古代東アジア世界史年表(618〜700年)

西暦 月日 日本 中国 朝鮮 日本
年号
中国
年号
朝鮮
年号
渤海年号
事項 出典史料 事項 出典史料 事項 出典史料
618 3・11     煬帝、宇文化及らにより殺害される。       推古26 義寧2 真平王40(新)
栄留王1(高)
武王19(百)
 
5・14     李淵、恭帝より禅譲を受ける。隋滅亡。唐建国。       唐・武徳1
(高祖)
5・20     高祖即位。武徳に改元。      
8・1 高句麗使、隋・煬帝が軍30万を率いて攻撃したことを告げる。 書紀          
9         高句麗嬰陽王、崩御。栄留王即位。 史記20  
この年 河辺臣を派遣し、安芸国に船を造らせる。 書紀          
この年         新羅北漢山州の軍主・辺品、椵岑城を奪い返そうと百済に出兵する。この時、奚論が従軍したが、戦死する。奚論は(611年の椵岑城の戦で戦死した)讃徳の子である。 史記4  
史記27  
この頃     新羅、大業年間以来、毎年隋に朝貢する。新羅の地は峻嶮な山地が多いため、百済と抗争するも、百済は新羅を降すことができないという。 北史94新羅   史記47奚論  
619 2     高句麗、遣使来朝。 旧唐199上 高麗 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20 推古27 武徳2 真平王41(新)
栄留王2(高)
武王20(百)
 
冊府970
620 8 掖玖人2人、伊豆島に流れ着く。 書紀         推古28 武徳3 真平王42(新)
栄留王3(高)
武王21(百)
 
621 7・22(乙丑)     高句麗、朝貢。 旧唐199上 高麗 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20 推古29 武徳4 真平王43(新)
栄留王4(高)
武王22(百)
 
通鑑189
10     新羅、遣使朝貢する。高祖、自ら使臣を慰問し、璽書・綿綵を賜う。 庾文素を新羅に遣わす。  旧唐199上 新羅 新羅王、使臣を唐へ遣わし方物を貢す。唐の高祖、自ら使臣を慰問し、璽書・綿綵を賜う。 唐使の庾文素を同行して帰国。   史記4
新唐220新羅
冊府970
10     高句麗、遣使朝貢する。 冊府970    
10     百済、遣使朝貢し、果下馬を献上する。 旧唐199上 百済 百済、使臣を唐に遣わし、果下馬を献上する。 史記27
新唐220百済
冊府970
唐会要95
この年 新羅使奈末伊弥買、来朝し書を進める。新羅の上表のはじめ。 書紀        
この年         新羅、倭との外交を掌る倭典(倭典の創置時期は不明)の号を改めて領客典とする。後にまた別に倭典を置く。 史記38
この頃     高祖、海東の三国(新羅・高句麗・百済)が互いに怨みを持ち、不和である事に対し、和睦するようすすめる。また、新羅の使節に怨みの原因を問う。 旧唐199上 新羅    
新唐220新羅
622 2・22 聖徳太子、没。(49歳)           推古30 武徳5 真平王44(新)
栄留王5(高)
武王23(百)
 
この年     高句麗、隋との交戦時の残留者を唐に還す 旧唐199上 高麗 高句麗の栄留王、使臣を唐へ遣わす。また、唐高祖の詔書を受けて、隋との交戦時の残留者を唐に送り還す。 史記20
新唐220高句麗
通鑑190
冊府970
623 7 学問僧恵済・恵光、医師恵日、倭漢福因等、新羅使奈末智洗爾・任那使達率奈末智に伴われて唐より帰国する。恵日ら、在唐留学生は学業を終了しているので召還すべきこと、唐は法式の優れた国家であるので通交すべきことなどを朝廷に進言する。 書紀         推古31 武徳6 真平王45(新)
栄留王6(高)
武王24(百)
 
元亨16恵済
元亨20
善隣記
伝暦 下
続紀 天平宝字2・4・28条
10     新羅、朝貢 冊府970 新羅真平王、使臣を唐へ遣わす。 史記4
10         百済が新羅の勒弩県を襲う。 史記4
史記27
12     高句麗、朝貢 旧唐61温彦博 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20
冊府970
624 1・己酉     沈叔安を遣わして、高句麗王高武を遼東郡王・百済王扶餘璋を帯方郡王・新羅王金真平を楽浪郡王として冊封する。また、道士を高句麗に派遣、『老子』を講ず 旧唐1 高祖 高句麗の栄留王、唐に使臣を派遣して、班暦を請う。唐は、沈叔安を遣わし、王を冊封して「上柱国遼東郡公高句麗王」とした。また、道士に、天尊像と道法を持たせて派遣し、『老子』を講ずる。 史記20 推古32 武徳7 真平王46(新)
栄留王7(高)
武王25(百)
 
旧唐199上 高麗
新唐220高句麗
通鑑190
冊府964
唐会要95
冊府977
1・己酉     百済王扶餘璋を帯方郡王として冊封する。これ以降、毎年朝貢するという。 旧唐1高祖 百済の武王、大臣を唐に派遣し、朝貢する。唐の高祖、使臣を遣わし「帯方郡王百済王」に冊封する。 史記27
旧唐199上 百済
新唐220百済
通鑑190
冊府964
1・己酉     新羅王金真平を楽浪郡王として冊封する。 旧唐1高祖 唐の高祖、使臣を遣わして新羅真平王を「柱国楽浪郡公新羅王」に封じる。 史記4
旧唐199上 新羅
新唐220新羅
通鑑190
冊府964
4・17 勒を僧正、鞍部徳積を僧都、阿曇某を法頭に任ず。 書紀        
5     百済、遣使朝貢する。 冊府970    
7     百済、遣使朝貢する。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記27
9     百済、明光鎧(光明甲)を献ず。 旧唐199上 百済    
新唐220百済
冊府970朝
10         百済、新羅の6城を攻めとる。この際、新羅の訥催戦死。 史記4
史記27
史記47訥催
12     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20
625 1・7 高句麗王、僧恵灌を貢進する。恵灌を僧正に任じる。 書紀         推古33 武徳8 真平王47(新)
栄留王8(高)
武王26(百)
 
11     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、唐へ使臣を遣わして、高句麗が唐へ入朝する路を塞いでいること、またしばしば(百済が)新羅を侵していることを訴える。 史記4
11     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記27
この年     高句麗、仏教・道教を求法。 冊府999 高句麗、人を入唐させ、仏法・老法を求法させる。唐帝、これを許す。 史記20
626 6・4     玄武門の変。       推古34 武徳9 真平王48(新)
栄留王9(高)
武王27(百)
 
  8     高祖譲位し、太宗、即位。         武徳9(太宗)    
  8         百済、新羅の主在城を攻める。主在城主の東所、捕らえられ殺害される。 史記4        
          史記27        
  この年     新羅、高麗、百濟、朝貢する。新羅使、高句麗の交通妨害と百済の侵略について訴える。百済は光明鎧を献上し、高句麗による交通妨害を訴える。高祖は朱子奢を派遣して三国に和睦するよう諭す。三国皆上表して謝罪する。 旧唐2 太宗上 新羅、高麗、百濟、朝貢する。百済、光明鎧を献上し、高句麗の塞路を訴える。唐の高祖、三国に和睦するよう諭す。高句麗王、陳謝の書を奉じ、二国との和平を請う。 史記4        
    旧唐189上朱子奢 史記20        
    旧唐199上 高麗 史記27        
    旧唐199上百済          
    新唐198朱子奢          
    新唐220高句麗          
    新唐220百済          
    通鑑192          
    冊府970          
    冊府1000          
627 1・1     貞観に改元。       推古35 貞観1
(太宗)
真平王49(新)
栄留王10(高)
武王28(百)
 
6     新羅、朝貢 冊府970 新羅真平王、使臣を唐へ遣わす。 史記4
7         百済、新羅の西鄙2城を奪う。百済の武王は、新羅が奪った土地を取り戻そうと、挙兵して熊津に駐屯する。新羅の真平王、これを聞いて、唐に遣使し、急を告げる。武王、このことを聞いて、中止する。 史記4
史記27
8     唐、百済の新羅侵攻を責める。百済、遣使して陳謝。しかし、内心では仇として怨むことは以前と変わりないという。 旧唐199上 百済 百済王、姪(甥)の福信を唐に遣わして朝貢する。唐の太宗は百済王に璽書を賜って、新羅侵攻を責める。百済、表を奉って陳謝する。しかし、表面では命令に従うよう見せかけながらも、内心では仇として怨むことは以前と変わりないという。 史記27
新唐220百済
11     新羅、朝貢。 冊府970 新羅真平王、使臣を唐へ遣わす。 史記4
628 2         百済、新羅の椵岑城を攻める。 史記4 推古36 貞観2 真平王50(新)
栄留王11(高)
武王29(百)
 
史記27
3・7 推古崩御。          
9     3月に唐が東突厥を破ったのを祝して、高句麗が遣使し奉賀。あわせて封域図を進上する。 旧唐199上 高麗  高句麗、唐が東突厥の頡利可汗を捕らえたことを賀する使を派遣し、あわせて封域図を進上する。 史記20
新唐220 高麗
冊府970
推古期 行善、高句麗に留学。 霊異記上6        
629 1・4 舒明即位。           舒明1 貞観3 真平王51(新)
栄留王12(高)
武王30(百)
 
4・1 田部連を掖玖に派遣する。 書紀        
8         新羅、高句麗の娘臂城を破る。 史記4
史記20
史記41金庾信伝
9     新羅、朝貢 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣わす。 史記4
9     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐へ遣わす。 史記20
9     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わす。 史記27
旧唐199
新唐220
この年     玄奘、インドへ向け出発(〜645年1月)。      
630 3・1 高句麗大使宴子抜・小使若徳、百済大使恩率素子・小使徳率武徳、ともに朝貢する。 書紀         舒明2 貞観4 真平王52(新)
栄留王13(高)
武王31(百)
 
      諸蕃の君長、長安に至り太宗に天可汗の称号を奉る。      
8・5 犬上御田鍬・薬師恵日らを唐に派遣する。(第1回遣唐使)翌年11月に、太宗に謁見する。(翌年11・12の事項参照) 書紀        
続紀 天平宝字2・4・28条
8・8 高句麗・百済使を饗す。 書紀        
9・4 高句麗・百済使帰国する。 書紀        
9 田部連、掖玖より帰朝する。 書紀        
この年 難波大郡及び三韓館を改修する。 書紀        
631 2・10 掖玖人、帰化する。 書紀         舒明3 貞観5 真平王53(新)
栄留王14(高)
武王32(百)
 
3・1 百済王義慈が、王子豊璋を質として貢上し、日本に到る。 書紀        
7     新羅から献上された美女(楽師)二人を送り返す。 冊府168 新羅、唐に使臣を遣わして美女二人を献上する。唐の太宗、魏徴の進言により、二人を送り返す。 史記4
旧唐199新羅
新唐220新羅
通鑑193
8・17     高句麗に遣使して京観を毀す。また、長孫子を派遣して戦亡隋人の骨を収む。高句麗、長城を築いて唐に備える。 旧唐3太宗下 唐、高句麗に遣使して、戦亡隋人の骨を収む。また、高句麗の京観を毀す。これより先の2月、高句麗、長城を築いて唐に備える。 史記20
新唐2太宗
旧唐199上 高麗 
新唐220高麗
通鑑193
9     百済、朝貢する。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わす。 史記27
11 倭国遣使。太宗、その遠い道のりをあわれみ、歳貢を免ず。高表仁をつけて送らせる。 善隣記 倭、朝貢。唐、歳貢を免除する。高表仁、帰国に同行する。 旧唐199上 倭国    
通典185倭
唐会要99倭国
冊府662
冊府664高表仁
冊府970
新唐220日本
通鑑193
法苑珠林38
集神州三宝感通錄 上20
新羅・真平王期         彗星があらわれ、心大星を犯そうとするのを見た3人の花郎、楓岳遊覧を中止しようとする。時に融天師、歌を作ってうたうと、星は忽ち滅し、日本兵は国に帰ったという。
書紀推古8年条の境部臣の新羅出兵にかかわるか。
遺事5融天師彗星歌
632 1     新羅の真平王薨ず。その娘善徳を王とする。太宗、詔書を送って新平王に左光禄大夫を贈り、賻物200段を賜う。 旧唐199上 新羅 新羅の真平王薨ず。唐の太宗、詔書を送って王に左光禄大夫を贈り、絹200段を賻儀として賜う。 史記4 舒明4 貞観6 善徳王1(新)
栄留王15(高)
武王33(百)
 
新唐220新羅
通鑑193
7         百済、兵を発して新羅を攻める。 史記27
8 犬上御田鍬、唐使高表仁に送られて帰国の途につく。入唐留学僧霊雲・日文・学問生勝鳥養らも同行。新羅を経て、この月、新羅の送使と共に対馬に帰着。 書紀        
続後紀 承和3・12・3条  
元亨16僧旻  
善隣記  
10・4 唐使高表仁ら、難波津に着。大伴馬養を江口に派遣して歓迎し、客館に安置する。 書紀 高表仁、難波津に到る。 唐会要99倭国    
略記 冊府662
冊府664高表仁
12     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐へ遣わす。 史記5
12     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わす。 史記27
633 1・26 唐使、高表仁ら帰国する。吉士雄摩呂らに対馬まで送らせる。 書紀 高表仁、倭王と礼を争い、朝命を宣べずに帰途につく。表仁、帰国後「綏遠の才無し」と評される。 旧唐199上 倭国     舒明5 貞観7 善徳王2(新)
栄留王16(高)
武王34(百)
 
通典185倭
唐会要99倭国
冊府664奉使部・失指高表仁
新唐220日本
7         新羅、使臣を唐へ遣わして朝貢する。 史記5
8         百濟、新羅の西谷城を攻め、陥落させる。 史記5
史記27
634               舒明6 貞観8 善徳王3(新)
栄留王17(高)
武王35(百)
 
