの乘船が破損したため替わりの船を与え、使者に送らせたことなどを述べる。 後紀        
4・27 神泉苑において遣渤海使林東人らと、辞見する。衣被を賜う。 後紀        
8・12 大宰府、去年海賊から逃れたため、漂着した新羅人金巴兄らが、別に漂着した新羅人の帰国を聞き、同船して本国に帰ることを請う由を報ずる。これを認める。(811・この年条参照) 後紀        
10・2 遣渤海使林東人ら、渤海より帰国する。渤海王元瑜が日本宛の書を常例に據らず、啓から状に改めたため、持ち帰らなかったこと、及び録事上毛野継益らの乗船する第2船が日本を出帆して以来、行方不明であること等を奏す。 後紀        
後紀弘仁6・1・22条
12・6 新羅賊船3艘が、対馬西海に現れ、その内1艘が下県郡佐須浦に着岸する。船中には十人おり、言語が通じず、消息を知ることは出来ず。他の二艘は行方不明となる。 後紀弘仁3・1・5条        
12・7 新羅賊船、さらに20余艘が西海にあり。先に着岸した新羅賊10人の内5人は殺害され、5人は逃走するが、後日内4人は捕えられる。 後紀弘仁3・1・5条        
12・14 故遣渤海使録事大初位下上毛野継益に従六位下を贈る。 後紀        
12・28 大宰府、対馬に新羅訳語及び軍毅らを派遣したこと、旧例に准じて、管内並びに長門・石見・出雲等の国に要害を警護すべきことを報じ奏上す。 後紀弘仁3・1・5条        
812 1・5 勅して、対馬周辺に出没した新羅海賊は大事に至る危険性はないとして、出雲・石見・長門等の国の警戒を解かせる。 後紀         弘仁3 元和7 憲徳王4 永徳4
1・13     皇帝、麟徳殿にて渤海使らを引見して饗宴す。24日、渤海使に官告35通とそれぞれに衣一着とを賜与した。 冊府111    
    冊府976    
3・1 漂着した新羅人清漢波らを、願いにより本国へ放還する。 後紀        
紀略 弘仁4・3・18条        
4*     新羅王の重興が卒し、彦昇が即位する。金昌南ら54人を唐に派遣し、前王の喪を告げる。憲宗は崔廷を正使に、新羅の質子である金士信を副使に任じて派遣し、弔祭させた。また、その年の7月に彦昇を開府儀同三司等の職に任じ、新羅国王に、妻貞氏を妃として冊立し、大宰相の金崇斌ら三人に本国の例に準じて門戟を与えた。 旧唐15 憲徳王、哀荘王を殺害し即位。8月に伊湌金昌南を唐に派遣し、前王の喪を告げる。憲宗は崔廷を正使に、新羅の質子である金士信を副使に任じて派遣し、弔祭させた。また、彦昇を新羅国王、妻貞氏を妃として冊立し、大宰相の金崇斌ら三人は門戟を賜った。 史記10哀荘王10・7条
    旧唐15 史記10憲徳王10・7条(即位前紀)
    旧唐199上 新羅  
    新唐220新羅  
    唐会要95  
    冊府965  
    冊府972  
7     李汭を新羅副使に任ずる。 冊府980    
8・23 唐に留学経験のある僧善議が卒す。(84歳) 後紀        
9・9 新羅人劉清ら10人に食糧を支給して、本国へ放還する。 後紀        
9         級湌崇正を渤海に遣使する。 史記10
12     渤海が遣使し、来朝する。 旧唐199下渤海靺鞨    
    唐会要96  
    冊府972  
813 1・16     此より先、渤海王元瑜が卒す。この日、その弟である大言義に銀青光禄大夫・検校秘書監・都督らの職を与え、渤海国王として冊す。また、李重旻を渤海冊立宣慰使として派遣する。 旧唐15     弘仁4 元和8 憲徳王5 朱雀1
    旧唐199下渤海靺鞨      (大言義)
    冊府965      
    冊府980      
    通鑑239      
2・9 新羅人110人が肥前国小近嶋に着岸し、地元民と戦闘となる。そのうち、9人を殺し101人を捕えたことを肥前国基肆団校尉貞弓らが伝える。 紀略 弘仁4・3・18           
3・4 2月9日のことを、大宰府に報ず。 紀略 弘仁4・3・18           
3・7 新羅人一清ら、清漢巴らの帰国を肥前国に言上する。 紀略 弘仁4・3・18           
3・18 先に来着した新羅人を希望により本国へ放還、または「化来」させる。 紀略          
9・29 これまで、大宰府、対馬に新羅船が来着した際、言語不通のため島民と新羅人との間で殺傷事件がおきていたことにより、対馬島史生1人に替えて新羅訳語を置くことを請う。この日、これを許す。 三代格5          
12・27     渤海王子辛文徳ら97人が来朝する。丙午、渤海使らと饗宴し錦綵を賜与する。 唐会要96      
    冊府111    
    冊府972    
    冊府976    
814 1     渤海使高礼信ら37人が朝貢し、金銀仏像各一躯を献上する。 冊府972     弘仁5 元和9 憲徳王6 朱雀2
2・11     憲宗は麟徳殿で渤海使高礼信らを引見し饗宴す。 冊府111    
    冊府976    
5・9 新羅王子来朝に際し、朝献の意志があれば渤海の例に准じて処遇する。但し、隣好を修めようと願う場合は、答礼を用いず、還糧を支給して直ちに還却させるべきことを定む。 紀略        
8・23 「化来」した新羅人加羅布古伊ら6人を、美濃の国に配す。 後紀        
9・30 渤海使(王孝廉ら)、方物を獻じる。(出雲国に来着か。同年11・9参照。) 後紀        
10・13 長門国豊浦郡に新羅商人31人が漂着する。 後紀        
10・27 新羅人辛波古知ら26人が風で流されたため、筑前国博多津に漂着したことを太宰府が報ず。 後紀        
11・9 出雲国の田租を、賊乱と渤海使に供するために免除する。 後紀        
11     渤海が鷹鶻を献上する。 冊府972    
12     渤海使大孝真ら59人が来朝する。 冊府972    
815 1・1 渤海使王孝廉ら、朝賀に参列する。 後紀         弘仁6 元和10 憲徳王7 朱雀3
1・7 五位以上および渤海使を宴す。渤海使王孝廉らに位を賜い、賜禄する。この日、唐僧少僧都如宝死去す。 後紀        
秀麗集 宴集
1・16 豊楽院において、五位以上及び渤海使を宴す。 後紀        
1・19 空海、渤海使王孝廉から贈られた書状・詩の礼状を書く。 僧空海書状(『平遺』4398)        
1・20 朝集堂において、渤海使王孝廉らを饗す。 後紀        
1・22 渤海使王孝廉ら、帰国の途に就く。言義宛の慰労詔書を付し、前王の死を弔し、新王の即位を慶す。 後紀        
1・23 「掌客文記」に錯簡が多く、以後、外記に検察させることを強化する。 符宣抄6 文譜        
鴻臚館等において、渤海使と詩の贈答。 秀麗集 贈答        
1・25     渤海使卯貞寿らに官告し、帰国させる。 冊府976    
    新羅使らを引見して饗宴す。 冊府111 唐に遣使する。憲宗の引見と饗宴を受ける。 史記10
冊府976
1・30 対馬史生1員を停めて、新たに新羅訳語を置く。 後紀        
2・22     渤海使大呂慶らに官告し、帰国させる。 冊府976    
3・2 蕃客のための客館が、病人の宿所・喪中の隠所に利用され、建物に破損個所があるため、弾正台と京識に検校させる。 後紀        
3・5     渤海使らに官告し、帰国させる。 冊府976    
5・18 帰途の渤海使王孝廉ら、強風に遭い、乗船が破損したため、漂流する。 後紀        
類史194渤海
5・23 越前国に渤海使帰国のための大船を用意させる。 後紀        
類史194渤海
類史194渤海 弘仁7・5・2条
6・14 渤海使王孝廉、病を得て死去する。また、渤海王への信物等、湿損のため、改めて支給する。続いて、判官王昇基・録事釈仁貞も死去する。 後紀        
類史194渤海
類史194渤海 弘仁7・5・2条
7     渤海王子大庭俊ら101人が来朝し、朝貢する。 冊府972    
この年 新羅僧李(季か)信恵、大宰府に到る。在留およそ8年ののち、帰国する。この間、筑前太守須井宮の恩顧をうけ、後に還俗し、円仁の通事を務める。 巡礼行記 開成5・1・15条        
巡礼行記 会昌5・9・22条
この年 この年作成の新羅国官文書が廃棄された後、『華厳経論』帙に使われ、日本にもたらされる。(文章中の「乙未年」を755年とする説もある) 正銘2−50        
この年     渤海、新羅等が遣使して、朝貢する。 旧唐15    
816 2・7     渤海使らに錦綵銀器を与える。渤海使高宿満ら20人に官を授ける。 冊府976     弘仁7 元和11 憲徳王8 朱雀4
2     渤海使に国信を授け帰す。 冊府980    
3     渤海等、遣使朝貢。その使20人に官告を与える。 唐会要96    
冊府972
4・5 宝亀度の入唐留学僧永忠が死去する(74歳)。 紀略        
元亨16永忠
4・6 天皇、神泉苑に行幸。左右馬寮「開銭」400貫を奉献する。 紀略        
類史31行幸
5・2 渤海副使高景秀以下、大通事以上に夏衣を支給。改めて渤海王宛の慰労詔書を授ける。 類史194渤海        
10・13 大宰府、新羅人清石珍ら180人の「帰化」を報じ、時と路糧を支給し、船で入京させることを請う。 紀略        
11     渤海等が朝貢する。 旧唐15    
    冊府972    
11     新羅の王子金士信が入朝する際に、大風により楚州鹽城県界に漂着する。 旧唐199上 新羅    
唐会要95
この年     この年新羅が飢饉となり、百七十人の民が浙東へ食物を求める。 旧唐199上 新羅 この年飢饉。唐の浙東へ食物を求める民が百七十人あった。 史記10
    唐会要95
この年 琴の名手である新羅人沙良真熊に伝習し、「秘道」を修得した吉田(興世)書主が大歌所別当となり、節会に供奉する。 文実 嘉祥3・11・6条        
      新羅王子金長廉の書状により、新羅人を生口とすることを禁止させる。 冊府42    
817 2・15 大宰府、新羅人金男昌ら43人の「帰化」を報じる。 紀略         弘仁8 元和12 憲徳王9 朱雀5
2     渤海が遣使して朝貢する。 冊府972    
3     新羅が遣使して朝貢する。 冊府972    
3・14     渤海使の大誠慎らに錦綿を与える。 冊府976    
4・22 大宰府、新羅人遠山知ら144人の「帰化」を報じる。 紀略        
10         王子金張廉を唐に派遣するが風のため明州の下岸まで流される。浙東の某官が金張廉を唐京まで送り届ける。 史記10
          史記46
818 1・13 大宰府、新羅人張春ら14人が来着し、驢4頭を献じたことを報じる。 紀略         弘仁9 元和13 憲徳王10 太始                                                                                                  (大明忠)
2     渤海王言義卒、弟・明忠即位により太始と改元。一年で明忠が卒したため、仁秀が即位し建興に改元。唐に使者を派遣し喪を告げる。 旧唐15    
    通鑑240    
3・21 延暦度遣唐使判官高階遠成が死去する。(63歳) 紀略        
3     渤海使李継常ら26人が来朝する。 旧唐15    
    冊府980    
4・5 渤海使来着の報が国司から言上された時は、接待の方法などについて、参議以上が会して先例を参考に予め定めることとする。これより先、渤海使慕感徳ら来朝。渤海王宛の勅書を授けずに帰国させる。また、感徳らの乗船が損傷したため、帰国にあたり、船1隻を給う。 符宣抄6 雑例        
類史194渤海 弘仁10・11・20条        
類史194渤海 弘仁11・1・21条        
4*     高麗、楽器と楽工の両部を献上する。 旧唐15 唐に楽工を献じる。 三国史節要13
    新唐220新羅
    唐会要95高句麗
    冊府972
    玉海108
5・18*     大仁秀を青光禄大夫・検校秘書監・忽汗州都督とし、渤海国王として冊立する。 旧唐15    
    旧唐199下 渤海靺鞨  
    冊府965  
    通鑑240  
この年     倭国の僧金剛三昧が、蜀の僧広昇と共に我眉山へ赴く。 酉陽雑俎 続2    
この頃     『酉陽雑俎』の作者である段成式は金剛三昧と会い、金剛三昧がかつて天竺に渡った時の話を聞く。 酉陽雑俎 前3    
819 6・16 唐越州人の周光翰・言升則ら、新羅船で来着。唐で元和11年に円州(鄆州か)節度使李師道が反乱を起こし、天下が騒擾していることを語る。 紀略         弘仁10 元和14 憲徳王11 建興1                                                                                                                             (大仁秀)
7         唐の鄆州節度使李師道が叛乱を起こす。唐の憲宗は反乱鎮圧のため、揚州節度使趙恭を新羅に派遣。新羅の兵馬を徴発する詔を出す。憲コ王はこれに応じ、新羅将軍金雄元を出兵させる。 史記10
11・20 渤海使李承英ら、方物を献じ、渤海王大仁秀の書を進める。 紀略        
類史194渤海        
この年 唐人張覚済兄弟・新羅人王請ら、交易のため日本に向かうが、強風のため出羽国に漂着。その後、長門国に到る。 巡礼行記 開成4・1・8条        
820 1・1 渤海使、文武百官と共に朝賀する。 紀略         弘仁11 元和15 憲徳王12 建興2
類史71朝賀
1・7 豊楽殿において渤海使らを宴し、大使李承英らに位を授ける。 紀略        
類史99七日節会
類史194渤海
1・16 豊楽殿において踏歌す。渤海使らを宴す。 紀略        
類史72踏歌
1・21 渤海使に、渤海王宛の書を付す。 紀略        
類史194渤海
1・22 唐人周光翰・言升則ら、帰国を請う。渤海使に随って帰国させる。 紀略        
1・27     憲宗死去する。 旧唐15    
閏1・3     穆宗即位する。 旧唐16     (穆宗)
閏1     渤海の使者が来朝する。渤海王大仁秀に金紫光禄大夫・検校司空を加官する。 旧唐199下 渤海靺鞨    
冊府965
冊府972
2・1 天皇の諸儀式に着用する衣服を定める。蕃国使の国書・信物を受ける際は黄櫨染衣を用いることとする。 紀略        
『江次第鈔』1 四方拝黄櫨御袍所引『弘仁格』
『年中行事御障子文』御服事等
2・13 遠江・駿河に配した新羅人700人が叛し、人民を殺し、屋屋を焼く。相模・武蔵等7国の軍を動員してようやく平定する。 紀略        
2・18     穆宗が麟コ殿において新羅、渤海の朝貢使に宴を賜う。 冊府111    
冊府976
2     新羅質子金士信、帰国時の副使任命を奏上する。 冊府996    
4・27 唐人李少貞ら20人、出羽国に漂着する。 紀略        
5・4 新羅人李長行ら、羖䍽羊2頭・白羊4頭・山羊1頭・鵞鳥2匹を進上する。 紀略        
7・15*     平廬軍節度使に押新羅渤海両蕃使を加える。 旧唐16    
冊府60
9・15 日本僧霊仙、五台山停点普通院に到る。 巡礼行記 開成5・4・28条        
11     新羅が遣使して朝貢する。 旧唐199上 新羅 唐に遣使して朝貢する。穆宗が麟徳殿で召見し、饗宴を受ける。 史記10
    唐会要95新羅
    冊府972
12・24     麟コ殿において新羅、渤海使らを饗宴する。 冊府976    
12     渤海が遣使して朝貢する。 旧唐199下 渤海靺鞨    
冊府972
821 3・2 対馬島の史生一人を減員し、博士を置いて諸蕃の来客に備える。 三代格5         弘仁12 長慶1 憲徳王13 建興3 
3・11     平廬軍節度使薛平の上奏を受け、縁海地域における海賊による新羅人掠奪売買を禁止する。 旧唐16    
唐会要86奴婢
冊府170
8・18 東宮学士従四位下上毛野穎人死去する(56歳)。延暦度遣唐使録事として入唐する。 紀略        
類史66薨卒        
11・13 渤海国使王文矩ら、方物を献じ、渤海王大仁秀の書を進める。 紀略        
類史194渤海
822 1・1 渤海使、大極殿での朝賀に参列する。 紀略         弘仁13 長慶2 憲徳王14 建興4
  類史71朝賀                
  1・7 豊楽殿において渤海使らに宴す。この時、王文矩らに位を授ける。 紀略                
  類史71七日節会                
  類史99叙位                
  類史194渤海                
  続後紀 嘉祥2・5・3条                
  1・16 豊楽殿において渤海使らを宴し、踏歌を奏す。この時、滋野貞主が詠んだ漢詩が『経国集』に収録されている。王文矩ら、蹴鞠をする。 紀略                
  類史72 踏歌                
  類史194渤海                
  経国集11                
  1・20 王文矩らを朝集殿において饗する。 紀略                
  類史194渤海              
      渤海使が来朝する。この日、賜宴。 旧唐199下 渤海靺鞨            
      冊府111            
      冊府972            
      冊府976            
  1・21 王文矩ら、帰途に就く。渤海王宛の慰労詔書と信物を付す。この時嵯峨天皇、黄金100両を渤海使に託して入唐留学僧霊仙に贈与か。 紀略                
  類史194渤海                
  巡礼行記 開成5・7・3条                
  6・4 最澄卒す(56歳)。 紀略                
  7・17 新羅人40人「帰化」する。 紀略                
  12     新羅使金柱弼朝貢する。 旧唐199上 新羅 金柱弼を唐に派遣し朝貢。 史記10        
      冊府972        
  この年 霊仙、五台山に到る。 巡礼行記 開成5・7・3条                
          金マ、入唐し宿衛の任につく。 史記44        
          朗慧和尚(無染)、入唐。 聖住寺朗慧和尚白月葆光塔碑        
          祖堂集17        
823 1・1     新羅国使金柱弼の奏を受けて、新羅人の売買を禁止し、本国に帰還させることを勅す。 旧唐16     弘仁14 長慶3 憲徳王15 建興5
      唐会要86奴婢            
  4・16 嵯峨天皇譲位。淳和天皇即位。           (淳和)      
  11・22 加賀国、渤海使101人が来着したことを報じる。 紀略                
  類史194渤海                
  12・8 今年は雪深く往来が困難であるため、存問渤海客使の派遣を停止し、越前守兼加賀守紀末成、同掾秦島主らに渤海使を存問させる。 紀略                
  類史194渤海                
810〜823 国立故宮博物院(台北)所蔵『蒙求』上巻、日本に将来したか。 宮内庁書陵部所蔵『蒙求』上巻 奥書         弘仁1〜14 元和5〜 憲徳王2〜15 永徳2〜
長慶3 建興5
824 1・5 渤海使の大使以下、録事以上6人に冬の衣服料を賜う。この日、天長に改元する。 紀略         天長1 長慶4 憲徳王16 建興6
  類史194渤海         (淳和)      
  1・22     穆宗死去する。26日、敬宗即位。         (敬宗)    
  1・24 藤原緒嗣、上表して渤海使の来朝年期を一紀(12年)一貢とすることを請う。 類史194渤海 天長3・3・1条                
  2・2     渤海が宿衛として送った大聡叡等50人が入朝する。 旧唐17上            
      旧唐199下 渤海靺鞨            
      冊府111            
      冊府972            
  2・3 詔して、近年の不作・疫病に加えて農繁期にあたるため、渤海使の入京を停止し、帰国させることを宣す。 紀略                
  類史194渤海                
  3・28 新羅人165人に乗田24町8段を授けて口分田とし、種子・農具購入費を給う。 類史159田地上                
  4・7 能登国、漂着した新羅琴2面・手韓鉏2隻・剉碓2隻を朝集使に付して進上する。 紀略                
  4・17 天皇、越前国が進上した渤海王の信物、大使高貞泰らの別貢物を覧じる。また、契丹大狗・㹻子を進める。 紀略                
  類史194渤海                
  4・21 渤海副使璋璿の別貢物を返却する。 紀略                
  類史194渤海                
  4・22 淳和天皇、神泉苑に行幸し、渤海使の献上した狗に苑内の鹿を追わせる。 紀略                
  類史194渤海                
  5・11 新羅人辛良・金貴賀・良水白ら54人を陸奥国に安置する。法に准じて給復し、乗田を口分田に充てる。 類史159田地上                
