紀年校異
紀年(月日)について史料による相違や問題がある記事をまとめた。
同年ではあるが、改元する前の年号のままで記述されている場合も散見。
583.この年 日羅、百済より来朝。
『日本書紀』20 敏達十二年(583)是歳条「是歳。復遣吉備海部直羽嶋召日羅於百濟。……羽嶋乃依其計而召日羅。……遂於十二月晦。候失光殺……。」
『扶桑略記』3 敏達十二年七月条「十二年癸卯七月。百濟國客日羅來朝。……」
『元亨釈書』20 資治表1 敏達十二年条「十有二年。春。夏。秋。冬。百濟日羅説偈拜豊聡王子。十二年。百濟日羅來。……」
*『日本書紀』は是歳条にて来朝とし、12月晦に殺害されたとする。『扶桑略記』は7月条、『元亨釈書』は冬とする。
584.09 百済より弥勒像・仏像来たる。
『日本書紀』20 敏達十三年(584)九月条「秋九月、從百濟來鹿深臣<闕名字。>有彌勒石像一軀。佐伯連<闕名字。>有佛像一軀。」
『扶桑略記』3 敏達十三年九月条「十三年甲辰九月。自百濟國。弥勒石像一軀送之。」
『聖コ太子傳暦』上 敏達十三年条「十三年〈甲辰〉秋九月。彌勒石像一軀。〈今在古京之元興寺東金堂。〉佛像一軀〈考佛已下四字一本爲註。軀下別有從字〉百濟将來。」
『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』「然後〈癸卯(583)〉。……次甲賀臣從百濟持度來石彌勒菩薩像〈ヲ〉。」
『元亨釈書』20 資治表1 敏達十三年条「……十三年。九月。百濟使麻深臣持彌勒石像而來。……」
*『元興寺資財帳』は癸卯年(583)の記事より続けて記載
589.03圓光入隋。
*円光の中国求法の時期や出家の経緯などは史料によって異なる。ただし、この年に陳が滅びていることから、これ以前に入陳し、このとき入隋したものと考える。
590.07.26隋、高句麗の軍備について問責。平原王(湯)、陳謝しようとするも病死。隋、平原王の子の嬰陽王(元)を冊封。
『隋書』2高祖下「(開皇十年〈590〉)秋七月……辛亥、高麗遼東郡公高陽卒。」
『隋書』81高麗「(開皇)十七年(597)……湯得書惶恐、將奉表陳謝、會病卒。子元嗣立。……襲爵遼東郡公、……高祖優冊元為王。」
『北史』94高麗「開皇十七年、……湯得書惶恐、將表陳謝。會病卒。子元嗣。……襲爵遼東公、……文帝優冊為王。」
『冊府元亀』963封冊「(開皇)十年七月、高麗遼東郡公高湯卒、拜其子元……襲爵遼東郡公、……高祖優詔、策元爲王。」
『冊府元亀』996責讓「(開皇)十七年、……湯得書惶恐、將奉表陳謝、會病卒。」
『資治通鑑』178隋紀2開皇十七年条「……湯得書、惶恐、將奉表陳謝。會病卒、子元嗣立、……襲爵遼東公。元奉表謝恩、因請封王、上許之。」
『三国史記』19高句麗本紀「(平原王)三十二年(590)……王得書惶恐。將奉表陳謝。而未果。王在位三十二年。冬十月。薨。號曰平原王。」
『三国史記』20高句麗本紀「嬰陽王。諱元。平原王長子也。……平原王在位七年立爲太子。三十二年王薨。太子即位。隋文帝遣使拜王爲上開府儀同三司。襲爵遼東郡公。賜衣一襲。」
*『隋書』・『北史』の高麗伝・『冊府』996・『通鑑』は開皇17年のこととする。平原王の死去は『隋書』2・『冊府』963は開皇10年7月、『三国史記』は同年10月とする、以後の『三国史記』の冊封記事との整合性から、いま開皇10年とし月日は『隋書』本紀に従う。
591.05.甲子 高句麗、朝貢する。
『隋書』2高祖下「(開皇十一年〈591〉)五月甲子、高麗遣使貢方物。」
『冊府元亀』970朝貢3「(開皇)十一年……五月、高麗、……並遣使貢方物。」
『三国史記』20高句麗本紀「(嬰陽王二年〈591〉)……夏五月。遣使謝恩。」
*『隋書』は「五月甲子」とするも、この年5月に甲子なし。
595.この年 百済の僧慧聡が渡来する。
『日本書紀』22 推古三年(595)是歳条「是歳。百濟僧慧聰來之。……」
『聖コ太子傳暦』上 推古三年条「五月。高麗僧惠慈。百濟僧惠聰等化來。……」
『扶桑略記』3 推古三年五月条「五月。高麗僧惠慈。百濟僧惠聡等來朝。……」
『元亨釈書』20 資治表1 推古三年条「……冬。百濟沙門慧聡來。……」
*『聖徳太子伝暦』・『扶桑略記』は惠慈とともに5月来朝、『元亨釋書』は冬に来朝とする。
597.05.23高句麗、隋に朝貢。
『隋書』2高祖下「(開皇十七年〈597〉)五月……己巳、……高麗遣使貢方物。」
『冊府元亀』970「(開皇)十七年六月、高麗、……並遣使貢方物。」
『三国史記』20高句麗本紀「(嬰陽王)八年(597)夏五月。遣使入隋朝貢。」
*『冊府元亀』、6月とする。
599.09.01百済、駱駝1匹・驢1匹・羊2頭・白雉1隻を貢進する。
『日本書紀』22 推古七年(599)九月癸亥条「秋九月癸亥朔。百濟貢駱駝一疋。驢一疋。羊二頭。白雉一隻。」
『聖コ太子傳暦』上 推古七年条「七年〈己未〉(中略)秋八月。百濟國。貢駱駝一疋。驢一疋。羊二頭。白雉一隻。……」
『扶桑略記』3 推古七年八月条「八月。百濟國貢白雉一隻。是鳳類也。」
*『聖コ太子傳暦』・『扶桑略記』は8月とする。
599.この年 百済恵王崩御。法王即位する。
『隋書』81 列傳46 東夷 百濟「開皇十八年(598)、昌使其長史王辯那來獻方物、…昌死、子餘宣立、死、子餘璋立。」
『三国史記』27 百済本紀5「(惠王)二年(599)。王薨。諡曰惠。」
『三国史記』27 百済本紀5「(法王元年・599)諱宣〈或云孝順〉。惠王之長子。惠王薨。子宣繼位〈隋書以宣爲昌王之子〉。」
*『隋書』、開皇18年の事項に続けて記載。
600.02新羅と任那戦う。境部臣を大将軍、穂積臣を副将軍に命じ、任那のために新羅と戦う。
『日本書紀』22 推古八年二月条・是歳条「八年春二月、新羅與任那相攻。天皇欲救任那。是歳。命境部臣爲大將軍。…」
『聖コ太子傳暦』上 推古八年条「八年〈庚申〉春正月。天皇勅曰。新羅任那相攻如何。…」
『扶桑略記』3 推古八年正月条「八年庚申正月。以阿倍臣爲大將軍。以穗積臣爲副將軍。率万餘兵。爲任那國伐新羅國。…」
*『聖コ太子傳暦』・『扶桑略記』は正月とする。
600.05百済法王崩御。武王即位する。
『隋書』81 列傳46 東夷 百濟「開皇十八年(598)、昌使其長史王辯那來獻方物、…昌死、子餘宣立、死、子餘璋立。」
『北史』94 列傳82 百濟「隋開皇初、餘昌叉遣使貢方物、…十八年(598)、餘昌使其長史王辯那來獻方物。…餘昌死、子餘璋立。…」
『三国史記』27 百済本紀5「(法王二年・600)夏五月薨。上諡曰法。」
『三国史記』27 百済本紀5「(武王元年・600)諱璋。法王之子。風儀英偉。志氣豪傑。法王即位、翌年薨。子嗣位。」
*『隋書』・『北史』、開皇18年の事項に続けて記載。
600 倭王、隋に遣使朝貢。
『釋日本紀』1 「延喜講記曰。自唐所号也。隋文帝開皇中。入唐使小野妹子。……」
『通典』185東夷上 倭「隋文帝開皇二十年、倭王姓阿毎、名多利思此弧、其國號「阿輩雞彌」、華言天兒也、遣使詣闕。……明年、帝遺文林郎裴清使於倭國。……」
*倭からの遣隋使の記事は、中国諸史料では600年(開皇20年)と607年(大業3年)の二度みえるが、日本側史料では607年(推古15年)に始まる一連の遣使往来記事のみ。ただし『通典』185は「裴清」の倭国への遣使を開皇20年の翌年とし、大業3年の記事と混乱がある。また、『釋日本紀』は「延喜講記」を引き小野妹子入唐を開皇年間とする。607年7月3日、608年3月19日、同6月15日、同8月3日、同8月16日、同9月11日の事項は、上記の両国間の史料の矛盾も踏まえ参照されたい。
601.11.05新羅を攻撃することについて話し合う。
『日本書紀』22 推古九年十一月甲申条「冬十一月庚辰朔甲申。議攻新羅。」
『聖コ太子傳暦』上 推古九年条「九年〈辛酉〉…冬十一月。庚辰。議攻新羅。」
602.10百済の僧観勒が来朝。
『日本書紀』22 推古十年(602)十月条「冬十月。百濟僧觀勒來之。……」
『三代實録』5 貞觀三年六月十六日己未条「……豐御食炊屋姫天皇十年十月。百濟國僧觀勒始貢暦術。……」
『聖コ太子傳暦』上 推古十年条「……冬十月。百濟僧觀勒來。……」
『扶桑略記』3 推古十年十一月条「十一月。百濟國僧觀勒來。……」
『元亨釈書』20 資治表1 推古十年条「……冬十月。百濟沙門觀勒來。……」
*『扶桑略記』のみ観勒来朝を11月とする。
605.4.1銅・繍の丈六の仏像、各1軀を建立。
『日本書紀』22 推古十三年(605)四月辛酉条「十三年夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一軀。……」
『聖コ太子傳暦』上 推古十三年条「十三年〈乙丑〉天皇常納太子妙説。遂知佛法不可思議。發大誓願命佛工鞍部鳥。〈又云鞍作鳥。〉造銅繡丈六各一軀。……」
『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』「十三年歳次乙丑四月八日戊辰。以銅二萬三千斤。金七百五十九兩。敬造釋迦丈六像銅繡二軀幷挾侍。……」
『扶桑略記』4 推古十三年四月辛酉条「十三年乙丑夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子幷大臣諸臣。共同發願。始造金銅丈六尺迦佛像。挾侍■(艹+廾)像。……」
『元亨釈書』20 資治表1 推古十三年条「十有三年。春。夏四月。詔太子及郡臣造銅繡二像。……」
*『日本書紀』・『扶桑略記』は「四月辛酉朔」とし、『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』は「四月八日戊辰」とする。
607.03百済、燕文進を隋に派遣し、朝貢する。607.この年百済、隋に高句麗攻撃を要請。
『冊府元亀』998「大業三年、璋遣使者燕文進朝貢。其年、又遣使者王孝隣入獻、請討高麗。煬帝許之、令覘高麗動静。然璋内與高麗通和、挾許以窺中國。」
*『冊府元亀』998、百濟の燕文進の隋派遣から、この年条の高句麗攻撃要請までを一括して記載。
607.08.09隋の煬帝が突厥の啓民河汗の帳に行幸した時、高句麗使者もその場に居たため、共に煬帝にまみえる。
『隋書』84「大業三年四月、煬帝幸楡林、啓民及義成公主来朝行宮、…是日、將高麗使人見、…」
『資治通鑑』182「(大業六年十二月己未)文安憲侯牛弘卒。……帝之幸啓民帳也、高麗使者在啓民所、啓民不敢隱、與之見帝。」
*隋書84は、同年4月のこととしている。
*『隋書』など諸史料は大業三年に上記事項を記すが、『資治通鑑』のみ、この記事を大業6年(610)の末尾に記載している。
607この年 百済、隋に高句麗攻撃を要請。煬帝、これを許し、高句麗の動静を伺うよう言いつける。
*『冊府元亀』998のみ、同年3月の百濟の燕文進の隋派遣から、高句麗攻撃要請までを一括して記載。
610.01.27倭国使、隋に方物を貢ず。
*『冊府元亀』970は、3月の事項とする。
612.03.14〜3月中 煬帝の高句麗親征〜隋軍の遼東城包囲。
*『三国史記』、隋書の3月中の事項を、一括して同年2月条に記す。『資治通鑑』、3月中のことを一括して記す。
612.03 隋軍、河を渡り、東岸にて高句麗軍と戦い、破る。遼東城を囲む。
『隋書』4「(大業八年三月)甲午、車駕渡遼。大戰于東岸、擊賊破之、進圍遼東。」
*『隋書』は「甲午」とするが、3月甲午は既出である。
613.02壬午 宇文述の官爵を復す。高句麗征討のため徴兵する。
*『隋書』『資治通鑑』とも2月「壬午」とするが、この月は、乙巳朔。壬午なし。
613.03.04煬帝、高句麗の遼東へ幸す。
*『隋書』『資治通鑑』とも3月4日の事項とするが、『三国史記』は4月とする。
619.02高句麗、遣使来朝。
『旧唐書』199上 高麗「武コ二年〈619〉、遣使來朝。」
『冊府元亀』970「(武徳2年)是年、高麗王高建武遣使来朝。」
『三国史記』20「(榮留王)二年(619)春二月。遣使如唐朝貢。」
*『冊府元亀』は是歳条とする。
623.10百済が新羅の勒弩県を襲う。
『三国史記』4「(眞平王四十五年〈623〉)冬十月。遣使大唐朝貢。百濟襲勒弩縣。」
『三国史記』27「(武王)二十四年〈623〉秋。遣兵侵新羅勒弩縣。」
*『三国史記』百済本紀は、秋のこととする。
624.01.己酉 沈叔安を遣わして、高句麗王高武を遼東郡王・百済王扶餘璋を帯方郡王・新羅王金真平を楽浪郡王として冊封する。
『旧唐書』1 高祖「(武徳)七年〈624〉春正月己酉、封高麗王高武為遼東郡王、百濟王扶餘璋為帶方郡王、新羅王金真平為樂浪郡王。」
『旧唐書』199上 高麗「七年、遣前刑部尚書沈叔安往冊建武為上柱國・遼東郡王・高麗王、仍將天尊像及道士往彼、為之講老子、其王及道俗等觀聽者數千人。」
『旧唐書』199上 百済国「七年、又遣大臣奉表朝貢。高祖嘉其誠款、遣使就冊為帶方郡王・百濟王。」
『旧唐書』199上 新羅「七年、遣使冊拜金真平為柱國、封樂浪郡王・新羅王。」
『新唐書』220新羅「武コ四年〈621〉、王真平遣使者入朝、…後三年〈624〉、拜柱國、封樂浪郡王・新羅王。」
『新唐書』220百済「武コ四年、王扶餘璋始遣使獻果下馬、自是數朝貢、高祖冊為帶方郡王・百濟王。」
『新唐書』220高句麗「武コ初、再遣使入朝。…後三年、遣使者拜為上柱國・遼東郡王・高麗王。」
『資治通鑑』190「(武徳7年2月)丁未、高麗王建武遣使來請班曆。遣使冊建武為遼東郡王・高麗王;以百濟王扶餘璋為帶方郡王、新羅王金真平為樂浪郡王。」
『冊府元亀』964「(武徳)七年正月封高麗王高建武爲遼東郡王百濟王扶餘璋爲帶方郡王新羅王金真平爲樂浪郡王。」
『三国史記』20「(栄留王)七年〈624〉春二月。王遣使如唐請班曆。遣刑部尚書沈叔安。策王爲上柱國遼東郡公高句麗國王。」
『三国史記』27「(武王)二十五年〈624〉春正月。遣大臣入唐朝貢。高祖嘉其誠款。遣使就冊爲帶方郡王百濟王。」
『三国史記』4「(眞平王46年〈624〉)三月。唐高祖降使。冊王爲柱國樂浪郡公新羅王。」
*『新唐書』220百済伝は、武コ4年の朝貢以後、数度の朝貢ののちの冊封とする。
*『三国史記』20は栄留王7年2月、『資治通鑑』は武徳7年2月丁未、『三国史記』4は眞平王46年3月のこととする。1月に「己酉」日なし。
626.この年 新羅、高麗、百濟、朝貢する。新羅使、高句麗の交通妨害と百済の侵略について訴える。百済は光明鎧を献上し、高句麗による交通妨害を訴える。高祖は朱子奢を派遣して三国に和睦するよう諭す。三国皆上表して謝罪する。
『旧唐書』2 太宗上「(武徳9年〈626〉)是歲、新羅・龜茲・突厥・高麗・百濟・党項并遣使朝貢。」
『旧唐書』189上朱子奢「貞觀初、高麗・百濟同伐新羅、連兵數年不解、新羅遣使告急。…初、子奢之出使也…子奢至其國、欲ス夷虜之情、遂為發春秋左傳題、又納其美女之贈。」
『旧唐書』199上 高麗「九年、新羅・百濟遣使訟建武、云閉其道路、不得入朝。又相與有隙、屢相侵掠。詔員外散騎侍郎朱子奢往和解之。」
『旧唐書』199上 百済国「七年、又遣大臣奉表朝貢。高祖嘉其誠款、遣使就冊為帶方郡王・百濟王。自是歲遣朝貢、高祖撫勞甚厚。…貞觀元年、太宗賜其王璽書曰…」
『新唐書』198朱子奢「太宗貞觀初、高麗・百濟同伐新羅、連年兵不解。新羅告急、帝假子奢員外散騎侍郎、持節諭旨、平三國之憾。」
『新唐書』220高句麗「武コ初、再遣使入朝。…後三年、遣使者拜為上柱國・遼東郡王・高麗王。…明年、新羅・百濟上書、言建武閉道、使不得朝、且數侵入。」
『新唐書』220百済「武コ四年、王扶餘璋始遣使獻果下馬、…後五年、獻明光鎧、且訟高麗梗貢道。太宗貞觀初、詔使者平其怨。」
『資治通鑑』192「(武徳9年是歳)新羅・百濟・高麗三國有宿仇、迭相攻擊;上遣國子助教朱子奢往諭指、三國皆上表謝罪。」
『冊府元亀』970「(武徳9年)十二月、高麗、百済、黨項、並遣使朝貢。」
『冊府元亀』1000「(武徳9年)唐、新羅・百済、武徳九年遣使訟高麗王建武關其道路、不得入朝、又相與有隙、屢相侵掠。詔員外散騎侍郎朱子奢往和解之。」
『三国史記』4「(眞平王)四十八年(626)秋七月。遣使大唐朝貢。唐高祖遣朱子奢來。詔諭與高句麗連和。」
『三国史記』20「(榮留王)九年(626)。新羅、百濟遣使於唐上言。高句麗閉道。使不得朝。又屢相侵掠。帝遣散騎侍カ朱子奢。持節諭和。王奉表謝罪。請與二國平。」
『三国史記』27「(武王)二十七年(626)。遣使入唐獻明光鎧。因訟高句麗梗道路。不許來朝上國。高祖遣散騎常侍朱子奢。來詔諭我及高句麗平其怨。」
*『旧唐書』189朱子奢伝は貞観に先立つこととし、同199百済伝は武徳7年以後、貞観までのこととする。『新唐書』198朱子奢伝は貞観初め、同220高句麗伝は、武徳8年(625・武徳7年の「明年」)、同百済伝は、武徳9年から貞観にかけてのこととする。『三国史記』はいずれも西暦でいえば626年のこととするが、巻4は同年7月のこととする。
628.09唐、東突厥を破り、頡利可汗を捕らえる。高句麗、遣使して奉賀し、あわせて封域図を進上する。
『旧唐書』199上 高麗「貞觀二年(628)、破突厥頡利可汗、建武遣使奉賀、并上封域圖。」
『新唐書』220高句麗「武コ初、再遣使入朝。…後三年、遣使者拜為上柱國・遼東郡王・高麗王。…明年、新羅・百濟上書、言建武閉道、使不得朝、且數侵入。…太宗已禽突厥頡利、建武遣使者賀…。」
『冊府元亀』970「(貞觀2年)九月高麗王建武遣使奉賀破突厥颉利可汗並上封域圖。」