635 6・10 百濟使、達率柔ら、朝貢する。 書紀         舒明7 貞観9 善徳王4(新)
栄留王18(高)
武王36(百)
 
7・7 百濟使を饗す。 書紀        
11     百済、来朝。 冊府970    
この年     新羅善徳王を封じて、楽浪郡王・新羅王とする。新羅人は善徳王に聖祖皇姑の称号を奉ったという。 旧唐199上 新羅 唐、持節使を派遣して、新羅善徳王を「柱国楽浪郡公新羅王」に冊封し、父王の封爵を承襲させる。 史記5
新唐220新羅
冊府964
636 2     百済、来朝する。 冊府970 百済、使臣を唐へ遣わす。 史記27 舒明8 貞観10 善徳王5(新)
栄留王19(高)
武王37(百)
 
5         百済、新羅の独山城を襲撃する。百済の将軍于召捕らえられる。 史記5
史記27
遺事1善徳王知幾三事
この年         新羅の慈蔵、入唐留学する(吉川年表)。638年説もあり。 史記5
遺事塔像皇竜寺九層塔
637 12・11     百済太子隆、来朝。鉄甲と雕斧を献上する。太宗、錦袍及び彩帛3000段を賜う。 旧唐3太宗下 百済、使臣を唐に遣わし鉄甲と雕斧を献上する。唐の太宗、錦袍及び彩帛3000段を賜う。 史記27 舒明9 貞観11 善徳王6(新)
栄留王20(高)
武王38(百)
 
旧唐199上 百済
新唐220百済
冊府970
638 10・25     百済、金甲雕斧献上。 旧唐3太宗下     舒明10 貞観12 善徳王7(新)
栄留王21(高)
武王39(百)
 
10         高句麗、新羅の七重城を攻める。 史記5
史記20
11         新羅の将軍、閼川、七重城で高句麗兵と戦い、打ち勝つ。 史記5
この年 百済・新羅・任那、朝貢する。 書紀        
この年         新羅僧慈蔵、門人を率いて入唐する。 史記5
遺事3台山五万真身
遺事4慈蔵
皇龍寺刹柱本記
続高僧伝24
639 9 入唐学問僧恵隠・恵雲、新羅を経て帰国。新羅送使とともに入京する。 書紀         舒明11 貞観13 善徳王8(新)
栄留王22(高)
武王40(百)
 
元亨16恵隠
善隣記
10     百済、金甲と雕斧献上する。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わし金甲と雕斧を献上する。 史記27
11・1 新羅使を饗し、冠位を給う。 書紀        
略記
この年     高句麗、新羅、朝貢する。 旧唐3    
640 2     国子監に学ぶ諸国の子弟8000余人という。 旧唐189上 百済王、子弟を唐に遣わし、国学への入学を請う。 史記27 舒明12 貞観14 善徳王9(新)
栄留王23(高)
武王41(百)
 
  新唐44
  新唐198
  唐会要35学校
  通鑑195
5     太宗、天下の有名な儒学者を多く呼び寄せて学官にし、国子監で講義させる。大経に通じた学生の官吏登用、校舎増設による学生増を実施。学生は3260人に達した。そのため、各地から学ぶ者が京師に集まり、高句麗・百済・高昌・吐蕃などの諸国からも子弟を送って入学させたという。 旧唐189上 新羅王、子弟たちを唐に派遣して、国学への入学を請う。この時、唐の太宗、天下の有名な儒学者を多く呼び寄せて学官にし、国子監にて講義させる。学生で、よく大経に通じたものは官吏に登用できるようにし、また、校舎を増設して学生数を増し、3260人に達した。そのため、各地から学ぶ者が京師に集まり、高句麗・百済・高昌・吐蕃などの諸国からも子弟を送って入学させたという。 史記5
新唐44
新唐198
唐会要35学校
通鑑195
10・11 入唐学問僧請安・学生高向玄理、新羅・百済使に送られて帰国する。新羅・百済朝貢。位を給う。 書紀        
元亨20
12・23     高句麗太子桓(相)権来朝し、方物を貢す。 旧唐3太宗下 高句麗王、太子の桓権を唐に遣わして朝貢する。また、子弟の国学入学を請う。 史記20
旧唐189上
旧唐199上 高麗
新唐44
新唐198
唐会要35学校
新唐220高句麗
冊府970
冊府974
百済・武王朝     百済の武王の代(600〜640)、高句麗と結託・倭国と交通して新羅を侵す 旧唐199上 百済   史記6文武王5・8条
新唐220百済 遺事1太宗春秋公
641 1         唐の太宗、高句麗王の太子桓権の入朝に対し、陳大徳を遣わして答礼させる。大徳、使者としての立場を利用し、高句麗の様子を観察、太宗に報告する。 史記20 舒明13 貞観15 善徳王10(新)
栄留王24(高)
義慈王1(百)
 
3     百済王、扶餘璋が没したことを聞き、太宗、扶餘義慈を冊封し、父王の位を嗣がせて、帯方郡王とする。 旧唐3 太宗下 同年5・15条 百済の武王薨ず。唐に使臣を遣わし、このことを伝えると、太宗は玄武門にて挙哀する。また、鄭文表を遣わして、光禄大夫を追贈し、賻物を贈り、義慈王を「柱国帯方郡王百済王」に冊封する。 史記27
旧唐199上 百済 史記28
新唐220百済
通鑑196
冊府964
8・10     これより先、太宗、高句麗に陳大徳を遣わし、高句麗国内の様子を探らせる。8月10日、陳大徳、高句麗より還り、太宗に高句麗の様子を奏上する。太宗、大いに悦ぶ。 新唐220高句麗    
通鑑196
8         百済王、使臣を唐に遣わして、表文をもって感謝を述べ、あわせて方物を献上する。 史記28
10・9 舒明天皇崩御。          
642 1・15 皇極天皇即位。           皇極1 貞観16 善徳王11(新)
宝蔵王1(高)
義慈王2(百)
 
1・19 これより先、阿曇比羅夫、百済使を伴って筑紫に帰着する。この日、比羅夫、単独入京。舒明天皇の死去にあたっての百済義慈王からの弔使派遣、葬儀に参列するための自身の入京、百済の国情の乱れなどを奏する。 書紀        
1     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐に遣わして方物を献上する。 史記5
1     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記20
1     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記28
2・2 阿曇比羅夫らを百済弔使のもとに派遣し、来日の事情を問う。百済使、国内の乱れなどを語る。 書紀        
2・6 高句麗使、難波に到る。 書紀        
2・21 諸大夫を難波郡に遣わし、高句麗使の献上品を検じさせる。高句麗使、去年の王弟の太陽王の死や、大臣泉蓋蘇文による王及び大臣など180余人の殺害、太陽王の子を王とし(宝臧王)、親族を大臣にしたこと等を述べる。*記年校異ありか? 書紀     高句麗泉蓋蘇文、王などを殺害、国事専制する。 史記20栄留王25・10条
史記49蓋蘇文
2・22 高句麗・百済使を難波に饗す。津守大海を遣高句麗使、国勝水鶏を遣百済使、草壁真跡を遣新羅使、坂本長兄を遣任那使に任じる。 書紀        
2・24 百済義慈王弟の翹岐を、安曇山背連比良夫の家に住まわせる。 書紀        
2・25 高句麗・百済使を饗す。 書紀        
2・27 高句麗・百済使、帰国。 書紀        
3・6 新羅の賀騰極使・弔喪使来朝する。 書紀        
3・15 新羅使、帰国する。 書紀        
4・8 百済大使翹岐、従者を率いて拝朝する。 書紀        
4・10 蘇我馬子、翹岐らを畝傍の家に招き、歓談し、馬・鉄を贈る。 書紀        
5・5 河内国依網屯倉前に翹岐らを招き、射猟を見せる。 書紀        
5・16 遣百済使国勝水鶏、百済調使を伴って帰国し、難波津に着。 書紀        
5・18 百済使、調を進める。国勝水鶏復命する。 書紀        
5・21 翹岐の従者1名死去。 書紀        
5・22 翹岐の子死去。翹岐と妻、葬儀に不参。百済・新羅の風俗による。 書紀        
5・24 翹岐、妻子と共に百済大井の家に移り、人を派遣して子の遺体を石川に葬らせる。 書紀        
7・22 百済使大佐平智積らを饗す。健児の相撲を翹岐らに見せる。饗宴終了後、智積ら翹岐の門を拝す。 書紀        
7     百済義慈王、自ら兵を率い、新羅西部の40余城を攻略。 旧唐199上 百済 百済義慈王、自ら兵を率い、新羅西部の40余城を攻略。 史記5
新唐220百済 史記28
8・6 百済使参官らに帰国のための船を給う。同夜、暴風雨のため破損する。 書紀        
8・13 百済の質達率長福に小徳を授く。中客以下にも位一級を授ける。 書紀        
8・15 百済使参官らに船を給い、帰国させる。 書紀        
8・16 高句麗使帰国する。 書紀        
8・26 百済・新羅使帰国する。 書紀        
8     百済、高句麗と結び新羅を侵略する。党(新唐は「棠」に作る)項城を攻めとり、新羅から唐に通じる路を絶とうとする。新羅王、唐の太宗に急を告げる。 旧唐199上 百済 百済、高句麗と共謀して党項城を攻めとり、新羅から唐に通じる路を絶とうとしたため、新羅王、唐の太宗に急を告げる。またこの月、百済の将軍允忠、新羅の大耶城を攻め、城主の品釈らを殺害する。 史記5
新唐220百済
10・15 新羅の弔使・賀騰使ら、壱岐島に着く。 書紀        
10     高句麗の大臣、蓋蘇文、その君、高武を殺害し、武の兄の子、蔵を王とする。 旧唐3太宗下 高句麗泉蓋蘇文、王などを殺害し、栄留王弟(太陽王)の子を王として擁立(宝蔵王)する。 史記20
旧唐199上 高麗 史記21
新唐220高句麗 史記49蓋蘇文
11・5(丁巳)     張倹、高句麗の大臣蓋蘇文が高武を殺害したことを奏す。太宗、高句麗王の死を聞いて苑中で挙哀し、賻物を賜い、持節使を遣わして故王を弔祭させる。 旧唐199上 高麗 唐の太宗、高句麗王の死を聞いて苑中で挙哀し、賻物を賜い、持節使を遣わして故王を弔祭させる。  
新唐220高句麗
通鑑196
11     亳州刺史裴行莊、高句麗討伐を請うが、太宗、高句麗王の喪であることと山東が疲弊していることを理由に出兵せず。 通鑑196    
        新羅王、大耶城戦役の報復のために、百済征伐をはかり、高句麗に金春秋を遣わして、援軍を請う。高句麗王(宝蔵)は、竹嶺の返還を条件に出兵をするとしたが、春秋は拒否し、怒った高句麗王は金春秋を拘留する。このことを知った新羅王は、大将軍の金庾信に命じ、兵を高句麗へ送る。高句麗王、これを聞き、金春秋を釈放し、本国へ帰す。 史記5
史記21
史記41金庾信 上
643 1     新羅、朝貢。 冊府970 新羅、使臣を唐に遣わして方物を献上する。 史記5 皇極2 貞観17 善徳王12(新)
宝蔵王2(高)
義慈王3(百)
 
1     高句麗、朝貢。 冊府970 高句麗、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記21
1     百済、朝貢。 冊府970 百済、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記28
3・13 難波の百済客館で火災。 書紀        
3         高句麗王、泉蓋蘇文の求めに応じ、唐に使を遣わして、道教の教授を要請する。太宗、道士の叔達ら8人を高句麗に遣わし、同時に老子の道徳経を送る。 史記21
3         新羅の入唐僧慈蔵、帰国する。 史記5
遺事4慈蔵
4・21 筑紫大宰、馳駅して、百済王子翹岐らが調使とともに来着したことを報じる。 書紀        
6・13 筑紫大宰、馳駅して、高句麗使の来着を報じる。 書紀        
6・23 百済の進調使大使ら、難波津に到る。 書紀        
6     ケ素、高句麗より還る。懐遠鎮の戍兵を増兵して高句麗を逼迫させることを請うも、太宗、その必要は無いという。 通鑑197    
閏6・10以前     太宗、泉蓋蘇文の専横に対し、契丹と靺鞨に高句麗を討たせることを長孫無忌に相談する。長孫無忌、討つにはまだ早いという。 通鑑197    
冊府991
閏6・21     太宗、高句麗王藏を封じて遼東郡王・高麗王とする。 旧唐199上 高麗 太宗、高句麗王藏を封じて遼東郡王・高麗王とする。 史記21
新唐220高麗
通鑑197
冊府964
9・4     新羅、唐に救援を要請。太宗、泉蓋蘇文に新羅を攻めてはならない旨の璽書を持たせ、相里玄奨を高句麗に派遣する。(翌1月着) 旧唐199高麗 新羅、唐に使臣を遣わし、高句麗と百済がしばしば侵略してくることを訴え、救援を要請する。 史記5
旧唐199新羅 史記21
新唐220高句麗
新唐220新羅
通鑑197
冊府991
冊府995
11     新羅、遣使して高句麗と百済がしばしば侵略してくることを訴え、救援を要請する。太宗、相里玄奨を百済に遣わして、新羅を攻めてはならない旨を説諭する。百済王陳謝する。 旧唐199上 百済 百済王、高句麗と和親し、新羅の党項城を攻めて唐への入朝路の杜絶を計るが、新羅王が唐に入朝して救援を請うことを知り断念する。 史記28
新唐220百済
冊府970
この年 百済太子余豊璋、三輪山で蜂蜜を放養するがふえず。 書紀        
644 1     新羅・高句麗・百済朝貢。相里玄奨、平壌に至るが、これより前に高句麗は新羅の2城を攻め取っていた。高句麗に新羅を攻めてはならない旨を説諭するが高句麗の泉蓋蘇文は聞き入れなかった。 旧唐199上 高麗 新羅・高句麗・百済、使臣を唐に遣わして方物を献上する。また、唐の太宗、相里玄奨を高句麗・百済に遣わして、両国に新羅を攻めてはならない旨を説諭する。百済王は陳謝したが、高句麗の泉蓋蘇文は聞き入れなかったため、太宗は高句麗への出兵を決意する。 史記5 皇極3 貞観18 善徳王13(新)
宝蔵王3(高)
義慈王4(百)
 