  5・15 渤海王宛の勅書(慰労詔書)に捺印。日月の上に一つ捺す。 紀略                
  類史194渤海                
  5・20 渤海使の帰国に際して、渤海王及び大使高貞泰に品物を賜い、使人を饗応する。また、貞泰の帰国に際し、渤海使来朝の年期を一紀一貢に改定する旨を告げ、国王に伝えさせる。 紀略                
  類史194渤海                
  三代格18 天長1・6・20官符                
  6・20 太政官符を諸国に下し、渤海使来朝の年期が一紀一貢に改定されたことを縁海の諸郡に伝える。 三代格18 天長1・6・20官符                
  続後紀 承和9・3・6条                
  8・20 大宰府管内に居住する新羅人を、渡来の新旧に関わらず、陸奥国の空閑地に遷するべきとする。 三実 貞観12・2・20条                
  この年 新羅人の張大使(張宝高)日本に到る。唐に帰国する際、新羅僧(後還俗して李信恵)を舟に同乗させる。 巡礼行記 会昌5・9・22条                
821〜824     長慶中、源寂を新羅に派遣する。新羅人の様子を見、『黒水碑』・『畫鶴記』を記す。 旧唐書168     弘仁12〜 長慶1〜4 憲徳王13〜16 建興4〜7
新唐書177 天長1
冊府841  
825 3     渤海、遣使朝貢す。 冊府972     天長2 宝暦1 憲徳王17 建興7
(敬宗)
  5*     新羅王子金マ、入朝する。新羅国王金彦昇(憲徳王)、奏状を送り、先在太学生崔利貞等の帰国と新たに入唐の金充夫等12人の留在宿衛、国子監修業・鴻臚寺からの資糧給付を請う。これを認める。 旧唐199上 新羅 王子金マ、入唐朝貢。在唐の崔利貞等の帰国と、新たに入唐した金充夫等12人を宿衛とすること、並びに充夫等の国子監修業と鴻臚寺からの資糧給付を請う。唐帝許可。また、雙峯和尚(道允)、入朝使とともに入唐する。 史記10        
      冊府999 祖堂集17        
      唐会要95新羅          
  12・3以前 「日本大王」が霊仙に贈った黄金が入唐渤海国使に託され、長安に届く。渤海僧貞素、黄金と書を霊仙に届ける。また、霊仙が貞素に一万粒の舎利、新訳の経典等を託し、日本へ伝える。 続後紀 承和9・3・6条                
  巡礼行記 開成5・7・3条                
  12・3 隠岐国渤海使高承祖ら103人の来着を報ず。渤海使は、在唐日本僧霊仙の表物をもたらす。この時、『大乗本生心地観経』ももたらされたか。 紀略                
  類史194渤海 同日条                
  類史194渤海 天長3・5・15条                
  巡礼行記 開成5・7・3条                
  霊仙三蔵行歴考                
  石山寺所蔵『大乗本生心地観経』跋文                
  12・7 大内記布瑠高庭を領客使に任命する。また、藤原緒嗣上表して、渤海使高承祖らは一紀一貢の規定を守らずに来朝したので、入京させずに帰国させるべきだとする。 紀略                
  紀略 天長3・3・1条                
  類史194渤海 同日条                
  類史194渤海 天長3・3・1条                
826 1     渤海使等、朝貢する。 冊府972     天長3 宝暦2 興徳王1 建興8
  2・25 入唐留学僧霊船(霊仙)の弟妹に阿波国の稲1000束を賜う。 類史78賞宴下賞賜                
  3・1 右大臣藤原緒嗣、今回の渤海使は年期違反の来朝であり、「商旅」であることから、入京させず帰国させるべきことを重ねて上表するが、淳和天皇、これを許さず。 紀略                
  類史194渤海                
  5・8 渤海使高承祖ら入京する。鴻臚館に安置。 類史194渤海                
  5・12 渤海使に、位を授ける。 紀略                
  類史194渤海                
  5・13      中使が新羅より鷹鷂を持参して戻る。 旧唐17上            
  5・14 渤海使、帰国のため加賀国へ向かう。 紀略                
  類史194渤海                
  5・15 渤海使に慰労詔書と信物を付す。この時、淳和天皇、在唐の霊仙に贈る黄金100両を渤海使及び僧・貞素に付す。 紀略                
  類史194渤海              
  巡礼行記 開成5・7・3条              
  続後紀 承和9・3・6条              
  10*         憲徳王死去、興徳王即位。 史記10        
  12・8     敬宗殺害。12日、文宗即位。         (文宗)    
  12     新羅質子金充夫が旧例に準じて副使として帰国することを請う。 冊府999            
      新羅から問遺を受けて進献しなかった吐突士マと武自和を配流する。 冊府669貪貨            
      冊府669譴責            
825〜826     宝暦中、渤海修貢する。 旧唐199下 渤海靺鞨     天長2〜3 宝暦1〜2 憲徳王17〜興徳王1 建興7〜8
827 1*         唐帝が新羅王の死去を知り廃朝、太子左諭徳兼御史中丞の源寂に命じて弔祭させる。嗣王を冊封し、王の母・妻を大妃・妃とする。 史記10 天長4 大和1 興徳王2 建興9
(文宗)
  1*     麟コ殿にて、帰国する新羅使等に宴す。 冊府976            
  3         高句麗僧丘徳が入唐。 史記10        
  4・2     渤海遣使来朝。麟コ殿にて饗宴する。 旧唐199下 渤海靺鞨            
      冊府972            
      冊府976            
  4     新羅使朝貢。 旧唐199上 新羅            
  12・29 渤海使王文矩ら100人、但馬国に来着。但馬国、国博士林遠雄を遣わして、来朝理由・違期について尋問させる。王文矩、唐の淄青節度使の康志睦が新しい交通政策を行っている情報を伝えるために来朝したことを言上する。 三代格18 天長5・1・2官符                
828 1・2 太政官符を但馬国に下し、来朝した渤海使への食糧供給(ただし、通常の半分)、船の修理、渤海使との私的な交易の禁止、使者のもたらした王啓・中台省牒の書写・進上を命ず。 三代格18         天長5 大和2 興徳王3 建興10
  小右記 長元4・2・19条                
  1・17 但馬国、渤海使の来着を知らせる。 紀略                
  類史194渤海                
  2・2 但馬国、渤海王大彝震の啓・中台省牒の案文を進上する。上記王啓霊仙の死や、霊仙への黄金を途中で失ったことを記していたらしいが、受納されず、渤海使が持ち帰る。 紀略                
  類史194渤海                
  続後紀 承和9・3・6条                
  2         唐に遣使朝貢。 史記10        
  4・7 渤海僧貞素、淳和天皇より霊仙へ渡すよう託された黄金100両を携えて五台山霊境寺に到る。しかし霊仙はすでに死去していたという。4月14日、貞素「哭日本國内供奉大コ靈仙和尚詩」を作る。 巡礼行記 開成5・7・3条                
  4・29 渤海使の大使以下、梢工以上に絹綿を賜う。また、年紀未満のために入京を許さず、年紀が満ちた後に来朝すべきことを告げて帰国させる。 紀略                
  類史194渤海                
  続後紀 承和9・3・6条                
  4         これより先、張保皐、唐の徐州から帰国。海賊討伐のため清海(莞島)に鎮することを請い、許される。 史記10        
          史記44        
  11・10     平廬軍節度使兼新羅渤海両蕃等使の康志睦、他の節度使等とともに加官される。 冊府128            
  12・28     渤海・新羅等、遣使朝貢。麟コ殿にて宴す。 冊府976 唐に遣使朝貢、賜宴。入唐廻使大廉、茶の種子を持ち帰る。 史記10        
829 12     渤海・新羅等、遣使朝貢。 冊府972     天長6 大和3 興徳王4 建興11
830 12     新羅・渤海等、遣使朝貢。 旧唐199下 渤海靺鞨 新羅、唐に遣使朝貢。 史記10 天長7 大和4 興徳王5 建興12
      冊府972        
831 1*     渤海国王大仁秀卒、大彝震を渤海国王とす。改元して咸和とする。 旧唐17下     天長8 大和5 興徳王6 咸和1
(大彝震)
      旧唐199下 渤海靺鞨            
      新唐219渤海            
      通鑑244            
      冊府965            
  2     新羅王子金能儒並びに僧侶等9人入朝。 冊府972 王子金能儒と僧らを唐に遣使。 史記10        
  4・6*     これより先、新羅王彦昇卒する。3月1日、廃朝し(冊府976)、この日、嗣子金景徽を新羅王に封じ、母朴氏を太妃とする。また、太子左諭徳源寂を新羅への弔使とする(新唐220)。 旧唐17下            
      旧唐199上 新羅            
      新唐220新羅            
      冊府965            
      冊府976            
      通鑑244            
  7         入唐進奉使能儒ら、帰国の途中溺死する。 史記10        
  9・7 大宰府に官符を下し、新羅商人が来着した場合には、船内の品物をすべて検査し、朝廷が必要とする品物をまず確保し、それ以外の物は大宰府司管理のもと、適正な価格で交易すべき事を命じる。 三代格18                 
  11     新羅・渤海等、遣使朝貢。 冊府972 新羅、唐に遣使朝貢。 史記10        
832 3*     渤海王子大明俊等来朝する。 旧唐199下 渤海靺鞨     天長9 大和6 興徳王7 咸和2
      冊府972            
      冊府976            
833 1・10     渤海の高寶英、冊命に謝するために来朝。また、学生3人随行し、先の留学生、李居正・朱承朝・高壽海等3人の帰国を許す。 旧唐199下 渤海靺鞨     天長10 大和7 興徳王8 咸和3
      冊府972            
      冊府999            
  2・20     麟徳殿で渤海使大光晟等六人を引見し、饗宴する。 旧唐17下            
      旧唐199下 渤海靺鞨            
      冊府976            
  4・8 投化新羅人金礼真ら10人を左京五条に貫付する。 続後紀                 
  12・3 天皇、建礼門に出御し、使者を遣わして後田原・八島・楊梅・柏原の山陵に唐物を奉献させる。 続後紀                 
  12・18 天皇、建礼門に出御し、先日の頒幣に漏れた長岡山陵に唐物を奉献させる。 続後紀                 
  この年 僧恵運、大宰府観音寺講師兼筑前国講師に任命され、新羅商人から銅鋺・畳子などを購入する。 安祥寺伽藍縁起資財帳(『平遺』164)                
834 1・19 遣唐使を任ずる。持節大使を藤原常嗣・副使を小野篁とする。また、判官4人・録事3人を任命。 続後紀          承和1 大和8 興徳王9 咸和4
  公卿補任                
  2・2 大宰府管内に来着した新羅人を射傷させた者は罪科に処す。また被害者には治療の上、糧を支給して放還させることとする。この日、丹墀貞成を造舶使長官に、朝原島主を同次官に任じ、笠仲守・伴成益を遣唐装束司とする。 続後紀                 
  3・16 大宰府に滞在している唐人張継明を、肥後守粟田飽田麻呂に引率させて入京させる。 続後紀                 
  5・13 遣唐大使藤原常嗣に備中権守を兼任させる。また、三島島継を造舶次官に任じる。遣唐判官・録事・知乗船事ら9人に外官を兼任させる。 続後紀                 
  公卿補任                
  7・1 遣唐大使藤原常嗣に近江権守を兼任させる。 続後紀                 
  公卿補任                
  8・4 伴氏上を造舶使長官に任ず。 続後紀                 
  8・10 遣唐録事・准録事・知乗船事各1人を任命し、三島島継を造舶都匠とする。 続後紀                 
  8・14 遣唐造舶都匠三島島継に阿波権掾を兼任させる。また、准録事1名にも、外国の介を兼任させる。 続後紀                 
  8・20 延暦21年の遣唐使に准じて、遣唐使に国司を兼任させ、職田ならびに事力を支給すべきことを命じる。 三代格6                
  三代格15                
835 1・7 遣唐史生道公広持に、姓当道朝臣を賜う。 続後紀          承和2 大和9 興徳王10 咸和5
  2・2 長岑高名・良岑長松を遣唐准判官、松川貞嗣を録事、大和耳主・廬原有守を訳語に任じる。 続後紀                 
  文実 天安1・9・3条              
  三実 元慶3・11・10条                
  2・7 遣唐使奏して、録事以上に度者を賜うことを請う。これを許可する。 三代格2                
  3・12 大宰府に、遣唐使船に積み込む綿甲100領・冑100口・袴400腰を用意させ、不慮の事態に備える。 続後紀                 
  3・14 大宰府、近年新羅商人の往来が絶えず、壱岐島の防衛が不十分なため、島の徭人330人を要害の埼に配置することを請う。これを認める。 続後紀                 
  3・21 空海、没。 続後紀                 
  続後紀 承和2・3・25条        
  10・16 遣唐訳語廬原公有守・兄柏守らに朝臣姓を賜う。 続後紀                 
  10・19 藤原貞敏を遣唐准判官とする。 続後紀                 
  10・27 遣唐録事松川造貞嗣・同家継らに姓高峯宿禰を賜う。 続後紀                 
  11・20 遣唐使知乗船事香山連清貞と兄2人に宿禰の姓を賜う。 続後紀                 
  12・2 遣唐使に位を借す。大使從四位上藤原朝臣常嗣に正二位・副使從五位上小野朝臣篁正に四位上。ただし告身は授けず。 続後紀                 
827〜835     新羅の張保皐、新羅王に謁す。中国人による新羅人掠奪と奴婢売買を制するため海路の要である青海鎮設置を求め、大和以後、新羅人売買はなくなる。 新唐220新羅 張保皐、新羅王に謁す。中国人による新羅人掠奪と奴婢売買を制するため海路の要である青海鎮設置を求め、大和以後、新羅人売買はなくなる。 史記44 天長4年〜 大和1〜9 興徳王2〜 建興9年〜
承和2年 10年 咸和5年
836 1・25 例年の倍の砂金を得て、遣唐使の資金を援助した功により、陸奥国白河郡の八溝黄金神に、封戸2烟を充てる。 続後紀          承和3 開成1 僖康王1 咸和6
  1     新羅王子金義j来朝して謝恩し、宿衛となる。 旧唐199上 新羅 王子金義jを唐に遣して謝恩し、宿衛とする。この時、梵日、金義jに随って入唐。 史記10        
      新唐220新羅 祖堂集17        
      冊府996          
  2・1 遣唐使のために天神地祇を北野に祀る。 続後紀                 
  2・7 遣唐使、賀茂大神社に奉幣する。 続後紀                 
  2・9 天皇、紫宸殿に出御して、遣唐大使・副使を引見する。大使以下に綵帛・貲布を賜う。また、遣唐准録事県主益雄らに姓和気宿禰を賜い、本貫を改めて右京二条二坊に貫付する。 続後紀                 
  2・17 八省院において、遣唐使史生以下、将従以上に位記を賜う。 続後紀                 
  3・14 擬遣唐僧俊貞ら8人に位1階を進める。 続後紀                 
  4・10 遣唐使、八省院において朝拝する。 続後紀                 
  4・11     新羅王子帰国、物を賜う。 唐会要95新羅            
  4・24 天皇、紫宸殿に出御して、遣唐大使・副使らに餞別の宴をする。大使に御衣1襲・白絹御被2条・砂金200両、副使に御衣1襲・赤絹被2条・砂金100両を賜う。 続後紀                 
  4・26 遣唐使の無事を祈って、五畿七道諸国の各神社に奉幣する。 続後紀                 
  4・29 遣唐使に節刀を賜う。大臣、遣唐使の意義を述べ、大使・副使に御衣被を賜う。この日、遣唐医師朝原岡野の本貫を改めて左京四条三坊に貫付する。 続後紀                 
  北山抄4賜将軍節刀事                
  4・30 遣唐判官長岑高名に従五位下を授ける。また遣唐大使藤原常継の母無位菅野浄子に旧例によって従五位下を授ける。この日、遣唐録事高岑宿禰貞継に朝臣姓を賜う。 続後紀                 
  5・2 遣唐副使小野篁の申請によって、無位小野神に従五位下を授ける。この日、遣唐史生大宅臣福主に朝臣姓を賜う。 続後紀                 
  5・9 下総国香取郡伊波比主命等4神に叙位。遣唐使の無事を祈る。 続後紀                 
  5・10 過去の遣唐使・留学生の内、在唐中に没した8人に位を贈り、その位記を今回の遣唐使に託す。 続後紀                 
  巡礼行記 開成3・10・4条                
  5・12 右中将藤原助を難波海口の遣唐使のもとに遣わし、勅を宣べて前途を励ます。 続後紀                 
  5・13 右少弁藤原当道、難波海浜において、遣唐判官以下に犯罪があった場合、死罪以下に処する権限を大使・副使に与え、そのしるしとして節刀を付与した旨の太政官宣を述べる。次いで遣唐使一行、乗船する。 続後紀                 
  5・14 遣唐船4艘、難波津を出発する。 続後紀                 
  5・18 京、大暴風雨。摂津国輪田泊に停泊中の遣唐使船の様子を調べさせるため、看督近衛を一人を遣わしたが、道中の河川氾濫して通行できず。改めて左兵衛少志田辺吉備成を遣わし、安危を問わせる。 続後紀                 
  5・22 参議文室秋津・常陸権介永野王・内舎人良岑清風らを天智・光仁・桓武天皇陵・神功皇后陵に派遣して幣帛を奉り、遣唐使の平安を祈る。 続後紀                 
  閏5・8 遣唐音声長良枝清上・遣唐画師雅楽答笙師良枝朝生らの本貫を、右京七条二坊に改める。 続後紀                 
  閏5・13 太政官、旧例に准じて、遣唐使が新羅に漂着した場合、同地より唐に向けて航海できるよう援助を依頼する新羅執事省宛の牒状を、遣新羅使紀三津に付して派遣する。この日、僧恵霊を還俗させ、遣唐訳語とす。 続後紀                 
  閏5・14 皇后宮職に仮設された染作遣唐雑物所の帛一匹が、風に飛ばされ、侍従所に落ちる。 続後紀                 
  閏5・28 遣唐留学僧常暁に満位を授ける。 続後紀                 
  6     新羅からの留学生等の要求に応じ、旧例に従って衣糧を支給させる。 唐会要36附学読書            
      淄青節度使が新羅・渤海から到ったの熟銅を禁断しないことを奏す。 冊府999            
  7・2 遣唐船4艘、出帆する。大宰府、馳駅してこれを報じる。(7・15朝廷に報が届く) 続後紀 7・15条                
  7・8 これより先、遣唐副使小野篁の乗る第2船、肥前国松浦郡別島に漂廻する。この日、小野篁、上奏文を書き、送る。(7・24朝廷に届く) 続後紀 7・24条                
  続後紀 7・25条                
  7・16 これより先、遣唐大使藤原常嗣の乗る第1船と、判官菅原善主の乗る第4船、肥前国に漂廻。両人、6日・9日付で上奏文を書く。ついで10日、大宰府馳駅して上奏文を伝える。この日、朝廷に届く。 続後紀                 
  続後紀 7・17条                
  7・17 遣唐大使藤原常嗣・判官菅原善主に勅符して、漂廻を慰労し、船舶を修造して必ず渡海すべきことを命じる。また、大宰大弐藤原広敏に、遣唐使を府館に安置して慰労すべきこと、行方不明の第2・第3船に備えて値嘉島に見張りを置くべきこと等を命じる。 続後紀                 