『三国史記』20「(榮留王)十一年(628)秋九月。遣使入唐。賀太宗擒突厥頡利可汗。」
*両唐書本紀によれば頡利可汗が捕らえられたのは貞観4年(630)のことである。
631.07新羅、美女(楽師)二人を献上するも、送り返す。
『旧唐書』199新羅「貞觀五年(631)、遣使獻女樂二人、皆鬒髮美色。」
『新唐書』220新羅「貞觀五年、獻女樂二。」
『資治通鑑』193「(貞観5年11月)丁卯、新羅獻美女二人。」
『冊府元亀』168「太宗貞觀五年、新羅獻女楽、帝不受、并五色鸚鵡、各令將還本國。」
『三国史記』4「(眞平王53年〈631〉)秋七月。遣使大唐獻美女二人。」
*唐の史料には11月とあるが、新羅使の本国出発と唐での献上時期がずれるので、このような異同が見られるのであろう。
631.11倭、朝貢。唐、歳貢を免除する。高表仁、帰国に同行する。
『善隣国宝記』巻上「……舒明天皇三(631)年。唐録日、太宗貞觀五年、倭國遣使獻方物、太宗矜其路遠、無令歳貢、又遣州使者高表仁、持節往撫之、表仁無綏遠之才、與王爭禮、不宣朝命而還。……」
『旧唐書』199上 倭国「貞觀五年(631)、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。……」
『新唐書』220日本「太宗貞觀五年、遣使者入朝、帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢。遣新州刺史高仁表往諭、與王爭禮不平、不肯宣天子命而還。……」
『通典』185倭「……大唐貞觀五年、遣新州刺史高仁表持節撫之。浮海數月方至。仁表無綏遠之才、與其王争禮、不宣朝命而還、由是遂絶。……」
『唐会要』99倭国「貞観十五年(641)十一月、使至。太宗矜其道遠、遣高表仁持節撫之、表仁浮海、數月方至。表仁無綏遠之才、與王争禮、不宣朝命而還、由是復絶。」
『冊府元亀』662 絶域「高表仁為新州刺史。貞觀中、倭國朝貢、太宗矜其道遠、詔所司無令歳貢、又遣表仁持節撫之。表仁浮海數月方至。云路経地獄之門、親見其上氣色葱鬱、有烟火之狀、若爐錘號叫之聲、行者聞之、莫不危懼。」
『冊府元亀』664失指 高表仁「唐高表仁、太宗時為新州刺史。貞觀十一年(637)十一月、倭國使至、太宗矜其路遠、遣表仁持節撫之。浮海數月方至。表仁無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還、由是復絶。」
『冊府元亀』970「(貞觀五年)……十一月、室韋、倭、K水靺鞨並遣使朝貢。……」
『資治通鑑』193貞観5年11月条「倭國遣使入貢、上遣新州刺史高表仁持節往撫之;表仁與其王爭禮、不宣命而還。」
『法苑珠林』38「……倭國在此洲外大海中。岠會稽萬餘里。隋大業初彼國官人會丞來此學問。内外博知。至貞觀五年。共本國道俗七人方還倭國。……」
『集神州三寶感通録』上「……倭國在此洲大海中。距會稽萬餘里。有會承者。隋時來此學。諸子史統及術藝無事不閑。武コ之末猶在。京邑貞觀五年方還本國。……」
*『唐会要』99は641年11月とし、『冊府元亀』664は637年11月とする。
632.01新羅の真平王薨ず。その娘善徳を王とする。太宗、詔書を送って新平王に左光禄大夫を贈り、賻物200段を賜う。
『旧唐書』199上 新羅「貞觀五年(631)…是歲、真平卒、無子、立其女善コ為王、宗室大臣乙祭總知國政。」
『新唐書』220新羅「貞觀五年…是歲、真平死、無子、立女善コ為王、大臣乙祭柄國。」
『資治通鑑』193「(貞観5年是歳)新羅王真平卒、無嗣、國人立其女善コ為王。」
『三国史記』4「(眞平王)五十四年(632)春正月。王薨。諡曰眞平。」
*『旧唐書』・『新唐書』・『資治通鑑』は631年のこととする。
638.この年 新羅僧慈蔵、門人を率いて入唐する。
『三国史記』5「(善コ王5年〈636〉)慈藏法師入唐求法。」
『三国遺事』3「貞觀十年(636)丙申<唐僧傳云十二年。今從三國本史>。入唐。」
『三国遺事』4「以仁平三年丙申歲(即貞觀十年〈636〉也)受敕。與門人僧實等十餘輩西入唐。」
「皇龍寺刹柱本記」「貞観十二年(638)我国仁平五年戊戌歳隨我使神通入於西国」
『続高僧伝』24「以貞觀十二年。將領門人僧實等十有餘人。東辭至京。」
*『三国史記』『三国遺事』は636年のこととする。
640.02〜05太宗、国子監に行幸。高句麗・百済・高昌・吐蕃などの諸国も子弟を送って入学させたという。
『旧唐書』189「貞觀二年(628)、停以周公為先聖、始立孔子廟堂於國學…是時四方儒士、多抱負典籍、雲會京師。俄而高麗及百濟・新羅・高昌・吐蕃等諸國酋長、亦遣子弟請入於國學之內。」
『新唐書』44「(貞観)十三年(639)、東宮置崇文館。自天下初定、搨z學舍至千二百區、雖七營飛騎、亦置生、遣博士為授經。四夷若高麗・百濟・新羅・高昌・吐蕃、相繼遣子弟入學、遂至八千餘人。」
『新唐書』198「貞觀六年(632)、詔罷周公祠…數臨幸觀釋菜…於是新羅・高昌・百濟・吐蕃・高麗等酋長並遣子弟入學、鼓笥踵堂者、凡八千餘人。…二十一年(647)、詔…」
『資治通鑑』195「(貞観14年〈640〉)二月、丁丑、上幸國子監…是時上大徵天下名儒為學官、數幸國子監…於是四方學者雲集京師、乃至高麗・百濟・新羅・高昌・吐蕃諸酋長亦遣子弟請入國學…」
『唐会要』35「貞觀五年(631)以後、太宗數幸國學・太學、遂搨z學舍一千二百間。…已而高麗及百濟・新羅・高昌・吐蕃等諸國酋長、亦遣子弟請入於國學。」
『三国史記』5「(善コ王)九年(640)夏五月。王遣子弟於唐。請入國學。是時太宗大徴天下名儒爲學官。數幸國子監。」
*『旧唐書』は貞観2年の後に記し、『新唐書』44は貞観13年、『新唐書』198は貞観6年と21年の間に記す。『唐会要』は貞観5年以後のこととする。いずれも、貞観年中という点では一致。『資治通鑑』、2月丁丑条の直後に記す。
640.12.23高句麗太子の桓権、朝貢。
『旧唐書』3 「(貞観14年〈640〉12月)乙卯、高麗世子相權來朝。」
『旧唐書』199上「十四年、遣其太子桓權來朝、并貢方物、太宗優勞甚至。」
『新唐書』220「武コ初、再遣使入朝。…後三年、遣使者拜為上柱國・遼東郡王・高麗王。…明年、新羅・百濟上書、…久之、遣太子桓權入朝獻方物、帝厚賜賚、詔使者陳大コ持節答勞、且觀舋。」『冊府元亀』970「(貞觀14年)是年、高麗王遣其太子桓權来朝并獻方物。」
『冊府元亀』974「(貞觀)十四年十二月乙卯、高麗長子桓權来朝、遣職方郎中陳大徳迎勞於柳城。」
『三国史記』20「(榮留王)二十三年(640)春二月。遣世子桓權入唐朝貢。太宗勞慰。賜賚之特厚。王遣子弟入唐。請入國學。」
*『新唐書』220は武徳年間以後のこととする。『三国史記』は2月とする。
641.03百済の武王薨ず。唐に使臣を遣わし、このことを伝えると、太宗は玄武門にて挙哀する。また、鄭文表を遣わして、光禄大夫を追贈し、賻物を贈り、義慈王を「柱国帯方郡王百済王」に冊封する。
『旧唐書』3「(貞観15年〈641〉5月)丙子、百濟王扶餘璋卒。詔立其世子扶餘義慈嗣其父位、仍封為帶方郡王。」
『旧唐書』199上「(貞観)十五年、璋卒、其子義慈遣使奉表告哀。太宗素服哭之、贈光祿大夫、賻物二百段、遣使冊命義慈為柱國、封帶方郡王・百濟王。」
『新唐書』220「(貞観)十五年、璋死、使者素服奉表曰…」
『資治通鑑』196「(貞観15年5月)丙子、百濟來告其王扶餘璋之喪、遣使冊命其嗣子義慈。」
『冊府元亀』964「(貞観)十五年五月、詔曰…故柱國帶方郡王百濟王扶餘璋、棧山航海、遠禀正朔、獻琛奉赆、克固始終、奄致薨殒、追遠慜悼…」
『三国史記』27「(武王)四十二年(641)春三月。王薨。」
*『旧唐書』3は、貞観15年5月丙子(16)日のこととする。遣使の百済出発が3月で、唐到着が5月か。
642.02.21(同年10、11.5)高句麗泉蓋蘇文による栄留王の殺害とその報告。
『日本書紀』24「(皇極元(642)年二月)丁未、遣諸大夫於難波郡、検高麗国所貢金銀等、并其献物。使人貢献既訖、而諮云、去年六月、弟王子薨。秋九月、大臣伊梨柯須弥弑大王……」
『資治通鑑』196「(貞観16年<642>11月)丁巳(5日)、營州都督張儉奏高麗東部大人泉蓋蘇文弑其王武。」
『三国史記』20「(栄留王25年<642>)冬十月。蓋蘇文弑王。」
『三国史記』20「(栄留王25年)十一月。太宗聞王死。擧哀於苑中。詔贈物三百段。遣使持節吊祭。」
*『日本書紀』24は、2月21日の遣使によって前年の9月のこととして泉蓋蘇文による栄留王殺害などが述べられるが、『資治通鑑』196では同年11月丁巳に唐太宗は報告を聞き挙哀、『三国史記』20では、同年10月に殺害、11月に唐太宗が報告を聞くとする。
643.閏06.21太宗、泉蓋蘇文の専横に対し、契丹と靺鞨に高句麗を討たせることを下問。長孫無忌、討つには時期尚早という。
『冊府元亀』991「(貞観)十七年(643)閏六月戊辰、帝曰「蓋蘇文殺其王而奪國政、誠不可忍。…司徒長孫無忌曰…。」」
『資治通鑑』197「(貞観17年閏6月戊辰以前)上曰「蓋蘇文弑其君而專國政、…何如。」長孫無忌曰「蓋蘇文自知罪大…然後討之、未晚也。」上曰「善。」」
*『冊府元亀』991、閏6月戊辰(21日)とし、『資治通鑑』197は戊辰条の直前にみえる。
644.01新羅・高句麗・百済、使臣を唐に遣わして方物を献上する。また、唐の太宗、相里玄奨を高句麗・百済に遣わして、両国に新羅を攻めてはならない旨を説諭する。百済王は陳謝したが、高句麗の泉蓋蘇文は聞き入れなかったため、太宗は高句麗への出兵を決意する。
『冊府元亀』985「(貞觀)十八年(644)七月、太宗以高麗莫離支自殺其王、發兵撃新羅、新羅蓋禮以事國家、數遣使稽顙請援、乃遣高麗解兵、不従、欲撃之。」
『資治通鑑』197「(貞観18年正月)相里玄獎至平壞、莫離支已將兵擊新羅、破其兩城、高麗王使召之、乃還。」
『三国史記』5「(善コ王)十三年(644)春正月。遣使大唐獻方物。」
『三国史記』21「(寶臧王)三年(644)春正月。遣使入唐朝貢。」
『三国史記』28「(義慈王)四年(644)春正月。」
*『旧唐書』『新唐書』各東夷伝は、新羅・高句麗・百済三国の紛争について、年月日の詳細をはぶいてまとめて記載。『冊府元亀』は7月23日(甲午)の記事とまとめて記載。『資治通鑑』は正月のこととする。
644.07.23営州都督の張倹、幽州・営州の兵及び契丹・奚を率いて、高句麗を討とうとするも、遼水があふれていたため、還る。
『新唐書』2「(貞観18年〈644〉)七月甲午、營州都督張儉率幽・營兵及契丹・奚以伐高麗。」
『資治通鑑』197「(貞観18年7月)甲午、下詔遣營州都督張儉等帥幽・營二都督兵及契丹・奚・靺鞨先擊遼東以觀其勢。」
『冊府元亀』991「(貞観18年)六月、詔曰:百濟・高麗恃其僻遠、每動兵甲、便逼新羅。…屬遼水泛溢、儉等兵不得濟。」
*『冊府元亀』991、6月のこととする。
644.11.24唐の太宗、張亮を平壌道行軍大ハ管・李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じ、両道に分かれて、諸軍及び新羅・百済・奚・契丹に命じて、高句麗を討たせる。
『旧唐書』3「(貞観18年〈644〉11月)庚子、命太子・事・英國公李勣為遼東道行軍總管、出柳城、禮部尚書・江夏郡王道宗副之。」
『旧唐書』199上「(貞観)十九年、命刑部尚書張亮為平壤道行軍大總管、領將軍常何等率江・淮・嶺・z勁卒四萬…兩軍合勢、太宗親御六軍以會之。」
『旧唐書』4高宗「(貞観)十八年、太宗將伐高麗、命太子留鎮定州。」
『新唐書』2「(貞観18年11月)甲午、張亮為平壤道行軍大總管、李世勣・馬周為遼東道行軍大總管、率十六總管兵以伐高麗。」
『資治通鑑』197「(貞観18年11月)甲午、以刑部尚書張亮為平壤道行軍大總管…」
『三国史記』21「(寶臧王3年)十一月帝至洛陽。…以刑部尚書張亮爲平壤道行軍大ハ管。」
*『旧唐書』3は同月庚子(30日)のこととする。また『同』199は貞観19年(645)の討伐記事中に一括記載する。
645.04.26唐、高句麗の蓋牟城を抜く。
*『三国史記』21、本事項から9月18日の事項までを5月条に一括して記載する。
645.05.17唐、高句麗の遼東城を抜く。新羅、唐を助けて5万の兵を率い、高句麗の水口城を攻める。百済、隙に乗じて新羅の7城(『旧唐書』百済伝は10城とする。)を奪回する。
『旧唐書』3太宗 下「(貞観19年〈645〉5月)甲申、上親率鐵騎與李勣會圍遼東城、因烈風發火弩、斯須城上屋及樓皆盡、麾戰士令登、乃拔之。」
『旧唐書』199上 高麗「(貞観19年)五月、…是日、李勣進軍於遼東城。…國內及新城步騎四萬來援遼東、江夏王道宗率騎四千逆擊、大破之、斬首千餘級。…」
『旧唐書』199上 百済「(貞観)十六年(642)、義慈興兵伐新羅四十餘城、…及太宗親征高麗、百濟懷二、乘虛襲破新羅十城。二十二年(648)、又破其十餘城。數年之中、朝貢遂絕。」
『旧唐書』199上 新羅「(貞観)十七年、遣使上言:「高麗・百濟、累相攻襲、亡失數十城、兩國連兵、意在滅臣社稷、謹遣陪臣、歸命大國、乞偏師救助。」太宗遣相里玄奬齎璽書賜高麗曰:「新羅委命國家、不闕朝獻。爾與百濟、宜即戢兵。若更攻之、明年當出師擊爾國矣。」太宗將親伐高麗、詔新羅纂集士馬、應接大軍。新羅遣大臣領兵五萬人、入高麗南界、攻水口城、降之。」
『新唐書』2太宗「(貞観19年5月)甲申、克遼東城。」
『新唐書』220高麗「(貞観十九年)勣攻蓋牟城、拔之、得戶二萬、糧十萬石、以其地為蓋州。程名振攻沙卑城、夜入其西、城潰、虜其口八千、游兵鴨淥上。勣遂圍遼東城。…城遂潰、獲勝兵萬、戶四萬、糧五十萬石。以其地為遼州。…」
『新唐書』220百済「明年(貞観十五年〈641〉)、與高麗連和伐新羅、取四十餘城、發兵守之。又謀取棠項城、絕貢道。新羅告急、帝遣司農丞相里玄奬齎詔書諭解。聞帝新討高麗、乃間取新羅七城…」
『新唐書』220新羅「(貞観)十七年、為高麗・百濟所攻、使者來乞師、亦會帝親伐高麗、詔率兵以披虜勢、善コ使兵五萬入高麗南鄙、拔水口城以聞。…」
『資治通鑑』197「(貞観19年5月)甲申、南風急、上遣銳卒登衝竿之末、爇其西南樓、火延燒城中、因麾將士登城、高麗力戰不能敵、遂克之、所殺萬餘人、得勝兵萬餘人、男女四萬口、以其城為遼州。」
『三国史記』5「(善コ王14年〈645〉)夏五月。太宗親征高句麗。王發兵三萬以助之。百濟乘虚襲取國西七城。」
『三国史記』21「(寶臧王4年〈645〉)五月。城陷。男女八千口沒焉。李世勣進至遼東城下。…我軍力戰不克。死者萬餘人。…以其城爲遼州。」
『三国史記』28「(義慈王)五年〈645〉夏五月。王聞太宗親征高句麗、徴兵新羅。乘其間襲取新羅七城。新羅遣將軍庾信來侵。」
『三国史記』金庾信 上「乙巳〈645〉正月歸。…逆擊百濟軍走之。斬首二千級。三月。還命王宮。未歸家。又急告百濟兵出屯于其國界。將大擧兵侵我。…及至疆埸。百濟人望我兵衛。大敢迫乃退。大王聞之甚喜。加爵賞。」
*『旧唐書』199上百済、貞観16年(642)と同22年(648)の間に記す。『旧唐書』199上 新羅・『新唐書』220新羅、貞観17年(643)の唐への救援要請の事項とまとめて記す。『新唐書』220高麗、同年4月26日の蓋牟城攻略・5月2日の沙卑城攻略とまとめて記す。『新唐書』220百済、貞観15年(641)に続けて記載する。
645.06.21安市城救援のため、高句麗の別将、高延壽・高恵真、援軍15万を率いて、唐軍に抵抗するも、これを大いに敗る。
『旧唐書』3太宗 下「(貞観19年〈645〉6月)丁巳、高麗別將高延壽・高惠真帥兵十五萬來援安市、以拒王師。李勣率兵奮擊、上自高引軍臨之、高麗大潰、殺獲不可勝紀。…」
『新唐書』2太宗「(貞観19年6月)己未、大敗高麗于安市城東南山、左武衛将軍王君愕死之。」
『旧唐書』199上 高麗「(貞観19年)六月、帝臨其西北、城主孫伐音潛遣使請降、…車駕進次安市城北、列營進兵以攻之。高麗北部ッ薩高延壽・南部耨薩高惠貞率高麗・靺鞨之衆十五萬來援安市城。…」
『新唐書』220高麗「次安市。於是高麗北部傉薩高延壽・南部傉薩高惠真引兵及靺鞨衆十五萬來援。…」
『資治通鑑』198「(貞観19年6月)丁巳、高麗北部耨薩延壽・惠真帥高麗・靺鞨兵十五萬救安市。…」
『三国史記』21「(寶臧王4年〈645〉)五月。城陷。男女八千口沒焉。李世勣進至遼東城下。…帝至安市城。進兵攻之。北部耨薩高延壽、南部耨薩高惠眞、帥我軍及靺鞨兵十五萬、救安市。」
*『新唐書』2、同月23日のこととする。戦いが決するまで日数を要したためか。
*『三国史記』21、4月26日の記年校異を参照。
645.07唐軍、高句麗の安市城を攻める。
『旧唐書』3太宗 下「(貞観19年〈645〉)秋七月、李勣進軍攻安市城、至九月不克、乃班師。」
『旧唐書』199上 高麗「(貞観19年)八月、移營安市城東、李勣遂攻安市、擁延壽等降衆營其城下以招之。…」
『資治通鑑』198「秋、七月、辛未、上徙營安市城東嶺。己卯、詔標識戰死者尸、俟軍還與之俱歸。戊子、以高延壽為鴻臚卿、高惠真為司農卿。
張亮軍過建安城下、壁壘未固、士卒多出樵牧、高麗兵奄至、軍中駭擾。亮素怯、踞胡床、直視不言、將士見之、更以為勇。總管張金樹等鳴鼓勒兵擊高麗、破之。」