新唐220高麗 史記21
冊府970 史記28
冊府985  
文館詞林664慰撫 百済王詔
文館詞林664慰撫 新羅王詔
通鑑197
2・1     相里玄奨、唐に帰国。泉蓋蘇文の言を奏上する。諫議大夫の褚遂良らが諫めるも、太宗は高句麗出兵を決意する。 旧唐199上 高麗    
新唐220高麗
通鑑197
「諫太宗親征高麗疏」(『文苑英華』694)
冊府991
7・20     太宗、勅を下して高句麗攻撃のため、船400艘を造らせ、兵糧を輸送する。 新唐220 唐、高句麗攻撃のために船を造る。 史記21
通鑑197
冊府985
7・23     営州都督の張倹、幽州・営州の兵及び契丹・奚を率いて、高句麗を討とうとするが、遼水があふれていたため、還る。 新唐2太宗    
新唐220高麗
冊府985
通鑑197
冊府991
9・25     高句麗、白金を献上するが、受けず。また、官員50人を遣わして宿衛させようとするが、太宗怒って、彼らを大理(刑官)にまかせる。 新唐220高麗 泉蓋蘇文、唐に白金を献上するが、受けず。また、官員50人を遣わして宿衛させようとするが、太宗怒って、彼らを大理(刑官)にまかせる。 史記21
通鑑197
9         新羅王、金庾信を大将軍に任じ、百済の7城を取る。 史記5
史記28
史記41金庾信 上
10・14     太宗、自ら高句麗を討伐することを欲し、洛陽に行幸する。また、軍糧を営州に運び、穀物を古大人城に蓄えさせる。 新唐220高麗 太宗、自ら高句麗を討伐することを宣する。また、軍糧を営州に運ぶ。 史記21
通鑑197
冊府117親征2
11・24     李世勣を遼東道行軍ハ管・張亮を平壌道行軍ハ管に任じ、兵を募って高句麗を討伐する。この時、太子(後の高宗)は、定州に留まることを命じられた。 旧唐3太宗 下 唐の太宗、張亮を平壌道行軍大ハ管・李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じ、両道に分かれて、諸軍及び新羅・百済・奚・契丹に命じて、高句麗を討たせる。 史記21
旧唐199上 高麗
旧唐4高宗 上
新唐2太宗
新唐220高麗
通鑑197
冊府117親征2
12・1(辛丑)     李大亮卒す。高句麗討伐を罷めることを請う表を遺す。 通鑑197    
12・14(甲寅)     諸軍及び新羅・百済・奚・契丹に道を分けて高句麗を攻撃するよう、詔を下す。 通鑑197    
冊府117親征2
645 1     新羅、遣使して朝貢する。 冊府970 新羅、唐に使臣を遣わして方物を献上する。また金庾信、百済より帰還するも百済の大軍がまた辺境を攻めたので、これを防ぐ。 史記5 皇極4 貞観19 善徳王14(新)
宝蔵王4(高)
義慈王5(百)
 
1     百済、太子扶余康信を派遣して朝貢する。 冊府970    
1         遼東道行軍大ハ管の李世勣、幽州に到着。 史記21
2・12     太宗、高句麗攻撃のため、みずから六軍を率いて洛陽を発つ。 旧唐3太宗 下    
旧唐199上 高麗
新唐2太宗
新唐220高麗
通鑑197
冊府259 監国
冊府985 貞観21・3条
3・9(丁丑)     この日、定州着(通鑑)。丁亥(19日)、太宗、遼東攻撃の理由について述べ、病気の兵卒を見舞う(通鑑)。壬辰(24日)、定州を発する(旧唐・通鑑)。また、李世勣、柳城を出発。懐遠鎮へ進軍するよう見せかけ、ひそかに北へ甬道を通って高句麗の不意をつこうとする。 旧唐3太宗 下 太宗、定州に到着。李世勣、柳城を出発。懐遠鎮へ進軍するよう見せかけ、ひそかに北へ甬道を通って高句麗の不意をつこうとする。(李世勣の柳城出発は、旧唐3によれば、貞観18年11月庚子のこと。) 史記21
通鑑197
3         金庾信、再度百済侵攻の報に接し、討伐に向かう。 史記41金庾信 上
4・1 高句麗への留学僧ら帰国し、同学の鞍作得志が高句麗人に毒殺されたことを告げる。 書紀        
4・1     李世勣、玄菟郡に到着。高句麗大いに驚き、城門を閉じ堅守する。 通鑑197 李世勣、玄菟郡に到着。 史記21
4・5(壬寅)     遼東道副總官の江夏王道宗軍数千、新城に至る。営州都督の張倹、建安城を陥落させる。 通鑑197 営州都督の張倹、建安城を陥落させる。 史記21
4・26*     唐、高句麗の蓋牟城を抜く。 旧唐3太宗 下 李世勣らは蓋牟城を陥落させる。また、平壌道行軍大ハ管の張亮、海路から卑沙城を攻める。 史記21同年5月条
旧唐199上 高麗
新唐2太宗
新唐220高麗
通鑑197
5・2     平壌道行軍ハ管の程名振、卑沙城を抜く。男女8千口を没する。 新唐2太宗 卑沙城陥落する。男女8千口を没する。 史記21
旧唐199上 高麗
新唐220高麗
通鑑197
5・17     これより先、李世勣・太宗、遼東城下に到る。この日(17日)、高句麗の遼東城を抜き、この地を遼州とする。新羅、唐を助けて5万の兵を率い、高句麗の水口城を攻める。百済、隙に乗じて新羅の7城(旧唐百済伝は10城とする。)を奪回する。 旧唐3太宗 下 李世勣・太宗、自ら高句麗の遼東城を攻め、陥落させる。新羅、唐軍を助ける。百済、その隙をねらって新羅の7城を奪回する。新羅、金庾信に命じて百済を討たせる。 史記5
旧唐199上 高麗 史記21
旧唐199上 百済 史記28
旧唐199上 新羅 史記41金庾信 上
新唐2太宗  
新唐220高麗  
新唐220百済  
新唐220新羅  
通鑑197  
6・1     5月乙未(28日)、白巌城に進軍。丙申(29日)、高句麗軍を破る。この日、高句麗の白巌城を陥落し、巌州を置く。 新唐2太宗 李世勣、進軍して白巌城を攻める。白巌城、降伏する。 史記21同年5月条
旧唐199上 高麗
新唐220高麗
通鑑197
通鑑198
6・8 中大兄皇子、蘇我倉山田麻呂に三韓進調の日に蘇我入鹿を殺害する計画を謀る。麻呂、許諾する。 書紀        
6・12 大極殿において、蘇我倉山田麻呂が三韓の表文を読み上げるとき、中大兄皇子ら、蘇我入鹿を殺害する。 書紀        
6・14 譲位。孝徳即位。19日、大化に改元。           大化1(孝徳)
6・20     唐軍、高句麗の安市城に到る。 旧唐3太宗 下 太宗、安市城を攻める。 史記21同年5月条
新唐220高麗  
通鑑198  
6・21     安市城救援のため、高句麗の別将、高延壽・高恵真、援軍15万を率いて、唐軍に抵抗するも、これを大いに敗る。 旧唐3太宗 下 安市城救援のため、高句麗の別将、高延壽・高恵真、援軍15万を率いて、唐軍に抵抗するも、敗れる。 史記21同年5月条
新唐2太宗同月己未(23日)条  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
通鑑198  
7・10 高句麗・百済・新羅使ともに朝貢。百済の調使は任那使を兼ね、任那の調を進める。百済大使佐平縁福、病気により津館(難波客館)に留まり、入京せず。巨勢徳太、詔を高句麗使・百済使に宣す。また、三輪東人・馬飼某を遣百済使に任じ、鬼部達率意斯の妻子を送り届けさせる。 書紀        
7     唐軍、高句麗の安市城を攻める。 旧唐3太宗 下    
旧唐199上 高麗
通鑑198
冊府991
8・8 仏教興隆の詔を発する。狛大法師・福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙を十師に任命する。 書紀        
8・8     泉蓋蘇文の間諜を捕らえる。太宗、間諜に食事と履を賜い、送還する。 新唐220高麗    
通鑑198
8・10(丙午)     安市城の南に徒営する。 通鑑198    
9・18     唐軍、安市城を攻め克たず、寒さと兵糧不足のため退却する。太宗、城主の固守したことを嘉賞し、縑を下賜し、君主に対する忠誠を励ます。20日(乙酉)、遼東に至り、21日(丙戌)、遼水を渡る。 旧唐3太宗 下 唐軍、寒気で兵馬が留まれないため、退却する。安市城城主、城に登り礼拝して見送る。太宗、城主の固守したことを嘉賞し、縑を下賜し、君主に対する忠誠を励ます。 史記21同年5月条
旧唐199上 高麗  
新唐2太宗  
新唐220高麗  
通鑑198  
10     1日、唐軍、渤錯水を渡る。この際、風雪のために死ぬ者が続出する。太宗、詔して戦没者の骸骨を集め、柳城に葬り、祭る。渡る際、風雪のために死ぬ者が続出する。凡そこの役では、玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巌・卑沙・夾谷・銀山・後黄など10城を陥落し、遼州・蓋州・巌州の戸口中国に移し、その数は7万であったという。 新唐220高麗 太宗、蒲溝に至って馬を駐め、道に土を積むのを監督する。渤錯水を渡る際、風雪のために死ぬ者が続出する。凡そこの役では、玄菟・横山・蓋牟・磨米・遼東・白巌・卑沙・夾谷・銀山・後黄など10城を陥落し、遼州・蓋州・巌州の戸口中国に移し、その数は7万であったという。 史記21
通鑑198
この年         皇竜寺の九層塔成る。『東都成立記』に、新羅第27代の女王(善徳王)の世は徳はあったが、威が無かったため、九韓の侵略を受けた。もし竜宮の南の皇竜寺に九層の塔(第一層を日本とする)を建立すれば隣国の災いを鎮めることができよう、とある。 史記5
遺事3皇竜寺九層塔
この年     吐蕃、遣使して高句麗攻撃を賀す 旧唐196吐蕃上    
646 1     高句麗、朝貢する。 新唐220高麗     大化2 貞観20 善徳王15(新)
宝蔵王5(高)
義慈王6(百)
 
冊府970
2・1     高句麗討伐で功のない者は勲一等を減じる。 新唐2太宗    
2・15 高句麗・百済・任那・新羅使来朝し、調賦を献ずる。 書紀        
2         太宗、この度の高句麗出兵失敗の理由を家臣に問う。 史記21
3・7     太宗、高句麗より帰還する。 新唐2太宗    
5     高句麗、遣使して謝罪し、あわせて美女2人を献上するも受けず。 旧唐199上 高麗 高句麗王と泉蓋蘇文、使臣を唐に遣わして謝罪し、あわせて美女2人を献上する。太宗、受け取らず。 史記21
新唐220高麗
通鑑198
冊府168
9 小徳高向黒麻呂(玄理)を新羅に派遣し、人質を貢進させ、任那調の貢進を廃止する。 書紀        
9     太宗、高句麗から帰還後に弓・服を蓋蘇文に賜ったが、謝恩の使を派遣しなかったため、高句麗の朝貢を受け取らないよう命じ、高句麗征討を議する。 新唐220高麗 太宗、高句麗の朝貢を受け取らないよう命じ、再び討伐することを議論する。 史記21同年5月条
通鑑198  
冊府996責譲  
647 1・8以前         新羅の上大等曇、善真女王の退位を求めて挙兵する。 史記5 大化3 貞観21 真徳王1(新)
宝蔵王6(高)
義慈王7(百)
 
1・8     新羅女王善徳死す。遣使してその妹真徳を新羅王に冊立する。 旧唐3貞観22・是歳条 新羅善真女王、薨ず。真徳王即位。 史記5善徳王16年条
旧唐199上 新羅 史記5真徳王即位前紀
新唐220新羅
通鑑198貞観22・1月条
冊府964
1・15 高句麗・新羅使来朝して調賦を貢する。 書紀        
1・17         曇を誅する。連座する者30人。 史記5善徳王16年条
史記5真徳王元年1・17条
2         唐の太宗、持節使を新羅に派遣し、前王を光禄大夫を追贈し、ついで新王を冊命して柱国とし、楽浪郡王に封じる。 史記5
3・2     2月太宗、再度高句麗に出兵しようとし、この日、牛進達を青丘道行軍大ハ管、李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じる。 新唐2太宗 太宗、再度高句麗に出兵する。牛進達を青丘道行軍大ハ管、李世勣を遼東道行軍大ハ管に任じる。李世勣、南蘇城などを攻める。 史記22
新唐220新羅
冊府985
通鑑198
5     李世勣、南蘇城などを攻める。 通鑑198 李世勣、南蘇城などを攻める。 史記22
7         新羅、唐に遣使して、冊封の謝恩をし、改元して太和とした。 史記5
7     牛進達ら、高句麗の石城・積利城を陥落する。 冊府985 牛進達ら、石城・積利城を陥落する。 史記22
新唐220高麗
通鑑198
9     高句麗討伐のために大船350艘を造らせる。 冊府985 太宗、大船数百隻をつくらせる。 史記22同年7月条
通鑑198
10         済、将軍の義直に命じて新羅の3城を攻めさせる。新羅の将軍金庾信、これを破る。この時、庾信の部下丕寧子とその子、挙真が戦死。 史記5
史記28
史記41金庾信 上
史記47丕寧子
12     高句麗、王子の任武を唐に派遣して謝罪する。 新唐220高麗   史記22
通鑑198
冊府980
この年 新羅の上臣大阿飡金春秋ら、高向黒麻呂・中臣連押熊を送って来日し、孔雀・鸚鵡を献じる。金春秋を質とする。(中臣連押熊、前年9月に高向黒麻呂と共に新羅に渡ったか。) 書紀        
648 1・1     高句麗、遣使して朝貢する。 冊府970 高句麗、使臣を唐に遣わして朝貢する。 史記22 大化4 貞観22 真徳王2(新)
宝蔵王7(高)
義慈王8(百)
 