  7・20 これより先、遣唐船第3船、遭難し、船が破損する。水手16人、板を編んで作った桴に乗って対馬島南浦に漂着。この日、大宰府、水手漂廻のこと、天平宝字・宝亀両度の遣唐使に准じて、遣唐使人は帰京させ、水手は帰郷させること、また判官・録事各1名を留めて大宰府司と共に破船修造を監督させるべきこと等を飛駅して報じる。(8・1朝廷に届く) 続後紀 8・1条                
  続後紀 8・2条                
  7・22 遣唐大使藤原常嗣上表して、今月17日の朝廷の対応に感謝する。 続後紀                 
  7・24 今月8日付の小野篁奏状が朝廷に伝わる。 続後紀                 
  7・25 小野篁に、大宰府に帰還し、船舶を修造して持節大使らと共に再び渡航すべきことを命じる。 続後紀                 
  8・1 7・20付の大宰府の報が朝廷に伝わる。 続後紀                 
  8・2 大使藤原常嗣に、7・20付の大宰府の要請に応えて、判官以下水手以上を帰京させ、帰京を願わない者は現地に留めても良いこと、但し大使・副使の去留は本人の意志に任せること、破船修理監督の判官・録事の人選は大使に一任すること等を命じる。 続後紀                 
  8・4 遣唐船第3船の乗員9人、桴に乗って肥前国に漂着する。 続後紀                 
  8・8 遣唐第3船、渡海の途中遭難し、わずかに25人が漂廻したのみで、残りの判官・録事・史生・知乗船事ら100余人の行方が不明であるため、大宰府に命じて、海路に詳しい人物を絶島・無人島に遣わし、検索させる。その報酬として穀帛を与える。 続後紀                 
  8・20* 大宰府、第3船に乗った請益僧真済らが桴に乗って漂着したことを報じる。真済、出帆して遭難後、船頭判官の丹墀文雄の空しく船上で死すよりも船を壊して桴を作り生還の道を企るべし、との意見により各々桴で去り、真済は海上を漂流すること23日(『紀家集』では22日)にして救出されたことを書面で語る。 続後紀                 
  三実 貞観2・2・5条                
  紀家集                
  8・25 大宰府、遣新羅使が出発したこと、及び遣唐第3船が対馬島上県郡南浦に漂着し、生存者が3名のみであることを報じる。 続後紀                 
  9・15 遣唐大使・副使、帰京して節刀を奉還する。 続後紀                 
  9・25 伴氏上を修理遣唐舶使長官に、三島島継を同次官に任じる。 続後紀                 
  10・22 遣新羅使紀三津、大宰府に帰還する。 続後紀                 
  12・3 遣新羅使紀三津、新羅執事省の牒を得て復命。遣唐使が新羅に漂着した場合、同地より唐に向けて航海できるよう援助を依頼したが(同年閏5・13条)、使命を果たせなかった。 続後紀                 
  12     新羅・渤海等遣使朝貢する。この時、新羅質子金充夫が書状を進める。 冊府972            
      冊府996            
          興徳王死去、僖康王即位。 史記10 興徳王        
          史記10 僖康王        
836〜840     開成後、再び渤海の貢絶えず。 旧唐199下 渤海靺鞨     承和3〜7 開成1〜5 僖康王1〜 咸和6〜10
文聖王2
837 1・9 これより先、真言宗請益僧真済・留学僧真然、遣唐第3船に乗り、入唐の途に就くが漂廻する。辨官の仰せにより、不吉として、例え新たな僧と交替したとしても、乗船を認めず、真言宗僧の派遣を停めることとする。しかし、この日、実恵上表して、真言宗の我が国に伝えられていまだ日浅く、経典なども少ないため、真言請益僧として元興寺の僧円行を派遣することを請う。 僧實惠上表文案(『平遺』4440)         承和4 開成2 僖康王2 咸和7
  1・29     渤海王子大明俊等19人に麟徳殿で宴す。 冊府111            
      冊府976            
  2・1 遣唐使、山城国愛宕郡家の門前で天神地祇を祠る。 続後紀                 
  2・13 遣唐大使藤原常嗣を兼大宰権帥とする。 続後紀                 
  公卿補任                
  3・5 遣唐知乗船事槻本連良棟らに姓安墀宿禰を賜う。 続後紀                 
  3・11 遣唐大使藤原常嗣・副使小野篁に餞別の宴をする。五位以上の列席者に「春晩陪餞入唐使」の題で詩を賦させる。 続後紀                 
  3・13 遣唐使、朝拝する。 続後紀                 
  3・15 遣唐使に節刀を賜う。大臣の口宣の内容は前年と同じ。大使、節刀を左肩にフげて、副使と共に退出する。 続後紀                 
  3・19 遣唐大使藤原常嗣、鴻臚館を出発し、大宰府に向かう。 続後紀                 
  3・22 遣唐使出発により、楠野王らを遣わして伊勢大神宮に奉幣する。 続後紀                 
  3・24 遣唐副使小野篁、鴻臚館を出発し大宰府に向かう。 続後紀                 
  3     渤海の賀正王子大明俊と入朝学生16人に勅して、6人を入京させ、10人を帰国させる。また、新羅留学生等216人のうち、7人に時服料等を支給し残りは帰国させる。 唐会要36附学読書            
  4・6 実恵(慧)ら、入唐請益僧円行に托して夏法服を唐の長安城青龍寺の故恵果阿闍梨の墳墓に献じ、伝法阿闍梨・法弟子らに美州(美濃)雑色牋などを贈る。 東寺観智院所蔵『弘法大師御伝』下 雑部                
  4     新羅使を帰国させる。 旧唐199上 新羅 唐の文宗、宿衛王子金義jを帰国させる。 史記10        
  6・22     宿衛の新羅金忠信等に錦綵を賜う。 冊府976 唐の文宗、宿衛の金忠信らに錦彩を下賜する。 史記10        
  7・22 大宰府、遣唐船3艘が肥前国松浦郡旻楽埼を目指して出帆したが、逆風にあって第1・4船は壱岐島に、第2船は値嘉島に漂着したことを報じる。 続後紀                 
  8・20 大宰府、遣唐船3艘漂廻の様子を報じ、遣唐使人の奏状を進上する。 続後紀                 
  9・21 豊前守石川橋継を修理舶使長官に、筑前権守小野末嗣・遣唐判官長岑高名を同次官に任じる。 続後紀                 
  12・11 大宰府、豊前国田河郡香春岑神、辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比当ス3社は延暦年中の遣唐請益僧最澄が渡海の無事を祈って霊験があること、また水旱・疾疫の災に神験を示すことを理由に、官社に預かるを請う。これを許す。 続後紀                 
  この年         新羅僧普照、入唐(840年帰国)。 宝林寺普照禅師彰聖塔碑        
838 1         僖康王縊死、閔哀王即位する。 史記10僖康王 承和5 開成3 閔哀王1 咸和8
    史記10閔哀王
  2・3     麟徳殿で渤海使等を引見、錦綵銀器を賜う。 冊府976    
  3・27 遣唐使往来の無事を祈るため、大宰府管内で精進者を選抜、得度させ、香襲宮2人、大臣社1人、宇佐八幡宮・宗像神社・阿蘇神社各2人を配す。国分寺・神宮寺に安置供養し仏道に専念させる。 続後紀         
  4・5 勅して、遣唐使出発から帰国の日まで五畿七道諸国に『海竜王経』を読誦させる。 続後紀         
  4・13 勅して、筑前・筑後・肥前・豊後等5ヵ国の貧窮者を選んで1年間の租税を免除する。近年疫病により死亡する者多く、生存する者も遣唐船造営のために疲弊が甚しいため。 続後紀         
  4・28 遣唐使出帆の期が迫ってきたとし、勘発使として右中将藤原助を派遣。 続後紀         
  5・3 これより先、遣唐使上奏。航海の無事を祈るため、諸国に『大般若経』を転読させることを請う。この日、詔して、五畿七道諸国に今月中旬より遣唐使帰国まで、『海竜王経』の講と『大般若経』転読を命ず。 続後紀         
  6・13 遣唐大使藤原常嗣・請益僧円仁ら遣唐使第1・4船の乗員が乗船。 巡礼行記        
  6・17 夜半、遣唐使第1・4船、出発。志賀島の東海に至るが、順風吹かず、5日間停泊。 巡礼行記        
    僧常暁請來目録(『平遺』4446)        
  6・22 勘発遣唐使藤原助、副使小野篁が病により進発不能と報告。 紀略        
    続後紀 12・15条
    文実 仁寿2・12・22条
    遣唐使船、進発。 巡礼行記
  6・23 遣唐第1・4船、宇久島に至り、酉時、出帆。 巡礼行記        
  6・28 日本使第1船、揚州海陵県付近の海岸で座礁。海陵県淮南鎮大江口に到る。 巡礼行記        
  7・2 これに先立つ29日、大使藤原常嗣ら、本船を離れ漂流し大河口南蘆原遍に流着。7月1日、唐揚州海骭ァ淮南鎮大江口に宿す。これより先、陸地に遣わした射手の壬生開山が、2日、唐人6人を率いて本船に戻る。即ち、国信物を移し、録事・知乗船事2人・留学僧円載・請益僧円仁ら27人が乗り移り、揚州海陵県白潮鎮桑田郷東梁豊村に到る。 巡礼行記        
    文実 天安1・9・3条
    三実 貞観6・1・14条
  7・3 遣唐大使ら、白潮鎮に到り、先着の録事山代氏益らと再会する。 巡礼行記        
  7・5 大宰府、遣唐第1・4船の出発を報ず。 紀略        
  7・9 海陵鎮大使劉勉が遣唐使らを慰問。 巡礼行記        
  7・23 遣唐大使ら、如皐鎮を経て海陵県に到る。 巡礼行記        
  7・25 太宰府・壱岐島の請いにより、新羅商人対策の警固につとめるため、史生1員を減じて弩師を置くことを認める。 三代格5        
  7・25 延暦4年に入唐して明州で病死した遣唐副使石川道益の33回の祥月命日法要を禅智寺で法要を行う。 巡礼行紀        
    巡礼行紀 同年10・4条
    続後紀 承和3・5・10条
  7・29 大宰府、遣唐第2船の出発を報ず。 続後紀         
  8・1 遣唐大使藤原常嗣ら、揚州都督府で都督李徳裕と会見。 巡礼行記        
  8・3 藤原常嗣、留学僧円載、請益僧円仁の天台山国清寺巡礼の請いを都督府に伝える。 巡礼行記        
  8・3 遣唐大使藤原常嗣らが、4月28日付勅書にこたえた表奏が到来する。 続後紀         
  8・7 日本国使、勾当官王友真を通じて牒を揚州観察府に提出し、琵琶の名手准判官藤原貞敏のため琵琶博士を請う。9月7日、廉承武を派遣し揚州開元寺北水館で貞敏に伝習させる。29日、学業修了。承武、貞敏に『琵琶譜』を贈る。同日、貞敏、この間の経緯を同書跋文に記す。別伝では劉二郎に砂金200両を贈り、伝習。二郎より楽譜数十巻、紫檀・紫藤の琵琶各1面を贈られるという。このうちの1面は後々まで宮中に蔵され宝物とされた。 伏見宮本『琵琶譜』跋文        
  三実 貞観9・10・4条
  禁秘抄 玄上
  三五要録所引「南宮横笛譜」
  光厳天皇御記 正慶元年5・2条、6・13条
  絲竹口傳 琵琶宝物
  8・8 円仁、第4舶が港に停泊できず、求法僧も上陸できずにいることを聞く。 巡礼行記        
  8・9 節度使李相公が開元寺に牒し仏像画造を許可。勾当日本使王友真が僧らを慰問する。 巡礼行記        
  8・10 日本使第2船海州に着の報、円仁一行のもとに届く。 巡礼行記        
  8・16 王友真、李相公の使人らとともに来て佐伯金成の携行品を勘録。 巡礼行記        
  8・17 日本使第4船判官菅原善主ら如皐鎮到着の報、円仁一行のもとに届く。佐伯金成、死去。 巡礼行記        
  8・23 開元寺牒が勾当日本使に送られる。 巡礼行記        
  8・24 日本使第4船判官菅原善主ら、小船で揚州都督府に着。大使らと合流。 巡礼行記        
  僧常暁請來目録(『平遺』4446)
  8 常暁、淮南城に至り広隆館に住まう。 太元帥法縁起奏状        
  9・9 李相公、遣唐使のために大餞を設ける。大使は欠席するが、判官以下は出席。 巡礼行記        
  9・11 円仁、副使小野篁が本国に留まり、判官藤原豊並が船頭となってきたことを日記に記す。 巡礼行記        
  9・13 円仁等の天台山行き奏状への報符、揚州に至る。 巡礼行記        
  10・4 円仁、入京の官人とその他の別を記す。入京者は、大使藤原常嗣・判官長岑高名・菅原善主・録事高丘百興・大神宗雄・通事大宅年雄・別請益生伴須賀雄・真言請益僧円行及び雑職以下35人。官船5艘。残留者は第1船判官藤原貞敏・円仁・円載・法相請益僧戒明ら270人。 巡礼行記        
  巡礼行記開成4・2・6条
  10・5 大使等長安に向け出発。 巡礼行記        
  12・3 遣唐大使ら長安城に入り、東京の礼賓院に入る。 巡礼行記12・18条        
  巡礼行記 開成4・1・21条        
  12・15 勅して、渡海拒否の遣唐副使小野篁を隠岐国配流に処す。27日、篁の正五位下の告身を返却させる。翌年1月、篁、配所に出発、謫行吟七言十韻を賦す。 続後紀         
  続後紀 12・27日条
  文実 仁寿2・12・22条
  12・18 揚州に残留した新羅人訳語金正南、遣唐使の帰国船を調達するため、楚州に出発。 巡礼行記        
  12・22     日本国、珍珠絹を貢ず。 旧唐17下    
    冊府972
  12・- 留学僧常暁、栖霊寺で文㻮らに師事。太元帥法などの顕密両法を学ぶ。 僧常暁請来目録(『平遺』4446)        
  この年 大宰少弐藤原岳守、唐商人沈道古らの貨物から元稹・白居易の詩筆を得て献上し、天皇大いに喜ぶ。 文実 仁寿1・9・26条        
  この年 鴻臚官に滞在中の沈道古、小野篁の才を聞いて詩文をやりとりする。 文実 仁寿2・12・22条        
839 1・8 円仁、渡日経験のある新羅人王請の訪問を受ける。 巡礼行記         承和6 開成4 閔哀王2 咸和9
1・13 日本使等5ヵ国使、朝見。席次は南詔使が第1位、日本使は第2位。日本使、大使ら25人が列席。 巡礼行記2・8条 日本、遣使し朝貢する。 旧唐199          
巡礼行記2・27条      
文実 天安1・9・3条 唐会要99      
中右記 永長1・10・11条      
     
     
     
1・13 勅により、請益僧円行、長安青竜寺に滞在(12日のこととする説あり)。円行、本国の実恵・真雅らから託された書を故恵果の弟子円鏡・義真らに伝え、絁20疋等を恵果の影前に供える。20日(一説、30日)、円鏡・義真ら、実恵宛の返書を草す。閏1月2(一説、3)日、円行、阿闍梨位の灌頂を受け、法門道具・仏舎利等を得て青竜寺から礼賓院に戻る(4日)。義真ら、閏1月3日付の書ならびに恵果愛持の五鈷鈴等16種の道具を託す。 入唐五家伝5霊厳寺和尚(円行)伝              
  唐僧圓鏡等書案(『平遺』4444)      
  圓行請來目録(『平遺』4447)       
  奥院興廃記      
閏1・4 日本大使ら長安を発ち、2月12日、楚州に至る。途中、第2船判官藤原豊並、死去。 巡礼行記2・20条              
巡礼行記2・27条              
閏1         閔哀王殺害され、神武王即位。即位に功のあった清海鎮大使張保皐(宝高)を感義軍使とする。 史記10   神武王1  
閏1     日本、遣使朝貢。 冊府972        
2・19 常暁、伝法阿闍梨位灌頂を受ける。大斎に遣唐判官藤原貞敏らも参列。 僧常暁請来目録(『平遺』4446)            
2・20 入京日本使春道永蔵ら揚州に到り、大使の楚州帰着等を伝える。同日、春道永蔵らが禁制品を購入したため、州衙に出頭を求められるなど、雑物購入をめぐって問題が生じる。 巡礼行記            
2・21 揚州に残っていた日本使、楚州に向けて出発。24日、楚州着。大使らと再会。大使、円仁に、台州行への勅許がおりなかったこと、但し留学僧円載の台州行は許され、5年間の食糧支給が認めれたことなどを伝える。 巡礼行記            
  巡礼行記2・24条    
  僧常暁請来目録(『平遺』4446)    
2・26 日本人留学僧円載・沙弥仁好・{従伴始満らの台州行を許す旨の牒が揚州より到る。27日、円載は台州にむかうために、随身物を整える。28日、円載一行、楊州に向けて出発。 巡礼行記            
巡礼行記2・27条    
巡礼行記2・28条    
3・1 遣唐使の無事祈願のため、五畿内七道諸国及び十五大寺に『大般若経』『海竜王経』を転読させる。 続後紀             
3・1 遣唐大使、開元寺で菩薩像などを画かせる。 巡礼行記            
3・3 天台山禅林寺僧敬文、日本の無行・円澄宛の書状を円仁に託す。 巡礼行記            
3・5 円仁、大使常嗣に求法のため唐に留まる旨の書を献じる。 巡礼行記            
3・16 遣唐使に選ばれながら逃亡して渡海しなかった知乗船事上伴有仁・暦請益生刀岐雄貞・暦留学生佐伯安道・天文留学生志斐永世らを処罰。1等を降して佐渡国に配流する。 続後紀             
3・22 使節一行、乗船し出発。第1船に大使藤原常嗣、第2船に長岑高名・円仁、第3船に菅原善主、第4船に藤原貞敏など計9船に搭乗。 巡礼行記            
3・29 日本使船9艘、海州東海県東海山の港に到る。4月5日、日本に向けて出発。円仁・惟正・惟暁・丁雄満の4人、唐に留まるために下船する。円仁ら、新羅人集落に到って海州東海県の役人に探索される。県衙付近に停泊中の日本使船に乗船させられることとなり、8日、第2舶の停泊所に到る。判官良岑長松・真言請益僧戒明らと再会。10日円仁ら、第2船に乗船。 巡礼行記            
  巡礼行記4・5条    
  巡礼行記4・8条    
  巡礼行記4・10条    
4・11 日本使第2舶、出帆。6月7日、登州文登県清寧郷赤山村に着き、円仁ら、新羅人張宝高建立の赤山法花院に入る。 巡礼行記            
巡礼行記6・7条            
4・20 円仁、『入唐求法目録』を作成。遣唐第2船の粟田録事に託して延暦寺に送る。 僧円仁求法目録(『平遺』4445)            
僧円仁送本目録(『平遺』4448)    
6・27 新羅人張宝高の貿易船が旦(赤)山浦に着く。 巡礼行記            
6・28 唐皇帝派遣の新羅王即位慰問のための遣新羅使青州兵馬使呉子陳ら、赤山法花院に到る。 巡礼行記            
6・- 留学僧円載、国清寺において『五百問論』上下2帖を書写。 東大寺図書館蔵『五百問論』巻上帖末識語            
7・14 円仁、渡日経験のある僧法空と会う。 巡礼行記            
7・15 日本使第2舶、赤山浦を出て帰途につく。但し、円仁・惟正・惟暁・丁雄満らは乗船せず、唐に留まる。第2舶、この後、8月頃、南海に漂着。乗員良枝清上ら数人、島民に殺害される。准判官良岑長松・知乗船事菅原梶成ら、破船の材木を集めて船を作り、脱出。 巡礼行記7・16条            
  続後紀 承和7・7・26条    
  文実 仁寿3・6・2条    
  三実 貞観7・10・26条    
  三実 元慶3・11・10条    
7・17 新羅船がよく風波に堪えるため、太宰府に建造させる。 続後紀             
7・21 大使藤原常嗣らの分乗した新羅船9艘が赤山浦に着く。23日、大使ら、赤山浦を出発する。残留した円仁、新羅僧から五台山の話を聞き、天台山行を五台巡礼に変更する。 巡礼行記            
巡礼行記7・23条      
7・28 円仁、文登県の牒に対し、残留の事情・巡礼予定地などを報ず。 巡礼行記            
7*     新羅王金祐徴、唐に遣使する。淄青節度使に奴婢を贈るが、唐帝が矜み帰国させる。 冊府42 神武王が唐に遣使する。淄青節度使に奴婢を贈るが、唐帝が矜み帰国させる。 史記10    
    冊府980    
7・23         神武王死去、文聖王即位。      
8・12 平安京東鴻臚院の地2町を典薬寮の薬園とする。 続後紀            文聖王1  
8・13 円仁、遣唐使船と渤海の交易船が青山浦に停泊したと伝え聞く。 巡礼行記              
8・14 大宰府、飛駅。帰国した遣唐録事大神宗雄の牒状を伝える。遣唐船3艘が不完全だったため、遣唐使一行は楚州で新羅船を雇い、分乗して新羅の南境を通って帰途に就いたこと等を述べる。 続後紀 8・20条              
8・19 遣唐大使藤原常嗣ら乗船の7隻、肥前松浦郡生属島に帰着。 続後紀 8・25条              
8・20 大宰大弐南淵永河に勅して、遣唐使の乗る新羅船について、各方面で監視態勢をとること、大神宗雄らを客館に安置すべきこと等を命じる。十五大寺に遣唐船が帰国するまで読経祈願させ、神祇少副大中臣礒守・少祐大中臣薭守を攝津国住吉神・越前国気比神に遣わし遣唐船の無事帰国を祈らせる。 続後紀               
8・24 大宰府、飛駅。唐大使藤原常嗣らの分乗する7船が肥前国松浦郡生属島に帰着したことを報じ、19日付常嗣奏状を伝える。 続後紀               
8・25 遣唐大使藤原常嗣・大宰大弐南淵永河らに勅して、帰国した遣唐使の慰労、秋の収穫時期にあたるため使人の上京に海路を用いることなどを聴す。信物・要薬については検校使を派遣、陸路で逓送すること、遣唐第2船及び帰国に利用した新羅船9隻の内の1隻が未帰還なので十分に監視すべきこと等を命ず。 続後紀               