『冊府元亀』991「(貞観)十九年七月、帝征遼、営於安市城、使李勣攻安市、時従行文武亦以為:摧高延壽十餘萬軍、高麗膽碎、乗破竹之勢、今乃其時;張亮水軍在卑渉城、召之、信宿相会、直取烏骨、渡鴨淥水。迫其離心、安有機変?掃清夷貊、在此行耳。独司徒長孫無忌以為天子行師、与諸将有異、事非萬全、不可徼幸。今建安新城、賊首十萬、若向烏骨、皆在吾後。不如先破安市、次取建安、獲其両城、然後長駆而進、萬全之計也。」
*『旧唐書』199、8月のこととする。
646.09太宗、高句麗の朝貢を受け取らないよう命じ、再び討伐することを議論する。
『新唐書』220高麗「明年(646年)春、藏遣使者上方物、且謝罪;獻二姝口、帝敕還之、謂使者曰:「色者人所重、然愍其去親戚以傷乃心、我不取也。」初、師還、帝以弓服賜蓋蘇文、受之、不遣使者謝、於是下詔削棄朝貢。」
『資治通鑑』198「(貞観20年〈646〉9月)上自高麗還、蓋蘇文益驕恣、雖遣使奉表、其言率皆詭誕;又待唐使者倨慢、常窺伺邊隙。屢敕令勿攻新羅、而侵陵不止。壬申、詔勿受其朝貢、更議討之。」
『冊府元亀』996責譲「(貞観)二十年十月壬申、詔曰:「高麗餘燼、謂能悔禍、故遣停兵、全其巢穴。而兇頑成性、殊未革心、前後表聞、類多不実。毎懐詭誑、罪極難宥、見朕使人、又虧蕃礼。所令誨示、莫擾新羅、口云従命、侵凌不止。積其姦悪、常苞禍心、蓋天攸棄、豈宜馴養?自今以後、勿聴朝貢。」」
『三国史記』21「(寶臧王5年〈646〉)夏五月。王及莫離支蓋金。遣使謝罪。并獻二美女。…初。帝將還。帝以弓服賜蓋蘇文。受之不謝。而又益驕恣。雖遣使奉表。其言率皆詭誕。又待唐使者倨傲。常窺伺邊隙。屨勅令不攻新羅。而侵凌不止。太宗詔勿受其朝貢。更議討之。」
*『三国史記』21、同年5月条の直後に記す。『冊府元亀』996、10月壬申のこととする。
647.01.08新羅女王善徳死す。遣使してその妹真徳を新羅王に冊立する。
『旧唐書』3「(貞観22年〈648〉)是歲、新羅女王金善コ死、遣冊立其妹真コ為新羅王。」
『旧唐書』199上 新羅「(貞観)二十一年(647)、善コ卒、贈光祿大夫、餘官封並如故。因立其妹真コ為王、加授柱國、封樂浪郡王。」
『新唐書』220新羅「(貞観)二十一年(647)、善コ死、贈光祿大夫、而妹真コ襲王。」
『資治通鑑』198「(貞観22年1月)新羅王金善コ卒、以善コ妹真コ為柱國、封樂浪郡王、遣使冊命。」
『冊府元亀』964「(貞観)二十二年正月、新羅王金善徳卒、贈光祿大夫。以善徳妹真徳為柱国、封楽浪郡王。遣使持節冊命。」
『三国史記』5善徳王「(善徳王)十六年(647)。春正月。…八日。王薨。諡曰善コ。葬于狼山。」
『三国史記』5真徳王(即位前紀)「眞コ王、立。名勝曼。眞平王母弟。…」
*『旧唐書』3は貞観22年(648)是歳のこととする。『資治通鑑』、貞観22年正月己亥条の直後に記す。『冊府元亀』、貞観22年正月のこととする。
647.05李世勣、南蘇城などを攻める。
*『三国史記』、同年3月2日の事項と一連してまとめて記す。
647.12高句麗、王子の任武を唐に派遣して謝罪する。
『新唐書』220「(貞観21年〈647〉七月、進達等取石城、進攻積利城、斬級數千、乃皆還。藏遣子莫離支高任武來朝、因謝罪。」
『資治通鑑』198「(貞観21年12月)高麗王使其子莫離支任武入謝罪、上許之。」
『冊府元亀』980「(貞観)二十一年十二月乙亥、高麗使第二子莫離支高任武朝賀、因謝罪、帝許納之。」
『三国史記』22「(寶臧王6年〈647〉)冬十二月。王使第二子莫離支任武入謝罪。帝許之。」
*『資治通鑑』『冊府元亀』『三国史記』は12月とするが、『新唐書』は7月の記事のあとに記す。
648.06.27太宗、将軍の薛万徹を遣わして高句麗の泊灼城を攻めおとす。
『新唐書』2「(貞観22年〈648〉6月)丙子、薛萬徹及高麗戰于泊灼城、敗之。」
『旧唐書』199上 高麗「(貞観)二十二年、又遣右武衞將軍薛萬徹等往青丘道伐之、萬徹渡海入鴨告、進破其泊灼城、俘獲甚衆。…」
『新唐書』220高麗「(貞観)二十二年、詔右武衛大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管、右衛將軍裴行方副之、自海道入。部將古神感與虜戰曷山、虜潰;虜乘暝襲我舟、伏兵破之。萬徹度鴨淥、次泊灼城、拒四十里而舍。…」
『冊府元亀』985「(貞観22年6月)是月、青丘道軍師薛萬徹渡海入鴨告百餘里、至泊灼城南四十里止營、高麗襲懼、並棄邑居而遁。泊灼城主所失孫率歩騎萬餘人来拒官軍、萬徹遣右衛將軍裴行方領歩卒、折衝尉羅文合為援軍繼進、萬徹及諸軍乗之、賊大潰。」
『三国史記』22「(寶臧王7年〈648〉)九月。羣獐渡河西走。羣狼向西行。三日不絶。太宗遣將軍薛萬徹等來伐。渡海入鴨淥。至泊灼城南四十里止營。…」
*『新唐書』は6月丙子(27日)、『三国史記』22は9月条に記載している。『資治通鑑』同年9月癸未条に薛万徹帰還記事があるので、これと関連して9月としたか?
648.06太宗、明年に高句麗を一挙に滅ぼそうと相談する。
『新唐書』220高麗「(貞観)二十二年(648)大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管…帝與長孫无忌計曰:「高麗困吾師之入、戶亡耗、田歲不收、蓋蘇文築城陴、下飢臥死溝壑、不勝敝矣。明年以三十萬衆、公為大總管、一舉可滅也。」…」
『資治通鑑』199「(貞観22年6月)上以高麗困弊、議以明年發三十萬衆、一舉滅之。…」
『三国史記』22「(寶臧王7年〈648〉)夏四月。烏胡鎭將古~感將兵浮海來擊。…帝謂我困弊。議以明年發三十萬衆、一擧滅之。或以爲大軍東征。…」
*4月14日の事項と一連してまとめて記す。
648.閏12.07新羅の真徳王、王弟の金春秋及びその子文王を派遣する。金春秋に特進の称号を、文王に左武衛将軍の称号を授ける。春秋、国学に行き、釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、許される。さらに『晋書』を賜わる。
『旧唐書』3「(貞観22年〈648〉閏12月)癸未、新羅王遣其相伊贊千金春秋及其子文王來朝。」
『旧唐書』199上 新羅「(貞観)二十二年、真コ遣其弟國相・伊贊干金春秋及其子文王來朝。…」
『新唐書』220新羅「明年(648)、遣子文王及弟伊贊子春秋來朝、拜文王左武衞將軍、春秋特進。…」
『資治通鑑』198「(貞観22年閏12月)癸未、新羅相金春秋及其子文王入見。…」
『冊府元亀』974「(貞観22年)十二月、新羅國其相伊贊於金春秋及其子文王来朝、帝遣光祿卿柳亨持節郊勞之。…」
『三国史記』5「(眞コ王2年〈648〉)冬。使邯帙許朝唐。…遣伊飡金春秋及其子文王朝唐。…」
『三国史記』7「…先王貞觀二十二年。入朝。面奉太宗文皇帝。恩勅。朕今伐高麗。非有他故。憐新羅。攝乎兩國。毎被侵陵。靡有寧歳。山川土地。非我所貪。玉帛子女。是我所有。我平定兩國。…」
『三国史記』41「眞コ王太和元年戊申(648)。春秋以不得請於高句麗。遂入唐乞師。…」
「金仁問墓碑文」「…貞觀廿一年(647)詔授特進榮高用儀左貂右蝉定中國之行禮奏聞…」
*『冊府元亀』には12月とある。『三国史記』5、同年冬条にまとめて記す。「金仁問墓碑文」、貞観21年(647)のこととする。『三国遺事』1・「聖住寺朗彗和尚碑銘」・『東国通鑑』は、詳しい年月日については記載していない。
649.5.26太宗、没。高句麗攻撃中止。高句麗王、遣使して奉慰する。
『旧唐書』3「(貞観23年〈649〉5月)己巳、上崩於含風殿、年五十二。遺詔皇太子即位於柩前、喪紀宜用漢制。秘不發喪。」
『新唐書』2「(貞観23年〈649〉5月)己巳、皇帝崩于含風殿、年五十三。」
『旧唐書』199上 高麗「(貞観)二十二年(648)、又遣右武衞將軍薛萬徹等往青丘道伐之、萬徹渡海入鴨告、進破其泊灼城、俘獲甚衆。太宗又命江南造大船、遣陝州刺史孫伏伽召募勇敢之士、萊州刺史李道裕運糧及器械、貯於烏胡島、將欲大舉以伐高麗。未行而帝崩。…」
『新唐書』220高句麗「(貞観)二十二年、詔右武衛大將軍薛萬徹為青丘道行軍大總管、右衛將軍裴行方副之、自海道入。…會帝崩、乃皆罷。藏遣使者奉慰。」
『三国史記』22「(寶臧王)八年(649)夏四月。唐太宗崩。遺詔罷遼東之役。…」
*『旧唐書』199上 高麗・『新唐書』220高句麗、貞観22年(648)の事項とまとめて記す。『三国史記』22、4月の事とする。
649.08百済将軍殷相、新羅の石吐など7城を取る。新羅、金庾信らを派遣し、道薩城にて百済を破る。
『三国史記』5「(眞コ王3年)秋八月。百濟將軍殷相率衆來。攻陷石吐等七城。…」
『三国史記』28「(義慈王)九年秋八月。王遣左將殷相帥精兵七千。攻取新羅石吐等七城。…」
『三国史記』42「(真徳王)二年(648)秋八月。百濟將軍殷相。來攻石吐等七城。…」
*『三国史記』42、真徳王2年(648)のこととする。
654.02遣唐使大錦上(一説、大華下)高向玄理・大使小錦下河辺麻呂・副使大山下薬師恵日・判官大乙上(一説小山下)書麻呂・宮阿弥陀・小乙上岡宜・置始大伯・小乙下中臣間人老・田辺鳥ら2船に分乗して、新羅道を通り、唐に向かう。
『書紀』「二月、遣大唐押使大錦上高向史玄理、<或本云、夏五月、遣大唐押使大花下高向玄理。>…」
*一説では5月とある。
654.03新羅、真徳王薨ず。唐の高宗、この知らせを聞いて挙哀し、大常丞張文収を遣わして弔祭する。
『旧唐書』199上新羅「(永徽)三年(652)、真コ卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王・加授開府儀同三司・封樂浪郡王。」
『新唐書』220新羅「(永徽)五年(654)、真コ死、帝為舉哀、贈開府儀同三司、賜綵段三百、命太常丞張文收持節弔祭、以春秋襲王。」
『冊府元亀』974「(顕慶5年〈660〉)是年、新羅王金眞徳卒、帝為舉哀於永光門、使太常丞張文收持節弔祭之、賜開府儀同三司、乃賜綾綵三百段。」
『三国史記』5「(眞徳王8年〈654〉)春三月。王薨。諡曰眞コ。葬沙梁部。唐高宗聞之。爲擧哀於永光門。使太常丞張文收持節吊祭之。贈開府儀同三司。賜綵段三百。」
*『旧唐書』、652年のこととする。『冊府元亀』、顕慶5年(660)是歳のこととする。
654.閏05唐、使者を派遣し、王弟金春秋を冊封して開府儀同三司新羅王とする。王、唐に遣使して謝恩する。
『旧唐書』199上新羅「(永徽)三年(652)、真コ卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王・加授開府儀同三司・封樂浪郡王。」
『資治通鑑』199「(永徽5年閏月)壬辰、新羅女王金真徳卒、詔立其弟春秋為新羅王。」
『冊府元亀』964「(永徽)五年閏五月、新羅女王金真徳卒、以其弟国相金春秋為新羅王、継真徳之位、仍拜開府儀同三司、封楽浪郡王、遣使持節備礼冊命。」
『唐会要』「五年、眞コ卒、高宗爲擧哀於永光門、使太常卿張文収持節弔祭之、贈開府儀同三司、仍賜綾綵二百段、詔其子春秋嗣位。」
『三国史記』5「(太宗武烈王元年〈654〉)五月。命理方府令良首等。詳酌律令。修定理方府格六十餘條。唐遣使持節備禮。冊命爲開府儀同三司新羅王。王遣使入唐表謝。」
*『旧唐書』、652年のこととする。『三国史記』5、5月のこととする。
*『資治通鑑』、「閏月」と記載する。本条は、4月と6月の間に挿入されている。『冊府元亀』964が閏5月の記事としていること、また『唐代の暦』によれば、本年(654)の閏月は5月であるので、閏5月の事項であると判断した。
655.01新羅、高句麗が百済と連合して攻めてきたため、金仁問を唐に遣わし、救援を求める。
『旧唐書』199上 百済「(永徽)六年(655)、新羅王金春秋又表稱百濟與高麗・靺鞨侵其北界、已沒三十餘城。」
『新唐書』220百済「永徽六年、新羅訴百濟・高麗・靺鞨取北境三十城。」
『新唐書』220高句麗「(永徽)六年、新羅訴高麗・靺鞨奪三十六城、惟天子哀救。有詔營州都督程名振・左衛中郎將蘇定方率師討之。至新城、敗高麗兵、火外郛及墟落、引還。」
『新唐書』220新羅「明年(655)、百濟・高麗・靺鞨共伐取其三十城。使者來請救、帝命蘇定方討之、以春秋為嵎夷道行軍總管、遂平百濟。」
『資治通鑑』199「(永徽6年1月)高麗與百濟・靺鞨連兵、侵新羅北境、取三十三城;新羅王春秋遣使求援。」
『冊府元亀』986「(永徽6年)二月、遣営州都督程名振、左衛中郎將蘇定方等、発兵一万討高麗、以侵掠新羅故地。時新羅王金春秋表言:「高麗與百済、靺鞨相連、侵其北境、已奪三十三城、乞兵救援。」故遣元振等経略之。」
『冊府元亀』995「(永徽)六年二月乙丑、遣営州都督程元振、左衛中郎將蘇定方等発兵以討高麗、以侵掠新羅故地。時新羅王金春秋表言:「高麗與百済、靺鞨相連、侵其北境、已奪三十三城、乞兵救援。」故遣元振等経略之。」
『三国史記』5「(太宗武烈王)二年(655)春正月。拝伊飡金剛為上大等。波珍飡文忠為中侍。高句麗與百済靺鞨連兵。侵軼我北境。取三十三城。王遣使入唐求援。」
『三国史記』22「(寶臧王)十四年(655)。春正月。先是。我與百濟靺鞨。侵新羅北境。取三十三城。新羅王金春秋。遣使於唐求援。」
『三国史記』28「(義慈王十五年〈655〉)八月。王與高句麗靺鞨攻破新羅三十餘城。新羅王金春秋遣使朝唐。表稱百濟與高句麗靺鞨侵我北界、沒三十餘城。」
*『三国史記』百済本紀は8月のこととする。『冊府元亀』986・995、この事項と2・25(乙丑)の事項をまとめて記す。
657.この年 西海使小華下阿曇頬垂・小山下津傴僂、百済より帰国し、駱駝1頭・驢2頭を献じる。
『書紀』「(斉明3年〈657〉)是歳、使使於新羅曰、欲将沙門智達・間人連御廐・依網連稚子等、付汝国使、令送到大唐。…西海使小花下阿曇連頬垂・小山下津臣傴僂〈傴僂、此云倶豆磨。〉、自百済還、献駱駝一箇・驢二箇。…」
『書紀』「(斉明4年〈658〉)是歳、越国守阿倍引田臣比羅夫、討粛慎、献生羆二・羆皮七十枚。…又、西海使小花下阿曇連頬垂、自百済還言、…」
*阿曇頬垂の帰国記事、斉明3・同4年の両年に記載あり。
659.04新羅、百済討伐のため、唐に援軍を請う。
『資治通鑑』200「(顕慶5年〈660〉3月)百濟恃高麗之援、數侵新羅;新羅王春秋上表求救。辛亥、以左武衛大將軍蘇定方為神丘道行軍大總管、帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十萬以伐百濟。以春秋為嵎夷道行軍總管、將新羅之眾、與之合勢。」
『三国史記』5「(太宗武烈王)六年(659)夏四月。百済頻犯境。王将伐之。遣使入唐乞師。」
『三国遺事』1「(顕慶)五年(660)庚申。遣使仁問請兵唐。高宗詔左虎衛大將軍荊國公蘇定方為神丘道行策總管。率左衛將軍劉伯英字仁遠。左虎衛將軍憑士貴。左驍衛將軍龐孝公等。統十三萬兵來征。…」
*『資治通鑑』・『三国遺事』1、翌年(660)3月の百済討伐命令記事とまとめて記す。『三国史記』44、詳しい年月日については記載していない。
659.閏10.30日本使津守吉祥、同行の蝦夷と共に高宗に会見。高宗、日本の国情や蝦夷のことなどについて尋ねる。蝦夷、白鹿皮・弓・箭などを献上。
『書紀』「(斉明5年〈660〉)秋七月朔丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐国。…以己未年(659)七月三日、発自難波三津之浦。…潤十月一日…卅日、天子相見問訊之、日本国天皇、平安以不。…」
『通典』185 東夷上 蝦夷「大唐顯慶四年(659)十月、随倭國使人入朝。」
『冊府元亀』970「(顕慶)四年十月、蝦夷國隋倭國使入朝。」
『冊府元亀』997「高宗顕慶四年、蝦夷国遣使入朝、其使鬚長四尺。」
『御覧』782蝦夷「唐書日蝦夷國海島中小國也其使鬚長四尺尤善弓矢挿箭於首令人戴觚而立數十歩射之無不中者明慶四年十月随倭國使入朝。」
『唐会要』100 蝦夷国「蝦夷、海島中小國也。其使至、鬚長四尺、尤善弓箭、插箭於首、令人戴瓠而立、數十歩射之、無不中者。樽顯慶四年十月、随倭國使至入朝。」
*『冊府元亀』970、10月の事とする。『宋史』日本国伝、詳しい年月日については記載していない。
660.03.10唐、蘇定方に百済攻撃を命ず。新羅王にも派兵を命ず。
『旧唐書』4「(顯慶5年〈660〉3月)辛亥、發神丘道軍伐百濟。」
『旧唐書』199上 百済国「顯慶五年、命左衞大將軍蘇定方統兵討之、大破其國。…」
『旧唐書』199上 新羅「顯慶五年、命左武衛大將軍蘇定方為熊津道大總管、統水陸十萬。…」
『新唐書』3「(顯慶5年3月)辛亥、左武衛大將軍蘇定方為神兵道行軍大總管、新羅王金春秋為嵎夷道行軍總管、率三將軍及新羅兵以伐百濟。」
『新唐書』220百済「顯慶五年、乃詔左衞大將軍蘇定方為神丘道行軍大總管、率左衞將軍劉伯英・右武衞將軍馮士貴・左驍衞將軍龐孝泰發新羅兵討之、自城山濟海。」
『新唐書』220新羅「明年(655)、百濟・高麗・靺鞨共伐取其三十城。使者來請救、帝命蘇定方討之、以春秋為嵎夷道行軍總管、遂平百濟。」
『資治通鑑』200「(顕慶5年3月)百濟恃高麗之援、數侵新羅;新羅王春秋上表求救。辛亥、以左武衛大將軍蘇定方為神丘道行軍大總管、帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十萬以伐百濟。以春秋為嵎夷道行軍總管、將新羅之眾、與之合勢。」