新羅、遣使して朝貢する。 冊府970 新羅、唐に遣使朝貢する。 史記5
1・25     太宗、薛万徹を青丘道行軍大ハ管に任じ、三たび高句麗出兵。 新唐2 太宗、薛万徹を青丘道行軍大ハ管に任じて、兵三万余人及び楼船・戦艦を従えて高句麗を攻撃する。 史記22
旧唐199上 高麗
旧唐199上 百済
新唐220高麗
通鑑198
冊府985
2・1 三韓(高句麗・新羅・百済)に学問僧を派遣する。 書紀        
3     百済、新羅の10城を攻め取る。このため、数年の間朝貢がとぎれる。 旧唐199上 百済 百済の将軍義直、新羅の腰車城など10城を取る。 史記5
新唐220百済 史記28
4         百済兵、玉門谷へ進軍。新羅の将軍金庾信、これを迎え、破る。 史記5同年3月条
史記28
史記41金庾信 上
4・14(甲子)     烏胡鎮将の古神感、海より高句麗を攻める。 旧唐199上 高麗 烏胡鎮将の古神感、海より高句麗を攻める。 史記22
    冊府985
    通鑑199
6・27     薛万徹、高句麗と泊灼城にて戦う。これを破る。 新唐2 太宗、将軍の薛万徹を遣わして高句麗の泊灼城を攻めおとす。 史記22同年9月条
旧唐199上 高麗
新唐220高麗
冊府985
6     太宗、明年に高句麗を一挙に滅ぼそうと相談する。 通鑑199 太宗、明年に高句麗を一挙に滅ぼそうと相談する。 史記22同年4月条
新唐220高麗
7         太宗、強偉を剣南道に遣わして舟鑑を造らせる。また別に使者を派遣し、水路より萊州に行かせる。 史記22
9・5(癸未)     薛万徹、高句麗討伐より還る。 通鑑199    
9・11(己丑)     新羅、百済の城13城を破ったことを奏す。 通鑑199    
閏12・7     新羅の真徳王、王弟の金春秋及びその子文王を派遣する。金春秋に特進の称号を、文王に左武衛将軍の称号を授ける。春秋、国学に行き、釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、許される。さらに『晋書』を賜わる。 旧唐3 新羅、金春秋とその子文王を、百済の侵攻に対する救援兵派遣を要請のため唐に遣わす。春秋、国学に行き、釋奠儀礼と(経典の)論義を見ることを請い、許される。さらに『晋書』を賜わる。また、礼服を唐制に改めたいと請うと、太宗、衣服を賜い、。金春秋に特進の称号を、文王に左武衛将軍の称号を授ける。文王を宿衛として唐に留める。春秋帰国時、高句麗の巡邏兵に会い、従者の温君解が春秋と間違えられて殺される。 史記5
旧唐199上 新羅 史記7文武王11・7・26条
新唐220新羅 史記41金庾信 上
通鑑199 遺事1太宗春秋公
冊府974 金仁問墓碑文
  聖住寺朗彗和尚碑銘
  東国通鑑
        新羅、邯帙許を唐に入朝させる。太宗、新羅の別年号使用を責める。 史記5
この年 新羅使、来朝して調を貢する。この時、新羅使に唐への上表文を託すか? 書紀        
この年     倭国、新羅に付託して表文を進める 旧唐199上 倭国    
新唐日本伝
649 1         新羅、唐の衣冠を服す。 史記5 大化5 貞観23 真徳王3(新)
宝蔵王8(高)
義慈王9(百)
 
2・18     新羅使、金春秋帰国する。 冊府974    
5・1 小華下三輪色夫・大山上掃部角麻呂らを新羅に派遣する。 書紀        
5・26     太宗、没。高句麗攻撃中止。高句麗王、遣使して奉慰する。 旧唐3 太宗、没。高句麗攻撃を中止する。 史記22同年4月条
新唐2
旧唐199上 高麗
新唐220高句麗
6・1     高宗即位。      
(高宗)
8         百済将軍殷相、新羅の石吐など7城を取る。新羅、金庾信らを派遣し、道薩城にて百済を破る。 史記5
史記28
史記42金庾信 中
この年     高宗即位後も任雅相・蘇定方・契苾何力らが前後して高句麗を討ったが、大功なく還る。 旧唐199上 高麗    
この年 新羅、沙飡金多遂を質として遣わす。従者37人とともに来朝する。 書紀        
650 1・1     永徽に改元。       大化6 永徽1 真徳王4(新)
宝蔵王9(高)
義慈王10(百)
 
2・9 穴戸(長門)国司、白雉を献上する。百済君(豊璋)・僧道登・僧旻ら、中国の故事を引き吉祥の由を述べる。道登、かつて遣唐使が3足の烏の死骸を持ち帰ったことを述べる。 書紀        
2・15 白雉と改元する。改元儀式に、百済王子豊璋・その弟塞城・忠勝、高麗侍医毛治・新羅侍学士らも参列する。 書紀         白雉1
4 新羅、貢調する。 書紀        
6     新羅、王弟の法敏(後の文武王)を派遣して、百済軍を撃破したことを報告する。五言詩の太平頌を献じる。高宗、これを喜び、法敏を大府卿に任じて帰国させる。 旧唐199上新羅 新羅、使臣を派遣して、百済軍を撃破したことを報告する。新羅王、五言詞の太平頌を金春秋の子、法敏に託して献上する。高宗、これを喜び、法敏を大府卿に任じて帰国させる。 史記5
新唐220新羅 史記6文武王即位前紀
冊府962 遺事1真徳王
冊府995  
唐会要95  
文苑英華167  
この年 倭漢直縣・白髪部連鐙・難波吉士胡床を安芸国に遣わして、百済舶2隻を造らせる。 書紀        
この年         新羅、唐の年号を使用する。 史記5
651 2         新羅、波珍飡の金仁問を唐に遣わし朝貢し、宿衛させる。唐の高宗、金仁問に左領軍衛将軍を授ける。 史記5 白雉2 永徽2 真徳王5(新)
宝蔵王10(高)
義慈王11(百)
 
史記44金仁問
6 百済・新羅使が調を貢ぎ、物を献上する。 書紀        
11     百済遣使し、朝貢する。高宗、新羅と高句麗を攻めないように戒める。使に璽書をくだす。 旧唐199上 百済 百済、使臣を唐に遣わし、朝貢する。使臣、戻る際に高宗より璽書を与えられる。 史記28
新唐220百済
通鑑199
この年 新羅貢調使知万沙飡ら、唐国の服を着て筑紫に到着。みだりに風俗を改めたことを非難し、帰国させる。巨勢大臣(徳陀古)、新羅征討・問罪を主張する。 書紀        
652 1     新羅より使者が来て、朝貢する。 通鑑199 新羅、唐に使臣を遣わし、朝貢する。 史記5 白雉3 永徽3 真徳王6(新)
寶臧王11(高)義慈王12(百)
 
冊府970
高句麗より使者が来て、朝貢する。 通鑑199 高句麗、唐に使臣を遣わし、朝貢する。 史記22
冊府970
百済より使者が来て、朝貢する。 通鑑199 百済、唐に使臣を遣わし、朝貢する。 史記28
冊府970
4 新羅・百済、遣使して調を貢ぎ、物を献じる。 書紀        
653 5・12 遣唐使を2船に分乗して派遣する。1船には大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒、学問僧道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵・安達・道観、学生巨勢薬・氷老人など121名が乗船。もう1船には大使大山下高田根麻呂・副使小乙上掃守小麻呂・学問僧道福・義向など120名が乗船。 書紀 日本僧、道照が入唐求法する。三藏僧玄奘に師事する。 宋史日本国伝     白雉4 永徽4 真徳王7(新)
寶臧王12(高)義慈王13(百)
 
伝通縁起 中 大日本國諸宗傳通 仏祖統紀39
続紀 文武4・3・10条  
元亨1道昭  
元亨9定慧  
元亨21  
善隣記  
藤氏家伝上 定恵伝  
6 百済、新羅の使い、調を貢し、物を献じる。所々の大道を修治する。 書紀        
7 遣唐使高田根麻呂ら乗船の船が薩摩の曲・竹島間で遭難する。5人のみ助かる。この5人に金および位禄を賜う。 書紀        
8         百済王、倭国と通好する。 史記28
11     新羅より使が来て、朝貢し、金総布を献上する。 冊府970 新羅、唐に使臣を遣わし、金総布を献上。 史記5
この年         新羅の金仁問、唐より帰国。 史記44金仁問
654 2*一説では5月 遣唐使大錦上(一説、大華下)高向玄理・大使小錦下河辺麻呂・副使大山下薬師恵日・判官大乙上(一説小山下)書麻呂・宮阿弥陀・小乙上岡宜・置始大伯・小乙下中臣間人老・田辺鳥ら2船に分乗して、新羅道を通り、唐に向かう。 書紀         白雉5 永徽5 太宗武烈1(新)
寶臧王13(高)
義慈王14(百)
 
3     新羅、真徳王薨ず。唐の高宗、この知らせを聞いて挙哀し、大常丞張文収を遣わして弔祭する。 旧唐199上新羅 新羅、真徳王薨ず。唐の高宗、この知らせを聞いて挙哀し、大常丞張文収を遣わして弔祭する。太宗武烈王即位。 史記5  
新唐220新羅  
冊府974  
閏5・18     唐、使者を派遣し、王弟金春秋を冊封して開府儀同三司新羅王とする。王、唐に遣使して謝恩する。 旧唐199上新羅 唐、使者を派遣し、太宗武烈王を冊封して開府儀同三司新羅王とする。王、唐に遣使して謝恩する。 史記5  
冊府964  
通鑑199  
唐会要95  
7・24 遣唐大使吉士長丹・副使吉士駒ら、百済・新羅の送使と共に筑紫に帰着する。この月、唐の皇帝と会見し、多くの文書・宝物を齎した功により、吉士長丹に小華下を授け、封200戸と呉の姓を賜い、吉士駒に小山上を授ける。 書紀        
書紀 白雉5・7月是月条    
略記  
10・10 孝徳天皇、難波宮で没す。巨勢稲持らを新羅に派遣し、天皇の死去の報じる。新羅、翳飡金春秋に応接させる。 書紀          
書紀 持統3・5・22条  
10     高句麗、契丹を攻めるも大敗する。契丹、戦勝のことを唐に告げる。 新唐220高句麗      
通鑑199  
冊府995  
12・12 高向玄理ら長安に到りて、高宗と会見する。琥珀・瑪瑙などを献じる。また、東宮監門郭丈挙の日本の地理などに関する質問に答える。高宗、書を与え、新羅危急の際には救援すべきことを命じる。この後、日本の遣唐使は帰途に就くが、高向玄理は唐で没す。 書紀 白雉5・2条 倭国、遣使して琥珀・瑪瑙などを献じる。高宗、書を与え、新羅危急の際には救援すべきことを命じる。 旧唐4 高宗上      
善隣記 唐会要99 倭国  
冊府959  
冊府970  
新唐220 日本  
宋史491日本国  
この年 高句麗・百済・新羅がそれぞれ遣使し、孝徳天皇の喪を弔す。 書紀          
655 1*     新羅より使者が来て、高句麗・百済・靺鞨が攻めてきたことを訴え、救援を求める。 旧唐199上 百済 新羅、高句麗が百済と連合して攻めてきたため、金仁問を唐に遣わし、救援を求める。翌年帰国。 史記5 斉明1 永徽6 太宗武烈2(新)
寶臧王14(高)
義慈王15(百)
 
新唐220高句麗 史記5太宗3年条  
新唐220百済 史記22  
新唐220新羅 史記28 同年8月条  
通鑑199    
冊府986  
冊府995  
2・25     唐、蘇定方・程名振らを派遣して高句麗を討たせる。 新唐3 唐、蘇定方・程名振らを派遣して高句麗を討たせる。 史記22  
冊府986 史記5同年3月条  
3     唐の程名振、貴端水で高句麗を破る。(あるいは5月13日と同一事項か?) 旧唐4 高宗上      
5・13     唐軍、貴端水にて高句麗を破る。 新唐3      
通鑑199  
冊府986  
7・11 難波朝廷において、北(越)蝦夷99人、東(陸奥)蝦夷95人、百済の調使150人を饗す。 書紀          
8・1 遣唐使河辺麻呂らが帰国。この時、入唐僧の道昭が同行して帰国する。 書紀          
続紀 文武4・3・10条  
9         金庾信、百済の刀比川城を攻め、これを破る。 史記42金庾信 中  
この年 高句麗・百済・新羅、遣使して朝貢する。新羅、質の身代わりとして級飡弥武を才伎12人と共に遣わすが、弥武は病死する。 書紀          
    新羅、日本に使者を遣わし、先に新羅に至る。のち、日本に向かうが、海上で遭難。 広記481      
656 7以前か         新羅王子金仁問、帰国する。 史記5 斉明2 顯慶1 太宗武烈3(新)
寶臧王15(高)
義慈王16(百)
 
