異国牒状記

異国牒状事

応神天皇の御代より正応にいたるまて数十ヶ度の例いまさらしるし申におよハす且ハ異朝の牒書の事才人なとの存知すへき事なりしかあれとも日本国事はことに往跡にまかせて沙汰ある事なれハ粗先規をしるし申はかりなり

(中略)

一 代々異国よりの礼節の事<礼ニかな井たる例をも少々のす>

応神天皇廿八年九月高麗の牒状到来その文にいはく高麗の王日本国に教ふとこれをかく太子兔道稚郎子その文をよみて高麗の使をせめて無礼なりとて即これを破棄つ

推古天皇二年正月異朝隋国の牒状到来その文ニいはく皇帝和王ニ問聖徳太子此状を御らんして天子と書すして和王とかける事をにくミてその使を賞せす

同十六年八月又異朝隋煬帝の書にいはく皇帝和王にとふかく無礼なりといへとも返牒をつかハしていわく東天王西皇帝に申とかゝる隋煬帝これをミて悦すと云々

斉明天皇七年高麗の王の牒状ニいはく大高麗国謹白大和国天皇ニ高麗ハ本朝にしたかへる国也無礼のよし沙汰あり

天智天皇十年牒状到来その書にいはく大唐皇帝敬問日本国天皇ニ礼節は子細なしといへとも返牒ハなし

天武天皇元年二月唐牒状のはこの上に題云大唐皇帝敬て和王に問と書く返牒なし

文武天皇慶雲二年唐牒状にいはく皇帝書を日本国の王に致すとかく返牒なし

長徳三年五月高麗の牒到来文章旧儀ニたかふ上其状躰蕃礼にそむくよし沙汰ありて返牒なし

承暦四年九月太宗国明州牒状越前国敦賀津につくその状にいはく大宗国明州牒日本国太宰府とかく諸道の輩に仰て勘らるゝ処ニ牒状の躰先例にかなハす猥に聖旨と称す蕃礼にそむくとて京都に達かたきよし宰府の返牒をつかハす

元永元年九月宋朝牒状到来其状にいはく知明州軍州事云々諸道勘文ニ及ふ書躰先例に背うへ公家に進するおもむきなきよし沙汰ありて返牒なし

天福二年正月牒状沙汰ありて返牒清書に及といへとも関東子細を申によりてこれをとゝめらる彼返牒案武将の命をうけて大宰府よりつかハす躰也為長卿これをつくる

仁治元年四月牒状到来関白直廬にて議定あり将軍の返牒たるへきよし人々一同に申といへともつゐに返牒をつかハさす

文永五年二月牒状到来其状無礼によりて返牒に及ハす

同六年十二月牒状到来又無礼によりて返牒に及ハす

同八年十月牒状到来牒の使趙良弼ちきに天皇にたてまつるへきよし申て牒状をいたさす仍宣旨を宰府に下されてめさるゝ時正文をいたす

建治元年五月同十月弘安二年七月牒状到来といへとも襲来の企あるによりて返牒をつかハさす

正応五年十二月高麗牒状到来返牒なし

一 返牒なき時宣旨をくたし大宰府の返牒以下の事

延喜七年五月新羅牒状到来文章博士等に仰て大宰府の返状を作てつかハす

寛仁三年九月高麗国の牒到来太宰府の返牒を下して帰遣へきよし宣下あり

承徳元年五月大宋国明州牒到来太宰府の返牒を遣へきよし官符を彼府にたまふ権帥匡房卿これをつくる勅宣のよしをのせす宰府私の牒のよしなり

永承六年七月高麗国牒到来其礼なきによりて宰府牒をつかハす

承安三年二月大宋国明州牒到来入道太政大臣返牒をつかハす其状云日本国沙門静海牒とこれをかく永範卿これをつくる

天福二年五月宰府の返牒をつかハすへきよし沙汰ありといへとも関東計申につきてこえrをつかハされす<子細右にしるす>

承暦四年九月宰府の返牒を遺す<子細右にしるす>

一 礼物ハ已紛失歟代々返牒なき時これをかへさる又とゝめらる例ありといへとも其礼にかなハす

一 牒使には粮物給う先規なり又返牒なき時ハ給ハぬ事もあり今度一向武家の御沙汰たるへきあいた子細をしるさす

 以上このほか返牒ある例をハりゃくしてこれをしるさす又小弐わたくしの返状なとをつかハす近例候歟然而公家の所見くハしからす候