『冊府元亀』986「(顕慶)五年三月、以左武衛大将軍蘇定方為神丘道行軍大総官、率左驍衛将軍劉伯英・右武衛将軍馮士翽・左驍衛将軍龐孝泰等、并発新羅之衆、以討百済。百済恃高麗之援、屢侵新羅故也。」
『三国史記』5「(太宗武烈王七年〈660〉)三月。唐高宗命左武衞大将軍蘇定方。為神丘道行軍大ハ管。金仁問為副大ハ管。帥左驍衞将軍劉伯英等水陸十三萬軍以伐百済。勅王為嵎夷道行軍ハ管。何(使)将兵為之聲援。」
金仁問
*『新唐書』220新羅、655年の唐への救援要請の事項に続け、まとめて記す。
*『三国史記』28・『三国史記』44・『三国遺事』1、百済滅亡の記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
660.07.13百済義慈王、子の驍ニともに北鄙に避難する。王の次男、泰は自立して王となり、衆徒を率いて王城を堅守する。また、義慈王の孫、文思、降伏する。
月日の確定は『三国史記』5による。
*『資治通鑑』200、9月23日の五都督府設置までを8月条の直後にまとめて記載。
*『冊府元亀』986、7月18日の義慈王ら降伏までを8月のこととしてまとめて記載する。
*『旧唐書』83・『新唐書』220百済・『新唐書』111『三国史記』28・『三国遺事』1、百済滅亡の記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
660.07.18蘇定方・新羅軍、百済を攻略し、義慈王を面縛し、高宗に献じる(11月1日項参照)。これ以後、新羅は次第に高句麗・百済の旧地を領有する。
『旧唐書』4「(顕慶5年〈660〉)八月庚辰、蘇定方等討平百濟、面縛其王扶餘義慈。國分為五部、郡三十七、城二百、戶七十六萬、以其地分置熊津等五都督府。曲赦神丘・禺夷道總管已下、賜天下大酺三日。」
『新唐書』3「(顕慶5年)八月庚辰、蘇定方及百濟戰、敗之。壬午、左武衛大將軍鄭仁泰及悉結・拔也固・僕骨・同羅戰、敗之。癸未、赦神兵道大總管以下軍士及其家、賜民酺三日。」
『三国史記』5「(太宗武烈王7年〈660〉7月)十八日。義慈率太子及熊津方領軍等。自熊津城來降。王聞義慈降。」
*『旧唐書』4・『新唐書』3、8月庚辰(12日)条に記す。『資治通鑑』・『冊府元亀』986については7月13日の項を参照。
*『旧唐書』199上 新羅・『三国史記』28・『三国遺事』1、百済滅亡の記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
660.09.23高宗、百濟に五都督府を設置し、左衛中郎将の王文度を熊津都督に任命する。
月日の確定は『三国史記』5による。
*『旧唐書』199上 百済・『新唐書』220 百済・『三国史記』28・『三国遺事』1、百済滅亡の記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
*『資治通鑑』200同年8月条、7月13日の項を参照。『同』200龍朔元年(661)・3月条、王文度の熊津都督任命(本事項)から翌年の鬼室福信が僧道琛を殺害する事項までを661年3月にまとめて記載。
660.09.28王文度、三年山城に至って、唐高宗の詔書を伝える。この時、王文度、急死する。
月日の確定は『三国史記』5による。
*『旧唐書』199上 百済・『新唐書』220 百済、百済滅亡から百済遺臣反乱までの記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
*『資治通鑑』200龍朔元年(661)・3月条、9月23日の項を参照。
660.10百済遺臣鬼室福信ら反乱、唐人の捕虜100余人を連れて倭国に遣使し、王子扶余豊の帰国を要請する。
『書紀』「(斉明6年〈660〉)冬十月、百済佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、来献唐俘一百余人。…又乞師請救。并乞王子余豊璋曰、唐人率我蝥賊、来蕩揺我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。而百済国、遥頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百済国遣侍天朝王子豊璋、将為国主、云々。…」
*『巡礼行記』、詳細な年月日は不詳。
*『旧唐書』199上 百済・『新唐書』220 百済・『資治通鑑』200龍朔元年(661)・3月条、9月28日の項に同じ。
660.11.01蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。義慈王、唐で病死する。
『旧唐書』4「(顕慶5年〈660〉)十一月戊戌朔、邢國公蘇定方獻百濟王扶餘義慈・太子隆等五十八人俘於則天門、責而宥之。」
『新唐書』3「(顕慶5年)十一月戊戌、蘇定方俘百濟王以獻。」
『資治通鑑』200「(顕慶5年)十一月、戊戌朔、上御則天門樓、受百濟俘、自其王義慈以下皆釋之。蘇定方前後滅三國、皆生擒其主。赦天下。」
『冊府元亀』974「顕慶五年九月、蘇定方降百済王義慈以献。数日病卒、贈金紫光禄大夫、衛尉卿、特許其旧臣赴喪、仍葬於孫皓・陳叔宝墓之側、官為立碑。」
*『冊府元亀』は9月のこととする。
*『旧唐書』199上 百濟・『新唐書』220 百済・『三国史記』28、百済滅亡から百済遺臣反乱までの記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
660.12.16唐、契苾何力・蘇定方・劉伯英・程名振らに高句麗を攻めさせる。
『新唐書』3「(顕慶5年〈660〉12月)壬午、左驍大將軍契苾何力為浿江道行軍大總管、蘇定方為遼東道行軍大總管、左驍將軍劉伯英為平壤道行軍大總管、以伐高麗。…」
『新唐書』220 高麗「後二年(660)、天子已平百濟、乃以左驍衛大將軍契苾何力・右武衛大將軍蘇定方・左驍衛將軍劉伯英率諸將出浿江・遼東・平壤道討之。」
『資治通鑑』200「(顕慶5年12月)壬午、以左驍衛大將軍契苾何力為浿江道行軍大總管、左武衛大將軍蘇定方為遼東道行軍大總管、左驍衛將軍劉伯英為平壤道行軍大總管、蒲州刺史程名振為鏤方道總管、將兵分道擊高麗。青州刺史劉仁軌坐督海運、覆船、以白衣從軍自效。」
『冊府元亀』986「(顕慶五年)十二月、左驍衛大將軍契苾何力為浿江道行軍大總管、左武衛大将軍蘇定方為遼東道行軍大總管、左驍衛大將軍劉伯英為平壤道行軍大總管、分道発兵、以討高麗。」
『三国史記』22「(寶臧王19年〈660〉)冬十一月。唐左驍衛大將軍契苾何力。爲浿江道行軍大ハ管。左武衛大將軍蘇定方。爲遼東道行軍大ハ管。左驍衛將軍劉伯英。爲平壤道行軍大ハ管。蒲州刺史程名振。爲鏤方道ハ管。將兵分道來擊。」
*『史記22』11月条のこととする。
661.02百済遺臣鬼室福信・僧道琛ら反乱、泗沘城の劉仁願を攻める。余豊璋を王となす。唐、劉仁軌と新羅とに討たせる。
月の確定は『三国史記』5による。
*『旧唐書』199上 百濟・『新唐書』220 百済・『三国史記』28、百済滅亡から百済遺臣反乱までの記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
*『資治通鑑』、660年9月28日の項を参照。
*『三国史記』42、「龍朔元年春」のこととして、詳細な月日は記載していない。
661.03百済の僧道琛ら、2つの柵を熊津江に立て、唐・新羅連合軍と戦うも、敗れる。このため、泗沘城の包囲を解き、任存城に退いて守備を固める。
月の確定は『冊府元亀』986による。
*他の記年校異については、661年2月の事項を参照。
661.04.16唐軍、高句麗に向けて進軍。高宗、自ら出兵しようとするも李君球・武后に諫められ、中止する。
『旧唐書』4「(龍朔元年〈661〉)夏五月丙申、命左驍衞大將軍・涼國公契苾何力為遼東道大總管…以伐高麗。」
『新唐書』3「(龍朔元年)四月庚辰、任雅相為浿江道行軍總管、…率三十五軍以伐高麗。」
『新唐書』220 高麗「龍朔元年、大募兵、拜置諸將、天子欲自行、…亦會武后苦邀、帝乃止。」
『資治通鑑』200「(龍朔元年4月)庚辰、以任雅相為浿江道行軍總管、…水陸分道並進。上欲自將大軍繼之;癸巳、皇后抗表諫親征高麗;詔從之。」
『冊府元亀』986「(龍朔元年)四月、詔兼兵部尚書任雅相為浿江道行軍大總管、…川陸分途、先観高麗之釁、帝将親率六軍以継之。」
『三国史記』22「(宝蔵王20年〈660〉)夏四月。以任雅相。爲浿江道行軍ハ管。…水陸分道並進。帝欲自將大軍。…亦會武后諫帝。乃止。」
*『旧唐書』4、5月2日のこととする。
661.04.19新羅軍、食糧が尽きたため、百済より引き返す。
月日の確定は『三国史記』5による。
*『旧唐書』199上 百濟・『新唐書』220 百済・『三国史記』28、百済滅亡から百済遺臣反乱までの記事を一括しているため、詳細な月日は記載していない。
661.08.11唐の将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。
『新唐書』3「(龍朔元年〈661〉)八月甲戌〈11日〉、蘇定方及高麗戰于浿江、敗之。」
『新唐書』220 高麗「龍朔元年、大募兵、…八月、定方破虜兵於浿江、奪馬邑山、遂圍平壤。」
『資治通鑑』200「(龍朔元年)七月甲戌、蘇定方破高麗於浿江…」
『冊府元亀』986「龍朔元年正月、以為鴻臚卿䔥嗣業為扶余道行軍総管…八月、蘇定方破高麗之衆於浿江…」
『三国史記』22「(寶臧王)二十年(661)。春正月。…秋八月。蘇定方破我軍於浿江。」
*『資治通鑑』、7月甲戌(11日)のこととする。
661.09.01新羅王金春秋(太宗武烈)が薨じたことを聞き高宗、挙哀し、使を遣わして弔う。また、子の法敏を開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王とする。
『旧唐書』4「(龍朔元年〈661〉)是歲、新羅王金春秋卒、其子法敏嗣立。」
『旧唐書』199上 新羅「龍朔元年、春秋卒、詔其子太府卿法敏嗣位…」
『新唐書』220新羅「(永徽)五年、真コ死…以春秋襲王。…龍朔元年、死、法敏襲王。」
『資治通鑑』200「(龍朔元年)九月、癸巳朔、特進新羅王春秋卒…」
『冊府元亀』964「龍朔元年九月、特進新羅王金春秋薨、帝遣使弔之、便冊其嗣子法敏為新羅王。」
『冊府元亀』974「龍朔元年九月、特進新羅王金春秋薨、帝於洛城門舉哀、遣使時節往弔之。」
『三国史記』5同年6月条「(太宗武烈王8年)六月。大官寺井水爲血。…王薨。諡曰武烈。…」
*『旧唐書』4、是歳条に金春秋死去と文武王即位の記事を載せる。『資治通鑑』『冊府元亀』は9月の記事だが、『三国史記』は6月条に記載。
662.01〜03唐軍、蛇水で高句麗に敗れる。この時、将軍の龐孝泰戦死。また、包囲していた平壌から撤退。
『旧唐書』4 高宗上3・癸丑条「(龍朔2年〈662〉3月)癸丑(24日)、幸同州。蘇定方破高麗于葦島、又進攻平壤城、不克而還。」
『新唐書』3 同年2・戊寅条「(龍朔2年2月)戊寅(18日)、龐孝泰及高麗戰于蛇水、死之。」
『新唐書』220 高麗「龍朔元年、大募兵、…明年(662)、龐孝泰以嶺南兵壁蛇水、蓋蘇文攻之、舉軍沒;定方解而歸。」
『資治通鑑』200「(龍朔2年2月)戊寅、左驍衛將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰與高麗戰於蛇水之上、軍敗、與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下、會大雪、解圍而還。」
『三国史記』6「(文武王2年正月)十八日。宿風樹村。…二十三日。渡七重河。至菻壤。…二月一日。庾信信等至獐塞。距平壤三萬六千歩。…人馬多凍死。」
『三国史記』22「(寶臧王)二十一年(662)春正月。左驍衞将軍白州刺史沃沮道ハ管龐孝泰與蓋蘇文戦於虵水之上。擧軍没。…蘇定方圍平壌。会大雪。解而退。凡前後之行。皆無大功而退。」
『三国史記』42金庾信 中「壬戌(662)正月二十三日。至七重河。人皆恐懼。不敢先登。…至於䔉壤。庾信與諸將士曰。麗・濟二國」
『三国史記』44金仁問「龍朔元年(661)。高宗召謂曰。…皇帝命邢國公蘇定方爲遼東道行軍大ハ管。以六軍長驅萬里。麗人於浿江擊破之。遂圍平壤。麗人固守。故不能克。…以大雪解圍還。」
*『旧唐書』4、3月24日条の後に記す。『新唐書』、2月18日条に記す。『三国史記』6、正月から2月1日までのこととする。『三国史記』22、正月条にまとめて記載。『資治通鑑』、2月戊寅のこととする。『三国史記』44は前年からの一連の経過をまとめて記す。
662.07唐、福信ら百済遺民を攻める。劉仁願・劉仁軌ら、熊津の東でこれを撃破し、支羅城・及尹城、大山・沙井等の柵を攻め落とす。福信ら、真峴城に兵を集め、ここを守るも、仁軌、新羅兵を率い、この城を占拠する。その結果、新羅の唐軍への運糧の道が通じる。増援として孫仁師に兵を率いさせて派遣。
『新唐書』3「(龍朔2年〈662〉)七月戊子、以子旭輪生滿月、大赦、賜酺三日。右威衛將軍孫仁師為熊津道行軍總管、以伐百濟。」
『資治通鑑』200「(龍朔2年7月)丁巳(30日)、熊津都督劉仁願・帶方州刺史劉仁軌大破百濟於熊津之東、拔真峴城。」
*『新唐書』3では、7月戊子条としているが、当該月に戊子日はない。『資治通鑑』、丁巳条とする。また翌663年の福信殺害・高句麗・倭への救援要請までの事項をまとめて記載。
663.06〜07百済王豊璋、鬼室福信を殺害。高句麗と倭に援軍を求める。孫仁師の軍、劉仁軌・劉仁願の軍と合流。陸軍と水軍に分かれて、白江・周留城に向かう。
『日本書紀』天智天皇2年(663)6月条「六月、……百済王豊璋、嫌福信有謀反心、……斬而醢首。
『旧唐書』199上 百済「(龍朔)二年七月……扶餘豐覺而率其親信掩殺福信、又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍。孫仁師中路迎擊、破之、遂與仁願之眾相合、……自熊津江往白江以會陸軍、同趨周留城。」
『新唐書』220百濟「(龍朔)二年七月……與高麗・倭連和。仁願已得齊兵、士氣振、乃與新羅王金法敏率步騎、而遣劉仁軌率舟師、自熊津江偕進、趨周留城。」
『冊府元亀』366劉仁軌、龍朔三年(663)……扶餘豐南引倭賊以拒官軍、仁師迎撃破之、遂與仁願之衆相合、……自熊津江往白江、以會陸軍、同趨周留城。」
『資治通鑑』200龍朔2年7月条「福信專權、與百濟王豐浸相猜忌。福信稱疾、臥於窟室、欲俟豐問疾而殺之。豐知之、帥親信襲殺福信。遣使詣高麗・倭國乞師以拒唐兵。」
『資治通鑑』201龍朔3年9月8日条「百濟王豐南引倭人以拒唐兵、仁師與仁願・仁軌合兵、……自熊津入白江、以會陸軍、同趣周留城。」
『三国史記』6 新羅本紀 文武王「(文武王三年〈663〉)五月。……詔遣右威衛將軍孫仁師率兵四十萬。至コ物島。就熊津府城。」
『三国史記』7 新羅本紀 文武王11年7月26日条「至龍朔三年。ハ管孫仁師。領兵來救府城。新羅兵馬。亦發同征。行至周留城下。」
『三国史記』28 百済本紀6 義慈王「(龍朔)二年七月。……仁願奏請益兵。詔發淄・・萊海之兵七千人。遣左威衛將軍孫仁師。統衆浮海。以益仁願之衆。」
*『日本書紀』は天智天皇2年(663)6月条に福信殺害とみえる。『旧唐書』199上・『新唐書』220・『三国史記』28は龍朔2年7月の記事にまとめる。『資治通鑑』は龍朔2年7月条に福信殺害と高句麗・倭への援軍要請を記し、龍朔3年9月8日条に唐軍の合流や白江・周留城に至る経緯を記す。『冊府元亀』366・『三国史記』7は龍朔3年の記事に入れ、『三国史記』6は5月条にまとめる。
663.08〜09劉仁軌の水軍、白江河口にて倭軍に大勝。また、周留城も攻略。百済王豊璋、脱出。扶餘忠勝・忠志らおよび倭国や眈羅国、降伏。遅受信のみ任存城によって降伏せず。
『日本書紀』天智二年(663)8月27日条「戊申、日本船師初至者、與大唐船師合戦。日本不利而退。大唐堅陣而守。」
『日本書紀』同年8月28日条「己酉、日本諸将、與百済王、不観気象、而相謂之曰、我等争先、彼応自退。更率日本乱伍、中軍之卒、進打大唐堅陣之軍。大唐便自左右夾船繞戦。須臾之際、官軍敗績。赴水溺死者衆。艫舳不得廻旋。朴市田来津、仰天而誓、切歯而嗔、殺数十人。於焉戦死。是時、百済王豊璋、與数人乗船、逃去高麗。」
『日本書紀』同年9月7日条「九月辛亥朔丁巳、百済州柔城、始降於唐。」
『旧唐書』199上 百済「(龍朔)二年(662)七月……仁軌遇扶餘豐之眾於白江之口、……焚其舟四百艘、賊眾大潰、扶餘豐脱身而走。偽王子扶餘忠勝・忠志等率士女及倭眾並降、百濟諸城皆復歸順……」
『新唐書』3 本紀3 高宗「(龍朔三年〈663〉)九月戊午、孫仁師及百濟戰于白江、敗之。」
『新唐書』220百濟「(龍朔)二年七月……遇倭人白江口、四戰皆克、焚四百艘、海水為丹。扶餘豐脱身走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝・忠志等率其與倭人降、獨酋帥遲受信據任存城未下。」
『冊府元亀』358「顯慶五年(660)、大軍征遼、仁軌仍別領水軍二萬襲破倭賊數萬於白江、虜掠船艦四百餘艘。倭賊及眈羅等國皆遣使詣之請降。」
『冊府元亀』366「劉仁軌、龍朔三年爲帯方州刺史、……大破百濟餘衆及賊於白江、拔其周留城、百濟僞王扶餘豐走投高麗。……仁軌遇倭兵於白江之口、……焚其舟四百艘……。豐脱身而走、……。」