3     新羅から遣使が来て、百済を破ったと報告。 冊府995    
唐会要95
7         新羅、文王を唐に派遣し、朝貢する。 史記5
8・8 高句麗、大使達沙・副使伊利之ら81人を派遣して、調を進める。 書紀        
9 遣高句麗大使として膳葉積・副使坂合部磐鍬・大判官犬上白麻呂・中判官河内書某・小判官大蔵衣縫麻呂を任命する(あるいは派遣か)。 書紀        
10     新羅王、子の文王を派遣し、朝貢する。(史記には7月とあるが、本国出発が7月で、唐到着が10月であるか) 冊府970    
12     高句麗から遣使が来て、皇太子の冊立を祝賀する。 冊府970 高句麗、唐に使臣を遣わし、皇太子の冊立を祝賀する。 史記22
この年 高句麗・百済・新羅使が来朝する。紺の幕をめぐらして饗す。また、西海使佐伯栲縄・小山下難波国勝らが百済より帰国し、鸚鵡を献じる。 書紀        
657 この年 遣新羅使、僧智達・間人御厩・依網稚子らを伴い新羅に行き、新羅使の入唐に智達を同行するよう要請するも新羅、承諾せず智達ら新羅より帰国する。西海使小華下阿曇頬垂・小山下津傴僂、百済より帰国し、駱駝1頭・驢2頭を献じる(斉明4・是歳条にも阿曇頬垂帰国記事あり)。 書紀         斉明3 顕慶2 太宗武烈4(新)
寶臧王16(高)
義慈王17(百)
 
658 6・1     唐の将軍程名振、赤烽鎮(冊府986、「去烽鎮」とする)にて高句麗を攻める。 旧唐4 高宗上 高句麗、唐の程名振、薛仁貴が攻め入るも撃退。 史記22 斉明4 顯慶3 太宗武烈5(新)
寶臧王17(高)
義慈王18(百)
 
新唐3
新唐220 高麗
通鑑200
冊府986
7 沙門智通・智達ら、新羅船にて入唐し、玄奘に師事する。 書紀 日本僧智通ら、入唐求法する。 宋史日本国伝    
略記 仏祖統紀39
伝通縁起 中法相宗  
元亨16智通  
元亨21  
善隣記  
この年 出雲国、雀魚大量死のことを報じる。ある説では百済滅亡の前兆かという。また、西海使小華下阿頬垂、百済より帰国。百済の馬の異常行動を伝え、ある説では敵に滅ぼされる前兆かという。 書紀        
659 4     新羅、百済討伐のため、唐に援軍を請う。 通鑑200顕慶5・3・10条 新羅、百済討伐のため、金仁問を遣わして唐に援軍を請う。 史記5 斉明5 顯慶4 太宗武烈6(新)
寶臧王18(高)
義慈王19(百)
 
史記44金仁問
遺事1太宗春秋公
4       百済、新羅の独山・桐岑の2城を攻める。 史記28
7・3 遣唐使小錦下坂合部石布・大仙(山)下津守祥ら、2船に分乗して難波三津浦を出発。筑紫に向かう。道奥蝦夷男女2人同伴。 書紀        
略記 同年7月条
8・11 遣唐使坂合部石布ら、筑紫大津浦を出発。 書紀 同年7・3条        
9・13 遣唐使坂合部石布ら、百済南辺の伊志奈利島に至る。 書紀 同年7・3条      
釈紀14
9・14 遣唐使船2艘、百済の伊志奈利島を出帆する。 書紀 同年7・3条        
釈紀14  
9・15 坂合部石布の船が逆風に遭い、南海の爾加委島に漂着し乗員多数が殺害。東漢長阿利麻ら5人が島を脱出し、唐の括州に着き、のちに洛陽に至る。 書紀 同年7・3条        
続紀 天平宝字1・12・9条        
9・16 津守吉祥の船、越州会稽県須岸山に至る。22日、越州余姚県を経て、閏10月1日、越州州衙に到着。 書紀 同年7・3条        
10         新羅王、同年4月、唐に要請した援兵について未だ回答が無いことを憂う。すると、亡臣が現れて翌年には唐が百済を討伐することを告げたという。 史記5
閏10・15 津守吉祥ら越州を出発し、29日に洛陽に到着。 書紀 同年7・3条        
閏10・30 津守吉祥、蝦夷と共に高宗に会見。高宗、倭の国情や蝦夷のことなどについて尋ねる。蝦夷、白鹿皮・弓・箭などを献上する。
書紀 同年7・3条 蝦夷国、倭国使に随って入朝する。 唐会要100 蝦夷国    
  冊府970
  冊府997
  通典185東夷上 蝦夷
  御覧782蝦夷
  宋史491日本国伝
11・1 津守吉祥ら冬至の会に参列。再度、高宗と謁見する。 書紀 同年7・3条      
11     唐の将軍薛仁貴、高句麗を横山で破る。 通鑑200 高句麗、唐の薛仁貴と横山で戦い、敗れる。 史記22
12・3 遣唐使、随員韓智興の{人の讒言により、唐朝に処罰される。伊吉博徳の奏言で許されるが、唐に「海東の政」計画があるため、一行を帰国させない勅旨が出され、長安に幽閉される。 書紀 同年7・3条      
書紀 斉明7・5・23条
この年 高句麗からの使者、羆皮1枚を60斤で売ろうとするが、取り合ってもらえず。高麗の絵師子麻呂、高句麗使を招き、官の羆皮70枚を借りて席を設ける。高句麗使、驚き恥じて退席する。 書紀        
660 1・1 高句麗使乙相賀取文ら100余人、筑紫に到着する。 書紀         斉明6 顯慶5 太宗武烈7(新)
寶臧王19(高)
義慈王20(百)
 
3・10     唐、蘇定方に百済攻撃を命ず。新羅王にも派兵を命ず。 旧唐4 高宗上 唐の高宗、唐の蘇定方と在唐中の新羅王子金仁問に百済討伐を命じる。また、新羅王(金春秋)にも百済討伐を命じる。 史記5
旧唐199上 百済 史記28
旧唐199上 新羅 史記44金仁問
新唐3 遺事1太宗春秋公
新唐220百済  
新唐220新羅  
通鑑200  
冊府986  
5・8 高句麗使乙相賀取文ら、難波に到着する。 書紀        
5・26         新羅王、百済討伐のため兵を率いて京を出発する。 史記5
6・18         百済王、南川停に到着。蘇定方は莱州より出発し、その軍船は千里にわたって連なっていた。 史記5
史記42金庾信 中
6・21         新羅王、太子の法敏に命じて蘇定方・金仁問を徳物島にて迎えさせる。この時新羅王は今突城に車駕を留める。 史記5
史記28
史記42金庾信 中
史記44金仁問
遺事1太宗春秋公
7・9         新羅の将軍金庾信、黄山の原に至り、百済軍を破る。この時、新羅将軍官昌・百濟の将軍階伯ら、戦死する。またこの日、蘇定方は金仁問と共に伎伐浦にて百済軍を大破する。百済王子使を遣わして唐の将軍に撤兵を懇願する。 史記5
史記28
史記42金庾信 中
史記47 金令胤伝
史記47 官昌伝
史記47 階伯伝
遺事1太宗春秋公
7・12         唐・新羅連合軍、百済の王城を囲むべく所夫里の原に進軍。百済王子、再び撤兵を請うも、これを退ける。 史記5
史記28
7・13     百済義慈王、子の驍ニともに北鄙に避難する。王の次男、泰は自立して王となり、衆徒を率いて王城を堅守する。また、義慈王の孫、文思、降伏する。 旧唐83蘇定方伝 百済義慈王、子の孝と共に熊津城に避難する。王の次男、泰は自立して王となり、衆徒を率いて王城を堅守する。また、義慈王の子、隆、降伏する。 史記5
新唐220百済 史記28
新唐111蘇定方伝 遺事1太宗春秋公
通鑑200同年8月条  
冊府986  
7・16 高句麗使乙相賀取文ら帰国する。 書紀        
7・18   書紀 斉明6・7・16条 蘇定方・新羅軍、百済を攻略し、義慈王を面縛し、高宗に献じる(11月1日項参照)。これ以後、新羅は次第に高句麗・百済の旧地を領有する。 旧唐4 高宗上 同年8・12条 唐・新羅軍が百済の王城に迫り、百済の義慈王、太子以下を率いて城を出て唐軍に降伏。百済滅亡。 史記5
史記28
旧唐199上 新羅 遺事1太宗春秋公
新唐3同年8・12条  
通鑑200同年8月条  
冊府986  
7・29?秋?         新羅、唐に弟監天福を遣わし、戦功を告げる。 史記5
8・2         新羅王・蘇定方ら、酒宴を開き、諸将をを労う。 史記5
9・3         唐の将軍蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官93人と人民一万二千人を連れて、泗沘を出発し、高宗のもとへ行く。金仁問と沙飡の儒敦、大奈麻の中知らも同行。 史記5
史記28
史記42金庾信 中
史記44金仁問
遺事1太宗春秋公
9・5 百済人達率某・沙弥覚従らが到り、さる7月に新羅が唐軍と百済を攻め、国王を捕えたこと、その後、西部恩率鬼室福臣及び達率余自進らが遺臣を集めて立ち上がり、反撃していること、国人は2人を尊んで佐平福信・佐平自進と称していることなどを奏す。 書紀        
9・12 幽閉されていた遣唐使津守吉祥、帰国を許され同月19日に長安を出発する。 書紀 斉明6・7・16条        
9・23   巡礼行記開成5・2・28条 高宗、百濟に五都督府を設置し、左衛中郎将の王文度を熊津都督に任命する。 旧唐199上 百済 百濟の残兵、泗沘城で反乱する。これに呼応し、叛いたものは20余城に達する。唐の高宗、百濟に五都督府を設置し、郎将の劉仁願に都城を守らせ、左衛中郎将の王文度を熊津都督に任命する。 史記5
新唐220百済 史記28
  通鑑200同年8月条 遺事1太宗春秋公
  通鑑200龍朔1・3月条  
9・28     王文度、海を渡って急死する。劉仁願をこれに代える。 旧唐199上 百済 王文度、三年山城に至って、唐高宗の詔書を伝える。この時、王文度、急死する。 史記5
  新唐220 百済  
  通鑑200龍朔1・3月条  
10・16 日本使津守吉祥ら洛陽に到着する。坂合部石布の船に乗っていて助かった東漢長阿利麻ら5人と会う。 書紀斉明6・7・16条        
10・18         新羅王、同月9日に礼城を攻め、この日、同城を取り、官吏を置いて守る。百濟の20余城、懼れてみな降伏する。 史記5
10・30         泗沘城南嶺の軍柵を攻め、1500を斬首する。 史記5
10 百済の鬼室福信の使佐平貴智ら、唐人の捕虜100余人を連れて来朝。救援軍の派遣、質として日本にいる百済国王子余豊璋の帰国を要請する。
書紀 百済遺臣鬼室福信ら反乱、倭国に遣使して、王子扶余豊の帰国を要請する。 旧唐199上 百済    
巡礼行記開成5・2・28条 新唐220 百済
通鑑200龍朔1・3月条
11・1 唐の将軍蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。 書紀 斉明6・7・16条 蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。義慈王、唐に到着後、数日で病死する。金紫光禄大夫・衛尉卿を贈る。 旧唐4 高宗上 蘇定方、百済の義慈王、百済の王族・高官58人を連れて高宗の許に赴く。高宗、義慈王を宥す。義慈王、唐で病死する。 史記28
旧唐199上 百済 遺事1太宗春秋公
新唐3  
新唐220 百済  
通鑑200  
冊府974  
11・1         高句麗、新羅の七重城を攻める。新羅の軍主、匹夫戦死する。 史記5
史記47 匹夫伝
11・7         新羅王、同月5日に王興寺岑城を攻め、この日勝って700人を斬首する。 史記5
11・22         新羅王、百済から戻り、戦功者に行賞する。 史記5
11・24 遣唐使津守吉祥ら、19日に賜労され、この日洛陽を出発する。 書紀 斉明6・7・16条        
12・16     契苾何力・蘇定方・劉伯英らに高句麗を攻めさせる。 新唐3 唐、契苾何力・蘇定方・劉伯英・程名振らに高句麗を攻めさせる。 史記22  
新唐220 高麗  
通鑑200  
冊府986  
12・24 斉明天皇、百済の鬼室福信の要請に応えて、救援軍の派遣を決す。筑紫に向かうため、難波宮に幸して軍器を備える 書紀          
この年 百済救援に用いる船を駿河国に建造させるが、故なく艫舳が反りかえる。信濃国、蠅の変異を報じる。共に救援軍敗戦の前兆かという。 書紀          
661 1・19     河南・河北・淮南等67州の兵を募り、高句麗の平壌・帯方道に行営する。 旧唐4 高宗上 唐、河南・河北・淮南等67州の兵を募り、高句麗の平壌・鏤方道に行営する。 史記22 斉明7 顯慶6 太宗武烈8(新)
寶臧王20(高)
 