9・2 遣唐使とともに帰国した請益僧常暁、准判官藤原貞敏に付して進上する上表を作る。 僧常暁請來目録(『平遺』4446)              
9・16 帰京の遣唐大使藤原常嗣、節刀を返進。 続後紀               
9・17 天皇、紫宸殿に出御。右大臣藤原三守、唐の勅書を奏す。天皇、大使藤原常嗣を慰労。常嗣に御被・御衣を賜う。 続後紀               
9・18 権中納言藤原良房、内記に唐の勅書を所蔵させる。 続後紀               
9・23 大宰府に、僧常暁請来の太元帥画像を進上させる。 続後紀               
  僧常暁請來目録(『平遺』4446)        
  太元師法縁起奏状        
9・28 遣唐使に加階。大使正四位下藤原常嗣に従三位、判官従五位下長岑高名に従五位上、判官正六位上菅原善主に従五位下を授ける。唐で没した判官正六位上藤原豊並に従五位上を贈位。 続後紀               
  公卿補任      
10・1 紫宸殿で群臣に賜酒。伴雄魚と伴須賀雄が囲碁をし、遣唐准判官正六位上藤原貞敏が琵琶を弾く。 続後紀               
10・6 遣唐大使以下、八省院において朝拝。天皇、臨御せず、大臣が事を行う。 続後紀               
10・9 遣唐録事山代氏益の乗った新羅船が筑前国博多津に帰着する。 続後紀               
10・13 唐物を伊勢大神宮に奉る。 続後紀               
10・25 建礼門前で内蔵寮の官人・内侍らに唐物の交易をさせ、宮市と称す。 続後紀               
12・13 天皇、建礼門に出御し、唐物を光仁(後田原)・崇道(八嶋)・平城(楊梅)・桓武(柏原)天皇陵に献ずる使者を分かつ。 続後紀               
12・19 円行、入唐修行の経過を述べる上表と請来目録を作成。円行、霊仙の弟子から託された2700余粒を含む仏舎利3000余粒をもたらす。 圓行請來目録(『平遺』4447)              
12・20     渤海王子大延広等が朝貢する。 冊府972          
12・22 13日の頒幣に漏れた藤原乙牟漏陵に唐物を奉じる。 続後紀               
840 1・4     文宗死。       承和7 開成5  文聖王2 咸和10
  1・14     武宗即位。         (武宗)    
  2・14 隠岐国に配流されていた小野篁を召還する。 続後紀                 
  2・16 伴有仁・刀岐雄貞を佐渡国より召還。 続後紀                 
  3・3 大宰府と縁海諸国に命じて未帰還の遣唐第2船の監視を継続させる。 続後紀                 
  3・28 渤海王子の登州経由での帰国を聞く。 巡礼行記                
  4・8 大宰府、飛駅して、遣唐第2船知乗船事菅原梶成らが1隻の小船に乗って大隈国海岸に帰着したことを報ず。梶成ら、入唐の途次、海上で逆風に遭って南海に漂着し、万死に一生を得たという。 続後紀                 
  続後紀 4・15条        
  続後紀 6・5条        
  文実 仁寿3・6・2条        
  三実 貞観7・10・26条        
  4・15 大宰大弐南淵永河らに勅符し、菅原梶成らの慰労と、別船の准判官良岑長松らの捜索に尽力すべきこと等を命じる。 続後紀                 
  4・23 遣唐大使藤原常嗣、没(45歳)。 続後紀                 
  4     鴻臚寺、新羅国の告哀と、質子・年限の満ちた学生等105人の帰国を奏す。 旧唐199上 新羅 文宗(ママ)、新羅質子と満期に達した学生ら105人を放還させる。 史記11        
        新唐220新羅        
        唐会要95新羅        
  6・1 円載、天台山に到り、淳和皇后正子内親王より与えられた袈裟等を奉納。延暦寺衆徒の宗義上の疑問(寺家未決・修禅院未決)50ヵ条について、未決の回答を禅林寺の広修・国清寺の維蠲に請う。広修に続き、維蠲、回答を与えるにあたって台州刺史の許可を求める。8月13日、台州刺史滕邁、許可を与える。 唐決集                
  6・3 入唐請益僧常暁が唐から将来した太元帥像を山城国宇治郡法琳寺に安置し修法の道場とすることを請い、許す。 続後紀                 
  6・5 遣唐知乗船事菅原梶成ら、帰国の途次に南海に漂着して賊と戦い、得た兵器、五尺鉾・片蓋鞘横佩等を献状。 続後紀                 
    続後紀 7・26条        
    文実 仁寿3・6・2条        
    三実 貞観7・10・26条        
    巡礼行記会昌2・5・25条        
  6・18 大宰府、馳駅。遣唐第2船准判官良岑長松らが大隈国に帰着したことを報じる。 続後紀                 
  7・26 出羽国飽海郡正五位下勲五等大物忌神に従四位下を授け、神封2戸を充てる。南海に漂着した遣唐使第2舶が賊と戦い勝利したことへの謝意。 続後紀                 
  9・15 風波に強い新羅船1隻の分給を請う対馬島司の願いを認める。 続後紀                 
  9・23 大宰府、大主城1員を減じ、弘仁14年に停止した主厨・主船を再び各1員置く。主厨は蕃客の供応、主船は遣唐使乗船新羅船の構造調査と大唐通事を任とする。 三代格5                
  続後紀 9・20条                
  9・26 帰国した遣唐使判官以下水手以上391人の加階の等第を定める。 続後紀                 
  12・27 大宰府、新羅人張宝高の使者が馬鞍等の方物を献上したことを報じる。 続後紀                 
  この年 この頃、在唐の日本僧円覚、五台山に住む。 圓珍入唐求法目録(『平遺』4480)                
  圓珍入唐求法目録奉納狀(『平遺』4481)                
841 1・23 遣唐陰陽師春苑玉成が唐で得た『難義』を陰陽生に伝学させる。 続後紀          承和8 会昌1 文聖王3 咸和11
2・27 太政官、新羅人張宝高の朝貢に関し大宰府に指示。「人臣に境外の交なし」として、朝貢不許可・献上品返却とするが、積載の貨物は民間に交易することを許すこと、また使者には前例に准じて粮を支給すること等を命じる。 続後紀           
7     帰国する新羅の金雲卿を淄州長史とすべしと勅す。 旧唐199上 新羅 唐武宗、在唐の新羅人金雲卿を新王冊封のための勅使として帰国させる。新王を新羅王、妃を王妃に冊封。 史記11  
唐会要95新羅  
8・19 大宰府の曹104人を対馬島に配して防人に充てる。 続後紀           
閏9・25 渤海国中台省、日本国太政官宛牒状を作成。大使賀福延に託し、日本に送る。 渤海国中台省牒案(壬生家文書1679)          
この秋 日本の遣唐使一行を本国に送り届けた新羅人ら、楚州に帰着。新羅人船頭の陶十二郎、日本僧玄済から円仁宛の砂金24小両等を託され、もち来る。また恵蕚、新羅人の帰国船に同乗して楚州に着、五台山に巡礼。翌年2月1日、これらの経緯を楚州の新羅訳語劉慎言、書状をしたため、円仁に伝える。 巡礼行記会昌2・5・25          
文実 嘉祥3・5・5条  
11 張保皐(宝高)、没。 続後紀 承和9・1・10条          
12・22 長門国、渤海使政堂省左允賀福延ら105人の来着を伝える。 続後紀           
続後紀 承和9・3・29条  
続後紀 承和9・4・5条  
渤海国中台省牒案(壬生家文書1679)  
12・25 式部大丞小野恒柯・少外記山代氏益を存問渤海客使とする。 続後紀           
この頃     (会昌元年頃)渤海、瑪瑙櫃・紫瓷盆などを貢じる。 杜陽雑編 下      
842 1・10 これより先、新羅人李少貞ら40人、筑紫大津に来着。張宝高残党が日本にやってきた場合の捕縛と、前年来日の李忠らの本国送還等を要請し、丈の筑前国宛牒状を提出する。公卿、議して、丈の書状が先例に背くことと、牒の内容に問題があれば、受け取らずに少貞に付して返却すべきこと、忠らの帰国については、その意思に従うべきことなどを定める。宝高死去を聞いた文室宮田麻呂、忠らの貨物を差し押さえる。朝廷、大宰府司に命じて、貨物を宮田麻呂から取り返して忠らに返し、食料を支給して帰国させる。 続後紀          承和9 会昌2 文聖王4 咸和12
2・20 渤海使の入京を許す。 続後紀           
3・6 存問兼渤海客使小野恒柯・少内記豊階安人ら、渤海使勘問記と渤海王大彝震の書・中台省牒の案文を進める。大彝震、前使王文矩に告げられた趣旨に基づき、朝聘の年期がきたので使者を派遣する旨を述べる。別状で、かつて826年度の使高承祖が在唐日本僧霊仙へ転送を依頼された黄金100両の顛末について、渤海使が唐の霊仙のもとへ至った時は既に霊仙が遷化した後であったこと等を述べる。 続後紀           
3・27 渤海使賀福延ら入京。式部少輔藤原諸成を郊労使に任じ、迎えさせる。ついで鴻臚館に安置する。 続後紀           
3・28 右大史蕃良豊持を鴻臚館に遣わして渤海使を慰労させる。賀福延、中台省牒を進める。 続後紀           
3・29 侍従藤原春津を鴻臚館に派遣。黄金転送の経緯を述べた渤海王の別状についての存問使の詰問に対し使者が過失を認めたため、常例で待遇すべきではないという意見があったが、年期を守って来朝したので特に優待するとの勅旨を渤海使に告げる。 続後紀           
この春 この頃、恵蕚とその弟子、五台山供料を募るために帰国。 巡礼行記会昌2・5・25条          
  巡礼行記会昌5・7・5条  
4・1 右大史山田文雄を遣わして、渤海使に時服を賜う。 続後紀           
4・2 賀福延ら、八省院において渤海王の書・信物等を献じる。 続後紀           
4・4 左近陣で渤海客徒の位記に捺印する。 『西宮記』恒例2 裏書            
4・5 天皇、豊楽殿に御す。渤海使らを饗し、大使賀福延に正三位、副使王宝璋に正四位下、判官高文暄・烏孝慎に正五位下、録事高文宣・高平信・安歓喜に従五位下を叙す。訳語以下、首領以上13人にも授位。 続後紀           
4・7 渤海大使賀福延、方物を献じる。 続後紀           
4・9 渤海使らを朝集堂で饗す。惟良春道に陪席させる。勅して、国王と大使賀福延らに物を賜う旨を告げる。 続後紀           
4・12 勅使を鴻臚館に遣わして詔を宣し、賀福延に渤海王宛の書を付す。また中台省宛の太政官牒を付し、渤海王の啓函の修飾が先例に反するのは問題だが、今回は咎めず、以後注意すべき旨を述べる。勘解由判官藤原粟作・文章生大中臣清世を領客使に任じ送らせる。賀福延ら、帰途につく。 続後紀           
5・5 大宰府観音寺講師兼筑前国講師恵運、講師を辞し、博多津頭において唐商・李処人の船に乗り、入唐の途に就く。肥前国松浦郡遠値嘉島那留浦で李処人、旧船を棄てて新船を建造。三ヶ月後の8月24日、出帆し、6ヵ日後に温州楽城県玉留鎮府前頭に到着する。 入唐五家伝1安祥寺慧運(恵運)伝          
  安寺伽藍縁起資財帳(『平遺』164)  
7・17 伴健岑・橘逸勢ら、謀反が発覚したとして捕えられる。 続後紀           
8・13 橘逸勢、伊豆国に流される途上、遠江国板築駅で没(60余歳)。逸勢は延暦度入唐留学生。 続後紀 9・3条          
  文実 嘉祥3・5・15条  
8・15 大宰大弐藤原衛、4ヵ条の起請を奏し、警固上の問題から新羅人の入国を一切禁止すること等を請う。来朝新羅人について、一般人の場合は漂着の例に准じて粮を支給して放還し、商人の場合は民間交易を許し、終了後速やかに帰国させること等を命ず。但し、鴻臚館には安置させず。 続後紀           
  三代格18   
8・24 唐商に同行して渡唐の恵運に円修も同行か。 山王院蔵書目録          
  行歴抄 仁寿3・12・15条  
10・17 延暦度遣唐判官菅原清公、没(73歳)。 続後紀           
三実 元慶4・8・30条  
      吐蕃内紛、ティツク・デツェン王暗殺される        
843 2・15     武宗、北狄の一種族・黠戛斯の使を引見して渤海使の上に置く。 通鑑247     承和10 会昌3 文聖王5 咸和13
3・3 留学僧円載、開成4年に台州国清寺日本新堂で書写した『五百問論』を帰国する弟子仁好らに託し、延暦寺に送る。 東大寺図書館蔵『五百問論』巻上帖末識語          
8・22 対馬島上県郡竹敷埼の防人が伝えた、新羅の方角の異変を太宰府が報じる。勅して、警固に努めさせる。また、対馬島司が、防人の停止と弘仁年中の疫癘による島民多数の死亡によって危急時の防禦に不安があるため、旧例に准じて、筑紫の人を対馬島の防人に充てることを請う。これを認める。 続後紀           
9 留学僧円載の二人の弟子等、日本に向けて楚州を出発。 巡礼行記会昌3・12・-条          
10・21 日本僧惟正、長安の資聖寺において『百法論顕幽抄』を書写。 東大寺図書館蔵『百法論顕幽抄』奥書          
12・9 入唐留学僧円載の弟子仁好・順昌、新羅人張公靖ら26人とともに長門国に来着。 続後紀           
巡礼行記会昌3・12月条  
巡礼行記会昌4年2月条  
12・22 文室宮田麻呂を謀反の疑いで逮捕。29日、宮田麻呂を伊豆国に配流。 続後紀           
この年 円修と恵運、天台山に到り、円載の犯尼を聞く。円載、円修になじられたことを恨み、円修の帰国の途中、新羅僧を雇い毒殺をはかるが、失敗に終わる。 行歴抄 大中7・12・15条          
844 4〜5 これより先、日本僧恵蕚とその弟子、五台山供料を携えて入唐。この頃、恵蕚、蘇州南禅寺において、唐人の協力を得て、白居易(楽天)の文集『白氏文集』を書写。これを日本に将来。 巡礼行記会昌5・7・5条         承和11 会昌4 文聖王6 咸和14
  『白氏文集』奥書        
  7・2 勅して、在唐の円仁・円載らの旅資各黄金200小両を、一時帰国して再び唐に向かう円載{従の仁好に付すことを命ず。 続後紀                 
  10・9 摂津国、難波の鴻臚館を国府とすることを請い、許される。 続後紀                 
  この年 入唐留学僧円修、帰国。『冥道無遮斎文』1巻等をもたらす。 山王院蔵書目録                
838〜844 大宰少弐藤原岳守、唐人の貨物を検校し『元白詩筆』を入手し、奏上する。仁明天皇、悦び岳守に従五位上を授ける。 文実 仁寿1・9・26条         承和5〜11 開成3〜 閔哀王1〜 咸和8〜14
会昌4 文聖王6
845 5・1     白居易、自分の文集が日本・新羅に流伝していることを『白氏長慶集』後序に記す。 白氏文集後序     承和12 会昌5 文聖王7 咸和15
7・5 楚州滞在中の円仁、日本からの船2隻が常州界に着岸していること、恵蕚とその弟子が、還俗させられて楚州に滞在していることを聞く。 巡礼行記        
8     会昌の排仏、始まる。      
12・5 大宰府、馳駅。新羅人が康州の牒2通をもち、日本人漂流民50余人を護送して来着したことを報じる。 続後紀         
この年         新羅僧慈恩禅師、唐より帰国する。(入唐年次は不明) 月光寺圓朗禪師大寶禪光碑塔碑
846 1・9 この頃、円仁の弟子性海と俗人4人、太政官牒等と勅施の黄金等をもって揚州に至る。円仁は10月2日に揚州から来た性海と会う。 巡礼行記会昌6・1・9条         承和13 会昌6 文聖王8 咸和16
巡礼行記会昌6・3・9条
巡礼行記会昌6・4・27条
巡礼行記会昌6・5・1条
巡礼行記会昌6・10・2条
1・17     渤海使等入朝、麟徳殿で引見。 旧唐18上    
冊府972
冊府976
1     渤海王子大之萼入朝。 旧唐18上    
冊府972
2・5  楚州に帰着した経論等を受け取るために丁雄を派遣する。 巡礼行記        
2・26     新羅使金国連入朝。 旧唐18上    
3     武宗死、宣宗即位      
8     回鶻、唐と黠戛斯(キルギス)の挟撃により滅亡      
    吐蕃、ランダルマ王暗殺され南北に分裂      
    唐、吐蕃より河西・隴右奪回      
841〜846     会昌以後、新羅の朝貢復すに至らず。 新唐220新羅     承和8〜13 会昌1〜6 文聖王3〜8 咸和11〜16
847 閏3・10 これより先、日本の神御井らの船、明州に到る。 巡礼行記         承和14 大中1 文聖王9 咸和17
4 対馬の百姓6人、新羅の武州南界黄茅嶋に漂着し囚禁される。 巡礼行記9.6条        
5・11 唐人江長・新羅人金子白らの書により、帰国日本僧の状況を知る。これより先、春太郎・神一郎、明州の張支信の船に乗って日本に向かう。 巡礼行記6・9        
6・21 日本僧慧運、留学僧円載の{従仁好・僧恵蕚・唐僧義空・同道ムら(総勢47人)、唐商張友信らの船で明州を出帆し、3日後、遠値嘉島那留浦に帰着する。慧運、儀軌・経論・仏菩薩・祖師像・曼荼羅・道具等を将来する。 安寺伽藍縁起資財帳(『平遺』164)        
続後紀 承和14・7・8条
続後紀 嘉祥1・6・5条
入唐五家伝1安祥寺慧運伝
善隣記
元亨6
『高野雑筆集』付収「唐人書簡」
6・30 恵運、請来目録を作る。 僧惠運請來目録(『平遺』4454)        
7・8 在唐の天台留学僧円載の{従仁好と僧恵蕚ら、唐人船に便乗して帰国し、円載の留学年限の延長を求め、費用を請う旨の表状を進める。唐僧義空、来日。 続後紀         
  続後紀 嘉祥1・6・5条  
9・2 円仁・弟子惟正ら登州赤山浦を出帆。10日、肥前国松浦郡鹿嶋に着。 巡礼行記        
9・18 入唐求法僧慧雲、孔雀、鸚鵡、狗を献じる。 続後紀         
9・18 円仁・弟子惟正ら、博多津の鴻臚館前に着。翌19日、鴻臚館に入り、『請来目録』を作成し、進上する。惟正、洛陽・太原・長安等で学んだ音韻を伝える。 巡礼行記        
僧圓仁請來目録(『平遺』4455)
悉曇蔵5
10・2 円仁ら帰国の報が朝廷に伝えられる。 続後紀         
10・19 円仁らの入京を促す官符が大宰府に届く。 続後紀 嘉祥1・3・26条        
巡礼行記
巡礼行記10・26条
巡礼行記11・14条
10 恵運、請来目録を作成。 安寺伽藍縁起資財帳(『平遺』164)        
この年     唐、黠戛斯に可汗号を与える      
848 3・26 円仁ら平安京に到る。 続後紀          嘉祥1 大中2 文聖王10 咸和18
3     「日本国王子」、入朝し方物を貢じる。碁をよくしたため、皇帝の命で顧師言と対す。 旧唐18下    
冊府997
杜陽雜編 下
6・5 在唐の留学僧円載に太政官牒を送る。留学年限の延長と黄金小100両を支給する旨を記す。 続後紀         
12・30 能登国、渤海使王文矩ら100人の来着を報ず。 続後紀         
続後紀 嘉祥2・5・3条
849 2・1 少内記県犬養貞守・直講山口西成らを存問渤海客使に任じ、能登国に派遣。 続後紀         嘉祥2 大中3 文聖王11 咸和19
3・14 存問渤海客使県犬養貞守ら、渤海王書・中台省牒等の案文を奏上する。渤海王書・中台省牒ともに、年期未満だが、隣好を修めるために使者を派遣する旨を述べる。 続後紀        
3・21 存問渤海客使、馳駅。違期来朝詰問の問答文を奏す。 続後紀        
3・28 存問渤海客使、領客使を兼任。 続後紀        
4・28 領渤海客使、渤海使王文矩らを率いて入京する。良岑宗貞を派遣して慰労し、鴻臚館に安置させる。宣命して、違期入朝ではあるが、苦難の末に来朝したことを考慮し優遇する旨を告げる。 続後紀        
4・30 渤海使に時服を賜う。 続後紀        
5・2 渤海使王文矩ら、八省院で国王の書・信物等を献じる。渤海大使が時康親王(後の光孝天皇)の「拝起之儀」をみて、天皇になる相があることを語ったのは、同日も含めた賜宴中のことと考えられる。 続後紀      
三実 光孝天皇天皇即位〔元慶8・2・4〕前紀      
紫明抄巻1桐壺      
河海抄巻1桐壺        
5・3 天皇臨席のもと、豊楽殿で渤海使らに宴を催す。大使王文矩に従二位、副使烏孝慎に従四位上、大判官馬福山・少判官高応順に正五位下、大録事高文信・中録事多安寿・少録事李英真に従五位下を授ける。この他の品官・首領にも授位。 続後紀        
5・5 渤海使、武徳殿での騎射の儀に列席。薬玉を渤海使に賜う。藤原衛が応接し、儀範を称賛される。 続後紀        
文実 天安1・11・5条
5・10 公卿を遣わして朝堂に渤海使を饗す。詔して、国王と王文矩らに物を賜う。 続後紀        
5・12 小野篁・藤原春津・藤原春岡・橘海雄・大窪益門・安野豊道らを鴻臚館に派遣。渤海王宛の書・中台省宛の太政官牒を渤海使に授ける。書・牒ともに、年期違反への意見を述べる。この日、王文矩ら、帰国の途につく。 続後紀        
6・7 雲叙、かねて日本僧恵蕚によってもたらされた在日唐僧義空の書への返書を作り、帰国する恵蕚に託す。 唐人書簡        
8・4 大宰府、馳駅。唐の商人53人の乗る船が、多くの貨物を携えて来着したことを報じる。 続後紀        
閏12・24* 来日中の唐商人徐公祐、かねて受け取った在日唐僧義空からの書状に返書。恩を謝し、白茶垸・越垸子・青瓶子・銅匙筋を、義空の使者に託す。 唐人書簡        