『資治通鑑』201龍朔3年9月8日条「戊午、……破百濟餘衆及倭兵於白江、……遇倭兵於白江口……焚其舟四百艘……。百濟王豐脱身奔高麗、王子忠勝・忠志等帥衆降、百濟盡平、唯別帥遲受信據任存城、不下。」
『三国史記』6 新羅本紀 文武王「(文武王三年〈663〉)五月。……與之合攻豆陵一作良尹城・周留城等諸城。皆下之。扶餘豊脱身走。王子忠勝・忠志等。率其衆降。獨遲受信。據任存城不下。」
『三国史記』7 新羅本紀 文武王11年7月26日条「至龍朔三年。ハ管孫仁師。領兵來救府城。新羅兵馬。亦發同征。行至周留城下。此時。倭國船兵……停在白江。百濟精騎。岸上守船。新羅驍騎……周留失膽。遂即降下。南方已定。廻軍北伐。任存一城。執迷不降。」
『三国史記』28 百済本紀6 義慈王「(龍朔)二年七月。……仁願奏請益兵。詔發淄・・萊海之兵七千人。遣左威衛將軍孫仁師。統衆浮海。以益仁願之衆。」
*『日本書紀』は唐軍と天智2年8月27日遭遇し28日に再戦、9月7日に州柔(周留)城陥落と日を追って記述。『新唐書』3・『資治通鑑』201は白江の戦い(あるいはこれをもって百済復興軍との決着とみるか)を龍朔3年9月8日とする。『旧唐書』199上・『新唐書』220・『三国史記』28は龍朔2年7月の記事にまとめる。『冊府元亀』366・『三国史記』7は龍朔3年の記事に入れ、『三国史記』6は5月条にまとめる。また、『冊府元亀』358では顯慶5年の記事にみえる。
665.10.25高句麗王子福男、来朝。
『旧唐書』4高宗上「(麟コ二年〈665〉)冬十月……癸亥、高麗王高藏遣其子福男來朝。丁卯、將封泰山、發自東都。」
『旧唐書』199上高麗「乾封元年(666)、高藏遣其子入朝、陪位於太山之下。」
『新唐書』220高麗「乾封元年、藏遣子男福從天子封泰山、還而蓋蘇文死」
『資治通鑑』201麟徳二年(665)八月壬子条「同盟於熊津城。劉仁軌以新羅・百濟・耽羅・倭國使者浮海西還、會祠泰山、高麗亦遣太子福男來侍祠。」
『三国史記』22 寶臧王下「二十五年(666)。王遣太子rj〈新唐書云男ar入唐。侍祠泰山。」
*前年に入朝し、666年正月の泰山封禅に同席したと考えた。
666.06.07泉蓋蘇文、没。泉男生、唐に亡命を図る。
『日本書紀』27天智三年(664)十月是月条「高麗大臣蓋金終於其国。」
『日本書紀』27天智六年(667)十月条「冬十月。高麗太兄男生、出城巡国。於是、城内二弟、聞側助士大夫之悪言、拒而勿入。由是、男生奔入大唐、謀滅其国。」
『旧唐書』5高宗下「(乾封元年〈666〉)六月壬寅、高麗莫離支蓋蘇文死。其子男生繼其父位、為其弟男建所逐、使其子獻誠詣闕請降、詔左驍衞大將軍契苾何力率兵以應接之。」
『旧唐書』199上高麗「乾封元年……其年、蓋蘇文死、其子男生代為莫離支、與其弟男建・男産不睦……男生脱身來奔」
『新唐書』3 本紀3 高宗「(乾封元年)六月壬寅、高麗泉男生請内附…」
『新唐書』220高麗「乾封元年……蓋蘇文死、子男生代為莫離支、有弟男建・男産相怨。…」
『資治通鑑』201 乾封元年条(五月庚寅条の後)「高麗泉蓋蘇文卒、長子男生代為莫離支、初知國政、……男生懼、不敢歸。男建自為莫離支、發兵討之。男生走保別城、使其子獻誠詣闕求救。六月、壬寅、以右驍衛大將軍契苾何力為遼東道安撫大使、將兵救之。」
『三国史記』22 高句麗本紀 寶臧王下「二十五年(666)……蓋蘇文死。長子男生代爲莫離支。初知國政。…」
『三国史記』49 蓋蘇文「蘇文至乾封元年死。子男生……久之爲莫離支。兼三軍大將軍。加大莫離支。出按諸部。而弟男建、男産知國事。……男生懼不敢入。男建殺其子獻忠。男生走保國内城。率其衆與契丹靺鞨兵附唐。遣子獻誠訴之。」
*『書紀』以外は蓋蘇文の死を666年とする。六月壬寅について、『旧唐書』5は蓋蘇文の死去、『新唐書』3は泉男生が内附を請う、『資治通鑑』は男生と唐軍との合流の日とみるか。ただ、『新唐書』220は9月に合流の記事を載せる。
666.12.18李勣を遼東行軍大総管として高句麗征討軍を派遣。
『旧唐書』199上高麗「(乾封元年〈666〉)十一月、命司空・英國公李勣為遼東道行軍大總管、率裨將郭待封等以征高麗。」
『新唐書』3高宗「(乾封元年)十二月己酉、李勣為遼東道行臺大總管、率六總管兵以伐高麗。」
『新唐書』220高麗「(乾封元年)九月、……又以李勣為遼東道行軍大總管兼安撫大使……。」
『資治通鑑』201 乾封元年十二月己酉条「冬、十二月、己酉、以李勣為遼東道行軍大總管……。」
『三国史記』6 新羅本紀 文武王「(文武王6年〈666〉)冬十二月。唐以李勣爲遼東道行軍大ハ管。……以撃高句麗。」
『三国史記』22 高句麗本紀 寶臧王下「(寶臧王25年〈666〉)冬十二月。高宗以李勣爲遼東道行軍大ハ管兼安撫大使……。」
*『旧唐書』は11月、『新唐書』220は9月とするが、『新唐書』3、『資治通鑑』201、『三国史記』6、22は12月とする。
666.12淵浄土、投降。
『新唐書』220高麗「乾封元年(666)……蓋蘇文弟淨土亦請割地降。」
『三国史記』6 新羅本紀 文武王「(文武王6年〈666〉)冬十二月。……高句麗貴臣淵淨土以城十二戸七百六十三口三千五百四十三來投。……。」
*『新唐書』220は9月以前の記事としてみえる。また唐への投降とするか。
667.2李勣、高句麗の新城に至る。
『旧唐書』199上高麗「(乾封)二年(667)二月、勣度遼至新城……。」
『新唐書』220高麗「明年(乾封二年)正月、勣引道次新城……。」
*『旧唐書』と『新唐書』とで一月の異同あり。
668.9.12唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。
『旧唐書』5高宗「(總章元年〈668〉)九月癸巳、司空・英國公勣破高麗、拔平壤城、擒其王高藏及其大臣男建等以歸。」
『旧唐書』39安東都護府「安東都護府 總章元年九月、司空李勣平高麗。」
『旧唐書』67李勣「總章元年……勣又引兵圍平壤……經月餘、克其城、虜其王高藏及男建・男産……。」
『旧唐書』199上高麗「總章元年九月、勣又移營於平壤城南、男建頻遣兵出戰、皆大敗。…十一月、拔平壤城、虜高藏・男建等。」
『新唐書』3高宗「(總章元年)九月癸巳、李勣敗高麗王高藏、執之。」
『新唐書』39安東都護府「安東、上都護府。總章元年、李勣平高麗國」
『新唐書』220高麗「(乾封3年=總章元年)九月、藏遣男産率首領百人樹素幡降、且請入朝、勣以禮見。…」
『資治通鑑』201「(総章元年)九月、癸巳、李勣拔平壤。…圍平壤月餘、高麗王藏遣泉男産帥首領九十八人、持白幡詣勣降、勣以禮接之。…高麗悉平。」
『唐会要』95高麗「總章元年……九月、李勣拔平壤城、虜高麗・男建等。」
『三国史記』6 新羅本紀 文武王「(文武王8年〈668〉)九月二十一日。與大軍合圍平壤。高句麗王先遣泉男産等詣英公請降。於是英公以王寶臧・王子福男・コ男・大臣等二十餘萬口廻唐。…」
『三国史記』22 高句麗本紀 寶臧王下「(寶臧王27年〈668〉)秋九月。李勣拔平壤。勣既克大行城。…圍平壤月餘。王臧遣泉男産帥首領九十八人。持白幡詣勣降…」
『三国史記』44金仁問「ハ章元年戊辰。高宗皇帝遣英國公李勣。帥師伐高句麗。…月餘。執王臧。仁問使主。於英公前。數其罪。王再拜。英公禮答之。卽以王及男産・男建・男生等還。」
*『旧唐書』199は11月とし、『三国史記』6は9月21日とする。
668.12李勣ら帰還
『旧唐書』199上高麗「(總章元年〈668〉)十二月、至京師獻俘於含元宮。……」
『新唐書』220高麗「(乾封)三年(668)二月、勣率仁貴拔扶餘城、…九月、藏遣男産率首領百人樹素幡降……凱而還。十二月、帝坐含元殿、引見勣等、…」
『資治通鑑』201 総章元年条(10月条の後)「李勣將至、上命先以高藏等獻于昭陵、具軍容、奏凱歌、入京師、獻干太廟。十二月、丁巳(7日)、上受俘于含元殿。」
『唐会要』「總章元年夏四月、彗星見於五車、…九月、李勣拔平壤城、虜高麗・男建等。十二月、至新豐、詔取便道獻俘於昭陵。乃備軍容、奏凱樂、獻於太廟。」
『三国史記』22 高句麗本紀 寶臧王下「(寶臧王27年)冬十月。李勣將還。高宗命先以王等獻于昭陵。具軍容。奏凱歌入京師。獻于大廟。十二月。帝受俘于含元殿。」
*『三国史記』22が10月に帰還とするのは、『資治通鑑』の記法の誤解か。
669.05.23高句麗の民を唐内各地の空閑地に移す
『旧唐書』5高宗下「(總章二年〈669〉)五月庚子、移高麗戸二萬八千二百……。」
『新唐書』220高麗「總章二年、徙高麗民三萬於江淮・山南。」
『資治通鑑』201總章二年条(4月条の後)「高麗之民多離叛者、敕徙高麗戸三萬八千二百……。」
『三国史記』22 高句麗本紀 寶臧王下「(唐高宗總章)二年夏四月。高宗移三萬八千三百戸。」
*『三国史記』22は『資治通鑑』の記法の誤解か。また、徙民の数はそれぞれ異なる。
670.04.28高句麗鉗牟岑が謀叛
『新唐書』3高宗「(咸亨元年〈670〉)四月……庚午、如九成宮。雍州大雨雹。高麗酋長鉗牟岑叛、寇邊、……。」
『新唐書』220高麗「總章二年……大長鉗牟岑率衆反、……。」
『資治通鑑』201「(咸亨元年4月)庚午、上幸九成宮。高麗酋長劍牟岑反、……。」
『三国史記』6 新羅本紀 文武王「(文武王10年)六月。高句麗水臨城人牟岑大兄。收合殘民。自窮牟城。至浿江南。殺唐官人及僧法安等。……。」
『三国史記』22 高句麗本紀 寶臧王下「至(唐高宗)咸亨元年庚午歳夏四月。劒牟岑欲興復國家。叛唐。……。」
*『三国史記』6のみ670年6月とする。
672.05.12甲冑・弓矢を唐使郭務悰に賜う。また絁1673匹・布2852端・綿666斤を賜う
『日本書紀』は天武元年五月壬寅条(672年)とするが、『扶桑略記』は天武二年同年条(673年)とする。
674.02.02新羅が高句麗の叛衆を受け入れ、また百済の故地を占拠したため、高宗の怒りを買い、官爵を剥奪される。新羅王弟金仁問に新羅王として立つよう命じ帰国させる。劉仁軌を雞林道大総管、李弼・李謹行を副官として派兵させる。
『新唐書』3「上元元年(674)二月壬午、劉仁軌為雞林道行軍大總管、以伐新羅。」
『唐会要』95新羅「上元元年二月、新羅王金法敏既納高句麗叛亡之衆、又封百濟故地、遣兵守之。帝大怒、詔削法敏官爵、遣宰臣劉仁軌討之、…」
『冊府元亀』986「(咸亨)五年(674)二月、遣太子左庶子同中書門下三品劉仁軌為難林遣大總管、衛尉卿李弼。…」
『資治通鑑』202「(上元元年)春、正月、壬午、以左庶子・同中書門下三品劉仁軌為雞林道大總管、衛尉卿李弼・右領軍大將軍李謹行副之、發兵討新羅。…」
『三国史記』7「(文武王)十四年(674)。春正月。入唐宿衛大奈麻コ福。傳學暦術還。改用新暦法。王納高句麗叛衆。又據百濟故地。使人守之。唐高宗大怒。詔削王官爵。…」
*『新唐書』3・『唐会要』95新羅・『冊府元亀』986は2月、『三国史記』7は正月のこととする。『資治通鑑』202は正月壬午条とするが、この月に壬午は無い。
*『旧唐書』84・『新唐書』108・『冊府元亀』358・『三国史記』43・44は年のみで、月の記載無し。
675.02.14劉仁軌を雞林道大総管として新羅に派兵。675.02七重城で新羅軍を破る。
『旧唐書』5 「(上元二年〈675〉)二月、雞林道行軍大總管大破新羅之衆於七重城、……。」
『旧唐書』84上 列伝34劉仁軌「(咸亨)五年(674)、為雞林道大總管、東伐新羅。……破其北方大鎮七重城。……。」
『唐会要』95 新羅「上元元年(674)二月、……遣宰臣劉仁軌討之、……。二年二月、雞林道行軍大總管劉仁軌大破新羅之衆於七重城而還、……。」
『冊府元亀』358 将帥部19 立功11「劉仁軌……咸亨五年、爲雞林道大總管、東伐新羅、仁軌徑度瓠蘆河、破其北方大鎮七重城、……。」
『冊府元亀』986 外臣部31 征討5「(咸亨)五年二月、遣太子左庶子同中書門下三品劉仁軌為難林遣大總管、……發兵以討新羅。……。」
『冊府元亀』986 外臣部31 征討5「上元二年二月、劉仁軌大破新羅之衆於七重城、……。」
『新唐書』3 本紀3 高宗「上元元年二月壬午、劉仁軌為雞林道行軍大總管、以伐新羅。」
『新唐書』3 本紀3 高宗「(上元二年)二月、劉仁軌及新羅戰于七重城、敗之。」
『新唐書』108 列伝33 劉仁軌「咸亨五年、為雞林道大總管、東伐新羅。仁軌率兵絶瓠蘆河、攻大鎮七重城、破之。……。」
『新唐書』巻220 列伝145 東夷 新羅「咸亨五年、……詔劉仁軌為鷄林道大總管、……發兵窮討。上元二年二月、仁軌破其衆於七重城、……。」
『資治通鑑』202 上元元年正月壬午条「春、正月、壬午、以左庶子・同中書門下三品劉仁軌為雞林道大總管、……發兵討新羅。……。」
『資治通鑑』202 上元二年二月条「二月、劉仁軌大破新羅之衆於七重城、……。」
『三国史記』7 新羅本紀 文武王下「(文武王)十四年〈674〉)。春正月。……劉仁軌爲雞林道大ハ管。……發兵來討。」
『三国史記』7 新羅本紀 文武王下「(文武王十五年〈675〉)二月。劉仁軌破我兵於七重城。……。」
『三国史記』44 列伝第4 金仁問「上元元年。……以劉仁軌爲鶏林道大ハ管。發兵來討。……。」
*『旧唐書』と『新唐書』の劉仁軌伝、『冊府元亀』358は、派兵と七重城攻略を続けて記す。『資治通鑑』202と『三国史記』7は派兵を674年正月とする
676.09新羅王遣使獻方物。
『冊府元亀』970外臣部15朝貢3「(上元二年と儀鳳二年の間の「二年」)九月、新羅王金法敏遣使獻方物。」
*上元二年十二月条と儀鳳二年四月条の間の「二年」の記事であるため上元三年の誤記と考えた。
681.07.01新羅王金法敏(文武王)、卒。その子政明(神文王)即位。
『旧唐書』5 本紀5 高宗下「(永隆2年〈681〉)冬十月……丁亥、新羅王金法敏薨、仍以其子政襲位。」
『旧唐書』199上 新羅「……法敏以開耀元年卒、其子政明嗣位。」
『唐会要』95新羅「開耀元年(681)、法敏卒、遣使册立其子政明爲王、仍襲父官爵。」
『冊府元亀』964外臣部9封冊2「開耀元年十月、新羅王金法敏薨、遣冊立其子政明爲新羅王、仍襲父官爵。」
『冊府元亀』966外臣部11継襲「新羅王……開耀元年、法敏卒、其子政明嗣。」
『新唐書』巻220新羅「……開耀元年、(法敏)死、子政明襲王。遣使者朝、丐唐禮及它文辭、武后賜吉凶禮・文詞五十篇。」
『資治通鑑』202 「(開耀元年10月)丁亥、新羅王法敏卒、遣使立其子政明。」
『三国史記』7 新羅本紀「(文武王21年〈681〉)秋七月一日。王薨。諡曰文武。」
*7月1日に卒、10月22日に遣使が唐に来朝と考えた。
692.07新羅王金政明(神文王)、卒。理洪(孝昭王)即位。
『旧唐書』199上 列伝149上 東夷 新羅「天授三年(692)、政明卒、則天為之舉哀、遣使弔祭、冊立其子理洪為新羅王」
『唐会要』95 新羅「長壽二年(693)、政明卒、册立其子理洪爲王。」
『冊府元亀』966 外臣部11 継襲「天授三年、政明卒、其子理洪嗣。」
『資治通鑑』205「(長壽2年)二月、丙子、新羅王政明卒、遣使立其子理洪為王。」
『三国史記』8 新羅本紀「(神文王12年〈692〉)秋七月。王薨。諡曰~文。葬狼山東。」
*『新唐書』220新羅、金政明即位と続けているので年は記載していない。692年7月に卒、翌693年2月に遣使が唐に来朝か。
694この年 新羅遣使来朝。この年王理洪卒、弟崇基を冊立とする。
『唐会要』95 新羅「長壽二年(693)、政明卒、册立其子理洪爲王。三年、遣使來朝。其年、理洪卒、册立其子崇基爲王、仍令襲兄輔國大將軍・左豹韜大將軍・雞林州都督。」
*あるいは長安3年(703)の誤りか。702.07.27と703.01の紀年校異も参照。
702.07.27新羅孝昭王、死去。聖徳王即位。
『旧唐書』199上 新羅「理洪以長安二年(702)卒」
『唐会要』95新羅「長寿」二年(693)の記事の直後の「三年」に「其年、理洪卒。册立其弟崇基爲王……」
『冊府元亀』964封冊2「長安二年新羅王金理洪卒」
『冊府元亀』966継襲「長安二年、理洪卒」
『資治通鑑』207「(長安三年閏四月)新羅王金理洪卒、遺使立其弟崇基為王。」
『三国史記』8「(孝昭王)十一年(702)秋七月。王薨。〈觀(舊)唐書云、長安二年理洪卒。諸古記云、壬寅(702)七月二十七日卒。而通鑑云、大足三年卒。則通鑑誤。〉」(大足元年(701)に長安に改元)
※『資治通鑑』は遣使・冊立を主眼に置いた記事と考えるべきか(但し、他書も同様に冊立記事に続く)。
702.10日本使粟田真人ら唐に来朝。麟コ殿にて宴。
『日本書紀私記』「大宝二年(702)」・「久視三年(久視二年(701)に大足に、その年に長安に改元)」
『通典』185倭「長安二年(702)」
『旧唐書』6「(長安二年)冬十月」
『旧唐書』199上 日本「長安三年」
『唐会要』100日本「長安三年」
『太平御覧』782日本「長安三年」
『冊府元亀』970「(長安三年)十月(元年条と三年条の間の記事のため二年の誤りか)」
『新唐書』220日本 長安元年に文武即位、大宝改元とし、その直後に遣使記事。また、考勘記は「長安元年 舊書卷一九九上日本傳、唐會要卷一〇〇「元」作「三」、通典卷一八五作「二」」とする。
『玉海』153唐日本遣使入朝「長安三年〈一云元年〉」
『玉海』154唐日本貢方物「長安二年」
『玉海』154唐宴日本麟徳殿「傳長安元年〈會要三年〉」
『元和姓纂』5「長安中」
『宋史』491日本「大寶三年、當長安元年」