通鑑200
1・22     蕭嗣業に高句麗を討伐させる。 新唐3    
通鑑200
冊府986
1・25 日本使津守吉祥ら、越州に到着。 書紀 同年5・23条        
2     百済遺臣鬼室福信・僧道琛ら反乱、泗沘城の劉仁願を攻める。余豊璋を王となす。唐、劉仁軌と新羅とに討たせる。 旧唐199上 百済 百済の残賊(鬼室福信・僧道琛)、反乱し、泗沘城を攻める。倭国に質として滞在していた余豊璋を王となす。新羅王、救援のため、諸将を派遣する。また、唐の高宗、劉仁軌を救将として派遣する。 史記5
新唐220 百済 史記28
通鑑200 同年3月条 史記42金庾信 中
3・1     龍朔に改元する。     龍朔1
3・5         泗沘城救援の将軍品日、麾下の軍を先発させ、豆良尹(伊)城の南で営地を調べさせる。百済人これを攻め、破る。 史記5
3・12         新羅軍、豆良尹城を攻めるも、1ヶ月6日経っても勝てず。 史記5
3     百済の僧道琛ら、2つの柵を熊津江に立て、唐・新羅連合軍と戦うも、敗れる。このため、泗沘城の包囲を解き、任存城に退いて守備を固める。 旧唐199上 百済 百済の鬼室福信ら、2つの柵を熊津江に立て、唐・新羅連合軍と戦うも、敗れる。このため、泗沘城の包囲を解き、任存城に退いて守備を固める。 史記28
新唐220 百済
通鑑200
冊府986
4・1 津守吉祥ら、越州を出発。7日、檉岸山に至る。8日、檉岸山を出帆するも漂流し、9日8夜経ってに耽羅島に到着する。その後、耽羅王子阿波伎を伴い日本へ出発する。 書紀 同年5・23条        
4・16     契苾何力を遼東道大總管、蘇定方を平壌道大總管、任雅相を浿江道大總管に任じて高句麗を攻める。高宗、親征しようとするも、李君・武后の反対され、親征をやめる。 旧唐4同年5・2条 唐軍、高句麗に向けて進軍。高宗、自ら出兵しようとするも李君球・武后に諫められ、中止する。 史記22
新唐3
新唐220 高麗
冊府986
4・19     新羅軍、食糧が尽きたため、百済より引き返す。 旧唐199上 百済 新羅軍、食糧が尽きたため、百済より引き返す。還る途中、下州軍は賓骨壌で百済軍と遭遇し敗退する。上州軍は角山において百済軍と遭遇し、これを破る。新羅王、自軍の敗報を聞き、増援するも、新羅軍の撤退を聞いて引き返す。 史記5
新唐220 百済 史記28
通鑑200
4 百済の鬼室福信の使者が来て、質となっていた王子余豊璋の送還を求める。ただし、他の史料には同年2月に余豊璋(扶余豊)を迎え、王とした、と見える。 書紀        
5・9あるいは11         高句麗・靺鞨連合軍、新羅の述川城、次いで北漢山城をを攻めるも勝てず。 史記5
史記22
史記42金庾信 中
5・23 遣唐使の津守吉祥ら、耽羅王子の阿波伎を伴い、筑紫に到着する。 書紀        
6         新羅太宗武烈王薨じる。文武王即位。 史記5 文武王1(新)
寶臧王20(高)
6         唐に宿衛していた新羅の金仁問、儒敦らが帰国。唐の皇帝が高句麗征伐のため兵を派遣し、文武王にも呼応するよう命じたと告げる。 史記6
史記42金庾信 中
史記44金仁問
7・17〜9・27         新羅王、金仁問・金庾信らを率いて高句麗討伐のために進軍するも、百済の残賊が路を塞ぎ、前進できず。説諭しても聞かなかったため、これを破り、降伏させる。 史記6
史記42金庾信 中
史記44金仁問
7・24 斉明、朝倉宮にて崩御する。中大兄皇子、称制。       (天智)
7 唐の将軍蘇(定方)・突厥王子契苾何力ら、水陸より高句麗城下を攻める。 書紀 天智即位前紀          
8・11     将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。 新唐3 唐の将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。 史記22  
新唐220 高麗  
通鑑200  
冊府986  
8 百済に救援として、前将軍として大華下阿曇比羅夫・小華下河辺百枝ら、後将軍に大華下阿倍比羅夫・大山上物部熊・大山上守大石らを任命して派遣。また武器・食料なども送る。 書紀 天智即位前紀          
9・1     新羅王金春秋(太宗武烈)が薨じたことを聞き高宗、挙哀し、使を遣わして弔う。また、子の法敏を開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王とする。 旧唐4同年是歳条 新羅王金春秋(太宗武烈)が薨じたことを聞き唐の高宗、挙哀する。 史記5同年6月条  
旧唐199上 新羅  
新唐220新羅  
通鑑200  
冊府964  
冊府974  
9 百済王子余豊璋に織冠を授け、多蒋敷の妹を妻とする。大山下狭井檳榔・小山下秦田来津ら兵5000余人に本国に護送させる。入国時、百済の鬼室福信、稽首し、国政を委ねる。 書紀 天智即位前紀          
9     蓋蘇文の子男生、唐の将軍契苾何力軍に潰走する。唐軍、撤退の詔により、還る。 通鑑200 蓋蘇文の子男生、唐の将軍契苾何力軍に潰走する。唐軍、撤退の詔により、還る。 史記22  
10・29         唐からの使者、新羅の都に到着する。前王を祭祀し、彩絹五百段を送る。また、唐の劉徳敏が来て唐帝の勅旨を伝え、平壌へ兵糧を送るよう命じた。12月10日、金庾信ら、兵糧を載せて高句麗境内に入る。 史記6  
史記42金庾信 中  
11 百済の鬼室福信、唐人の捕虜、継守言ら106人を送ってくる。ついで唐人を近江国墾田に居住させる。 書紀同年11・7条          
この年     百済の残将、道琛・鬼室福信、唐の将軍劉仁軌に蜂起の理由を述べる。仁軌、使者を派遣し、説諭しようとするも、使者をそのまま返す。(この部分、7・17〜9・27の事項と対応するか?)仁軌、高宗に上表して新羅と兵力を併せるるよう請う。新羅王、これをうけて将帥の金欽を派遣し、仁軌に合流させようとするも、福信がこれを迎え討って破ったため、新羅は再び出兵しなかった。また福信、道琛を殺害し、その兵を合併する。 旧唐199上 百済 百済の残将、道琛・鬼室福信、唐の将軍劉仁軌に蜂起の理由を述べる。仁軌、使者を派遣し、説諭しようとするも、使者をそのまま返す。(この部分、7・17〜9・27の事項と対応するか?)仁軌、高宗に上表して新羅と兵力を併せるるよう請う。新羅王、これをうけて将帥の金欽を派遣し、仁軌に合流させようとするも、福信がこれを迎え討って破ったため、新羅は再び出兵しなかった。また福信、道琛を殺害し、その兵を合併する。 史記28  
新唐220 百済  
通鑑200 661・3月条  
662 1・27 鬼室福信に矢10万隻・糸500斤・綿1000斤・布1000端・韋1000張及び稲種3000斛を賜う。 書紀         天智1 龍朔2 文武王2(新)
寶臧王21(高)
 
1         新羅の客館に留まっていた唐使、この時に至って文武王を開府儀同三司上柱国楽浪郡王新羅王に冊命する。また、新羅王、金庾信らに命じて兵糧を平壌に運ばせる。 史記6
史記44金仁問
2       耽羅国、新羅に降伏。 史記6
3・24     蘇定方、葦島で高句麗軍を破る。 旧唐4 高宗上    
1〜3月*     唐軍、蛇水で高句麗に敗れる。この時、将軍の龐孝泰戦死。また、包囲していた平壌から撤退。 旧唐4 同年3・癸丑(24)条 新羅、唐の蘇定方らに軍糧を贈る。高句麗、唐軍を蛇水で破る。唐の蘇定方、高句麗の平壌城を包囲していたが、大雪のため撤退。それを聞いて、新羅軍も兵を引き上げる。 史記6
新唐3 同年2・戊寅(18日)条 史記22
新唐220 高麗 史記42金庾信 中
通鑑200 史記44金仁問
  遺事1太宗春秋公
3・4 百済の余豊璋に布300端を賜う。 書紀        
5 大将軍大錦中阿曇比羅夫ら、船師170艘を率いて余豊璋らを百済に送る。勅して余豊璋に王位を継がせ、鬼室福信に金策を授け、爵禄を賜う。 書紀        
6・28 百済、達率万智らを遣わし、調を進め物を献じる。 書紀        
7     唐、福信ら百済遺民を攻める。劉仁願・劉仁軌ら、熊津の東でこれを撃破し、支羅城・及尹城、大山・沙井等の柵を攻め落とす。福信ら、真峴城に兵を集め、ここを守るも、仁軌、新羅兵を率い、この城を占拠する。その結果、新羅の唐軍への運糧の道が通じる。 新唐3 唐、福信ら百済遺民を攻める。劉仁願・劉仁軌ら、熊津の東でこれを撃破し、支羅城・及尹城、大山・沙井等の柵を攻め落とす。福信ら、真峴城に兵を集め、ここを守るも、仁軌、新羅兵を率い、この城を占拠する。その結果、新羅の唐軍への運糧の道が通じる。 史記28
旧唐199上 百済
新唐220 百済
通鑑200
冊府986
7         新羅、唐に金仁問を遣わし、方物を貢ぐ。 史記6
史記44金仁問
8         百済の残賊、内斯只城に結集して悪事をはたらいたため、欽純らを派遣して討伐する。 史記6
12・1 百済の豊璋・鬼室福信ら狭井某・朴秦田来津らに州柔(周留)城は周囲に田畑がなく、長期駐留に向かないため、南方の避城に遷ることを諮る。田来津は反対するものの、豊璋らは避城に遷都。 書紀        
12・24(戊申)     高句麗・百済討伐のため河北民に労が多かったため、封禅と洛陽への行幸を停む。 通鑑200    
663 2・2 百済、達率金受らを遣わし、調を進める。新羅に百済南畔四州を焼き、安徳などの要地を奪われ、避城が賊に近いため州柔城に移ったことを伝える 書紀         天智2 龍朔3 文武王3(新)
寶臧王22(高)
 
2         新羅の欽純・天存、兵を率い、百済の居列城・居勿城・沙平城・徳安城を攻略 史記6  
3 前将軍上毛野稚子・間人大蓋、中将軍巨勢神前訳語・三輪根麻呂、後将軍阿倍比羅夫・大宅鎌柄に兵27000人を率いさせ、新羅征討に向かわせる。 書紀          
4     新羅を雞林州都督府とし、新羅王法敏を雞林州都督とする 冊府964 唐、新羅を鶏林大都督府とし、新羅王を鶏林州大都督とする 史記6  
旧唐199上 新羅  
通鑑201  
唐会要95新羅  
5・1 犬上某、高句麗より帰国し、百済にて豊璋と会見して鬼室福信の罪を聞くことを伝える。 書紀          
5     劉仁軌・仁願の要請により、皇帝は孫仁師に兵四十万を率いさせて派遣。徳物島に到り熊津に向かう。 旧唐84劉仁軌 劉仁軌・仁願の要請により、皇帝は孫仁師に兵四十万を率いさせて派遣。徳物島に到り熊津に向かう。 史記6  
6 前将軍上毛野稚子ら、新羅の沙鼻・岐奴江の2城を奪取 書紀          
7・17         百済復興軍、豆率(周留)城を本拠とし、倭に援軍を請う。新羅王、将軍らを率いて征討の途につく 史記6 同年5月条  
史記42金庾信 中  
7* 百済王豊璋、鬼室福信を殺害 書紀 同年6月条 百済王豊璋、鬼室福信を殺害。また、高句麗と倭に援軍を求める。 旧唐84劉仁軌 百済王豊璋、鬼室福信を殺害。また、高句麗と倭に援軍を請う 史記6 同年5月条  
旧唐199上 百済 史記28  
新唐108劉仁軌  
新唐220百済  
通鑑200龍朔2・7条  
8・13 百済王豊璋、新羅の州柔城攻撃を知り、日本の援軍の廬原某が到着するため、これを迎えるために白村江に行くことを諸将に告げる 書紀        
8・13         新羅軍、豆率(周留)城に到る。 史記6 同年5月条  
  史記7文武王11・7・26条  
  史記42金庾信 中  
     
8・17 新羅、州柔城を包囲。唐軍の船170艘が白村江に布陣。 書紀          
8・27 百済への日本の援軍が白村江に到着し、唐軍と戦闘。日本の援軍、退却。 書紀     百済への倭の援軍が白村江に到着 史記7文武王11・7・26条  
8・28* 日本の援軍、白村江で唐軍と再戦するも、大敗。溺死者多数で朴市田来津が戦死。百済王豊璋、高句麗に逃げる。 書紀 日本の援軍、白村江で唐軍と再戦するも、大敗。溺死者多数で朴市田来津が戦死。百済王豊璋、高句麗に逃げる。日本や眈羅等國は皆な使を遣わし降伏を請う。
冊府358 百済軍と倭軍、白村江で唐軍と再戦するも大敗。百済王豊璋、脱出。一説、高句麗に逃げる。王子忠勝・忠志や倭人、降伏。ただ、遲受信のみ任存城に拠って抵抗。 史記6 同年5月条  
冊府366 史記7文武王11・7・26条  
旧唐84劉仁軌 史記28  
旧唐199上 百済    
新唐3同年9・8条  
新唐108劉仁軌  
新唐220百済  
通鑑 同年9・8条  
9・7 唐軍、百済の州柔城を攻略。百済の人々、日本の援軍と協議。11日に弖礼城に向けて出発し、13日到着。 書紀   旧唐84劉仁軌   史記6 同年5月条  
書紀 同年9・11条 旧唐199上 百済 史記7文武王11・7・26条  
書紀 同年9・13条 新唐108劉仁軌 史記42金庾信 中  
  新唐220百済    
通鑑 同年9・8条  
9・24 日本の船団、および佐平余自進・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留並びに国民ら、弖礼城に到着。翌日、日本に向けて出発 書紀          
10・21       新羅と唐、仁存城を攻めるも勝てず。11月4日に至り兵を返す。舌利停に至り論功行賞。衣裳を作り駐留唐軍に給付 史記6 同年5月条  
  史記7文武王11・7・26条  
  史記28  
  11・20         新羅、京師に帰り金庾信ら將卒に賞賜 史記42金庾信 中  
664 1・1     改元       天智3 麟徳1 文武王4(新)
寶臧王23(高)
 