元亨釈書巻6        
この年 参議滋野貞主、上表して、大宰府の重要性を強調。近年、有用な人物が登用されず、大宰府の官吏は不正を見ても糺さなくなっているなどの府官堕落の現状を嘆き、大宰少弐小野恒柯と筑前守紀今守を名指しで批判する。 文実 仁寿2・2・8条        
850 この春 天台宗の僧円珍、夢に山王明神より入唐求法を勧められる。 智証大師年譜         嘉祥3 大中4 文聖王12 咸和20
5・15 延暦の遣唐使、橘逸勢に正五位下を追贈。 文実        
11・6 従四位下治部大輔興世書主、没(73歳)。百済系渡来人の裔。和琴を能くし、新羅人沙良真熊に新羅琴を学び、その秘道を得た。 文実        
この年 唐人崔勝、「帰化」する。 三実 元慶1・6・9条        
851 2 大宰府に来着の「唐国商人」張友信、この月に」帰国する。 円珍奏状(平遺4492)         嘉祥4 大中5 文聖王13  咸和21
この春 円珍、入唐求法を勧められる夢告を再度受ける。両度の夢告を録して奏聞。入唐を許される。 智証大師年譜        
4・15 円珍、入唐のため大宰府に出発。5月24日、大宰府着。便船を待つ。 行歴抄      
智証大師年譜      
円珍奏状(平遺4492)        
4・28 仁寿に改元           仁寿1
この年         入朝使元弘、新羅に仏牙・仏経を持ち帰る。 史記11
三国遺事3
852 5・22 蘇州衙前散将徐公直、日本より帰国の弟徐公祐から届いた義空よりの書状に返書を作り、日本に向かう弟公祐に託す。 唐人書簡         仁寿2 大中6 文聖王14 咸和22
閏8 円珍、唐の商人欽良暉に会う。 智証大師年譜      
円珍奏状(平遺4492)        
11・7 承和の遣唐使判官菅原善主、没(50歳)。 文実        
853 2・11 大宰府、円珍の申請により、商人王超の帰国船に便乗して入唐することを許可する公験を発行。 大宰府牒(平遺102)         仁寿3 大中7 文聖王15 咸和23
3・28 紀椿守、没。隷書に秀で、渤海に答える書を2度担当し、朝廷の称賛を得た。 文実        
6・2 承和の遣唐知乗船事、侍医菅原梶成、没。 文実        
7〜8* 7月1日、円珍、大宰府に従者と物資などを記した牒を進め、公験を請う。5日、大宰少監藤原有蔭、下付する。15日、円珍ら一行、博多で王超らの船に乗る。8月15日、福州連江県に着。 行歴抄      
大師帰朝請弘伝官牒款状      
智証大師年譜      
円珍牒(平遺103)        
9〜12 円珍、福州、温州、台州等をめぐり、経論・詩巻等を得て目録を作る。 行歴抄      
大師帰朝請弘伝官牒款状      
智証大師年譜      
円珍牒(平遺104)      
円珍牒(平遺105)      
円珍牒(平遺106)      
円珍牒(平遺107)      
円珍牒(平遺108)      
円珍牒(平遺109)      
唐国台州牒(平遺110)      
僧円珍求法目録(平遺4475)        
854 9・2 円珍、福州・温州・台州で求めた経典等の目録を作る。 僧圓珍求法目録(平遺4476)         仁寿4 大中8 文聖王16 咸和24
9・20 円珍、越州開元寺に到る。 唐国越州都督府過所(平遺121)        
11・30 斉衡に改元           斉衡1  
855 1・22 藤原松影、没(57歳)。松影、承和の遣唐使判官となるが、母老を口実に再三固辞し、許される。 文実         斉衡2 大中9 文聖王17 咸和25
3・19 円珍ら、越州都督府から過所を発給される。 唐国越州都督府過所(平遺121)        
7・20 大宰府、入唐留学僧円載の上表を伝進する。 文実        
11・15 円珍、長安の青竜寺で求めた経典・仏像等の目録を作る。 僧圓珍求法目録(平遺4467)        
円珍ら、唐朝から尚書省司門過所を発給される。 唐国尚書省司門過所(平遺122)        
856 3・9 大宰府が報じた漂着新羅人30人に粮を支給し、帰国させる。 文実         斉衡3 大中10 文聖王18 咸和26
9・7 円珍、天台山国清寺に止観堂を建てる。唐の商人・景全・劉仕献、渤海商主季延孝・英覚ら、日本より唐に帰り、円珍と会い、止観堂建立費用を施す。 円珍牒(平遺124) 日本僧円珍、天台山国清寺に止観堂を建立する。 国清寺止観堂記  
要文抄2    
この秋 開成5年以来五台山に住していた日本僧円覚(田口氏)から、商人李・英覚・陳太信(泰信)らに託して円珍に天竺貝多樹柱杖・広州班藤柱杖・瑠璃瓶子・白芥子が届く。 円珍入唐求法目録平遺4480        
この年         円朗禅師、賀正使に随って入唐する。 月光寺円朗禅師大宝禅光塔碑
857 1・17 現行の大衍暦に替えて五紀暦を用いることを求める。暦博士大春日真野麻呂の請いを議し、大衍暦と五紀暦との併用を許す。 文実         斉衡4 大中11 文聖王19 咸和27
三実 貞観3・6・16条
三代格17貞観3・6・16官符
2・21 天安に改元           天安1
9・3 承和度遣唐使准判官長岑高名、没(64歳)。長安に到った際、副使小野篁不在のため、とくに上殿を許される。 文実        
9         文聖王死去。憲安王が即位する。   憲安王1
10 円珍、長安・福州・温州・台州や国清寺・禅林寺等で求めた経論などの目録を作る。 「僧円珍求法目録」平遺4477        
858 2     渤海王彝震卒、弟の大虔晃を渤海王とす。 旧唐書18下     天安2 大中12 憲安王2 大虔晃1
資治通鑑249
閏2〜4・1 円珍、再三にわたって貞元の例に准じて、教典類の国外持ち出し許可の判印を請う牒を台州刺史に提出する。 円珍牒(平遺124)        
円珍牒(平遺125)
円珍牒(平遺126)
円珍牒(平遺127)
4・8 台州刺史、円珍の請いにより、判印を給す。 大師帰朝請弘伝官牒款状        
台州刺史厳修陸牒(平遺4478)
4・9 円珍が国清寺に牒。 僧円珍牒狀案(平遺4479)        
5・15 円珍、各地で求めた経典等の目録入唐求法惣目録を作る。 智証大師年譜        
円珍入唐求法目録(平遺4480)
6・8 円珍、台州を辞し、商人李延孝の船で帰国の途につく。 智証大師年譜        
大師帰朝請弘伝官牒款状
要文抄2
6・19 円珍ら、肥前国松浦郡に着き、22日、鴻臚館に入る。8月14日、上京の勅命が伝えられる。円珍、大宰府周辺に滞在し、10月には、帰国便の乗員の唐人らと詩文を交歓する。12月、大宰府を発し、27日、入京。洛北の出雲寺に滞在する。 智証大師年譜      
大師帰朝請弘伝官牒款状      
行歴抄      
円珍伝      
要文抄2      
寺門伝記補録巻1      
寺門伝記補録巻8唐坊記目録      
唐人送別詩并尺牘        
この年     日本僧慧鍔(萼)、五台山で観音像を得て帰国しようとする。 仏祖統紀巻43    
        了悟(順之)和尚、入朝使に随って入唐する。 祖堂集20
瑞雲寺了悟和尚真原塔碑
859 1・16 円珍、参内し、唐より将来した金胎両部曼荼羅を献じる。 大師帰朝請弘伝官牒款状       天安3 大中13 憲安王3 大虔晃2
行歴抄      
円珍伝      
寺門伝記補録巻1      
寺門伝記補録巻8        
1・20 円珍、延暦寺に入る。 行歴抄        
1・22 能登国、馳駅し、渤海使烏孝慎ら104人が珠州郡に来着したことを報じる。 三実        
1・28 少外記広宗安人・大内記安倍清行を領渤海客使とする。 三実        
2・4 渤海使、能登に到着。詔して加賀国に遷す。 三実        
2・7 直講苅田安雄(のち紀安雄)を領渤海客使とする。広宗安人の辞退によるもの。 三実      
三実 仁和2・5・28条        
2・9 春日宅成を渤海通事とする。 三実        
3・13 領渤海客使を存問兼領渤海客使と称させる。安倍清行ら、京都を出発。渤海副使周元伯が文筆に堪能であるため、島田忠臣を仮に加賀権大掾に任じ、応接唱和させる。 三実        
4・15 貞観に改元           貞観1
5・10 存問兼領渤海客使安倍清行ら、渤海王大虔晃の書と中台省牒及び信物等を奉る。朝聘の年期が近付いたので使者を遣わす旨の趣旨。渤海大使烏孝慎、大唐の新用経である長慶宣明暦経を進上する。 三実        
三実 貞観3・6・16条        
三代格17貞観3・6・16官符          
6・23 渤海使に渤海王宛の慰労詔書・信物等を付す。文徳天皇の諒闇中であることや、災害が頻発し、人民を煩わすことはできない等の理由により、烏孝慎らを入京させずに帰国させることを述べる。中台省宛の太政官牒もほぼ同趣旨。大使烏孝慎に東絁50疋・綿400屯を賜う。 三実          
7・6 渤海使烏孝慎ら、加賀国より帰途につく。21日、存問兼領渤海客使苅田安雄、渤海使帰国を復命する。 三実7・21条          
8     宣宗死、懿宗即位。        
この年 円珍、園城寺に唐房(唐院)を建立し、請来した経書を収蔵する。 智証大師年譜          
860 2・25 承和の遣唐請益僧真斉、没する。承和3年に出発したが逆風に遭い太宰府に帰着。不吉として交替させられる。 三実       貞観2 大中14 憲安王4 大虔晃3
紀家集      
11     咸通へ改元       咸通1
12・8 「釈奠式」1巻を作り、諸国に頒つ。大唐開元礼を参考に作成。 三実      
三代格10    
大中年中*     「日本王子」来朝し宝器・音楽を献じる。王子、囲碁を善くし、唐の名人と対局。(新羅から派遣された王子か) 冊府111     承和14〜貞観2 大中1〜大中14 文聖王9〜憲安王4 咸和17〜大虔晃3
冊府869
冊府972
冊府997
杜陽雑編下
玉海108
861 1・20 出雲国、渤海使李居正ら105人が隠岐を経て島根郡に着いたことを報じる。 三実         貞観3 咸通2 憲安王5 大虔晃4
1・21 渤海使への穀舂支給を出雲国司に命じる。 三実        
1・28 藤原春景・葛井善宗を領渤海客使、春日宅成を通事に任じる。勅して、使事を終えるまで、藤原春景を但馬権介、葛井善宗を因幡権掾と称させる。 三実        
1・29         憲安王死去。景文王が即位する。 景文王1
2・7 遣唐使者、攝津国住吉神社に向かい、神宝を奉じる。 三実        
3・29 太政官、符を山陰・山陽・南海・西海道諸国に下して、西国に巡礼求法する真如が通過する際には安置滞在させ、必要な費用を正税から支給すべきことを命じる。 略記 元慶5・10・13条      
東寺要集3        
3・30 真如に南海道に向かうことを許す。一説に、入唐許可。 三実      
入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記      
入唐記      
4・14 渤海使李居正、唐大中6年書写の仏頂尊勝陀羅尼記を齎す。 石山寺所蔵仏頂尊勝陀羅尼記奥書        
5・10     沈懽、国清寺止観堂記を記し、止観堂建立に対する円珍の功績を称える。 国清寺止観堂記    
5・21 存問兼領渤海客使らに、年期違反の渤海使李居正らに対し、炎旱が続き農業の妨げになるため入京を停止すること、渤海王の書・信物等は受け取らず、中台省牒だけを進上すべきこと、出雲国の絹145疋・綿1225屯を渤海使105人に頒つことを告げる。 三実        
5・26 渤海国中台省に送る太政官牒を出雲国に下す。また、大使李居正に絁一十疋・綿四十屯を賜う。 三実        
6・16 長慶宣明暦を施行。貞観元年に渤海使烏孝慎によって唐から伝えられたもの。 三実      
三代格17        
6・19 真如、池辺院を発する。7月11日、難波津に到る。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
7・13 真如、難波津で大宰府に向かう貢綿船に乗る。8月9日、大宰府鴻臚館着。9月15日、壱岐島に向かう。さらに肥前国松浦郡の柏島に移る。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
10・7 真如、唐通事張友信に船1隻を建造させ、翌年5月、完成。再度大宰府鴻臚館に到る。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
この年 長安大興善寺の智恵輪、円珍宛の書状等を唐商人・景全に託す。 僧圓珍書状(平遺4541・4542)        
862 4・25 僧師静、円珍宛の書状を草す。 唐人送別詩并尺牘         貞観4 咸通3 景文王2 大虔晃5
7・23 大宰府に勅し、来朝の唐商人李延孝ら43人を安置供給させる。延孝、唐僧師静の円珍宛状を齎すか。 三実      
唐人送別詩并尺牘        
7 真如ら、僧俗60人とともに乗船し遠値嘉島に向かう。8月19日、遠値嘉島着。9月3日、唐に向かう。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記      
三実 元慶8・3・26条        
入唐の真如親王、右大臣(藤原良相)に巴子國劒を贈る。時期は貞観3年以前とする説あり。 相應和尚伝      
阿娑縛抄明匠等略伝 相応和尚        
        唐に遣使し、方物を貢ず。 史記11
8 讃岐永直、没。80歳。生前、興原敏久らが刑法難義数十事を抄出し唐に質問しようとした際、永直が解答し、唐に送ることを止める。 三実        
        入唐使富良等一行が溺死する。 史記11
9・7 真如ら、明州着。12月、勅符が到着し越州に向かうことを許される。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
863 1・4 唐商陳泰信、円珍に書状を送る。京から大宰府の鴻臚館に使者が来て唐物を購入したことを知らせる。 陳泰信書状(平遺4539)         貞観5 咸通4 景文王3 大虔晃6
4・21 博多津に来着していた新羅僧元著・普嵩・清願ら3人を鴻臚館に安置して粮食を支給し、唐人船の来航をまって放却すべきことを大宰府に命じる。 三実        
4 真如に同行した賢真・恵蕚・忠全と小師・弓手・柂師・水手ら、越州に向かう真如と別れ、明州より帰国。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
8・4 円珍、唐僧智恵輪への書を唐商人・景全に託す。 僧圓珍書状(平遺4541・4542)        
9・1 大宰府鴻臚館に滞在中の唐人陳季方、円珍への返書を作る。 唐人送別詩并尺牘        
11・17 丹後国竹野郡松原村に漂着した細羅国人屎鳥舎漢ら54人と、因幡国荒坂浜に来着した新羅人57人に糧を支給して帰国させる。 三実      
都氏文集4        
この年 新羅人30余人が、石見国美乃郡の海岸に漂着する。死者10余人、生存者24人。 三実 貞観6・2・17条        
この頃 このころ、唐商・景全・徐直・李達ら、書状を円珍に送るか。 ・景全書(平遺4488)      
徐直書状(平遺4489)      
李達書状(平遺4490)        
864 1・14 円仁、没する(72歳、一説では71歳)。 三実         貞観6 咸通5 景文王4 大虔晃7
2・17 石見国司に詔。昨年、美乃郡漂着の新羅人に路粮を支給し放却させる。 三実        
4         日本国使が到る。 史記11
5・21 真如一行、長安に着、西明寺に滞在する。皇帝、円載の奏聞により真如到着を聞き感嘆する。真如、さらに求法のため、天竺に向かうことを請い、勅許される。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
8・13 太政官、大唐通事張友信が不在の間、唐僧法恵を通事とする太宰府の請いを許す。 三実        
この年 唐商・景全、来航。景全の報告により、前年、円珍が智恵輪に託した書状を渡すことができなかったことを知る。翌年帰国。 僧圓珍書状(平遺4541・4542)        
865 1・27 真如、広州から天竺に向けて出発する。随行の宗叡らは6月、福州から帰国。5日4夜で値嘉島に到る。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記         貞観7 咸通6 景文王5 大虔晃8
2・15 真如に従って入唐した賢真が、明州開元寺に贈る銅鐘1口を鋳造。開元寺滞在時、同寺に鐘の無いことを嘆く長老の言を聞き、帰国後の送達を約すという経緯を銘文(都良香作)に記す。 都氏文集3        
4         唐懿宗が胡帰厚等を派遣する。憲安王を弔祭し、賻儀として帛一千匹などを贈る。また、景文王を新羅王に冊封する。 史記11
初月山崇福寺碑銘
7・27 勅して、宗叡らとともに来着した李延孝ら63人を鴻臚館に安置させる。 三実        
10・26 和邇部大田麻呂、没(68歳)。承和の遣唐使の一員として入唐し、帰国時に、南海の賊地で殺された良枝(大戸)清上に師事して笛を学ぶ。 三実      
866 2・7 信濃国水内郡三和・神部両神に忿怒の心あり、兵疫の災をいたすことを神祇官が奏す。国司・講師に潔斎して奉幣すること、あわせて金剛般若経般若心経を転読すべきことを命じる。 三実         貞観8 咸通7 景文王6 大虔晃9
2・14 神祇官、肥後国阿蘇大神に怒気あり、隣境兵疫の前兆である由を奏す。国司に潔斎して奉幣すべきこと、あわせて金剛般若経般若心経の転読等を命じる。また、大宰府にも転読を命じる。さらに16日、摂津国住吉神社に11人の僧侶を遣わして金剛般若経般若心経を転読させ、兵疫の消伏を祈らせる。 三実      
三実2・16条        
2・21 丹墀真人貞峯ら、姓多治真人を賜る。これは先に、天平6年(734)遣唐大使多治比広成が入唐の時、丹墀と改姓し、復命ののちもその姓を用い、その後、天長9年(832)には一族の多治比貞成らが丹墀に改姓を請い許されているが、多治比は由緒ある姓であるので、旧姓に戻し、多治真人の姓を賜らんことを請う上表文を提出したことによる。 三実        
4・16 山城・若狭両国に兵事の恐れがあるので、警戒することを命じる。 三実        
4・17 京師に頻りに怪異出現。陰陽寮は、これを隣国来寇の危険ある由と言上する。この日、大宰府に下知して警戒させる。唐人(任仲元)、過所を持たずに入京。このことにより、豊前・長門の国司及び関司を譴責し、今後警急の事態が生じた場合には厳罰に処すべきこととする。 三実        
5・21 過所を持たずに入京した唐人任仲元に譴詰を加え、大宰府に送り返し、重ねて長門国及び大宰府に関門を厳重にすべきことを命じる。 三実        
7・6 伊勢太神宮に応天門の火炎のことを告げた際、大幣帛に唐物(綵帛錦綾)を用いる。 三実        
7・15 大宰府、馳駅して、新羅人珎賓長が、新羅に渡った肥前国基肆郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡の人永岡藤津らに武器製造法を教え、対馬島の奪取を企てていることを奏言する。并せて射手45人の名簿を進める。 三実        
9・1 唐商人張言ら41人の乗る船1艘、大宰府に来着する。 三実10・3条        
10・3 大宰府に、唐人張言らを鴻臚館に安置し、例に従って供給することを命じる。 三実        
11・17 この頃しきりに現れる怪異は新羅の賊兵が間隙をうかがう予兆であるとして、能登・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の諸国及び大宰府に、管内の諸神への班幣、鎮護祈念と兵士の訓練を命じる。 三実        
この年 前隠岐守越智貞厚が新羅人と共謀して反逆を企てている旨を、隠岐国の浪人安曇福雄が密告する。貞観11年に誣告であることが判明する。 三実貞観11・10・26条        
867 5・26 四天王像各1舗を伯耆・出雲・石見・隠岐・長門等諸国に頒ち安置させ、像の前で最勝王経四天王護国品を春秋二季七日間転読させる。諸国が新羅と境を接するため。また、隠岐国は新羅に近いため、特に警戒を厳重にさせる。 三実       貞観9 咸通8 景文王7 大虔晃10
三代格5貞観11・3・7官符        
6・11 入唐僧恵運、安祥寺資財帳を勘録する。資財帳には、恵運らが将来した唐物・新羅物が、多数著録される。 安祥寺伽藍縁起資財帳(平遺164)      
小右記 永祚1・5・1条        
6・21 近江国滋賀郡比良山妙法・最勝両精舎を官寺とする。入唐僧賢真の請による。 三実        
10・4 承和度遣唐使准判官藤原貞敏、没する(61歳)。 三実        
この年 入唐の円珍と交流のあった、温州の徳円、則天皇后縫繍の極楽浄土変1幅・仏舎利などを唐婺州人・景全に託して円珍のもとに齎らす。・景全自らも付法蔵の高僧影像二幀を贈る。 円珍伝      
寺門伝記補録巻8唐坊記目録      
智證大師年譜        
869 3・7 隠岐国の史生1人に代えて、弩師を置くこととする。 三代格5         貞観11 咸通10 景文王9 大虔晃12
5・22* 新羅海賊船2艘が博多津に来着し、豊前国の年貢絹綿を掠奪して逃亡する。6月15日、大宰府、兵を発して追討したが捕らえることができなかった旨を報告する。 三実6・15条        
三実12・29条      
三実 貞観15・12・17条      
三実 貞観18・3・9条      
寵壽申状案(平遺4902)      
7・2 管内諸国の貢調使は同時に出発すべきであるにもかかわらず、豊前貢調使を先発させたため、新羅海賊の被害を受けるに至ったとして、大宰府司を譴責する。 三実        