『全唐文』17中宗2「十六日於中書宴集」
703.01新羅、唐に遣使。
『唐会要』95新羅「長寿」二年(693)の記事の直後に「三年遣使來朝。」遣使後の記述に「其年、理洪卒」とある。
『冊府元亀』970「(長安)三年(703)正月、吐蕃・新羅・林邑並遣使朝貢。」
『三国史記』8「(聖徳王)二年(703)春正月。親祀神宮。遣使入唐貢方物。」
706.02日本国、遣使来朝。
『冊府元亀』970 神竜2年(706)「4月」と「7月」の記事の間にあり。誤入か誤記か。該当記事は『冊府元亀』のみ。
712.3新羅聖徳王、改名。
『旧唐書』199新羅「先天中則天改焉。」考勘記「按先天時則天已卒、此處有誤」
『唐会要』95新羅「先天元年(712)、改名興光。」
『三国史記』8聖徳王即位条「先天中改焉。」
『三国史記』8聖徳王十一年(712)条「三月。以伊飡魏文爲中侍。大唐遣使盧元敏勅改王名。」
※712年は、一月に景雲(三年)から太極に、五月に延和に、八月に先天に改元。同月玄宗即位。
『三国史記』に依り、三月に唐より遣使があり改名とすると、玄宗即位前のこととなる。
713.2唐、崔訢を遣使して大祚栄を渤海郡王に冊封。
『旧唐書』199下渤海靺鞨「睿宗先天二年(713)」
『冊府元亀』170「玄宗先天二年」
『冊府元亀』964「玄宗先天二年二月」
『新唐書』219勃海「睿宗先天中」考勘記「冊府卷九六四作「玄宗先天二年」、通鑑卷二一〇合。此誤。」
『資治通鑑』210開元元年(713)二月条
『玉海』153唐渤海遣子入侍「先天中」
※睿宗・玄宗と表記は異なるが、いずれも同時期を指している。太上皇睿宗の存在ゆえの表記の混乱か。
714.10.29唐、新羅使を内殿にて宴会。宰臣および四品以上の清官参席。
『冊府元亀』110「(玄宗)開元二年(714)……十月庚辰」
『冊府元亀』974「(中宗)景竜二年(708)……十月庚辰」年号脱するか。景竜二年十月に「庚辰」日は存在しない。
『三国史記』8「(聖徳王十一年(714))冬十月」
716.03.10新羅、金楓厚を遣使。
『冊府元亀』971「(玄宗)開元……四年(716)三月」に作る。
『冊府元亀』974「(中宗)景竜……四年(710)三月丁亥」に作る。年号脱するか。景竜四年三月に「丁亥」日は存在しない。
『三国史記』8「(聖徳王)十四年(715)春三月」に作る。
718.2 新羅より遣使が来朝し、守中郎将を授ける。
『冊府元亀』971「(開元)六年(718)二月」。
『冊府元亀』974「(開元)六年(718)二月戊午」。
『三国史記』8「(聖徳王)十七年(718)……夏六月。」
※3つの史料より、718年であることは一致。『三国史記』には「夏六月」と記載されているが、『冊府元亀』971、974(日付まであるが、今回は採用せず)には「二月」とあることから、年表上では718年2月を採用。
718.12 大宝2年入唐の遣唐大使坂合部大分、「皇帝敬致書於日本国王」云々に始まる唐皇帝の勅書を進める。
『善隣国宝記』「又大唐皇帝勅日本国使衞尉寺少郷大分等書日、皇帝敬致書於日本国王」
『異国牒状記』「文武天皇慶雲二年唐牒状にいはく皇帝書を日本国の王に致すとかく返牒なし」
*『善隣国宝記』は年号記載なし。『異国牒状記』、「文武天皇慶雲二年」のこととする。『異国牒状記』の年号は養老二年(718)の誤りであるという、窪田藍「『異国牒状記』所載の「牒状」について―「文武天皇慶雲二年」の「牒状」の解釈を中心として―」(『東アジア世界史研究センター年報』5)の指摘にしたがい、両史料を養老二年のできごととする。
724.12 新羅より遣使の金興光が来朝し、二人の女性の献上を受ける。
『冊府元亀』170「(開元)十二年(724)十二月、新羅王金興光遣使獻女二。帝以遠離所親、特加封賞、悉放還國。降書謂曰「卿所進女皆卿之姑妹、容儀淑麗、コ行柔婉、自非盡節向風、何能割忍愛。然以辭違本俗、離別所親、念彼遠貢之勞、矜其懐變之思、雖阻來意、並不忍留。今各加其邑號、賜之衣服、以達朝恩、宜知朕意。」
『新唐書』220 新羅「玄宗開元中、數入朝、獻果下馬・朝霞紬・魚牙紬・海豹皮。又獻二女、帝曰「女皆王姑姊妹、違本俗、別所親、朕不忍留。」厚賜還之。」
『三国史記』8「(聖徳王)二十二年(723)春三月。王遣使入唐。獻美女二人。……玄宗曰。女皆王姑姉妹。違本屬別本國。朕不忍留。厚賜還之。」
『冊府元亀』971「(開元十二年十二月)契丹・新羅王金興光遣使献方物。」
※『冊府元亀』170、『新唐書』、『三国史記』より、新羅から唐へ二人の女性が献上され、玄宗がこの献上について述べていることは一致していることから、同じ内容と考える。年月日については、開元十二年十二月に金興光が唐に来朝したことが記載されていることから、『冊府元亀』の年月日を採用する。
732.09.05渤海、唐の登州を攻め、刺史を殺す。
『旧唐書』199上 新羅「(開元)二十一年(733)、渤海靺鞨越海入寇登州。……」
『旧唐書』199下 渤海靺鞨「(開元)二十年(732)、武藝遣其將張文休率海賊攻登州刺史韋俊。……」
『新唐書』219渤海「後十年(開元二十年・732)、武藝遣大將張文休率海賊攻登州……」
『新唐書』220新羅「(開元)初、渤海靺鞨掠登州、興光擊走之……」
『資治通鑑』231「(開元二十年)九月、乙巳(5日)、勃海靺鞨玭其将張文休帥海賊寇登州……」
『三国史記』8「(聖徳王)三十二年(733)秋七月、唐玄宗以渤海靺鞨越海入寇登州。……」
733.01.20渤海、唐の登州を攻め刺史を殺したため、宿衛として唐に居た金思蘭を帰国させ、新羅に渤海を攻撃させるが、雪により退却。この功により、新羅王(金興光・聖徳王)に開府儀同三司・寧海軍使を授ける。
『旧唐書』199上 新羅「(開元)二十一年(733)、……發兵以討靺鞨……」
『旧唐書』199下 渤海靺鞨「(開元)二十年(732)、……仍令太僕員外卿金思蘭往新羅發兵以攻其南境。……」
『新唐書』219渤海「後十年(開元二十年・732)、……使太僕卿金思蘭使新羅、督兵攻其南。……」
『新唐書』220新羅「(開元)初、……帝進興光寧海軍大使,使攻靺鞨。」
『唐会要』95新羅「至(開元)二十一年(733)、加興光寧海軍使。……」
『資治通鑑』231「(開元二十一年・733正月)庚申(20日)、……金思蘭使于新羅、……発兵撃其南鄙。……」
『三国史記』8「(聖徳王)三十二年(733)秋七月、……發兵撃靺鞨南鄙。」
『三国史記』43「開元二十一年(733)、……率兵會唐兵伐渤海。」
※732.09.05と733.01.20は関連した事項で、『資治通鑑』以外は同記事となっている。主眼を前者に置くか後者に置くかによって、紀年に異同が起こったのであろう。
734.01新羅の金忠臣、帰国することを請う。皇帝、これを許す。
『冊府元亀』973「(開元)二十二年(734)二月」
『三国史記』8「(聖徳王)三十三年(734)春正月」
734.04新羅、大臣金端嵑丹を唐に派遣。
『冊府元亀』971「(開元二十二年・734)四月……新羅王興光遣其大臣金端嵑丹來賀正。……」
『冊府元亀』975「(開元)二十二年(734)正月壬子、新羅王興光大臣金端嵑丹來賀正。……」
※開元二十二年正月に「壬子」日は存在しない。
『唐会要』95新羅「(開元)二十年(732)、又遣使其大臣金端竭丹来賀正、……」
『三国史記』8「(聖徳王三十三年・734)夏四月、遣大臣金端竭丹入唐賀正。……」
735.11新羅王従弟、金相を唐に派遣するも、途中で死去。
『旧唐書』8「(開元二十三年・735)十二月、新羅遣使朝獻。」
『冊府元亀』971「(開元二十三年・735)十二月新羅、並遣使來獻方物。」
『冊府元亀』975「(開元二十三年・735)閏十一月壬辰(11日)、新羅王遣從弟大阿餮金相來朝、死於路……」
『唐会要』95「(開元)二十三年(735)十一月,遣従弟大阿飧(飡ヵ)金忠相来朝,死于路,……」
『三国史記』8「(聖徳王三十五年・735)冬十一月、遣従弟大阿飡金相朝唐。死于路。」
※もしくは(閏)11月と12月は別ものか?年表では、権悳永『古代韓中外交史―遣唐使研究―』「附録」年表(一潮閣 1997)に従って、閏11月とした。
736.03.05渤海王弟、大蕃、来朝。
『冊府元亀』971「(開元二十三年・735)三月、……渤海靺鞨王遣其弟蕃來朝。」
『冊府元亀』975「(開元)二十四年(736)三月乙酉(5日)、渤海靺鞨王遣其弟蕃來朝、……」
738.02唐皇帝玄宗、先に新羅聖徳王が薨じたことを聞き、邢璹を鴻臚少卿に任じて派遣し、哀悼の意を示す。
『旧唐書』9「(開元二十五年・737)二月、新羅王金興光卒、……遣贊善大夫邢璹攝鴻臚少卿、往弔祭冊立之。」
『旧唐書』199上 新羅「(開元)二十五年(737)、興光卒、……遣左贊善大夫邢璹攝鴻臚少卿、往新羅弔祭……」
『新唐書』220新羅「(開元)二十五年(737)死、帝尤悼之、贈太子太保、命邢璹以鴻臚少卿弔祭……」
『冊府元亀』964「(開元)二十五年(737)正月、新羅王金興光卒、……往其國行弔祭冊立之禮。……」
『唐会要』95新羅「(開元)二十五年(737)、興光卒、命贊善大夫邢璹摂鴻臚少卿、往其国行弔祭册立之禮。……」
『三国史記』9「(孝成王)二年(738)春二月、唐玄宗聞聖徳王薨。……遣左賛善大夫邢璹、以臚少卿往弔祭……」
※『三国史記』8聖徳王三十六年(=孝成王元=737年)二月の記事に「王薨。謚曰聖徳。葬移車寺南。」とあるので、聖徳王薨去は737年のこととして一致している。『三国史記』以外は聖徳王薨去と、邢璹派遣を同一記事としたため、紀年に異同が起こったと考えられる。
738.02新羅孝成王の妻、朴氏を新羅王妃として冊封する。
『新唐書』220新羅「俄冊其妻朴為妃。」(年代記載なし)
『唐会要』95「至(開元)二十八年(740)、册承慶妻朴氏為新羅王妃。」
『三国史記』9「(孝成王)二年(738)春二月、……唐遣使詔册王妃朴氏。」
740.03.17新羅孝成王の妻、金氏を新羅王妃として冊封する。
『冊府元亀』975「(開元二十八年・740)三月癸卯(17日)、冊新羅國王金承慶妻金氏爲新羅王妃。」
『三国史記』9「(孝成王)四年(740)春三月、唐遣使、册夫人金氏為王妃。」
※738.02及び740.03の記事については、740年に金氏を新羅王妃として冊封する記事と矛盾することから、錯簡とし、『新唐書』の「妻朴」も「金」を間違って記述したとの説(金思Y『完訳 三国史記』[明石書店 1997 六興出版 1980の再版])、『三国史記』孝成王三年(739)三月の記事に「順元女惠明為妃」とあることから前妃・後妃がいたとして、『新唐書』を前妃に、『唐会要』を後妃にあてた説(井上秀雄『三国史記1』[東洋文庫372 平凡社 1980])など、諸説あるが、ここでは記事の年代ではなく、記載内容を基準として年表に組み込んだ。
743.03前年5月に薨じた新羅王孝成哀悼のため、玄宗は賛善大夫の魏曜を遣わす。
『旧唐書』199上 新羅「天寶二年(743)、承慶卒、詔遣贊善大夫魏曜往弔祭之。」
『新唐書』220新羅「承慶死,詔使者臨弔……」(年代記載なし)
『唐会要』95新羅「天宝三載(744)、承慶卒……」
『三国史記』9「(景徳王)二年(743)春三月、……唐玄宗遣賛善大夫魏曜来弔祭。……」
743or744.12新羅王弟、来朝する。
『冊府元亀』975「(天宝二年・743)十二月乙巳、新羅王遣弟來賀正、授左清道率府員外長史……」
※天宝二年十二月に「乙巳」日は存在しない。
『三国史記』9「(景徳王二年・743)冬十二月、遣王弟入唐賀正。授左清道率府員外長史。……」
『冊府元亀』971「(天宝三年・744)十二月、新羅王遣弟來賀正。」
『唐会要』95新羅「天宝三載(744)、承慶卒……十月、遣使来賀正、授左清道率府員外長史……」
※どちらの年を採るか判断に迷ったため、史料の該当年にそれぞれ記載した。(『唐会要』は744.12)
756.01新羅、賀正のために、成都へ遣使する。
『新唐書』220新羅「帝在蜀、遣使泝江至成都朝正月。」(年代記載なし)
『三国史記』9「(景徳王)十五年(756)春二月。上大等金思仁以比年災異屢見。上疏極論時政得失。王嘉納之。王聞玄宗在蜀。遣使入唐、泝江至成都、朝貢。・・・」
765.04新羅景徳王、唐へ遣使朝貢する。
『冊府元亀』972「(永泰)二年(766)三月、新羅王金獻英遣使朝貢。」
『冊府元亀』976「(永泰二年四月)壬子、新羅王金獻英遣使朝貢、授其使檢校禮部尚書遣之。」
『三国史記』9「(景徳王)二十四年(765)夏四月。地震。遣使入唐朝貢。帝授使者檢校禮部尚書。」
765.06新羅景徳王薨ず。その子恵恭王即位。
『旧唐書』199上新羅「大曆二年(767),憲英卒,國人立其子乾運為王,仍遣其大臣金隱居奉表入朝,貢方物,請加冊命。」
『新唐書』220新羅「大曆初、憲英死、子乾運立、甫丱、遣金隱居入朝待命。・・・」
『資治通鑑』224代宗大曆二年「新羅王憲英卒、子乾運立。」
『三国史記』9(景徳王)「(景徳王二十四年・765)六月。流星犯心。是月。王薨。諡曰景徳。葬毛祇寺西岑。〈古記云、永泰元年乙巳卒。而舊唐書及資理(治カ)通鑑皆云、大暦二年新羅王卒。豈其誤耶。〉」
『三国史記』9(恵恭王)「立。諱乾運。景徳王之嫡子。母金氏、滿月夫人。舒弗邯義忠之女。即王位時年八歳。太后攝政。」
767.7 新羅、金隠居を遣わし方物を貢じ、冊命を請う。
『冊府元亀』965 「大曆二年二月、以新羅王金憲英卒、國人立其子乾運爲王、遣其臣金隠居請加冊命。」
『三国史記』9 (恵恭王三年)秋七月。遣伊飡金隠居入唐貢方物。仍請册命。
※『冊府元亀』965の「二月」は新羅王死去の時であり、『三国史記』9では「秋七月」に金隠居が入唐とあることから、本年表では7月を採用。
772.5.27 新羅使金標石、賀正のため入唐。衛尉員外少卿を授かる。
『旧唐書』199 新羅「(大暦)七年(772年),遣使金標石來賀正,授衛尉員外少卿,放還。」『冊府元亀』972「(大暦)七年五月、新羅、十二月、迴紇・吐蕃・大食・渤海・室韋・靺鞨・契丹・奚・牂牁・康國・米國・九姓等、各遣使朝貢。」
『冊府元亀』976「(大暦七年)五月丁未、新羅遣金標石來賀正、授衛尉員外少卿、放還蕃。」
『唐会要』95 新羅「(大暦)七年、遣使金標石來賀正、授衞尉員外少卿、放還。」
『三国史記』9「(恵恭王)八年春正月。遣伊飡金標石朝唐賀正。代宗授衞尉員外少卿、放還。」
※『三国史記』では金標石の出発が1月、唐側史料では金標石が唐に到着した5月とそれぞれ表記している。
774.10 新羅、新年賀正のため来朝。唐、遣使に員外衞尉卿を授け、帰国。
『冊府元亀』972「(大曆九年)十月、迴紇遣使來朝、見於銀臺門。新羅遣使賀正、見於延英殿。」
『冊府元亀』976「(大曆九年)十一月壬子、新羅賀正使還蕃、授衛尉員外郎、遣之。」
『三国史記』9「(恵恭王十年)冬十月。遣使如唐賀正。見于延英殿。授員外衞尉卿遣之。」
※『冊府元亀』976は「十一月壬子」としているが、権氏によれば、来朝が10月、帰国を11月としている。同年10月に「壬子」の日はない。
780.4 新羅の惠恭王死去。金良相が宣徳王として即位。
『旧唐書』199 新羅「建中四年(783年)、乾運卒、無子、國人立其上相金良相為王。」
『新唐書』220 新羅「建中四年死、無子、國人共立宰相金良相嗣。」
『唐会要』95 新羅「建中四年、乾運卒、無子、國人立其上相金良相爲王。」
『冊府元亀』965「先是、建中四年、新羅王金乾運卒、無子、國人立其上相金良相爲王。」
『三国史記』9「(惠恭王十六年・780年)夏四月。上大等金良相與伊飡敬信擧兵。誅志貞等。王與后妃爲亂兵所害。良相等諡王爲惠恭王。」
※中国史料(『旧唐書』・『新唐書』・『唐会要』・『冊府元亀』)では惠恭王死去を「建中四年」(784年)としており、『三国史記』は「惠恭王十六年」(780年)と記している。本年表では四つの史料が採用している「建中四年」(783年)を採用することとする。
785・1・13以前 新羅に蓋塤・孟昌源を派遣して、恵恭王の死に告哀するとともに、宣徳王を冊封して検校太尉・キ督雞林州刺使・寧海軍使・新羅王とする。
『旧唐書』12「(二月)丙戌、以檢校秘書監金良相為檢校太尉・使持節・大都督・雞林州刺史・寧海軍使、襲封新羅王。」
『三国史記』9「六年春正月。 唐コ宗遣戶部カ中蓋塤、持節、册命王爲檢校大尉雞林州刺史寧海軍使新羅王。」
※『旧唐書』12は貞元元年(785年)2月丙戌(21日)としているが、『三国史記』9では宣徳王六年(785年)「春正月」としている。正月十三日には宣徳王死去とあることから、新羅への冊封は1月13日以前と考えられる。
794.01渤海王子、大清允等30人来朝。
『旧唐書』199下 渤海靺鞨「(貞元)十年(794)正月、以來朝王子大清允為右衛將軍同正、其下三十餘人、拜官有差。」
『冊府元亀』976「(貞元)十年二月壬戌(19日)、以來朝渤海王子太清允爲右衛將軍同正、其下拜官三十餘人。」
『唐会要』96渤海「(貞元)十年二月、以來朝渤海王子大C允爲右衞將軍同正、其下拜官三十餘人。」
798.12新羅王金敬信(元聖王)死去し、敬信の嫡孫俊邕(昭聖王)即位。
『旧唐書』199上 新羅「(貞元)十四年(798)、敬信卒、其子先敬信亡、國人立敬信嫡孫俊邕為王。」
『新唐書』220新羅「(貞元)十四年、(敬信)死、無子、立嫡孫俊邕。」