2         新羅の金仁問・天存、唐の勅使劉仁願、扶餘隆、熊津にて盟す 史記6  
3 百済王善光らを難波に居住させる。 書紀          
3         百済の残兵、泗沘山城に拠って叛乱。熊津都督、兵を発しこれを破る。 史記6  
史記43金庾信 下  
3         新羅、星川・丘日ら二十八人を(熊津)府城に派遣し、唐楽を学ばせる。 史記6  
4 唐の百済鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰らを遣使して、牒書一函と献物とを進める。郭務悰ら対馬に至る 善隣記          
書紀 同年5・17条          
5・17 郭務悰ら、筑紫に至る。大山中采女通信侶・僧智弁らを遣わして応接させる 書紀          
7         新羅、(熊津)府城の兵とともに高句麗の突沙城を攻略。 史記6  
9 大山中津守吉祥・大乙中伊吉博徳・僧智弁ら、郭務悰に百済鎮将の私使であり、牒状もまた私信であるので、使者の入京は許さず、牒状も朝廷に進上しない旨の勅旨を筑紫大宰の辞として告げる。 善隣記          
10・1 中臣鎌足、沙門智祥物を遣わし郭務悰に賜物す 書紀          
10・4 郭務悰らを饗す。 書紀          
10・6     劉仁軌上言。高宗、扶余隆を熊津都督とする 通鑑201      
冊府966  
12・12 鎮西将軍の牒状を郭務悰に付し、帰国させる。 書紀          
書紀 同年10・1条  
善隣記  
この年 百済救援時、唐の捕虜になり抑留中の筑後国上陽東Sの大伴部博麻、土師富杼ら4人と唐の情報を日本に伝えることを企てる。 書紀 持統4・10・22条          
665 2 亡命した鬼室集斯に、百済の官位を勘案し、また佐平鬼室福信の功績によって、小錦下の位を授ける。また百済人男女400余人を近江国神前郡に居住させる。 書紀         天智4 麟徳2 文武王5(新)
寶臧王24(高)
 
8 耽羅、遣使して来朝 書紀          
8・13     熊津都督扶余隆と新羅王、熊津城にて盟誓。倭国使も参列。劉仁軌、新羅・百済・耽羅・倭の使者を連れて、高宗封禅の儀に参列するため、泰山に向けて出発。 冊府981 新羅文武王と熊津都督扶余隆、熊津就利山にて盟誓。 遺事1太宗春秋公  
旧唐84劉仁軌 史記6  
旧唐199上 百済 史記28  
新唐108劉仁軌    
新唐220百済    
通鑑201    
唐会要95新羅    
9・20 唐、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高・右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰ら254人を遣使。7月28日に対馬に至り、9月20日に筑紫に至る。22日、表函を進める。僧定恵、同行して唐より帰国 書紀 同年9・23条          
書紀 白雉5・2月条  
藤氏家伝上  
10・25*     高句麗王子福男、来朝 旧唐4      
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
通鑑201同年8・13条  
10・29   高宗、洛陽から泰山に向けて出発。倭国・新羅・百済・高麗らの諸蕃酋長も従う 冊府36    
11・13 唐使劉徳高らを饗す。 書紀          
懐風藻  
12・14 劉徳高らに物を賜う。徳高ら帰国 書紀          
この年 唐に小錦守大石・小山坂合部石積・大乙吉士岐弥・吉士針間らを派遣する。 書紀          
この年         唐高宗、梁冬碧・任智高らを遣使して來聘。また金庾信を冊して奉常正卿平壤郡開國公食邑二千戸とする 史記43金庾信  
この年* 高句麗大臣泉蓋蘇文、没 書紀 天智3・10 乾封元年六月壬寅条 旧唐5 高宗下 高句麗泉蓋蘇文、没。長子男生が後継となる 泉男生墓誌  
旧唐199高麗 史記22 宝蔵王25年冒頭条  
新唐110契苾何力 史記49 蓋蘇文  
新唐220高麗    
通鑑201乾封1・6・7条    
この年         唐に奉使していた新羅の鄭恭、帰国 遺事4  
666 1・1     高宗、泰山封禅 旧唐5   史記6 文武王5・8条 天智5 麟徳3 文武王6(新)
寶臧王25(高)
 
旧唐84劉仁軌 史記22  
旧唐199高麗 史記44 金仁問  
新唐3    
新唐108劉仁軌    
新唐220高麗    
通鑑201    
通鑑201麟徳2・8・13条    
唐会要95新羅 麟徳2・8条    
唐会要95百済    
1・5     改元       乾封1  
1・11 高句麗、前部能婁らを遣使して進調。耽羅、王子姑如らを遣使して、貢献 書紀          
4     僧順m、乾封中の使臣に随行して入唐はこのときか 宋高僧伝4 新羅、天存の子の漢林と金庾信の子の三光を入唐させて宿衛とする。高句麗攻撃の兵を請う。 史記6  
史記43金庾信 下  
6・4 高句麗使の能婁ら、帰国 書紀          
6・7?* 667年十月。高句麗太兄男生、王都平壌を出て巡国。平壌の二弟、側助士大夫の悪言を聞き、入城を拒絶。これにより、男生は唐に亡命する 書紀 天智6・10月条 高句麗、泉蓋蘇文の死後、内紛が発生。蘇文の後を継いだ泉男生、唐に救援を請い内附。唐高宗、派兵を命じる。男生、唐に亡命。平壤道行軍大總管兼持節安撫大使とする。のち遼東大都督兼平壤道安撫大使とし玄菟郡公に封じる 旧唐5 高句麗、泉蓋蘇文の死後、内紛が発生。泉男生、唐に救援を請う。唐高宗、派兵を命じる。男生、唐に亡命 史記22宝蔵王25年冒頭条  
旧唐67李勣 史記22  
旧唐83薛仁貴 史記49 蓋蘇文  
旧唐199上 高麗 泉男生墓誌  
新唐3    
新唐93李勣    
新唐110契苾何力     
新唐110泉男生    
新唐111薛仁貴    
新唐220高麗    
通鑑201    
8         高句麗泉男建、莫離支兼知内外兵馬事となる 史記22  
9     龐同善、高麗兵を大破する。このとき泉男生は民を率い同善と合流して戦った。高宗は男生を特進、遼東大都督、兼平壤道安撫大使とし、玄菟郡公に封じた 通鑑201   史記22  
10・26 高句麗、大使乙相奄鄒・副使達相遁・二位玄武若光らを遣使して進調 書紀          
12・18*     李勣を遼東行軍大総管として高句麗征討軍を派遣。 旧唐67李勣 唐、李勣を遼東行軍大総管として高句麗征討軍を派遣。高句麗の淵浄土、12城の民を率いて新羅に投降 史記6  
  旧唐199上 高麗 史記22  
  新唐3    
  新唐93李勣    
  通鑑201    
この冬 百済の男女2000余人を東国に居住させる 書紀          
667 2・27 大田皇女の葬儀に、高句麗・百済・新羅人、参列 書紀         天智6 乾封2 文武王7(新)
寶臧王26(高)
 
2*     李勣、高句麗新城に至る 旧唐199上 高麗      
      新唐220高麗      
7         唐、新羅王弟らを将軍として高句麗侵攻に赴かせる。新羅、唐に汁恒世を派遣し、朝貢。唐高宗、二方向から軍を平城に向かわせる 史記6  
7・11 耽羅、佐平椽磨らを遣使して貢献 書紀          
8         新羅王、金庾信ら30将軍と京師を発ち、9月に漢城停に到り、唐の李勣を待つ。 史記6  
9・14     李勣、高句麗の新城を攻略 新唐3 唐軍、高句麗の新城を攻略。 史記22  
新唐110契苾何力   
新唐111薛仁貴  
通鑑201  
10・2         唐の李勣、平壤城の北二百里に到り。漢城の新羅王に書を送り出兵の期を促す。新羅王これに従い11月11日獐塞に到るも、李勣の帰ることを聞き王の軍も帰る 史記6  
11・9 唐の百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣使。坂合部石積らを送使とする 書紀          
11・13 司馬法聡、帰国。小山下伊吉博徳・大乙下笠諸石を送使とする。 書紀          
閏11・11 錦・纈・緋・紺布・桃染布及び斧・ソ・刀子等を耽羅使椽磨らに賜う 書紀          
12         唐の留鎮将軍劉仁願、新羅王に高句麗の征討を助けよとの勅命を伝え。大将軍の旌節を賜与 史記6  
668 1・23 熊山県令司馬法聡の送使、伊吉博徳ら帰国。入唐留学僧妙位・法勝、学生氷老人・高黄金ら12人、別倭種韓智興・趙元宝らが随行して帰国(吉川)。 書紀         天智7 乾封3 文武王8(新)
寶臧王27(高)
 