7         王子の蘇判、金胤等を唐に派遣し、謝恩する。馬・麩金・銀などを貢じる。また、学生李同等3人を金胤に随行させ、修学させた。 史記11
10・26 貞観8年に越智貞厚が新羅人と共謀して反逆を企てている旨を密告した安曇福雄を、誣告の罪で遠流に処す。 三実        
11・29* 長門国の史生1人に代えて、弩師を置くこととする。 三代格5      
三実12・2条        
12・5 大鳥の怪異を卜筮した大宰府より、兵寇の兆しがあること、鴻臚中島館と津厨が離れていることから生じる非常事態への不備に備えるべきこと、そのため、諸国に散在する夷俘を要所に配置すべきことを要請する。これを許す。 三代格18      
三代格18寛平7・3・13官符      
三実        
12・14 伊勢大神宮に奉幣して、今年起こった新羅海賊来襲のこと、12月5日の大鳥の怪異、肥後の地震風水害、陸奥の大地震のことなどを告げ、平安を祈願する。 三実        
12・17 最近の新羅海賊の来襲や大宰府における大鳥の怪のことを、神祇官・陰陽師が占卜すると、隣国の兵寇の前兆であるという。また肥後国に風水害、陸奥国に地震の災等あり。この日、諸国に命じて、国内諸社に奉幣して、後害を防がせる。 三実        
12・25 諸国に、地震・風水の災を謝し、隣国の兵寇を避けるため、3日間金剛般若経を転読することを命じる。 三実        
12・28 新羅海賊の来寇を防ぐために、13日に坂上滝守を大宰権少弐として派遣。大宰府と鴻臚館とがわずかに2駅の近距離であるため、不虞に備えて、選士40人・甲冑40具を鴻臚館に移置する。また例番の選士100人の外に、さらに統領2人・選士100人を増員する。 三実      
三実 元慶5・11・9条      
三代格18      
三代格18、貞観12・1・15官符        
12・29 石清水神社に奉幣。新羅海賊の来寇、諸国の災異のことを告げ、平安を祈る。 三実        
870 1・13 甲はあるが冑がないため、非常事態に備えて支給するよう求めた壱岐島の請いを認め、冑・手纏各200具を壱岐島に配置することを命じる。 三実         貞観12 咸通11 景文王10 大虔晃13
1・15 甲冑と手纏・足纏各110具を鴻臚館に移し置く。 三代格18        
2・12 これより先、大宰府、新羅が大船を建造し、兵士を調練して対馬島奪取を企てているとする卜部乙屎麻呂(対馬島下県郡の人)の言を報告する。この日、大宰府に、縁海の諸郡に警固をさせることを命じる。また因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐等の国に兵具の調修をさせ、山陰道諸国に、弩師に適当な人物を選定させる。 三実      
三代格5貞観12・7・19        
2・15 八幡大菩薩宮及び香椎廟・宗像大神・甘南備神に奉幣して、新羅海賊の来寇・諸国災異のことを告げ、平安を祈る。また使者を諸山陵に遣わして、新羅海賊の来寇のことを告げる。 三実        
2・20 大宰府に、新羅海賊の貢綿略奪に関与した嫌疑で身柄を拘束した潤清ら30人と、以前から管内居住の新羅人を上京させることを命じる。これより先、大宰府、漂着新羅人は粮を支給して帰国させるべきであるが、新羅が来襲した場合、他の管内居住新羅人とともに内応する恐れがあるため、天長1年8月20日の格旨に准じて、日本渡来の新旧を問わず新羅人を陸奥国の空地に移し置くことを請う。この日、太宰府の請いを認める。 三実        
2・23 大宰大弐藤原冬緒、4カ条の起請を奏し、烽燧の試験を行うことなどを請い、許される。 三実        
2         沙湌金因を唐に派遣し、宿衛とする。 史記11
5・19 出雲国の権史生鴈高松雄を弩師とする。 類聚三代格5        
6・7 大宰府に、対馬島に選士50人を配置することを命じる。 三実        
6・13 隣兵を警戒すべきとの大宰府のかねてからの報告をうけ、筑前国・肥前国・壱岐島・対馬島に警戒を命じる。大宰府、身柄を拘束した新羅人潤清ら30人のうち7人が逃亡したことを報らせる。 三実        
7・19 因幡国の史生1人に代えて、同国の人黄文真泉を弩師とする。 三代格5        
8・28 これより先、対馬島新羅の侵掠を防ぐため、弩師1員を置くことを請う。この日適当な人物を選び、補任することを命じ、永く恒例とする。 三実        
9・15 新羅人潤清ら20人を武蔵・上総・陸奥3国に各々配置する。口分田・営種料を給い、先例によって秋の収穫にいたるまで、公粮を支給する。この内、僧・沙弥は定額寺に安置する。また潤清ら3人は造瓦の技術に長けているため、特に陸奥国修理府料造瓦事に預からせ、その技術を伝習させる。 三実        
11・13 筑後権史生佐伯真継、新羅国牒状を奉進し、大宰府少弐藤原元利万侶が新羅国王と共謀して国家を害そうとしている旨を告げる。 三実        
11・17 大宰府に命じて、藤原元利万侶及び前主工上家人、浪人清原宗継・中臣年麿・興世有年ら5人を捕らえさせる。また、内記安倍興行らを推問密告使として大宰府に派遣する。 三実        
11・26 防援のため筑後權史生佐伯真継を大宰府に下向させる。 三実11・26条        
この年         遣使金緊栄に随い、朗空大師入唐。 太子寺朗空大師碑銘
871 1 太元宗第二阿闍梨寵寿、恒例の太元師法を修していた際、勅使が至って、新羅海賊を平伏させるため祈るべきことを伝える。 太元帥法縁起奏状       貞観13 咸通12 景文王11 大虔晃14
寵壽申状案(平遺4902)        
8・16 伯耆国の史生1人に代えて、同国の人高市金守を弩師に任じる。 三代格5        
12・11 加賀国に、渤海使楊成規ら105人が来着する。 三実      
三実 元慶1・4・18条        
872 1・6 少内記菅原道真・直講美努清名を存問渤海客使に、園池正春日宅成を通事とする。 三実       貞観14 咸通13 景文王12 大玄鍚1
尊卑文脈四ノ58菅家御伝        
1・20 京で咳逆病によって死亡するもの多数にのぼり、来朝した渤海使のもたらした毒気によるといわれる。この日、建礼門前において大祓を行う。 三実        
1・26 菅原道真の母の死去にともない、道真にかえて、少外記大春日安守を存問渤海客使に任じる。 三実        
3・14 存問渤海客使に領客使を兼任させる。 三実        
3・23 この春以来の怪異頻発により賀茂両社・松尾・梅宮・平野・大原野・石清水・稲荷の各神社に奉幣する。渤海使が年期を守って来朝したので、入京させるために、この間の無事を祈る。 三実        
4・13 存問渤海客使、渤海王啓・中台省牒などを調べ、違例を詰問した問答記と加賀国に向かう道中の消息を奏上する。 三実        
4・16 少内記都言道・式部少丞平季長を掌渤海客使に、常陸少掾多治守善・文章生菅野惟肖を領帰郷渤海客使とする。 三実      
古今和歌集目録 都良香        
5・7 掌渤海客使都言道、良香に改名。外国使に応接するため、「姓名相配」の義に合うように改めることを請い、許されたもの。 三実      
古今和歌集目録 都良香        
5・15 右少将藤原山蔭を郊労使として山城国宇治郡山科村に派遣し、領渤海客使と共に渤海使楊成規・李興晟ら20人を率いて入京させる。左官掌狛人氏守が体軀長大で、容儀に優れているため、仮に玄蕃属に任命し、渤海使の饗宴・応接にあたらせる。氏守の請により、姓を直道宿祢と改める。 三実        
5・17 右馬頭在原業平を鴻臚館に遣わして渤海使を労問する。この日、渤海使に時服を賜う。 三実      
三十六歌仙伝在原業平        
5・18 左中将兼備中権守源舒を鴻臚館に派遣し、渤海王の書・中台省牒と信物を受領させる。渤海王大玄錫、旧例に准じ年期が満ちたので善隣の使者をおくる旨を述べる。中台省牒も同様の趣旨を述べる。 三実        
5・19 参議左大弁兼勘解由長官近江権守大江音人を鴻臚館に遣わし、渤海使に位記を授ける。また、去年陰陽寮が蕃客来朝により不祥のことあるべき由を占したため、謁見せず鴻臚館より帰国させる。 三実      
菅家文草8 賜渤海入覲使告身勅書        
5・20 内蔵寮、渤海使と交易を行う。 三実        
5・21 京師の人が渤海使と交易することを許可する。 三実        
5・22 市人が渤海使と私交易することを許す。この日渤海使に官銭40万貫を賜い、召集した市廛人から日本の産物を購入させる。また前筑後少目伊勢興房を領帰郷渤海客使通事に任命する。 三実        
5・23 大学頭兼文章博士阿波介巨勢文雄・文章得業生越前大掾藤原佐世を鴻臚館に派遣。渤海使を饗し、禄を賜う。 三実        
5・24 渤海使大使楊成規、天皇・皇太子に私的に品物を献じる。渤海使に曲宴・御衣を賜う。客主、詩文を唱酬。少内記菅原道真に渤海国王に答える勅書を作らせる。都氏文集に、都良香の「贈渤海客扇銘」と題する漢詩あり。 三実      
都氏文集3      
都氏文集4      
菅家御伝記      
菅家文草8 答渤海王勅書        
5・25 鴻臚館に遣使し、渤海王宛の慰労詔書と中台省宛の太政官牒を渤海使に付す。慰労詔書に、年期を守って遣使してきたことを嘉賞する旨を述べる。太政官牒も同趣旨。この日、渤海使楊成規ら、領帰郷客使多治守善らとともに鴻臚館を出発し、帰途に就く。掌客使都良香、見送る。 三実      
菅家文草8 答渤海王勅書        
873 3・11 渤海人崔宗佐・大陳潤ら60人の乗る舶2艘が薩摩国甑島郡に漂着する。薩摩国司の問いに、徐州の乱平定を賀するため唐に派遣された渤海人と称し、波浪が険しく漂着した旨を答える。国司、宗佐らが公験等を所持していないため、新羅人が渤海人と詐称しているのではないかと疑い、2艘を率いて大宰府に向かう。途中1艘逃れ去る。大宰府これを朝廷に報告する。 三実5・27条         貞観15 咸通14 景文王13 大玄鍚2
3・28 木工寮と右京職に鴻臚館の監守を命じる。 三実        
5・27 先に薩摩国甑島郡に漂着した崔宗佐らが渤海人であれば食料を支給して帰国させ、もし新羅人であれば拘禁して言上すべきこと、及び管内諸国に警戒を厳重にさせるべきことを大宰府に命じる。 三実        
6・21 武蔵国、貞観12年に大宰府より遷された新羅人3人が逃亡し、所在不明であることを報せる。諸国に捜索を命じる。このうち2人は元慶3年時点でも依然として所在不明。 三実      
三実 元慶3・4・2条        
7・8 先に漂着した崔宗佐らの申状等を検討したところ渤海人であることが明らかになったので、衣粮を支給し、封函・封書を開封しないこと、乗船2艘を修理すべきことなどを命じる。 三実      
三実 元慶1・4・18条      
都氏文集4        
7     懿宗死去。僖宗が即位する。      
9・8* 甲斐国、貞観12年に大宰府より上総国に遷された新羅沙門伝僧・巻才の2人が山梨郡に寄留していることを報せる。上総国に帰らせる。 三実        
9・25 新羅人32人の乗る船、対馬島に漂着する。対馬島司、使者とともに大宰府に送る。彼らを鴻臚館に安置する。 三実12・22条        
11・14 在原善淵ら、入唐した高丘親王が期限が過ぎても帰国せず、存亡も不明であるので、その封邑の返収を請うが、これを許さず。 三実        
12・17 大宰府、貞観11年の新羅海賊襲来以後、警備費用増加のため、100町の警固田を置き、その地子を雑用に充てることを請い、許可される。 三実        
12・22 大宰府に命じて、9月25日対馬島に漂着し鴻臚館に拘禁されていた新羅人32人を重ねて捜検した上で帰国させる。 三実        
874 4         唐の僖宗が使を派遣して宣諭する。 史記11 貞観16 咸通15  景文王14 大玄鍚3
5・28 鴻臚館の監護を右京職と木工寮で共同して行わせ、破損などがあった場合は、寮職長官の交替の際、解由を拘することとしていた制を、主典以上もともに監護し、問題があれば長官と同じく解由を拘することに変更する。 三実      
類史107木工        
6・3 唐商人崔岌ら36人の乗る船が肥前国松浦郡に着岸する。 三実7・18条        
6・4 これより先、渤海人崔宗佐ら56人、石見国に漂着する。食料等を与えて本国に還す。 三実        
6・15 大宰府に、僧以船の入唐に際し、管内国の正税稲1000束の支給を命じる。 三実        
6・17 伊予権掾大神巳井・豊後介多治安江らを唐に派遣し、香薬を購入させる。また藤原山蔭、大神巳井に黄金を託し、白檀の香木を買得させる。後にこの香木で千手観音造を造り、摂津国島下郡に総持寺を建立し、安置する。 三実        
長谷寺霊験記13      
朝群1      
7・18 大宰府に、先に来着した唐人崔岌らを、帰化の例に准じて安置供給するよう命じる。 三実        
8・8 かねて大宰府から報告のあった対馬島への漂着新羅人金四、金五ら12人の来着の事情を問わせ、本国に還させる。 三実        
11     乾符へ改元する       乾符1
この年         在唐の崔致遠が科挙に及第する。 史記11
史記46
875 1・22 津守稲利を石見国の弩師に任じる。 三代格5貞観17・11・13官符         貞観17 乾符2 景文王15 大玄鍚4
7・8         景文王死去。憲康王が即位する。   憲康王1
6     黄巣の乱(〜884年6月)      
876 3・9 肥前国松浦郡庇羅・値嘉両郷を合わせて上近・下近2郡とし、値嘉島と名付ける。大宰権帥在原行平の起請によるもの。同島は、来日の唐・新羅人および日本遣唐使らが必ず経由する要地。唐人は同島で香薬採取、海岸の奇石鍛錬などをおこなうという。 三実         貞観18 乾符3 憲康王2 大玄鍚5
3・13 参議太宰権帥在原行平の起請により、対馬島の防人94人を停止する。 三代格18寛平6・8・9官符        
7・14 唐商人楊清ら31人の乗る船1艘が筑前国荒津海岸に来着したことを大宰府が報じる。 三実8・3条        
7         唐に遣使して、方物を貢じる。 史記11
8・3 大宰府に命じて、唐人楊清らを帰化の例に准じて安置供給させる。 三実        
9・13 渤海国中台省が日本国太政官宛牒状を作る。そのなかで楊中遠ら105人を派遣し、渤海遣唐使が日本に漂着した際に受けた恩を謝すことと、日本の使者の派遣を請うことをのべる。 都氏文集4        
12・26 渤海使政堂省孔目官楊中遠ら105人、出雲国に到り嶋根郡に安置される。出雲から京への報告は翌元慶元年1月16日。 三実 元慶1・1・16条      
三実 元慶1・4・18条      
都氏文集4        
この頃 唐天台山国清寺の僧清観の書と詩が円珍に届けられる。円珍と台洲開元寺の僧常雅ら唐の僧俗との間に詩文の贈答等が行われる。 智証大師年譜貞観18年条      
陳泰信書状(平遺4539)      
唐僧常雅書状(平遺4540)        
877 2・3 少外記大春日安名・前讃岐掾占部月雄を存問渤海客使に任じる。通事に園池正春日宅成。 三実         貞観19 乾符4 憲康王3 大玄鍚6
閏2・17* 入唐求法を志す僧斉詮・安然・玄昭・観漢ら4人に、駅馬を利用して大宰府に向かわせる。唐人の商船に乗船するが、玄昭ら、心中不安を感じて下船。斉詮ひとり渡航を企て賊のために殺される。後人、玄昭の先知の明を称する。 三実      
円珍伝      
智証大師年譜貞観18年条      
入唐記      
略記      
阿娑縛抄明匠等略伝 玄昭律師        
3・11 存問渤海客使に領客使を兼ねさせる。 三実        
4・16 元慶へ改元           元慶1
4・18 存問兼領渤海客使、渤海王大玄鍚の書と中台省牒を写して上奏する。大玄鍚、日本に漂着した渤海の遣唐使門孫宰らへの厚遇を謝するために年期未満ではあるが遣使することをのべ、日本使の派遣を請う。中台省牒も同趣旨。 三実      
都氏文集4      
6・1 商人崔鐸ら、自船に「貴国使」多安江らを同乗させて、台洲を出発する。 三実 元慶1・8・22条        
6・9 唐人崔勝に、貞観13年の太政官処分以来寄住していた伴中庸の没官地を賜う。日本に帰化して28年になる崔勝の宅地給付の請いによるもの。 三実        
6・18 太政官、渤海国中台省へ牒を送り、漂着の渤海人を保護することは礼にはおよばないこと、また年期未満の来朝は遺憾であり、年期が満ちた後に来朝すべきこと等をのべる。 都氏文集4        
6・25 渤海大使楊中遠ら、出雲国より帰国する。朝廷、王啓と信物及び、中遠が天皇に献じた酒杯等を受け取らず還らせる。 三実        
8・22 大宰府に命じ、7月25日に多治安江らを乗せて筑前国に来着した唐商人崔鐸ら63人を例に従い安置供給させる。 三実      
三実 貞観16・17        
12・8 大宰府の財資・蕃客・遣唐使留置・返上等の四帳簿に記録されている貢綿を、沙金572両に替えて永貯とすることを許す。太宰府の請いによるもの。 三実        
12・16 遣唐留学僧道昭が創建し、和銅4年に平城京に移建された禅院寺を元興寺別院とする。 三実        
12・21* 10月、留学僧円載、釈典・儒書数千巻を儲え、入唐求法僧智聡らとともに、商人李延孝・・景全らの船に乗り、日本へ向かう。途中、海上で遭難し、円載・李延孝・・景全ら、溺死する。智聡は唐温州に漂着し、唐人駱漢中らに随って帰国。智聡、漢中へ優恤を加えることを請う。この日、大宰府に命じて、漢中らに衣粮を賜う。悉曇蔵によれば、智聡は久しく長安に住んでいたため、日本に新しい漢字音を伝えたという。 三実 西住寺居住の日本僧円載、在唐40年の後、帰国する。帰国の際、紫衣を賜る。また皮日休・陸亀蒙・顔萱ら、送別の詩を贈る。 大宋僧史略  
円珍伝 全唐詩614  
智証大師年譜 全唐詩626  
僧圓珍書状(平遺4541・4542) 全唐詩629  
悉曇蔵5 全唐詩631    
元慶初年頃 円珍、唐天台山に送る砂金の喜捨を募る。延暦寺から100両、高向公輔から10小両を得て、唐の商客に託す。 円珍書状(平遺4548)        
878 4         唐の僖宗が遣使し、新羅王を冊封する。 史記11 元慶2 乾符5 憲康王4 大玄鍚7
7・13 隣敵が隙を窺っているという卜占の結果がでたため、大宰権少弐藤原仲直に命じて、警固に努めさせる。 三実        
7         唐の黄巣の乱を聞いて、唐への遣使を中止する。 史記11
8・14 唐人崔鐸との貿易で大宰府司が借用した庫物の代金砂金361両の返済を免除する。 三実 元慶3・10・13条        
8         「日本国使」が至る。憲康王は朝元殿にて引見する。 史記11
879 2・5 肥前国の史生1人を、弩師にかえる。 三代格5         元慶3 乾符6 憲康王5 大玄鍚8
3・13 丹後国、異国船1艘が竹野郡に漂着したことを報じる。破損し、調度もなかったという。 三実        
10・13 太宰府庫物の代として、砂金633両・水銀175斤を官帳に記載することを命じる。唐人貿易にあたっての帳簿と現実の不一致への対処策。 三実        
閏10・3 高丘親王帰国の時期が不明につき、在原安貞らの先年の請いを認め、親王封邑を返納させる。 三実        
11・10 散位従四位上良岑長松、没。承和の遣唐准判官として入唐する。弾琴の才があったため、遣唐使に任命されたという。 三実        
880 8・7 佐渡国の史生1人に代えて、出雲・隠岐国等に准じて弩師1人を置く。 三代格5         元慶4 広明1 憲康王6 大玄鍚9
8・12 越後国の史生1人を、弩師1人と代える。 三代格5        
この年 巨勢金岡、唐本をモデルに大学寮の先聖・先師・九哲等の廟像を描く。 江家次第5        
881 7     中和へ改元       元慶5 中和1 憲康王7 大玄鍚10
10・13 所司に高丘親王遷化を頒下する。在唐僧中瓘がもたらした、真如(高丘親王)が唐から流沙に向かう途中、羅越国で死去したとの報による。 三実      
入唐記      
入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記      
略記        
12・5 従五位下丹波介ト部平麻呂、没(75歳)。ト術を善くしたため、承和の遣唐使に加えられる。 三実        
この年 唐婺州の人李達、張家の商船に付して、円珍に依頼された一切経の欠本120余巻を送る。 円珍伝      
智証大師年譜      
僧圓珍書状(平遺4541・4542)      
寺門伝記補録巻8唐坊記目録        
882 4         「日本国王」が遣使して、黄金300両・明珠10箇を進める。 史記11 元慶6 中和2 憲康王8 大玄鍚11
7・15 円珍、長安大興善寺の智恵輪三蔵宛に闕経340余巻を求める書状を書き、帰国する唐商人李達らに託す。また使として弟子三慧を同行させる。 智証大師年譜      
円珍伝      
僧圓珍書状(平遺4541・4542)      
略記 寛平2・12・26条      
寺門伝記補録巻8唐坊記目録        
11・27 加賀国、今月14日に渤海使裴頲ら105人が来着したことを報らせる。 三実        
11・28 太政官府を加賀国に下し、渤海使を便処に安置し例によって優遇すべきこと、渤海使のもたらした貨物を勝手に交易してはならないことを命じる。 三実        
この年         入朝使金直諒、黄巣の乱に遭遇し楚州に上陸する。僖宗の行幸先である蜀の西川まで押送される。 史記46 崔致遠