『唐会要』95新羅「(貞元)十四年、敬信卒、其子先敬信亡、國人立敬信嫡孫權知國事俊邕為王。」
『資治通鑑』235徳宗貞元十六年(800)「(四月)新羅王敬【嚴「『敬』改『信』。」】則卒、庚寅、冊命其嫡孫俊邕為新羅王。」
『三国史記』10元聖王「(元聖王十四年・798)冬十二月二十九日。王薨。諡曰元聖。以遺命擧柩焼於奉徳寺南。〈唐書云、貞元十四年敬信死。通鑑云、貞元十六年敬信死。以本史考之、通鑑誤。〉」
『三国史記』10昭聖王「昭聖王立。諱俊邕。元聖王太子仁謙之子也。母金氏。妃金氏、桂花夫人。大阿飡淑明女也。」
800.04唐徳宗、金俊邕(昭聖王)冊封。韋丹を持節使として派遣するも鄆州に至ったとき、俊邕が卒してその子重興(哀荘王)が即位したことを聞き引き返す。
『旧唐書』13「(貞元十六年・800)夏四月……己丑、……以權知新羅國事金俊邕襲祖開府檢校太尉・雞林州都督・新羅國王。」
『旧唐書』199上 新羅「(貞元)十六年、授俊邕開府儀同三司・檢校太尉・新羅王。令司封郎中・兼御史中丞韋丹持節冊命。丹至鄆州、聞俊邕卒、其子重興立、詔丹還。」
『新唐書』220新羅「(貞元)十四年(798)、(敬信)死、無子、立嫡孫俊邕。明年、遣司封郎中韋丹持冊、未至、俊邕死、丹還。子重興立」
『冊府元亀』965「(貞元)十六年四月、以故開府儀同三司檢校太尉使持節充寧海軍使上柱國新羅國王金敬則嫡孫權知國事俊邕、可襲祖開府・檢校太尉・鷄林州大都督、等新羅國王。令司封郎中兼御史中丞韋丹持節冊命。丹至鄆州、聞俊邕卒、其子立、詔丹還。」
『唐会要』95新羅「(貞元)十六年、授俊邕開府儀同三司・檢校太尉・新羅王。令司封郎中・兼御史中丞韋丹持節册命。明年、至鄆州、聞俊邕卒、其子重興立、詔丹還。」
『資治通鑑』235徳宗貞元十六年「(五月?)新羅王俊邕卒、國人立其子重熙。」
『三国史記』10昭聖王「(昭聖王二年・800)六月。封王子為太子。王薨。諡曰昭聖。」
『三国史記』10哀荘王「哀莊王立。諱C明。昭聖王太子也。母金氏、桂花夫人。卽位時年十三歲。阿飡兵部令彦昇攝政。初元聖之薨也。唐コ宗遣司封カ中兼御史中丞韋丹、持節弔慰。且册命王俊邕爲開府儀同三司檢校大尉新羅王。丹至鄆州。聞王薨乃還。」
803.03.08入唐留学僧行賀没(75歳)。
※『扶桑略記』は「二月己未日」としているが、『類聚国史』『日本紀略』は「三月己未」の記事としている。また、『唐代の暦』でも、同年(唐の貞元19年(803))の三月己未日が8日に当たっており、二月に「己未」に該当する日はないので、「三月己未日」とするのが妥当であると考える。
805.02唐順宗、兵部郎中の元季方を派遣して、新羅王金重興(哀荘王)を冊封し、寧海軍使を兼ねさせる。その母の叔氏を大妃、妻の朴氏を妃とする。
『旧唐書』14「(貞元二十一年・805)二月……戊辰、以開府儀同三司・檢校太尉・使持節・大都督雞林州諸軍事・雞林州刺史・上柱國・新羅王金重熙兼寧海軍使、以重熙母和氏為太妃、妻朴氏為妃。」
『旧唐書』199上 新羅「永貞元年(805)、詔遣兵部郎中元季方持節冊重興為王。」
『新唐書』220新羅「子重興立、永貞元年、詔兵部郎中元季方冊命。」
『冊府元亀』965「順宗以貞元二十一年正月即位、三月、立新羅嗣王金重熙爲開府儀同三司・簡較太尉・使持節大都督鷄林州諸軍事・鷄林州刺史・兼持節充寧海軍使・上柱國。其母和氏爲太妃、其妻朴氏爲妃。遣兵部郎中兼御史大夫季方充使。」
『冊府元亀』976「順宗以貞元二十二年(806)正月丙申即位、二月戊辰、以新羅王金重熙母和氏爲太妃、妻朴氏爲妃。」
『唐会要』95新羅「永貞元年、詔遣兵部郎中元季方持節册重興為王。」
『三国史記』10哀莊王「是年(哀莊王六年・805)唐コ宗崩。順宗遣兵部カ中兼御史大夫元季方告哀。且册王爲開府儀同三司檢校大尉使持節大都督雞林州諸軍事雞林州刺史兼持節充寧海軍使上桂國新羅王。其母叔氏爲大妃。〈王母父叔明、奈勿王十三世孫。則母姓金氏。以父名爲叔氏。誤也。〉妻朴氏爲妃。」
806.10渤海国王大嵩璘を検校大尉に任じる。
『旧唐書』14憲宗上「(元和元年〈806〉九月)丙戌、以渤海國王大嵩璘檢校太尉。」
『旧唐書』199渤海靺鞨「(貞元)二十一年(806)、遣使來朝。順宗加嵩璘金紫光祿大夫・檢校司空。元和元年十月、加檢校太尉。」
『冊府元亀』965冊封「(元和元年)十月、加忽汗州都督渤海國王大嵩璘檢校太尉。」
*『旧唐書』渤海靺鞨伝と『冊府元亀』では、806年10月としている。『旧唐書』本紀では、806年9月の記事に続けて日付を、「丙戌」としているが、この年9月に「丙戌」はなく、9月の記事の直後に11月の記事となるため、ここでは10月と考える。なお、この年10月には「丙戌」あり。
806.11宿衛をしていた新羅王子金献忠、帰国。
『旧唐書』199新羅「元和元年(806)十一月、放宿衛王子金獻忠歸本國、仍加試祕書監。」
『唐会要』95新羅「元和元年十一月、放宿衞新羅王子金獻忠歸本國。仍加試秘書監。」
『冊府元亀』976褒異「(元和元年)十一月庚子朔己亥、歸宿衛新羅王子金獻忠于其國。加試秘書監。」
『冊府元亀』996納質「憲宗元和元年十一月、放宿衛新羅質子金獻忠歸本國。」
『三国史記』10新羅本紀「(哀荘王)七年(806)春三月。(中略)唐憲宗放宿衛王子金獻忠歸國。仍加試秘監。」
*『旧唐書』・『唐会要』・『冊府元亀』では、806年11月としているが、『三国史記』では、3月と8月の間の記事としている。ここでは中国史料に従った。
*『冊府元亀』976褒異に、「(元和元年)十一月庚子朔己亥」とあるが、この年の11月は「庚寅朔」である。
808.07新羅が金力奇を唐に派遣。帰国の際、故昭聖王らの冊命書の授与を求め、憲宗が許可。新羅王の叔父金彦昇らに門戟を賜う。
『旧唐書』199新羅「(元和)三年(808)、遣使金力奇來朝。其年七月、力奇上言「貞元十六年、奉詔册臣故主金俊邕爲新羅王、母申氏爲太妃、妻叔氏爲王妃。册使韋丹至中路、知俊邕薨、其册却迴在中書省。今臣還國、伏請授臣以歸。」敕。「金俊邕等册、宜令鴻臚寺於中書省受領、至寺宣授與金力奇、令奉歸國。仍賜其叔彦昇門戟、令本國準例給。」
『新唐書』220新羅「永貞元年(805)……後三年、使者金力奇來謝、且言。「往歳冊故主俊邕爲王、母申太妃、妻叔妃、而俊邕不幸、冊今留省中、臣請授以歸。」又爲其宰相金彦昇・金仲恭・王之弟蘇金添明丐門戟、詔皆可。凡再朝貢。
『唐会要』95新羅「(元和)三年、遣使金力奇來朝。其年七月、力奇上言「貞元十六年、奉詔册臣故主金俊邕爲新羅王、母申氏爲太妃、妻叔氏爲王妃。册使韋丹至中路、知俊邕薨、其册卻迴在中書省。今臣還國、伏請授臣以歸。」勅「金俊邕等册、宜令鴻臚寺於中書省受領、至寺宜授與金力奇、令齎歸國。仍賜其叔彦昇門戟、令本國准例給。」
『冊府元亀』972朝貢「(元和)三年、新羅王金重興遣使金力奇來朝。」
『冊府元亀』976褒異「(元和三年)十月己酉、勅新羅王叔金彦昇弟仲恭等三人、宜令本國准舊例賜戟。」
『三国史記』10新羅「(哀荘王九年)九年〈808〉春二月。……遣金力奇入唐朝貢。力奇上言。貞元十六年詔册臣故主金俊邕。爲新羅王。母申氏爲大妃。妻叔氏爲王妃。册使韋丹至中路。聞王薨却廻。其册在中書省。今臣還國。伏請授臣以歸。勅、金俊邕等册。宣令鴻臚寺、於中書省受領、至寺宣授與金力奇、令奉歸國。仍賜王叔彦昇及其弟仲恭等門戟。令本國准例給之。」
*中国史料では来朝の月の記述なし。『旧唐書』・『唐会要』では7月の記事として冊命書・門戟賜与を記す。『冊府元亀』褒異では門戟賜与を10月1日とする。三国史記では2月の記事の後に続けて一連の事項を記す。
809.01渤海王嵩璘が卒す。子である元瑜が即位し、銀光祿大夫等の職を与え、渤海国王に冊立する。
『旧唐書』199渤海靺鞨「(元和)四年(809)、以嵩璘男元瑜爲銀光祿大夫・檢校祕書監・忽汗州都督、依前渤海國王。」
『唐会要』96渤海「至元和元年〈806〉、以渤海國王嵩璘男元瑜爲銀光祿大夫・檢校秘書監・忽汗州都督、依前渤海國王。」
『冊府元亀』965冊封「(元和)四年正月、以故渤海國王大嵩璘男元瑜爲銀光祿大夫・檢校祕書監・充忽汗州都督、冊爲渤海國王。」
『資治通鑑』237「(元和四年正月)渤海康王嵩璘卒、子元瑜立、改元永コ。」
*『旧唐書』・『冊府元亀』・『資治通鑑』では、809年としているが、『唐会要』は806年としている。ここでは前者に従った。
809.8、812.7哀荘王死去し憲徳王即位、伊湌金昌南を唐に遣使し前王の喪を告ぐ。憲宗は崔廷・金士信を派遣し、弔祭させ、憲徳王を新羅王に冊立する。また、新羅の大宰相の金崇斌ら三人は門戟を賜った。
『旧唐書』15憲宗下「(元和七年〈812〉六月……己卯、以新羅大宰相金彦昇爲開府儀同三司・檢校太尉・使持節・大都督雞林州諸軍事・雞林州刺史、兼寧海軍使・上柱國、封新羅國王。仍冊彦昇妻貞氏爲妃。」
『旧唐書』15憲宗下「(元和七年)八月丁亥朔。新除新羅國大宰相金崇斌等三人、宜令本國准例賜戟。
『旧唐書』199新羅「元和七年、重興卒、立其相金彦昇爲王、遣使金昌南等來告哀。其年七月、授彥昇開府儀同三司・檢校太尉・持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使・上柱國・新羅國王、彥昇妻貞氏册爲妃、仍賜其宰相金崇斌等三人戟、亦令本國準例給。兼命職方員外郎・攝御史中丞崔廷持節弔祭册立、以其質子金士信副之。」
『新唐書』220新羅「(元和)七年死、彦昇立、來告喪、命職方員外郎崔廷弔、且命新王、以妻貞爲妃。」
『唐会要』95新羅「(元和)七年、重興卒、立其相金彦昇爲王、遣使金昌南等告哀。七月、授彦昇開府儀同三司・檢校太尉・持節大都督雞林州諸軍事・兼持節寧海軍使・上柱國・新羅王、妻正氏册爲妃、仍賜太宰相金崇斌等三人戟、亦令本國準給。兼命職方員外郎・攝御史中丞崔廷持節弔祭册立、以其質子金士信副之。」
『冊府元亀』965冊封「(元和)七年七月、以新羅王金重興卒、立其相金彦昇、遣使來告。詔以彦昇爲開府儀同三司・檢校太尉・使持節大都督鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱國、封新羅國王。妻眞氏冊爲妃。仍令有司准式、兼命職方員外郎攝御史中丞崔延充使。」
『冊府元亀』972朝貢「(元和七年)四月、新羅賀正兼吿哀使金昌男等五十四人朝見。是年、渤海亦遣使來、南詔遣使朝貢。」
『冊府元亀』976褒異「(元和七年)八月丁亥朔、勅新羅國大宰相金崇斌等三人、宜付本國准舊例賜戟。」
『三国史記』10新羅「(憲徳王元年〈809〉)秋八月。大赦。遣伊飡金昌南等入唐告哀。憲宗遣職方員外カ攝御史中丞崔廷。以其質子金士信副之。持節弔祭。冊立王爲開府儀同三司檢校太尉持節大都督雞林州諸軍事兼持節充寧海軍使上柱國新羅王。冊妻貞氏爲妃。賜大宰相金崇斌等三人門戟。」
*『旧唐書』新羅伝・『冊府元亀』冊封・『唐会要』では、遣使の月を記さず冊立記事を、「其年七月」とする。ただ、『旧唐書』本紀では、818年6月「乙亥」の直後の記事として「己卯」とするが、この年6月に己卯はないため、7月の記事か。7月己卯とすると23日。『冊府元亀』朝貢では、遣使を812年4月とする。また、『旧唐書』本紀・『冊府元亀』褒異では、金崇斌ら三人への門戟賜与を812年8月1日とする。なお、『三国史記』では哀荘王の死と憲徳王即位を809年とし、一連の記事を元年8月とする。ここでは809年8月と812年7月との両論を併記した。
818.04高麗が楽器と楽工の両部を献上する。
『旧唐書』15憲宗下「(元和十三年〈818〉)是歲、迴紇・南詔蠻・渤海・高麗・吐蕃・奚・契丹・訶陵國並朝貢。」
『新唐書』220高麗「至元和末、遣使者獻樂工云。」
『唐会要』95高麗「元和十三年四月、其國進樂物兩部。」
『冊府元亀』972朝貢「(元和)十三年四月、高麗國進樂器及樂工兩部。」
『玉海』108唐高麗獻樂「高麗傳元和末遣使者獻樂工 會要元和十年四月其國進樂物兩部……」
『三国史節要』13憲徳王「戌戉十年(818)遣使如唐献楽工」
*『冊府元亀』・『唐会要』・『三国史節要』では818年4月とし、『旧唐書』は月の記載なし。『新唐書』・『玉海』では「元和末」とする。『玉海』は「會要元和十年四月其國進樂物兩部」とする。あるいは誤脱か。
818.0518憲宗は大仁秀を光祿大夫・検校秘書監・忽汗州都督とし、渤海國王として冊立する。
『旧唐書』15憲宗「(元和十三年〈818〉五月)辛丑、知渤海國務大仁秀檢校秘書監、忽汗州都督、冊爲渤海國王。」
『旧唐書』199渤海靺鞨「(元和)十三年、遣使來朝、且告哀。五月、以知國務大仁秀爲銀光祿大夫・檢校祕書監・都督・渤海國王。」
『冊府元亀』965冊封「(元和)十三年四月、以知渤海國務大仁秀爲銀光祿大夫・檢校祕書、忽汗州都督、冊爲渤海國王。」
『資治通鑑』240憲宗「(元和十三年五月)辛丑、以知勃海國務大仁秀爲勃海王。」
*『旧唐書』本紀・『資治通鑑』は5月18日、『旧唐書』渤海靺鞨伝は5月とするが、『冊府元亀』では、4月とする。ここでは『旧唐書』本紀・『資治通鑑』に従う。
820.0715平廬軍節度使に押新羅渤海両蕃使を加える。
『旧唐書』16穆宗「(元和十五年七月〈820〉)乙卯、(中略)平盧軍新加押新羅・渤海兩蕃使、賜印一面、許置巡官一人(下略)。」
『冊府元亀』60立制度「穆宗元年(中略)七月、平盧節度使奏「準敕押加新羅・渤海兩蕃、請印一面。」從之。」
*『冊府元亀』の「穆宗元年」は穆宗の即位した年である元和十五年と考えた。
825.05 新羅王子金マ、入朝する。新羅国王金彦昇(憲徳王)、奏状を送り、先住太学生崔利貞等の帰国と新たに入唐の金充夫等12人の留在宿衛、国子監修業・鴻臚寺からの資糧給付を請う。これを認める。
『旧唐書』巻199上 列伝149 東夷伝 新羅「寶曆元年、其王子金マ來朝。…」
『冊府元亀』999 外臣部44 請求「敬宗寳暦元年五月庚辰、新羅國王金彦昇奏「先在太學生崔利貞・金叔貞・朴季業四人、請放還蕃。其新赴朝貢金允夫・金立之・朴亮之等一十二人、請留在宿衛、仍請配國子監習業、鴻臚寺給資糧。」從之。」
『唐会要』95 新羅「寶暦元年、其王子金マ來朝、兼充宿衞。」
『三国史記』10 新羅本紀10 憲徳王「(十七年)夏五月。遣王子金マ入唐朝貢。遂奏言。先在大學生崔利貞、金叔貞、朴季業等、請放還蕃。其新赴朝金允夫、金立之、朴亮之等一十二人。請留宿衛。仍請配國子監習業、鴻臚寺給資粮。從之。」
※『冊府元亀』999は「五月庚辰」としているが、同年5月に「庚辰」の日はない。
826.10 憲徳王死去、興徳王即位。
827.01 唐帝が新羅王の死去を知り廃朝、太子左諭徳兼御史中丞の源寂に命じて弔祭させる。嗣王を冊封し、王の母・妻を大妃・妃とする。
831.04.06 これより先、新羅王彦昇卒する。3月1日、廃朝し、この日、嗣子金景徽を新羅王に封じ、母朴氏を太妃とする。また、太子左諭徳源寂を新羅への弔使とする。
『旧唐書』巻17下 本紀17下 文宗下「(大和五年(831))夏四月己巳朔。甲戌、以新羅王嗣子金景徽為開府儀同三司・檢校太保、使持節雞林州諸軍事・雞林州大都督・寧海軍使・上柱國、封新羅王。仍封其母朴氏為新羅國太妃。」
『旧唐書』巻199上 列伝149 東夷伝 新羅「(大和)五年、金彥昇卒、以嗣子金景徽為開府儀同三司・檢校太尉・使持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使・新羅王。景徽母朴氏為太妃、妻朴氏為妃。命太子左諭コ・兼御史中丞源寂持節弔祭冊立。…」
『新唐書』220 列伝145 新羅「長慶(821〜824)・寶暦(825〜827)間、再遣使者來朝、留宿衞。彦昇死、子景徽立。」
『冊府元亀』965 外臣部10 冊封3「(大和五年)四月、以新羅金彦昇卒、詔其子景徽爲開府儀同三司・檢校太尉・使持節鷄林州諸軍事・充鷄林州大都督寧海軍等使、仍賜上柱國、封爲新羅王。復封其母朴氏爲新羅太妃、妻眞氏爲王妃、命太子左諭コ兼御史中丞源寂持節弔祭冊立。」
『冊府元亀』976 外臣部21 褒異3「(大和)五年三月己亥朔、新羅國王檢校太尉金彦昇薨、廢朝。」
『資治通鑑』244 唐紀60 文宗「(大和五年二月)新羅王彦昇卒、子景徽立。」
『三国史記』10 新羅本紀10 憲徳王「(十八年・826)冬十月。王薨。諡曰憲コ。葬于泉林寺北。」
『三国史記』10 新羅本紀10 興徳王「二年(827)春正月。親祀神宮。唐文宗聞王薨廢朝。命太子左諭徳兼御史中丞源寂、持節弔祭。仍冊立嗣王、爲開府儀同三司檢校太尉使持節大都督雞林州諸軍事兼持節充寧海軍使新羅王。母朴氏爲大妃。妻朴氏爲妃。」
※『三国史記』のみ、憲徳王の死去を826年、弔使源寂派遣を827年のこととしており、中国史料は、みな831年とする。
827.01 麟コ殿にて、帰国する新羅使等に宴す。
『冊府元亀』976 外臣部21 褒異3「文宗太和元年(827)正月辛亥、麟コ殿對歸國吐蕃・新羅使、宴賜有差。」
※「文宗太和元年正月辛亥」とあるが、同年正月に「辛亥」の日はない。
831.01 渤海国王大仁秀卒、大彝震を渤海国王とす。改元して咸和とする。
『旧唐書』巻17下 本紀17下 文宗下「(大和五年・831春正月)己丑、以權知渤海國務大彝震檢校秘書監・忽汗州都督・渤海國王。」
『旧唐書』巻199下 列伝149下 北狄 渤海靺鞨「大和五年、大仁秀卒、以權知國務大彝震為銀青光祿大夫・檢校祕書監・都督・渤海國王。」
『新唐書』219 列伝144 北狄 渤海「大和四年(830)、仁秀死、謚宣王。子新コ蚤死、孫彝震立、改年咸和。」