883 1・1 少外記大蔵善行・式部少丞高階茂範を存問渤海客使に、前筑後少目伊勢興房を通事に任命する。 三実         元慶7 中和3 憲康王9 大玄鍚12
1・26 渤海使の入京路にあたる山城・近江・越前・加賀等の国に、官舎・道橋の修理、路辺の死骸埋葬を命じ、越前・能登・越中国に、渤海使に供する酒・肉・魚・鳥などを加賀国に送るよう命じる。 三実        
2・21 渤海使に林邑楽を見せるため、大安寺で楽人に練習させる。同日、存問渤海客使に領客使を兼任させる。 三実        
2・25 弁官史生を加賀国に派遣し、渤海使に賜う冬の時服を届けさせる。 三実        
3・8 存問兼領渤海客使、内裏に参じて辞見する。御衣袴各1襲を賜う。 三実        
4・2 右衛門大尉坂上茂樹・文章得業生紀長谷雄を掌渤海客使に、民部大丞清原常岑・文章生多治有友を領帰郷渤海客使とする。 三実        
4・21 渤海使を饗するため、一行在京の間、諸司の官人らに禁物の帯用を許す。また大使裴頲の応接のため、臨時に式部少輔兼文章博士加賀権守菅原道真を治部大輔に、美濃介島田忠臣を玄蕃頭とする。 三実        
菅家御伝記
政事要略22
扶桑集7
4・28 右近衛少将平正範を山城国宇治郡山階郷付近に派遣し、渤海使を迎えさせる。ついで領客使と共に使節を率いて、鴻矑館に安置させる。 三実        
4・29 右大史家原高郷を鴻矑館に派遣し、渤海使を慰労させる。 三実        
5・1 右近衛佐源元を鴻矑館に派遣して、渤海使を慰労させる。 三実        
5・2 渤海使裴頲、朝堂で国王の啓・信物を進める。所司がこれを受け取り、内裏に進める。 三実        
5・3 天皇、豊楽殿に御し、渤海使に宴を催す。大使裴頲以下、判官・録事らに叙位し、位階に従って朝衣を賜う。雅楽寮鼓鐘を陳し、内教坊女楽を奏す。渤海大使ら、起座して拝受する。客徒に禄を賜う。 三実        
三実5・14条
5・5 天皇、武コ殿に御し騎射及び貢馬を覧る。渤海使も同席。伊勢守安倍興行を座に就かせ、供食させる。大使以下録事以上に続命縷、品官以下に菖蒲蘰を賜う。 三実        
5・7 渤海大使裴頲、別貢物を進める。内蔵頭和気彝範、内蔵寮の官人を率いて鴻矑館に向かい、渤海使と交易する。 三実        
5・8 内蔵寮、渤海使と交易を行う。 三実        
5・10 朝集堂で渤海使を饗す。また、大使裴頲の才と風儀を賞し、右馬助藤原恒興を派遣して御衣1襲を賜う。 三実        
5・11 菅原道真・島田忠臣・坂上茂樹・紀長谷雄ら4人、鴻臚館において渤海使裴頲らと4月以来,詩の贈答・唱和を行う。 菅家文草7鴻矑贈答詩序        
菅家文草2
田氏家集巻中
扶桑集7
5・12 渤海使、帰国する。渤海王宛の慰労詔書と中台省宛の太政官牒を付す。ついで領帰郷渤海客使清原常岑ら、渤海使を率いて鴻矑館を出発する。 三実        
扶桑集7
5・26 神泉苑に白鹿が生まれる。渤海使来朝による吉祥とされる。 三実        
9・15 河内国観心寺縁起資財帳成る。唐聖僧像、唐白瓷湯埦、唐椅子、唐鎰などが記載される。 河内国観心寺縁起資財帳(平遺174)        
10・27 唐人崔勝の右京五条一坊の宅地を32分の2増加して、32分の10とする。 三実        
三実 元慶1・6・9条
10・29 渤海使が北陸道沿岸に来着した際の帰国船を能登国羽咋郡福良泊山の木材で造るため、同山の大木伐損を禁止する。 三実        
この年     唐商人栢志貞、大宰府に到着する。国清寺の諸僧らが円珍に宛てた書信をもたらす。 円珍伝        
智証大師年譜
884 3・26 入唐僧宗叡、卒す(76歳)。真如(高丘親王)に従って入唐し、五台山・天台山などを巡礼する。 三実         元慶8 中和4 憲康王10 大玄鍚13
6     黄巣の乱、平定。      
この年 新羅国使、日本に漂着する。粮を給い、帰国させる。 三実仁和1・6・20条        
885 1・17* 貂裘の着用を禁止する。参議以上は禁制の対象外とする。 三実         元慶9 中和5 憲康王11 大玄鍚14
政事要略67
延喜弾正式
2・21 仁和へ改元           仁和1
3     新羅使、帰国する。金仁圭とともに崔致遠も同行して帰国。また、これより前に崔致遠が「新羅探候使朴仁範員外」を作る。 祭巉山神文(唐文拾遺) 崔致遠、唐から帰国する。この時、朗空大師も同行して帰国するか。 史記11
謝賜弟棲遠錢狀(唐文拾遺) 史記46
上太尉別紙五首(唐文拾遺) 太子寺朗空大師碑
新羅探候使朴仁範員外(唐文拾遺)
    光啓へ改元       光啓1
4・12 新羅使判官徐善行・録事高興善ら48人、肥後国天草郡に来着する。大宰府の問いに対し、前年日本に漂着した時、官粮を支給され、本国に帰ることができたことの答礼に来たと語る。国王の書がなく、所持する新羅執事省牒も故実に違っていたため、牒状の写し及び積載の貨物を記録して言上する。6月20日に放還を命じる。 三実6・20条        
8・1 北陸道諸国及び長門国・大宰府に警固を厳重にさせる。陰陽寮が北境・西垂に兵賊があると言上したため。 紀略        
10・20 大宰府司に、王臣家の使人や管内の吏民が私に不当な高値で競買することを禁じる。 三実        
10         唐に遣使し、黄巣の乱平定を賀す。この時、新羅は表を進め、唐の皇帝はこの表に対して詔書を与える。新羅、この詔書へ謝意を述べる(「謝賜詔書両函表」)。 史記11
謝賜詔書両函表(東文選33)
この年         年限の満ちた学生の帰国を請う。 奏請宿衛学生還蕃状(東文選)
この年     日本の僧宗睿、入唐する。 宋史491    
886 6・7 石清水八幡宮に怪異があったため、陸奥・出羽・大宰府に下知して、厳重に警固させる。勅して、唐僧湛誉への毎日及び節ごとの食料の供量を定める。 三実         仁和2 光啓2 憲康王12 大玄鍚15
略記 延長3・10・7
7・5         憲康王死去。定康王が即位する。   定康王1
887 7・5         定康王死去。真聖王が即位する。   仁和3 光啓3 定康王2/真聖王1 大玄鍚16
888 2     文徳へ改元       仁和4 文徳1 真聖王2 大玄鍚17
3     僖宗死去、昭宗即位。      
889 10・1     青州節度使王敬武卒。制して青州刺史・平廬軍節度観察・押新羅渤海両蕃等使等に特進。 旧唐書20上     仁和5 龍紀1 真聖王3 大玄鍚18
資治通鑑258
4・27 寛平に改元           寛平1
890 10・3 隠岐国が新羅人35人の漂着を言上する。 紀略寛平3・2・26条         寛平2 大順1 真聖王4 大玄鍚19
12・26 円珍、揚州の人からの写経50巻贈与への返礼として砂金を送る。 略記        
          崔承祐、入唐する。 史記46
891 2・26 昨年隠岐国に漂着した新羅人35人に人ごとに米・塩などを賜う。 紀略         寛平3 大順2 真聖王5 大玄鍚20
3・1     青州権知兵馬留後の王師範を検校兵部尚書・兼青州刺史とし、平廬軍節度観察・押新羅渤海両蕃等使に充てる。 旧唐書20上    
資治通鑑258
10・29* 円珍、没。 紀略        
略記
円珍伝
この年         入唐した宿衛らの待遇について状を提出する。 遣宿衛学生首領等入朝状(東文選47)
        先覚大師、新羅の入朝使とともに入唐。 無為寺先覚大師遍光塔碑
892 1・8 出雲国に渤海使が来着する。 紀略         寛平4 景福1 真聖王6 大玄鍚21
1・11 少内記藤原菅根・大学大允小野良弼を渤海客存問使に任じる。 紀略        
6・24 渤海王宛の勅書を左近衛少将藤原敏行に書かせる。 紀略        
6・29 渤海国に太政官牒2通を賜う。藤原敏行と文章得業生小野美材がそれぞれ清書する。牒状で、年期違反の来朝により入京させずに帰国させること、出雲国司に造船・給粮を命じたこと、期が満ちたならば来朝すべきことをのべる。 紀略        
本朝文粋12        
8・7 存問渤海客使、帰京する。 紀略        
この年         甄萱は完山州を落とし、自ら王となったが、公然と王とは言わず、「新羅西面都統指揮兵馬制置持節都督全武公等州軍事行全州刺史兼御史中丞上柱國漢南郡開國公食邑二千戸」と称す。 史記11
  史記50 甄萱
  三国遺事2甄萱
893 3・3 長門国に新羅僧神彦等三人が漂着する。事情を確認し、問題がなかったため、食糧を支給し、帰国させる。 紀略         寛平5 景福2 真聖王7 大玄鍚22 
3 唐商人王訥らに託された在唐僧中瓘の書状が届く。唐の衰退状況や温州刺史朱褒の活動等について詳細に書かれている。 菅家文草9寛平6・9・14奏状        
菅家文草10寛平6・7・22太政官牒
5・22 大宰府より飛駅使が到着し、5月11日、新羅賊が、肥前国松浦に来襲したことを報告する。その日に勅符を与え、大宰帥是忠親王・大貳安倍興行朝臣等に追討を命じる。 紀略        
閏5・3 大宰府より飛駅使が到着し、新羅賊が肥後国飽田郡を襲い、人家を焼いたのち、肥前国松浦に逃亡したことを報告する。勅符を与え、追討を命じる。また、農務に励むべきことを命じる。 紀略        
小右記 寛仁3・5・3条
閏5・7 大宰府より飛駅使が到着する。 紀略        
閏5・15 これより先、日本僧好真、師良とともに唐に到る。好真、長安崇聖寺の僧弘挙に日本へ渡航し、伝法することを依頼。弘挙、許諾。数百巻の経典を携えて日本に向かうにあたり、この日、好真、日本の朝廷に宛て、この間の経緯を述べた牒を草し、弘挙に付す。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
6・6 大宰府飛駅使に勅符を与え、帰らせる。 紀略        
6・20 大宰府飛駅使が新羅賊徒のことを報告する。勅符を与え、帰らせる。 紀略        
7・23 大宰府、唐商人周汾ら60人が今月21日に博多津に到着したこと、貨物の子細については追って申上すること、貨物帳を進覧すべきこと等を太政官に報じる。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
8・16 在唐日本僧好真の牒を受け大宰府に官符を下し、好真の依頼で伝法のために来日した唐僧弘拳に衣粮を支給させる。 入唐五家伝4 頭陀親王入唐略記        
10・25 長門国阿武郡に新羅人が漂着する。事情を確認し、直ちに報告させる。 紀略        
この年         崔承祐、侍郎の楊渉の考試を受け、科挙に及第する。 史記46
        旌節を納めるために渡唐した金処誨が溺死する。替わって槥城郡太守であった金峻を告奏使、富城郡太守であった崔致遠を賀正使とした。しかし、盗賊が横行していたため、結局唐へ行くことが出来なかった。 史記11
史記46
この頃         この頃より、新羅が唐に対して賀正表を送る。 新羅賀正表(東文選31)
894 2・22 大宰府飛駅使が新羅賊のことを報告する。同日に勅符を与え、追討させる。 紀略         寛平6 乾寧1 真聖王8 大瑋1
3・13 大宰府飛駅使が、近隣の島に新羅賊が侵入したことを報告する。勅符を与え、追討させる。 紀略        
4・10 大宰府より飛駅使が到着する。大宰府管内の諸神に幣物を献上することを命じる。 紀略        
4・14 大宰府飛駅使が対馬島に新羅賊が侵入したことを報告したため、同日勅符を与える。 紀略      
4・16 大宰府飛駅使が新羅賊追討のために、将軍の派遣を請う。参議藤原国経を権帥に任じ、派遣する。 紀略        
公卿補任
4・17 大宰府に勅符を与え、新羅賊の討伐を命じる。また北陸・山陰・山陽道諸国に、武具を整え、精兵を選び、警固に勤めることを命じる。大宰府、少弐清原令望を討賊使として対馬に派遣する。 紀略        
小右記 寛仁3・4・18条
三代格18寛平6・8・9官符
4・18 東山・東海道の精鋭を招集する。 紀略        
4・19 新羅賊討伐祈願のため、伊勢神宮に幣物を献上する。 紀略      
4・20 石清水以下の十二社にも新羅賊討伐祈願のため幣帛使を派遣する。陸奥・出羽国に警固を命じる。 紀略        
師守記貞和3・12・7条
4・22 山陵使を派遣する。 紀略        
4 新羅の賊が来て、人、物を損なう。 略記24裡書延喜18・10・15条        
5・7 大宰府飛駅使が、新羅賊が逃走し、捕獲出来なかったことを報告する。8日、勅符を与え、厳重警固を命じる。 紀略        
5 渤海使裴頲等が来朝する。 紀略        
略記22
7・22 太政官、在唐僧中瓘に送る返牒の案を作成する。次期遣唐使の派遣までには、年月を要することを述べ、砂金150小両を添える。これより以前、中瓘は■(舟+畄)源茶を送る。 菅家文草10        
紀略
8・9 貞観18年に停止された、対馬島の防人を復活させる。 三代格18        
8・21* 遣唐使を任命。大使に参議左大弁菅原道真、副使に右少弁紀長谷雄、判官に藤原忠房、録事に阿刀春正ら。また源昇を遣唐装束使に任命する。能登国の史生1人に代えて、越後・佐渡等の国の例に准じて、弩師1人を置く。 紀略        
三代格5
菅家御伝記
公卿補任寛平6年条
公卿補任寛平7年条(源昇)
略記
古今和歌集18-993
古今和歌集目録 藤原忠房
9・5 対馬島が、新羅の賊船45艘が来襲したことを、大宰府に報告する。9日、大宰府は京へ向けて飛駅使を送る。 略記        
9・13 太宰府の請いにより、史生1員を減じて弩師を置くことを認める。 三代格5        
9・14 遣唐大使菅原道真、遣唐使の派遣について再考を求める奏状を提出する。在唐僧中瓘の書状を引き、渡航の危険や唐の政情不安を述べる。 菅家文草9        
菅家御伝記
9・17 対馬守文室善友が郡司・士卒等を率いて新羅の賊と戦う。賊の殆んどを殺し、船11艘、武器・武具を奪う。近年新羅は不作で、飢えに苦しんだ結果の来襲であった。賊の将軍の1人は唐の人であった。のちに文室善友に賞を与える。 小右記 寛仁3・6・29条        
略記9・5条
9・18 大宰府より飛駅使が到着する。 北山抄4飛駅事        
9・19 大宰府より飛駅使が到着し、新羅賊200余人を殺害したことを報告する。先後の飛駅使に禄を与え、勅符・位記等も授ける。また、隠岐国の申請により、延暦年中に廃止された烽燧を、出雲・隠岐両国に復置させる。 紀略        
略記
北山抄4飛駅事
三代格18
9・23 新羅賊徒の来襲により、山陵に幣物を献上する。この他、御祈があるため、小野美樹が宣命草を作る。 紀略        
西官記7 裏書(故實叢書版)
小右記 寛仁3・4・24条
9・30 大宰府より飛駅使が到着し、新羅賊20人を殺害した旨を報告する。勅符を与え、警固させる。またこの日、対馬島の和多都美神等の神位を進める。 紀略        
9* 遣唐使の派遣を停止する。 紀略        
菅家文草9
菅家御伝記
略記
10・6 大宰府飛駅使が、新羅賊船が退却したことを報告する。同日勅符を与える。 紀略        
10         弓裔、将軍を称す。 史記11
史記50弓裔
12・29 渤海使105人が伯耆国に到着する。その前日である28日に、渤海使の応接にあたらせるため、橘澄清を伯耆権掾に任命する。 紀略        
公卿補任 延喜13年条
895 1・22 備中権掾三統理平・明法得業生中原連岳等を存問渤海客使に任命する。 紀略         寛平7 乾寧2 真聖王9 大瑋2
3・13 新羅賊に備えさせるため、博多警固に夷俘50人を増置する。 三代格18        
3・19 遣唐副使兼右少弁紀長谷雄・遣唐録事兼右少史阿刀春正、東大寺に送る太政官牒に署名する。 寛平7年3月19日付太政官牒(東南院文書)        
5・4 鴻臚館を巡検させる。 紀略        
5・7 渤海使が公卿らの差し出した馬に乗り、鴻臚館に到着する。 紀略        
略記 延喜8・4・26条
5・11 宇多天皇が豊楽院に行幸する。渤海使らに饗し、位階を授ける。 紀略        
5・14 朝集堂で渤海使らを饗す。 紀略        
5・15 菅原道真・紀長谷雄らを鴻臚館に派遣し、渤海使に酒饌を賜う。道真・長谷雄および道真の門下生10人、大使裴頲らと詩文を交歓する。なお、略記と菅家御伝記には、唐使の入朝を止むとある。 紀略        
菅家文草5
北野天神御伝
菅家御伝記
略記
扶桑集7
5・16 渤海使が帰国する。 紀略        
7・20 沿岸警備のため、越前国の史生1人に代えて、弩師を置く。 三代格5        
8*         弓裔、新羅の猪足・狌川二郡を攻略する。また、漢州管内夫若・鉄円など十余郡県も奪う。その勢力が大きいことから、国を開き、君を称すことができると考え、内外の官職を設置した。また、王建も来投。 史記11
史記50弓裔
9・27 大宰府が、壱岐島の官舎等が賊によって焼失してしまったことを報告する。 紀略        
11・2 沿岸警備のため、伊予国の史生1人に代えて、弩師を置く。 三代格5        
12・9 越中国に弩師を置いていなかったため、史生1人に代えて、弩師を置く。 三代格5        
896 3・4 唐人である梨懷(寛平御遺誡の「李環」か)が、召によって入京する。 紀略         寛平8 乾寧3 真聖王10 大瑋3
寛平御遺誡
この年         真K大師、入浙使崔芸熙に同行し、入唐する。 広照寺真K大師宝月乗空塔碑
897 5・26 菅原道真、太政官符の署名に「遣唐大使」の称号を用いる(文献史料上の最終所見)。 政事要略60         寛平9 乾寧4 真聖王11 大瑋4
6・1         真聖王、太子に譲位する旨を唐に申し出る。 史記11
譲位表(東文選)
7・3 宇多天皇は皇太子敦仁親王(醍醐天皇)に譲位する。譲位に際して、天皇、皇太子に政務の心得などを書いて贈る。その中で、外国の人を召見する場合には、簾越しに会見すべきであり、自分はかつて李環に対して、直接面会してしまったので、慎むべきことを述べる。 寛平御遺誠        
紀略
7         新羅・渤海の席次争い。新羅が渤海より上席を確保することに対して、感謝の意を伝える。 謝不許北国居上表(東文選)
9月頃 蔵人藤原後蔭が、唐物使として大宰府に赴くか。 古今和歌集8-385        
古今和歌集目録 藤原後蔭
12・4         真聖王死去。孝恭王即位する。   真聖王11/孝恭王1 大瑋4
この頃         新羅が謝恩表を提出する。 謝恩表(東文選33)
887〜897           王の末子である良貝が、遣使として渡唐する。唐帝が賜宴する。 三国遺事2 仁和3〜寛平9 光啓3〜乾寧4 真聖王1〜真聖王11 大玄鍚17〜大瑋4
898 4・26 昌泰に改元           昌泰1 乾寧5 孝恭王2 大瑋5
7*         弓裔は新羅の浿西道と漢山州管内の三十余城を取り、国都を松岳に定める。 史記12
史記50弓裔
8     光化と改元する。       光化1
10・5 阿刀春正が太政官牒の署名に「遣唐録事」の称号を用いる。 昌泰元年10月5日付太政官牒(東南院文書1)        
899 4・5 海賊警固を強化するため、肥後国の史生1員を減らして弩師を置く。 三代格5         昌泰2 光化2 孝恭王3 大瑋6
900 11・21 三善清行、明年の辛酉革命の議を奏す。           昌泰3 光化3 孝恭王4 大瑋7
この年 連雀、多発。天下に大咳癘起こる。古老曰く、この鳥は新羅の鳥で、大群飛来すると大咳癘が発生する、と。 元亨四年具注暦裏書所引江記 寛治7・10・21条     甄萱、後百濟王と称し、官署を設置する。 史記50甄萱
三国遺事2甄萱
901 4     天復と改元する。       昌泰4 天復1 孝恭王5 大瑋8
7・15 延喜と改元。この後まもなく唐人廬知遠、三善清行を訪ね、辛酉の年1月、唐の宮中で劉庸均の乱があり、死者数千に及んだが、数ヶ月で平定され、元号を天福(天複)と改めたとのことを語る。 善相公奏状(大日本史料第1編-2補遺9頁)         延喜1
1〜7         弓裔、王を称す。 史記12 光化4/天復1
8         甄萱は新羅の大耶城を攻めたが落とせなかった。そして錦城の南に移動し、周辺部落を略奪していった。 史記12 天復1
史記50甄萱
10・28 紀長谷雄、太政官牒に「遣唐副使」の肩書きを署する(最終所見)。 延喜元年10月28日付太政官牒(東南院文書)        
11・27 安祥寺、恵運の伝記を進上する。 入唐五家伝恵運        
902 10・20 三善清行、天台宗延暦寺座主円珍伝を書く。 円珍伝         延喜2 天復2 孝恭王6 大瑋9
11・19 延暦寺衆徒、円珍の伝記を国史所に進上する。 円珍伝        
寺門伝記補録15
903 2・25 菅原道真、没。これより先、道真、通事李彦環から唐製の竹床子を贈られ、返礼の作詩。 紀略         延喜3 天復3 孝恭王7 大瑋10
菅家後集
8・1 大宰府に、院宮王臣家による唐物の私的買い入れや、富豪による唐物の高価購入を禁じさせる官符を下す。 三代格19        
11・20 唐人景球ら、羊1頭・白鷲5隻を献じる。 紀略        
略記裡書
904 2・20 松山村大寺の鐘、鋳造される(大分県宇佐市宇佐神宮蔵)。 宇佐神宮蔵朝鮮鐘銘         延喜4 天復4 孝恭王8 大瑋11
閏4     天祐と改元する。       天祐1
8     昭宗死去。哀帝が即位する。      
この年         弓裔、国号を摩震と改称し、年号を武泰とする。新羅の浿江道十餘州縣が弓裔に投降する。諸官署、品職などを設置。7月に青州の人戸一千を移住させて、鉄円城を京とする。 史記12
史記50 弓裔
905 7         弓裔、新京に入る。聖冊に改元する。 史記12 延喜5 天祐2 孝恭王9 大瑋12
史記50 弓裔
8         弓裔の侵略が新羅の竹嶺東北に至り、それを聞いた孝恭王は各城主に、城を出ずに固守するよう命じる。 史記12
906 3         唐で科挙に及第した金文蔚が冊封使として帰国する。 史記12 延喜6 天祐3 孝恭王10 大瑋13
6・10     節度使らに、部内停住の新任官を任地へすみやかに監送するよう命じる。 冊府65    
7・13 隠岐国、新羅賊船の帆柱等流着を報じる。 紀略        
この年         在唐留学生崔彦ヒが科挙に及第する。渤海宰相烏炤度の子・光賛と席次を争う。 史記46
高麗史92
907 4・22     18日、唐の哀帝、帝位を朱全忠に譲位する。全忠(後梁太祖)は即位し、22日に国号を大梁とする       延喜7 天祐4/開平1(唐/後梁) 孝恭王11 譔1
4     契丹、後梁に朝貢する。 五代会要29 契丹     開平1(後梁)
5 新羅の牒状が到来する。文章博士菅原淳茂らに命じて大宰府の返牒を作らせ、新羅に送る。 異国牒状記        
    渤海王子大昭順、後梁に海東の物産を朝貢する。 冊府972    
五代会要30 渤海
この年 唐商人、熾盛光仏頂大威徳銷災大吉祥陀羅尼(熾盛光経)1帖を朝廷に進上する。 青蓮院吉水蔵「熾盛光経」跋文        
熾盛光仏頂大威徳銷災大吉祥陀羅尼(平遺題跋479)
    契丹が袍笏梅老を使者として派遣し、梁と通好する。梁は太府少卿高頎・軍將郎公遠を派遣して答礼する。 契丹国志1    
        甄萱、新羅の一善郡以南を奪う。 史記12
908 1・8* 左大臣藤原時平、渤海大使裴璆らの来着を伝える伯耆国からの知らせを奏す。 紀略         延喜8 開平2(後梁) 孝恭王12 譔2
紀略6月某日条
略記
1・25     渤海、後梁に朝貢する。 新五代史2    
五代会要30 渤海
2     唐・哀帝(済陰王)殺害される。上に引く新五代史では「弑済陰王」は正月己亥の記事に続けて記す。      
2     契丹、後梁に朝貢する。 五代会要29 契丹    
3・20 存問渤海客使大内記藤原博文・直講仮大学権允秦維興らの伯耆国発遣を奏す。 略記        
4・2 式部大丞紀淑光と散位藤原淳茂を存問渤海客使に、兵部少丞小野葛根と文章生藤原守真を同領客使に任命する。 略記        
4・8 藤原博文ら、斐璆らを存問する。 紀略        
4・21 渤海領客使、今来川辺で曲宴を催す。 紀略        
4・26 渤海使入京の際の馬を、寛平の例に准じて公卿に提供させる。 略記        
*4 醍醐天皇、渤海王に書を賜う。 紀略4月某日条        
5・5 天皇、南殿で、渤海使のための馬各20匹を覧る。7日には同じく陽成上皇と大臣・参議らが進めた馬を覧る。 略記        
略記5・7条
5・10 渤海使、王啓と信物等を献じる。 貞信公記抄        
5・11 渤海使を豊楽院に宴す。大使裴璆に別貢答物を賜う。 貞信公記抄        
醍醐天皇御記
河海抄12藤裏葉所引醍醐天皇御記
北山抄2所引延喜8年渤海客賜宴日御記
5・12 宇多法皇、渤海大使裴璆の帰国にあたって大使の父、裴頲に宛てた書を贈る。 紀略        
本朝文粋7
略記
5・14 朝集堂での渤海使饗が、雷雨のため翌日に延期される。 醍醐天皇御記        
略記
5・15* 朝集堂で渤海使を饗し、渤海国王らに物を、大使裴璆に御衣1襲を賜う。使者を鴻臚館に遣わし、勅書等を付す。 醍醐天皇御記        
紀略4月某日条
略記
5     契丹、後梁に朝貢する。 五代会要29 契丹    
5     契丹王阿保機が高頎を派遣して、後梁に冊命を求める。 通鑑266    
6* 渤海掌客使と文人ら、鴻臚館で餞別の宴を催し、詩文を贈答する。大江朝網、この時の詩巻の序を作る。その中の「前途程遠、馳思於雁山之暮雲」云々の一句は名句と称えられる。ついで裴璆、帰途につく。この時越前権掾都在中、帰国途中の裴璆に会い、別離に際し詩を贈り、裴璆を感嘆させる。のちに勅命を受けずに蕃客に詩を寄せたとして咎められるが、裴璆が称賛したため許された。 紀略        
本朝文粋9
古今著聞集4
帝編
和漢朗詠集
江談抄4
909 2・17 在唐僧中瓘に送る太政官牒に請印し、外記、これを函に入れて封じる。 紀略         延喜9 開平3(後梁) 孝恭王13 譔3
略記裡書
3・6     渤海王・大譔、後梁に女及び物・貂鼠皮・熊皮を献じる。 新五代史2    
冊府972
五代会要30 渤海
6         弓裔は部将に命じ、珍島郡を降伏させ、皐夷島城を落とす。 史記12
閏8・9 来着中の唐商人に対する唐物使を派遣せず、太宰府に検進させる。蔵人所牒で進上すべき品目を指示。 略記        
閏8     契丹、後梁に朝貢する。 五代会要29 契丹  
11・27 太宰府、孔雀を進上する。 紀略        
略記
この年*         在唐留学生である崔彦ヒが帰国する。 史記46
高麗史92
910 この年         甄萱は三千の兵を率いて羅州城を攻める。弓裔は水軍を出してこれを襲撃したため、甄萱は撤退する。 史記12 延喜10 開平4(後梁) 孝恭王14 譔4
          史記50 㼼萱        
911 1         弓裔は国号を摩震から泰封と改称し、年号を聖冊から水徳万歳と改元する。 史記12        
史記50 弓裔 延喜11 開平5(後梁) 孝恭王15 譔5
4     契丹、後梁に朝貢する。 五代会要29 契丹  
5     乾化と改元する。       乾化1(後梁)
8・17     渤海、後梁に遣使して朝賀する。 新五代史2    
冊府972
この年 唐商の来着の年期を定める。 貞信公記抄 天慶8・7・29条        
帥記 治暦4・10・23条
小右記 長元1・11・29条
912 4         孝恭王死去。神徳王が即位する。 延喜12 乾化2(後梁) 孝恭王16/神徳王1 譔6
5・9     渤海王・大譔、王子・大光賛を後梁に派遣して方物を献じる。 新五代史2     神徳王1
冊府972
五代会要30 渤海
6     後梁の太祖朱全忠、死去。      
この年         甄萱と弓裔とが、徳津浦に戦う。 史記50甄萱
913 この年 入唐僧智鏡、帰国し、招来した後梁開平2年(908)泉州開元寺僧惟憤書写の熾盛光経を献上。 青蓮院吉水蔵「熾盛光経」跋文「或本」         延喜13 乾化3(後梁) 神徳王2 譔7
914 3         弓裔、政開と改元する。 延喜14 乾化4(後梁) 神徳王3 譔8
8・8 信濃国の「唐人田」2町4段の地子稲を正税に混合することとする。 別聚符宣抄        
915 2     後梁、高萬興を渤海王に進封する。 旧五代史8   延喜15 乾化5 神徳王4 譔9
7     大封国(高麗)、呉に入貢する。 通鑑270    
11     貞明と改元する。       貞明1(後梁)
916 8         甄萱、新羅の大耶城を攻めたが、落とせなかった。 史記12 延喜16 貞明2(後梁)神冊1(契丹) 神徳王5 譔10
この年     大契丹国(のちの遼)、建国。 遼史1     貞明2(後梁)神冊1(契丹)
917 7         神徳王死去。景明王が即位する。   延喜17  貞明3(後梁)神冊2(契丹) 神徳王6/景明王1 譔11
918 2     渤海、高麗が契丹に遣使する。 遼史70属国表     延喜18 貞明4(後梁)神冊3(契丹) 景明王2(新羅) 譔12
3     高麗及び西北諸蕃いずれもが契丹に遣使する。 遼史70属国表    
6・15*     王建、大封王「躬乂」を殺して自立。高麗王を称する。開州を東京とし、平壌を西京とする。 通鑑271 弓裔の部下が裏切り、王建を王に推戴する。弓裔は逃亡中に殺害される。建(太祖)は即位して、国号を高麗、年号を天授とする。この年の8月に後百濟王・甄萱が祝賀の言葉と孔雀扇と地理山を贈る。 史記12
史記50 弓裔
史記50甄萱
三国遺事2甄萱
高麗史1
高麗史1 天授3
高麗史節要
919 1         高麗、都を松岳郡に遷す。 史記12 延喜19 貞明5(後梁)神冊4(契丹) 景明王3(新羅)天授2(高麗) 譔13
高麗史1
高麗史節要
7・16 孔雀等を内裏に献上。午後、仁和寺で孔雀と交易の唐物を御覧。 紀略        
略記
11・18 若狭国がもたらした渤海使来着の由を奏す。 貞信公記抄        
略記
11・21 渤海使牒状がもたらされるが、一行は着岸せず、人数等も子細は不明。宇多法皇、若狭国解文を宇多法皇に覧ず。 略記        
11・25 渤海使のための行事を定め、左中弁藤原邦基を行事弁とする。渤海使を若狭国より越前国に遷し、入京させることなどを定める。 略記        
貞信公記抄
12・1* 存問渤海客使に橘惟親・依知秦広助、通事に阿波権掾大和有卿を任じる。饗宴の日の酒部を延喜8年度の半数とする。 紀略        
貞信公記抄
略記
12・16 渤海使饗宴の内教坊舞人等を選定する。また、音聲の定員を延喜8年より削減する。 略記        
12・24 渤海使105人を越前国松原駅館に送ったが、同駅館に行事の官人なく、薪炭の備えもないこと等を言上した若狭国の解文を奏し、越前掾維明を蕃客行事国司とする。 略記        
920 1         景明王は、高麗の太祖と聘を交わし友好を修めた。 史記12 延喜20 貞明6(後梁)神冊5(契丹) 景明王4(新羅)天授3(高麗) 譔14
高麗史1
2*         新羅康州の将軍である閏雄は高麗太祖に投降する。 史記12
高麗史1
3・22 渤海使に時服を支給するための使者を越前国に派遣する。 朝群11        
略記
4・2 民部大丞藤原季方と文章得業生大江朝綱を渤海掌客使に任命する。 貞信公記抄      
4・20 渤海使裴璆らの来日理由などを存問する。 紀略        
4     渤海王高萬興を延安王に封ず。 旧五代史10    
5・5 渤海使の入京の日と在京の間、禁物を着用することを許す。渤海使在京中、毎日鹿2頭を供することを命じる。試楽を行う。左右馬寮の馬を御覧。 貞信公記抄        
略記
5・7 大蔵三常を渤海通事に任命する。陽成上皇と公卿らの進めた馬を御覧。 貞信公記抄        
略記
5・8 渤海使裴璆ら20人、山科の勧修寺の近くを通って入京し、鴻臚館に到着する。掌客使藤原季方・大江朝綱に御衣を賜う。 紀略        
貞信公記抄
略記
勧修寺縁起
勧修寺旧記
5・10* 右大臣藤原忠平、渤海国牒状を覧る。渤海大使裴璆に正三位授位。宇多法皇の進めた馬を御覧。 紀略        
貞信公記抄
朝群20
5・11 渤海使裴璆、八省院で王啓と信物等を進める。 紀略        
貞信公記抄
略記
5・12 醍醐天皇、豊楽院で渤海使に宴を賜う。 紀略        
貞信公記抄
略記
5・15 掌客使藤原季方、大使裴璆の別貢物を受領して、蔵人所に進める。 略記      
5・16 朝集堂で渤海使を饗宴し、渤海王への答進物等を賜う。 紀略        
貞信公記抄
略記
5・17 宇多法皇書状を渤海大使裴璆に送る。領帰郷客使等を発遣。 紀略        
5・18 渤海使裴璆、帰国の途に就く。渤海宛ての太政官牒を付す。帰国に先立ち、鴻臚館や越前国松原客館で文人らと詩文を贈答する。 紀略        
本朝文粋9
扶桑集7
6・14 渤海掌客使大江朝綱、蔵人所を通じ、渤海使の書状と贈物を奏す。返書を送り贈物は返却すべきことを仰す。 略記        
6・22 大江朝綱、渤海使への書状を奏上するが、裴璆は既に帰国。裴璆が贈った帯裘を進める。 略記        
6・26 右大臣藤原忠平、権右少弁藤原元方に、領帰郷渤海客使坂上恒蔭らが申した、渤海使の内4人が一行と別れて日本に留まる由を奏上させる。 略記        
6・28 日本にとどまった渤海人を大同5年の例に准じて越前国に安置させる。 略記        
10         甄萱、兵一万を率いて大耶城を攻め、陥落させた後、新羅の進礼城に進軍する。新羅景明王、金律を遣わして高麗太祖に援軍を求める。太祖の出兵を聞き、甄萱は撤退する。 史記12
史記50 㼼萱
高麗史1
この頃* 越前権掾大江朝綱、大使裴璆との別離に際し詩を贈り、裴璆を感嘆させる。のちに勅命を受けずに蕃客に詩を寄せたとして咎められるが、裴璆が称賛したため許された。 江談抄4        
921 1         新羅の金津、新羅三宝の一つ、聖帯の話を高麗太祖から聞く。景明王、これを探し出す。 史記12 延喜21 貞明7(後梁)神冊6(契丹) 景明王5(新羅)天授4(高麗) 譔15
2・7         黒水酋長の高子羅、170人を率いて、高麗へ投降する。 高麗史1
2・15         靺鞨の別部である達姑衆が北方に侵入。高麗の将軍堅権がそれを全滅させる。新羅景明王がそれを聞いて喜び、遣使して太祖に謝する。 史記12
  高麗史1
4・29         黒水の阿於閨A200人を率いて高麗へ投降。 高麗史1
5     龍徳と改元する。       龍徳1(後梁)神冊6(契丹)
  12         後百済人が投降してきたため、田宅を与える。 高麗史1        
922 2         契丹、高麗に駱駝とけむしろを来献する。 高麗史1 延喜22 龍徳2(後梁)天賛1(契丹) 景明王6(新羅)天授5(高麗) 譔16
6・5 新羅甄萱(後百済王)の使者輝嵒ら陪臣の朝貢を認めず表函・方物ともに返却させる旨の官符を太宰府に下す。 本朝文粋12        
略記裏書  
略記 延長7・5・21条  
9・2 越前国、渤海客を安置したとする解文を進める。 略記裏書        
延喜中 この頃、唐僧長秀、父と共に波斯国に向う途中、漂流して日本に到り、香薬の調合法を伝える。 略記         延喜1〜23 天復1〜龍徳2(後梁)天賛1(契丹) 孝恭王5〜景明王6(新羅)天授5(高麗) 大瑋8〜大譔16
拾遺往生伝巻中 大法師浄藏
今昔物語集24ノ10
薫集類抄下
延長年中 大江維時、入唐し、承平のはじめに帰朝か。 大江氏系図維時尻付       延長1〜8 同光1(後唐)天賛2(契丹)〜長興1(後唐)天顕5(契丹) 景明王7(新羅)天授6(高麗)〜敬順王4(新羅)天授13(高麗) 譔17〜
923 閏4・11 延長と改元する。           延長1 同光1(後唐)天賛2(契丹) 景明王7(新羅)天授6(高麗) 譔17
  5     李存勗は唐皇帝(荘宗)を名乗って唐(後唐)を建国し、更に後梁の首都を攻め落とし、後梁を滅ぼした。        
  6・10         高麗の尹質、五百羅漢像(『高麗史』では「五百羅漢畫像」)を唐より持ちかえる。 三国遺事3  
  高麗史1  
  7         新羅、金楽と金幼卿を後唐に派遣し方物を貢ずる。後唐の荘宗は、宝物を与える。 史記12  
  11・18     新羅、金朴英を後唐に派遣して、朝貢する。 新五代史5    
        冊府972    
        五代会要30 新羅      
  この月     後梁の末帝が死去。        
924 1・11     新羅王金朴英・泉州節度使王逢規、後唐に遣使して朝貢する。 旧五代史31  新羅、後唐に遣使して朝貢する。泉州節度使の王逢規も後唐に遣使し、朝貢する。 史記12 延長2 同光2(後唐)天賛3(契丹) 景哀王1(新羅)天授7(高麗) 譔18
新五代史5
冊府972
1・16     渤海王子、後唐に遣使して朝貢する。 旧五代史31     
新五代史5  
冊府972  
五代会要30 渤海  
3     契丹、後唐の新城を攻める。 五代会要29 契丹    
4     後唐、新羅朝貢使に授官。 冊府976    
5・19*     渤海、大元讓を朝貢使として派遣する。 旧五代史32    
新五代史5
冊府976
冊府972
五代会要30 渤海
5     渤海、契丹の刺史長秀実を殺し、その民を劫掠する。 遼史2太祖下    
6・2 天皇、平伊望を藤原忠平のもとに遣わし、唐人のことを問う。 貞信公記抄        
6     新羅、金岳を後唐に遣使朝貢する。荘宗、金岳に朝議大夫試衛卿を授ける。 冊府972 新羅、金岳を後唐に派遣して、朝貢する。後唐荘宗、金岳に朝議大夫試衛卿を授ける。 史記12
五代会要30 新羅
7・25     幽州、契丹が渤海を攻めたことを奏す。 旧五代史32    
7     契丹が渤海を攻める。 通鑑273    
五代会要29 契丹
7         甄萱、子の須弥康(強)らを派遣して、高麗の曹物城を攻めるが、落とせず退却する。 高麗史1
        史記50甄萱
8         甄萱、高麗へ遣使して絶影島の馬一匹を献ず。 史記50甄萱
三国遺事2甄萱
高麗史1
8*         新羅景明王、死去。景哀王、即位する。高麗太祖、遣使して弔問する。 史記12
      高麗史1
8     渤海、後唐に大元謙を遣使。 冊府976  
    五代会要30 渤海    
この頃     契丹が渤海を攻めるが、何ら功績を上げられなかった。 通鑑273    
9・7     契丹、渤海より兵を引く。 旧五代史32    
9         新羅、高麗太祖に遣使する。 史記12
11・11 唐人の貨物、京に到る。12日、醍醐天皇、内裏において唐物を御覧。 貞信公記抄        
12     契丹、後唐の嵐州を攻める。 五代会要29 契丹    
925 2・18     渤海王、裴璆を遣して後唐に人参等を貢じる。 旧五代史32     延長3 同光3(後唐)天賛4(契丹) 景哀王2(新羅)天授8(高麗) 譔19
新五代史5
冊府972
五代会要30 渤海
2     契丹、後唐の幽州を攻める。 五代会要29 契丹    
5・24     後唐、渤海入朝使裴璆に授官する。 冊府976    
五代会要30 渤海
5     契丹、後唐へ朝貢する。 五代会要29 契丹    
9・24   貞信公記抄     買曹城将軍能玄が高麗へ投降する 高麗史1
10・7 日本に漂着の唐僧平秀(一説では長秀)に、同湛誉・智jらの前例に准じ衣服・食料を支給。 貞信公記抄      
略記      
10・10         高鬱府将軍能文、高麗に投降する。太祖は能文を慰諭して帰らせた。 史記12
    高麗史1
10・21     日本国、契丹に来貢。 遼史2    
遼史70属国表
10・22     高麗、契丹に来貢。 遼史2  
10         甄萱は10月より、騎兵3000を率いて曹物城を攻め、高麗太祖も応戦する。なかなか決着がつかず、太祖は和親のために、従弟の王信を人質にすると、11月に甄萱は甥の真虎を人質として高麗に送る。これを聞いた景哀王は、高麗に遣使し、後百済と和親を結ぶべきではないと注告する。 史記12
史記50甄萱
三国遺事2甄萱
『高麗史』1
11・18     高麗、後唐に遣使する。 旧五代史33    
新五代史5
11・20     新羅、契丹に来貢。 遼史2    
遼史70属国表
11月     高麗、後唐へ遣使朝貢。(翌年正月、使者である韓申一に授官する。) 五代会要30 高麗    
11*         耽羅国が高麗へ方物を献ず。 高麗史1
12         甄萱、後唐に遣使して称藩する。 史記50甄萱
三国遺事2甄萱
926 1・9     契丹、渤海を攻める。 旧五代史34     延長4 同光4(後唐)天顕1(契丹) 景哀王3(新羅)天授9(高麗) 譔20
1・21     契丹、渤海・女真を攻める。 旧五代史34    
通鑑274
五代会要契丹
1     後唐、高麗使韓申一に、朝散大夫等の官職を与える。 五代会要30 高麗    
2*     契丹、渤海を攻め、扶余城を落とす。これにより、渤海が滅亡する。阿保機は渤海を「東丹国」とし、また唐に遣使し渤海平定を報告する。 遼史2太祖下 契丹が渤海を滅ぼす。そのため、渤海から高麗へ投降してくるものが相次ぐ。 高麗史1
遼史2太祖下
遼史70属国表
通鑑275
五代会要契丹
五代会要30 渤海
3     契丹、渤海を攻め、扶余城を落とす。これにより、渤海が滅亡する。阿保機は渤海を「東丹国」とし、また唐に遣使し渤海平定を報告する。 遼史2太祖下    
4・27     荘宗死去。明帝即位。年号も天成へ改元。       天成1(後唐)天顕1(契丹)
4・28     渤海、後唐に遣使朝貢する。 旧五代史36    
新五代史6
冊府972
五代会要30 渤海
4*         甄萱の甥・真虎が死亡する。甄萱は、高麗が故意に殺したと疑い、高麗の質、王信をとりことし、以前贈った馬を返却するよう高麗に抗議する。高麗太祖は笑って返却する。また、甄萱は真虎の死を理由に高麗に対して挙兵。新羅王、高麗に遣使。 史記12
      史記50甄萱
      三国遺事2甄萱
      高麗史1
5・21* 興福寺の僧寛建の入唐求法、五臺山巡礼の請いを許し、黄金小100両を賜う。寛建の請により、唐国に流布させるため、菅原道真・紀長谷雄・橘広相・都良香ら4人の家集と小野道風の書を付す。左大臣藤原忠平に寛建入唐にかんして大宰大弐藤原扶幹に書状を送らせる。 略記        
和漢合符6
6・7 宇多法皇、寛建に黄金50両を賜う。 略記        
7・6     契丹・渤海、後唐に遣使朝貢。 旧五代史36    
新五代史6
冊府972
五代会要30 渤海
7・17     契丹、元渤海王大譔を皇都の西に衛送して住まわせ、名を賜う。 遼史2太祖下    
7・27*     契丹の阿保機が扶余城にて死去。 通鑑275    
遼史2太祖下
五代会要30渤海
五代会要29 契丹
8・3     契丹の述律后、少子の安端少君に東丹を預け、長子の突欲とともに阿保機の喪を奉ずるために、兵を率いて扶城を離れる。 通鑑275    
10     契丹、後唐に告哀の使者を送る。 五代会要29 契丹    
この年         高麗が張彬如を使として、唐に派遣する。 高麗史1