『資治通鑑』244 唐紀60 文宗「(大和四年)是歲、勃海宣王仁秀卒、子新コ早死、孫彝震立、改元咸和。」
『冊府元亀』965 外臣部10 冊封3「(大和)五年正月、以權知渤海國王務大彜震爲銀光祿大夫・檢校祕書監、兼忽汗州都督、冊爲渤海國王。」
※『新唐書』『資治通鑑』、大和4年のこととする。あるいは大仁秀の死去は大和4年で、そのことが唐に伝わり、大彝震を渤海国王に封じたのが大和5年正月か。
※『旧唐書』17に「己丑」とあるが、同年正月に「己丑」の日はない。
※咸和改元について、『対外関係史総合年表』(吉川弘文館)では、830年とし、田島公『日本、中国・朝鮮対外交流史年表』・笹山晴生編『日本古代史年表』上では831年としている。
宮内庁書陵部蔵のいわゆる「渤海国中台省牒案」が「咸和十一年」に発行されたこと、このとき、その牒状をもたらした渤海使の動向が『続日本後紀』などによって分かることから、咸和十一年が日本の承和8年(841)に当たることが推測できる。
以上により、本年表では、そこから逆算して、咸和元年を831年としておきたい。
832.03渤海王子大明俊等来朝する。
『旧唐書』巻199下 列伝149下 北狄 渤海靺鞨「(大和)六年(832)、遣王子大明俊等來朝。」
『冊府元亀』972 外臣部17 朝貢5「(大和)六年三月、渤海王子大明俊來朝。」
『冊府元亀』976 外臣部21 褒異3「(大和六年)二月丙辰、麟コ殿對入朝吐蕃論董渤藏等一十九人、又對渤海王子大明俊等六人、宴賜有差。」
※『冊府元亀』976、二月丙辰とするが、大和6年2月に「丙辰」にあたる日はない。
835.02.02 長岑高名・良岑長松を遣唐准判官、松川貞嗣を録事、大和耳主・廬原有守を訳語に任じる。
『續日本後紀』4 承和二年(835)二月丁丑条「二月丙子朔丁丑。以外從五位下長岑宿祢高名爲遣唐准判官。從七位上松川造貞嗣爲録事。從八位下大和眞人耳主。大初位下廬原公有守並爲譯語。」
『日本文徳天皇實録』9 天安元年九月丁酉条「九月乙未朔丁酉。正四位下右京權大夫兼山城守長岑宿祢高名卒。…承和元年(834)春二月爲遣唐使准判官…」
『日本三代實録』36 元慶三年十一月十日乙丑条「十日乙丑。散位從四位上良岑朝臣長松卒。…承和之初爲常陸權大掾、俄遷爲伊予掾、兼爲遣唐准判官。…」
※『日本文徳天皇實録』9 天安元年九月丁酉条の長岑高名卒伝では、834年2月に遣唐准判官に任命されたとする。
836.8.20 大宰府、第3船に乗った請益僧真済らが桴に乗って漂着したことを報じる。
『續日本後紀』5 承和三年(836)条八月丁巳条「是日。大宰府奏言。問遣唐第三舶漂蕩之由。眞言請益僧眞濟等。僅作書答云。…」
『日本三代實録』4 貞觀二年(860)二月廿五日丙午条「廿五日丙午。僧正傳燈大法師位眞濟卒。眞濟者。俗姓紀朝臣。左京人也。…承和之初。遣使聘唐。眞濟奉朝命。隨使渡海。…」
『紀家集』巻第14断簡 東大寺僧正真済伝 「…嵯峨天皇聞□苦行、授内供奉、承和九年遣唐之日、銜命渡□、中途漂蕩、…」
※真済の入唐を、『続日本後紀』は承和3年、『日本三代実録』は承和の初めとするが、『紀家集』は承和九年とする。
839.07 新羅王金祐徴、唐に遣使。淄青節度使に奴婢を贈るが、唐帝が矜み帰国させる。
『冊府元亀』42 帝王部42 仁慈「(開成三年)七月、新羅王金祐徵遣其所遺淄節度使奴婢。帝矜以遠人、詔令卻歸本國。」
『冊府元亀』980 外臣部25 通好「(開成)三年秋七月、新羅王金祐徵遣淄節度使奴婢、帝矜以遠人、詔令卻歸本國。」
『三国史記』10 新羅本紀10 神武王「(一年)七月。遣使如唐。遣淄節度使奴婢。帝聞之矜遠人。詔令歸國。」
※『三国史記』は開成四年だが、『冊府元亀』は開成三年のこととする。しかし、『冊府元亀』記載の王名は開成四年即位の神武王なので、『三国史記』の「開成四年」を採った。
849.閏12.24 来日中の唐商人徐公祐、かねて受け取った在日唐僧義空からの書状に返書。
徐公祐から義空宛の書簡の日付は「閏十一月廿四日」となっているが、高木、元著『空海思想の書誌的研究』(高木、元著作集4)は、書簡中に「歳暮甚寒」という語があるのを以て「閏十二月の誤写か」とする。木氏の見解に従う。
853.07.15 円珍ら一行、博多で王超らの船に乗る。
※『行歴抄』は15日。『智証大師年譜』は、割注で「師帰朝上表」を引き、16日に新羅船に随って出発、とある。
847〜859 日本の王子来朝し宝器・音楽を献じる。王子、囲碁を善くし、唐の名人と対局(新羅から派遣された王子か)。
『冊府元亀』111宴享「宣宗大中七年(853)四月、日本國遣王子來朝、獻寶器音樂。……」
『冊府元亀』869博奕「顧師言爲棋待詔、大中八年(854)、日本國遣王子來朝、王子善圍棋、……」
『冊府元亀』972朝貢「宣宗大中七年四月、日本國遣王子來朝、獻寶器・音樂。……」
『冊府元亀』997技術「日本國、以宣宗大中二年(848)遣王子來朝。王子善圍碁、……」
『杜陽雜編』下「大中初日本國王子來朝……」
『玉海』108唐日本獻樂「實録宣宗大中七年四月日本國遣王子來朝……」
※日本の王子が来朝し宝器・音楽を献じる。王子、囲碁を善くし、唐の名人と対局したという年については、『杜陽雜編』は「大中初」とするが、『冊府元亀』技術では「宣宗大中二年」とし、『冊府元亀』宴享と朝貢、『玉海』は「宣宗大中七年四月」し、『冊府元亀』博奕では「大中八年」とする。なお、日本側史料には、この王子派遣も記事はない。
869.05.22 新羅海賊船2艘が博多津に来着し、豊前国の年貢絹綿を掠奪して逃亡する。6月15日、大宰府、兵を発して追討したが捕らえることができなかった旨を報告する。
※『平安遺文』4902「寵壽申狀案」は、「・・・貞觀十二年(870)大宰府貢朝綿一万屯爲海賊被劫奪、爰新羅賊乘此隙來侵之、隣國賊難天下騒動・・・」とする。
869.11.29 長門国の史生1人に代えて、弩師を置くこととする。
※『日本三代実録』同年十二月二日条にこのことを記す。
872.5.17 右馬頭在原業平を鴻臚館に遣わして渤海使を労問する。この日、渤海使に時服を賜う。
※『三十六歌仙伝』は五月七日とするが、『日本三代実録』に従う。
873.09.08 甲斐国、貞観12年(870)に大宰府より上総国に遷された新羅沙門伝僧・巻才の2人が山梨郡に寄留していることを報せる。上総国に帰らせる。
※伝僧・巻才の移配記事は『日本三代実録』貞観十二年九月十五日条であるが、本条(貞観十五年九月八日条)には、「貞觀十三年徒配上總國者也」とある。
877.閏2.17 入唐求法を志す僧斉詮・安然・玄昭・観漢ら4人に、駅馬を利用して大宰府に向かわせる。唐人の商船に乗船するが、玄昭ら、心中不安を感じて下船。斉詮ひとり渡航を企て賊のために殺される。後人、玄昭の先知の明を称する。
※『入唐記』は「貞観十八年」とする。
877.12.21 西住寺居住の日本僧円載、在唐40年の後、帰国する。帰国の際、紫衣を賜る。また皮日休・陸亀蒙・顔萱ら、送別の詩を贈る。
※『大宋僧史略』、咸通11年(870)と同12年(871)の間に円載帰国記事を載せる。
885.1.17 貂裘の着用を禁止する。参議以上は禁制の対象外とする。
※『政事要略』は1月16日とする。
891.10.29 円珍、没。
※『紀略』は寛平三年十月廿八日乙巳とするが、『扶桑略記』は寛平三年十月廿九日とする。
894.8.21 遣唐判官に藤原忠房を任命する。
『古今和歌集』18雑歌下「寛平御時に、唐土判官に召されて侍ける時に、東宮の侍にて、男ども、酒賜べけるついでに、よみ侍ける」
『古今和歌集目録』藤原忠房「(延喜)十八年任遣唐判官。」
※藤原忠房を遣唐判官に任命する年については、『古今和歌集』の詞書では「寛平御時」としているが、『古今和歌集目録』では「(延喜)十八年」とする。しかし、寛平六年九月(894年9月)の段階で、遣唐使の派遣が停止されていることから考えると、延喜十八年(918年)に遣唐判官に任命されるとは考えにくいため、ここでは『古今和歌集』の詞書に従う。
894.9 遣唐使の派遣を停止する。
『日本紀略』寛平六年九月其日条「其日。停遣唐使。」
『菅家文草』9「寛平六年九月十四日」
『菅家御傳記』「(寛平)同七年五月十五日 勅止遣唐使進。」
『扶桑略記』22 寛平七年五月十五日条「五月十五日。止唐使入朝。」
※遣唐使の派遣を停止した年月日については、『日本紀略』と『菅家文草』は「(寛平六年九月其日条)其日。」、「寛平六年九月十四日」としているが、『菅家御傳記』や『扶桑略記』では「(寛平)同七年五月十五日 勅止遣唐使進。」としている。ここでは、『日本紀略』と『菅家文草』に従う。
895.08 弓裔、猪足・狌川二郡等を攻略する。その勢力が大きいことから、国を開き、君を称すことができると考え、内外の官職を設置した。また、王建も来投。
『三国史記』11新羅本紀「(真聖王)九年()秋八月。弓裔撃取猪足・狌川二郡。又破漢州管内夫若・鐵圓等十餘郡縣。」
『三国史記』50弓裔「乾寧元年(894)。(中略)與士卒同甘苦勞逸。至於予奪、公而不私。是以衆心畏愛。推爲將軍。於是擊破猪足、狌川、夫若、金城、鐵圓等城。軍聲甚盛。浿西賊寇來降者衆多。善宗自以爲衆大、可以開國稱君。始設内外官職。我太祖自松岳郡來投。便授鐵圓郡太守。」
※弓裔が猪足・狌川二郡等を攻略し、その勢力が大きいことから、国を開き、君を称した年については、『三国史記』列伝では、前年である乾寧元年の記事に続けて記述されているが、ここでは『三国史記』本紀に従う
908.1.8 左大臣藤原時平、渤海大使裴璆らの来着を伝える伯耆国からの知らせを奏す。
※『日本紀略』同年六月某日条にも「某日。渤海使裴璆來朝。」とあるが、1月8日以前に来着したとみる方が妥当であろう。
908.4 醍醐天皇、渤海王に書を賜う。
※『日本紀略』は四月「某日」のこととする。ただし、渤海使の王啓・信物等の奉献は五月十五日条なので、五月中(渤海使の王啓・信物等の奉献後)の可能性がある。
908.6 この時、越前権掾都在中、帰国途中の裴璆に会い、別離に際し詩を贈り、裴璆を感嘆させる。のちに勅命を受けずに蕃客に詩を寄せたとして咎められるが、裴璆が称賛したため許された。
※都在中の越前権掾在任年年間は不明。延喜19年(919)にも渤海大使として裴璆が来朝し、翌年に帰国しているので、この時の可能性もある。
909. 在唐留学生である崔彦ヒが帰国する。
※崔彦ヒが帰国した年については、『高麗史』92「年四十二始還」とあり、崔彦ヒが42歳の時である。また、『同』92「惠宗元年卒年七十七」とあり、崔彦ヒが「惠宗元年(944)」に77歳で死去していることから、崔彦ヒが帰国した年は「孝恭王13年(909)」と考えられるか。
918.6.15 弓裔の部下が王建を王に推戴する。建(太祖)は即位し、国号を高麗、年号を天授とする。
『資治通鑑』271均王下「(龍徳二年十二月〈922〉)大封王躬乂、性殘忍、海軍統帥王建殺之、自立、復稱高麗王、以開州爲東京、平壤爲西京。建儉約ェ厚、國人安之。」
『三国史記』12新羅本紀「(景明王二年〈918〉)夏六月。弓裔麾下人忽變。推戴太祖。弓裔出奔。爲下所殺。太祖即位稱元。」
『三国史記』50弓裔「弓裔起自唐大順二年(891)。至朱梁貞明四年(918)。凡二十八年而滅。」
『三国史記』50甄萱「貞明四年戊寅。鐵圓京衆心忽變。推戴我太祖卽位。萱聞之。」
『三國遺事』2甄萱「貞明四年戊寅。鐵原京衆心忽變。推戴我太祖即位。萱聞之遣使稱賀。」
『高麗史』1世家「戌寅(天授)元年(918)六月丙辰即位于布政殿國號高麗改元天授」
『高麗史節要』太祖神聖大王「戌寅元年【後栔末帝貞明四年契丹太祖神晋三年】夏六月丙辰太祖即位于布政殿國號高麗改元天授」
※『三国史記』12では、王建が即位した日付に関する記述はないが、『高麗史』1と『高麗史節要』では918年「六月丙辰(15日)」とする。従う。また、『三国史記』2と、『三國遺事』2は918年とする。なお、『資治通鑑』では、922年の記事とする。
919.12.1 存問渤海客使に橘惟親・依知秦広助、通事に阿波権掾大和有卿を任じる。
『日本紀略』延喜十九年十二月一日甲午条「十二月一日甲午。任渤海客存問使等。」
『貞信公記抄』延喜十九年十二月五日条「五日、任存問使・通事等、」
『扶桑略記』24 延喜十九年十二月五日条「十二月五日。以式部少丞橘惟親。直講依知秦廣助。爲存問渤海客使。阿波權掾大和有卿爲通事。定渤海客饗宴日權酒部數四十人。…」
※史料に異同があるが、『記略』にしたがう。
920.2 康州の将軍である閏雄は高麗王・太祖に投降する。
『三国史記』12新羅本紀「(景明王四年〈920〉)二月。康州將軍閏雄降於太祖。」
『高麗史』1世家「(景明王三年春正月〈919〉)康州將軍閏雄遣子爲一康質…。」
※『三国史記』では、閏雄が高麗王・太祖に投降した月を「(景明王四年)二月。」(920年2月)としているが、『高麗史』では924年の記事とする。ここでは、『三国史記』に従う。
920.5.10 渤海大使裴璆に正三位授位。
※『朝野群載』に収録されている裴璆の位記は、延喜八年三月十日付であるが、ここでは『日本紀略』にしたがった。
924.5.19 渤海國王大諲譔が、王子である大元讓を朝貢使として派遣する。
『旧五代史』32荘宗紀「(同光二年夏五月〈924〉)丙辰、渤海國王大諲撰遣使貢方物。」
『新五代史』5荘宗下「(同光二年夏五月)丙辰、渤海國王大諲譔遣使者來。」
『冊府元亀』976褒異3「(同光二年〉)五月庚申、賜渤海朝貢使大元讓等分物有差。」
『冊府元亀』972朝貢5「(同光二年)五月、渤海國王大諲譔遣使姪元讓貢方物。」
『五代会要』30渤海「(同光二年)五月又遣王子…。」
※渤海國王大諲譔が、王子である大元讓を朝貢使として派遣した日付については、『旧五代史』と『新五代史』では、「(同光二年夏五月)丙辰」としているが、『冊府元亀』976「(同光二年)五月庚申」としている。ここでは、『旧五代史』と『新五代史』に従う。
924.8 景明王死去。景哀王即位する。高麗・太祖が弔問の使者を送る。
『三国史記』12新羅本紀「(景明王八年〈924〉)秋八月。王薨。諡曰景明。葬于黄福寺北。太祖遣使弔祭。」
『高麗史』1太祖「(天授七年〈924〉)九月新羅王昇英薨其弟魏膺立來告喪王擧哀設齋追lュ使弔之」
※『三国史記』では景明王が死去し、景哀王が即位する月を「(景明王八年)秋八月。」とし、『高麗史』では「(天授七年)九月」としている。ここでは『三国史記』に従う。
926.2 契丹、渤海扶余城攻略。東丹国と更名。
『遼史』2太祖下「(天顯元年〈926〉二月)以平渤海遣使報唐。…丙午、改渤海國爲東丹、忽汗城爲天福。…。」
『遼史』70屬國表「(天顯元年二月)改渤海國爲東丹國、忽汗城爲天福城。」
『資治通鑑』275明宗「(天成元年〈926〉)契丹主攻勃海、拔其夫餘城、更命曰東丹國。命其長子突欲鎮東丹、號人皇王、以次子コ光守西樓、號元帥太子。」
『五代会要』29契丹「天成元年九月。攻渤海國扶餘城。下之。命其長子突欲爲國主。號東丹王。其月二十七日。」
『五代会要』30渤海「天成元年……其年七月。遣使大照佐等六人朝貢。先是契丹大首領邪律阿保機。……攻渤海扶餘城。下之。改扶餘城爲東丹府。……。」
『高麗史』1太祖「(天授)八年(925)(中略)秋九月…庚子…契丹主謂左右曰世讎未雪豈宜安處乃大舉攻渤海大諲譔圍忽汗城大諲譔戰敗乞降遂滅渤海於是其國人來奔者相繼…」
※『遼史』2と『遼史』70では2月とし、『五代会要』30は7月の渤海からの遣使の報告として記載するが、『五代会要』29は9月とする。ここでは、『遼史』に従って、2月のこととする。また、『高麗史』では、渤海滅亡による投降者の増加に関する記事を925年とする。
926.04. 甄萱の甥・真虎が死亡する。
『三国史記』12新羅本紀「(景哀王)三年(926)夏四月。眞虎暴死。」
『三国史記』50列伝「(同光)四年(926)眞虎暴卒。」
『三國遺事』2紀異「(同光)四年(926)眞虎暴卒。」
『高麗史』1太祖「【丙戌】(太祖)九年(926)夏四月庚辰甄萱質子眞虎病死…。」
※『高麗史』では、真虎が死亡した日付を「九年夏四月庚辰」としているが、この年4月に庚辰はない。
926.5.21 興福寺の僧寛建の入唐求法、五臺山巡礼の請いを許し、黄金小100両を賜う。
『扶桑略記』『和漢合符』は、寛建の五台山巡礼を延長4年(926)とするが、『宋史』日本伝は「次仁和天皇、當此土梁龍徳中、遣僧寛建等入朝。」とし、後梁の龍徳年中(921〜923年)のこととする。
926.7.27 契丹の阿保機、扶余城にて死去。
『資治通鑑』275明宗「(天成元年〈926〉七月)辛巳、契丹主阿保機卒於夫餘城、…。」
『遼史』2太祖下「(天成元年七月)辛巳……是日、上崩、年五十五。」
『五代会要』29契丹「天成元年九月。攻渤海國扶餘城。下之。命其長子突欲爲國主。號東丹王。其月二十七日。阿保機得疾而死。」
『五代会要』30渤海「天成元年……其年七月。遣使大照佐等六人朝貢。先是契丹大首領邪律阿保機。……攻渤海扶餘城。下之。改扶餘城爲東丹府。……末幾。阿保機死。渤海王命其弟率兵攻扶餘城。不能克保衆而退。」
※『資治通鑑』275と『遼史』2は、7月「辛巳(27日)」とし、『五代会要』30は7月の渤海からの遣使の報告として記載するが、『五代会要』29では、扶余城攻略を9月とし、阿保機死去を「其月二十七日」とする。ここでは、『資治通鑑』275と『遼史』2に従う。