書紀 白雉5・2月条  
1・27     劉仁軌を遼東道副大総管とする 通鑑201      
2・28     唐軍、高句麗の扶余城などを攻略。 新唐3   史記22  
新唐110契苾何力   
新唐111薛仁貴  
新唐220高麗  
通鑑201  
唐会要95高句麗  
3・6     改元        
        新羅、元器・浄土を遣使入唐させる。浄土は留って帰らず。元器は帰還。今後女人の献上を禁じるとの勅あり 史記6 総章1  
4・6 百済、末都師父らを遣使して進調 書紀          
4・16 百済使末都師父ら帰国 書紀          
6・12         唐の劉仁軌、皇帝勅旨を奉じ、宿衛の金三光と党項津に到る。新羅王、金仁問を派遣し大礼を以て迎えさせる。劉仁軌、泉岡に向かう 史記6  
6・21         新羅王、金庾信を筆頭に高句麗攻撃の総官らを任命 史記6  
史記43 金庾信  
6・22         劉仁願、高句麗の大谷・漢城等二郡十二城の帰服を知らせる。新羅王、真功を遣使して賀を述べさせる。仁問ら、7郡及び漢城州兵馬を率いて唐の軍營に赴く 史記6  
6・27         新羅王、京師を発ち唐軍に赴く。 史記6  
6・29         新羅の諸道総管発つ。王は金庾信の病風を以て京師留める。仁問ら、李勣に会い嬰留山下に進軍 史記6  
7・16         新羅王、漢城州に到って、諸総管に(唐の)大軍と会するようにさせた。文穎ら高句麗兵と蛇川之原で遭遇。対戦して大いに破った 史記6  
7 高句麗、越の路より遣使して進調。風浪高く帰国できず 書紀          
8・9     卑列道行軍總管・右威衛將軍の劉仁願、高麗遠征の遅れの罪により、姚州に流刑。 通鑑201      
9・12 唐に亡命した高句麗の泉男生、謀って高句麗を滅ぼす 書紀 天智6・10月条 唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。 冊府986 唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。 史記22  
旧唐5 史記44 金仁問  
旧唐39    
旧唐67 李勣    
旧唐83 薛仁貴     
旧唐84劉仁軌    
旧唐199上 高麗    
新唐3    
新唐39    
新唐108劉仁軌    
新唐110契苾何力     
新唐110泉男生    
新唐111薛仁貴    
新唐220高麗    
通鑑201    
唐会要95高句麗    
9・12 新羅、沙㖨級飡金東厳らを遣使して調を進める。 書紀          
9・21         新羅、(唐の)大軍と平壤包囲。高句麗王、泉男産らを先遣して李勣のもとを訪れ降伏を請う。李勣は宝蔵王・王子福男・徳男・大臣らと20余万口と唐に帰る。金仁問らも随行。初め大軍が高句麗を平定する際、新羅王、漢城を発ち平壤に向かうも、肹次壤に到り唐の諸将が既に帰還したことを聞き、漢城に帰る 史記6  
9・26 中臣鎌足、僧法弁・秦筆を遣わし、新羅の金庾信に船1隻を賜い、金東厳に託す 書紀          
9・29 布勢耳麻呂を派遣し、新羅王に御調輸送船1隻を賜い、新羅使の金東厳に託す 書紀          
10・22         新羅、征高句麗諸将に論功行賞 史記6  
史記43金庾信 下  
10・25         新羅王、帰国 史記6  
10     李勣ら帰還 通鑑201   史記22  
11・1 新羅王に絹50匹・綿500斤・韋100枚を賜い、新羅使金東厳らに託す。また東厳らにも賜物 書紀          
11・5 小山下道守麻呂・吉士小鮪を新羅に派遣。新羅使金東厳ら、帰国。 書紀          
11・5         新羅王、高句麗人捕虜七千とともに入京 史記6  
11・6         新羅王、先祖廟に百済・高句麗征討を告げる 史記6  
11・18         新羅、死事者に幣帛を贈る 史記6  
12・7     高句麗征服の論功行賞として、泉男産を司宰少卿、僧信誠を銀青光祿大夫、泉男生を右衛大將軍。李勣以下にも封賞する。また泉男建は黔中に、扶餘豐は嶺南に流刑。
高句麗の地を編成し、平壌に安東都護府を置き統治する。
旧唐199上 高麗   史記22  
新唐220高麗  
通鑑201  
唐会要95高句麗  
この年 僧道行、草薙剣を盗み、逃げて新羅に向うも風雨により迷って戻る 書紀          
略記  
熱田太神宮縁起  
古語拾遺  
この年         唐が船艘を修理し、倭国を征伐するとしながら、内実は新羅を討伐しようとしているとの報が伝わるとする 史記7文武王11・7・26条  
この年         唐皇帝、金庾信に詔書を下し褒賞し、入朝させようとするも果たせず 史記43金庾信 下  
669 1         唐僧法安、新羅に来て、皇帝の命を伝え磁石を求める。 史記6 天智8 総章2 文武王9  
2・21         新羅、百済・高句麗平定のためとし赦令。また穀米の借入について返済を免除 史記6  
2         高句麗王の庶子安勝、四千余戸を率いて新羅に投ずる 史記22  
3・11 耽羅、王子久麻伎らを遣使して貢献 書紀          
3・18 耽羅王に五穀の種を賜う。耽羅王字久麻伎ら、帰国 書紀          
5・23*     唐、高句麗の民38200人を唐内各地の空閑地に移す。 旧唐5 (唐高宗總章)二年夏四月。高宗移三萬八千三百戸於江淮之南及山南・京西諸州空曠之地。 史記22  
新唐220高麗  
通鑑201  
5         新羅、唐に祇珍山を派遣し、磁石を献上。また金欽純と金良図を派遣して(百済の旧領・遺民を奪ったとの問責について)謝罪 史記6  
9・11 新羅、沙飡督儒らを遣使して進調 書紀          
11 小錦中河内鯨らを唐に遣使。唐の普光寺で仏足石図を写した日本使黄文本実はこの時入唐か。 書紀 同年是歳条 倭国使来朝し、方物を献ず。新唐220は659年にみえる蝦夷入朝をこの年とする 冊府970      
仏足石記 新唐220 日本      
        唐使、新羅に到り詔を伝え弩師の仇珍川を連れて帰る。唐はまた弩の木材を求めて来たので、福漢を遣使して木材を献上 史記6  
この年 佐平余自信・鬼室集斯ら百済人男女700余人を近江国蒲生郡に移住。 書紀          
この年 唐、郭務悰ら二千余人を派遣 書紀          
670 1         謝罪使として唐に派遣されていた金欽純の帰国が許可される。金良図は獄死。 史記6 天智9 総章3 文武王10  
3・1     改元        
3     倭国王の使者到る。高句麗平定を賀す 冊府970     咸亨1  
唐会要99倭国  
新唐220日本  
3         新羅の薛烏儒と高句麗の高延武とで、各兵1万を率い鴨江を渡り靺鞨兵と対峙。4月4日に対戦して勝利。唐兵が続いて到ったため、軍を保白城に退く 史記6  
4・28*     高句麗の酋長鉗牟岑が謀叛、高蔵の外孫安舜を主とするが、左監門大將軍高侃が東州道行軍総管として、右領軍大將軍李謹行が燕山道行軍総管としてこれを伐つ。安舜は鈕牟岑を殺し新羅に投降する 冊府429 高句麗遺臣の劒牟(年)岑、国家復興を図って遺民を糾合し、唐の官人や僧の法安らを殺す。王の外孫(あるいは大臣淵淨土の子)安舜(勝)を漢城に迎え君主とする。新羅に多式らを遣使して。再興と藩屏となることを請う。新羅王は彼らを金馬渚に住まわす。唐高宗、大將軍高侃を東州道行軍総管として兵を発してこれを討つ。安舜は劒牟岑を殺し、新羅に逃げる 史記6  
新唐3 史記22  
新唐220高麗    
通鑑201    
7         新羅、百済の残党と戦いこれを破る 史記6  
7         新羅、安勝を高句麗王に封じる 史記6  
9・1 阿曇頬垂を新羅に派遣する 書紀          
9         新羅、唐に奏上するために使者を派遣したが、風浪悪く漂流し入唐できずとする 史記7文武王11・7・26条  
12         倭国が国号を日本と改めたとする(703年の誤りか) 史記6  
12         新羅の漢城州総管藪世、百済と関連する事象によって誅される(欠字のため文意不詳) 史記6  
671 1・9 高句麗、上部大相可婁を遣使して調を進める 書紀         天智10 咸亨2 文武王11  
1・13 唐の百済鎮将劉仁願、李守真らを遣使して上表 書紀          
1 佐平余自信・法官大輔沙宅紹明に大錦下、学識頭鬼室集斯に小錦下、達率谷那晋首・木質貴子・憶礼福留・答■(火へん+本)春初・■(火へん+本)日比子賛波羅金羅金須・鬼室集信に大山下、達率徳頂上・吉大尚・許率母・角福牟に小山上を授ける。この他の達率ら50余人に小山下を授ける。 書紀          
1         新羅軍、熊津で唐軍と戦う。靺鞨兵が舌口城を囲むが、新羅軍300余人を斬殺。唐による百済救援を聞き、眞功らを派遣し甕浦を守らせる 史記7  
2・23 百済、臺(一説、壹。吉川年表)久用善らを遣使して調を進める 書紀          
6・4 百済使が要請する軍事について宣す 書紀          
6・15 百済、羿真子らを遣使して調を進める 書紀          
6 新羅、遣使して調を進める。 書紀          
6         新羅、将軍竹旨らを派遣し百済の加林城を攻め、唐兵と石城で戦い斬首五千三百級。百済将軍2人、唐果毅6人を捕える 史記7  
7・11 唐人李守真ら、百済使ら、ともに帰国。 書紀          
7・26         唐の薛仁貴、新羅僧琳潤を使わして書を送達。新羅の叛意を責め、唐への恭順を要請 史記7  
7*         唐の高侃、高句麗余衆を安市城にて破る 史記22  
7or8         所夫里州を置き、阿飡眞王を都督とした 史記7  
8・20 高句麗使可婁ら帰国。 書紀          
9         唐将軍高侃ら、蕃兵4万を率いて平壤に到り、溝を深くし塁を高くし帯方を侵攻 史記7  
10・6         新羅、唐の漕船70余艘を撃つ。郎将鉗耳大侯と士卒百余人とを捕える 史記7  
10・7 新羅使沙飡金万物ら、帰国 書紀          
11・2 これより先、唐使郭務悰ら2000人、船47隻で日本に向かい、途中比知島に停泊。郭務悰、同行した日本僧道久・筑紫薩野馬・韓島娑婆・布師磐の4人を先遣し、この日、道久ら対馬に到着。郭務悰の入朝の意向を伝える。対馬国司、この旨を大宰府に報じる。その後、郭務悰ら筑紫に到着。大津館に安置。 書紀 同年11・10条          
善隣記  
11・29 新羅王に絹50匹・絁50匹・綿1000斤・韋100枚を賜う。 書紀          
12・3 天智天皇没            
12・17 新羅使金万物ら帰国。 書紀          
672 1         新羅、百済の古省城を攻め勝利 史記7 天武1 咸亨3 文武王12  
2         新羅、百済の加林城を攻めるも勝てず 史記7  
3・18 これより先、内小七位阿曇稲敷を筑紫に派遣し、天智天皇の喪を郭務悰らに告げさせる。こ郭務悰ら喪服を着て挙哀 書紀          
3・21 唐使郭務悰ら、再拝。書函と信物とを進める 書紀          
善隣記  
牒状記  
5・12 甲冑・弓矢を唐使郭務悰に賜う。また絁1673匹・布2852端・綿666斤を賜う 書紀          
略記  
5・28 高句麗、前部富加抃らを遣使して進調 書紀          
5・30 唐使郭務悰ら、帰国 書紀          
6 壬申の乱            
7・1*     東州道総管の高侃、高麗余衆を安市城に破る 冊府43 唐将高侃が1万、李謹行が3万の兵を率い平壤に到る 史記7  
旧唐84 郝處俊  
通鑑202  
8         高侃ら、韓始城・馬邑城を攻め勝利。白水城付近に陣営を作る。新羅軍、高句麗軍と共に反撃して斬首数千級。高侃ら退却。追って石門で戦い、新羅軍敗北 史記7  
9         新羅王、百済の要請により侵攻した唐軍を討伐したことについて、原川・辺山を遣使し、捕虜の鉗耳大侯・王芸・王益・司馬禰軍・司馬法聡・軍士170を送還するとともに上表して謝罪。また、銀・銅・針・牛黄・金・布を進貢。 史記7  
11・24 新羅使金押実らを筑紫で饗し、禄物を賜う 書紀          
12・15 船1隻を新羅使に賜う 書紀          
12・26 新羅使金押実ら、帰国 書紀          
12     東州道行軍総管左監門大將軍高侃、高句麗餘衆と白水山にて戦い、これを大破。新羅の救軍も水にて破る。 冊府358   史記22  
通鑑202  
旧唐5  
673 閏5・13     燕山道総管の李謹行、高句麗の叛党を瓠盧河の西にて破る。高句麗平壤の余民、逃げて新羅に入る 冊府358   史記22 天武2 咸亨4 文武王13  
冊府986  
旧唐5  
通鑑202  
閏6・6 百済人大錦下沙宅昭明、没。外小紫を贈位し、重ねて本国の大佐平位を賜う 書紀          
閏6・8 耽羅、王子久麻芸・都羅・宇麻らを遣使して来朝、朝貢。 書紀          
閏6・15 新羅、韓阿飡金承元・阿飡金祇山・大舎霜雪らを遣使して来朝。天皇の即位を賀す。また一吉飡金薩儒・韓奈末金池山ら、天智天皇の喪を弔す 書紀          
閏6・24 新羅使貴干宝・真毛らを筑紫において饗す。禄物を賜う 書紀          
7・1         阿飡大吐が謀叛して唐に付くことが発覚し誅される 史記7  
8・20 高句麗使上部位頭大兄邯子・前部大兄碩干ら、新羅使韓奈末金利益に送られて筑紫に至り、朝貢 書紀          
8・25 新羅賀騰極使金承元ら中客以上27人を京師に召す。耽羅使は慶賀使ではないため召さず。国王及び王子久麻芸らに大乙上の位を授けて帰国させる。 書紀          
9・28 新羅使金承元らを難波で饗す。種々の楽を奏し、禄物を賜う 書紀          
9         新羅、各地に城を築く。徹川らを派遣し兵船100艘を率いさせて西海を守らせる。唐兵と靺鞨・契丹兵、北辺を侵攻。九戦して新羅勝利。斬首二千余級  史記7  
11・1 新羅使金承元ら帰国 書紀          
11・21 高句麗使邯子・新羅使薩儒らを筑紫大郡において饗し、禄物を賜う 書紀          
        唐兵、高句麗牛岑城を降す。契丹・靺鞨兵、大楊城・童子城を滅ぼす。太宗武烈王が百済を滅ぼしてから戍兵を罷めていたが復置 史記7  
674 1・10 百済の王昌成没。小紫位を贈る 書紀         天武3 咸亨5 文武王14  
1         唐に宿衛していた徳福が帰国。学んできた暦術を用いて暦法を改正する。 史記7  
2・14*     新羅が高句麗の叛衆を受け入れ、また百済の故地を占拠したため、高宗の怒りを買い、官爵を剥奪される。新羅王弟金仁問に新羅王として立つよう命じ帰国させる。劉仁軌を雞林道大総管、李弼・李謹行を副官として派兵させる。 冊府986 新羅、唐に叛いた高句麗の叛衆を受け入れ、また百済の故地を占拠したため、唐の高宗の怒りを買い、官爵を剥奪される。金仁問、新羅王として立つよう命じられ帰国の途につく。文武王、謝罪使を送る。唐、劉仁軌を雞林道大ハ管とし来攻
史記7文武王14・1条  
旧唐5 史記43金庾信 下  
旧唐84劉仁軌 史記44金仁問  
新唐3    
新唐108劉仁軌    
新唐220新羅    
通鑑202同年1・壬午条    
唐会要95新羅    
9         安勝を封じて報徳王とする→670年 史記7  
11     改元       上元1  
675 1・1 舎衛及び吐火羅の女・百済王善光・新羅仕丁ら、大学寮の学生らと共に、薬及び珍貴な品物を献ず 書紀         天武4 上元2 文武王15  
2 新羅王子金忠元ら、送使金風那らと共に来朝し調を進める 書紀          
2*     劉仁軌、新羅の民を七重城で大破。李謹行、安東鎮撫大使となり、新羅の買肖城を破る。前後三戦して、新羅はいずれも敗北。新羅は遣使入朝して伏罪し、方物を献ずる。許しを得て、王金法敏は官爵を旧に復す。 冊府358 唐将の劉仁軌、新羅を破る。安東鎭撫大使の李謹行、新羅を経略。文武王、遣使入貢して謝罪。皇帝これを許し、王の官爵を復す。金仁問、帰国途中で引き返し臨海郡公に改封せらる。しかし、新羅は百済の地を多く取り、遂に高句麗南境も州郡とする。また、唐軍と契丹・靺鞨軍との侵攻を聞き。九軍を出してこれを待つ 史記7  
冊府986 史記44 金仁問  
旧唐5    
新唐3  
新唐220新羅  
通鑑202  
唐会要95新羅  
3・14 新羅送使金風那らを筑紫において饗す。ついで風那ら帰国 書紀          
3 高句麗使大兄富干ら、来朝し朝貢。また、新羅使級飡朴勤修ら、来朝し調を進める 書紀          
4 新羅使王子金忠元、難波に到る 書紀          
7・7 小錦上大伴国麻呂を大使に、小錦下三宅入石を副使に任じ、新羅に遣わす 書紀          
8・1 耽羅の調使王子久麻伎、筑紫に到る 書紀          
8・25 新羅王子金忠元、使命を果たし、難波より帰途に就く 書紀          
8・28 新羅・高句麗2国の調使を筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
9・27 耽羅王姑如、難波に到る 書紀          
9         9月、唐将の薛仁貴、泉城に侵攻。新羅の将軍文訓等迎え撃ってこれに勝つ。29日、唐将の李謹行兵二十万を率いて買肖城に駐屯。新羅軍、これを破る。 史記7  
9         遣使入唐して方物を貢ずる 史記7  
9         安北河沿いに関城を設け、また鉄関城を築く。靺鞨が阿達城を劫掠し、城主素那戦死。唐軍と契丹・靺鞨軍来攻して七重城を囲み勝てず。小守の儒冬戦死。靺鞨はまた赤木城を囲み滅ぼす。県令脱起戦死。唐兵はまた石城を囲みこれを抜く。県令仙伯・悉毛等、戦死。また新羅軍、唐軍と大小十八戦してみな勝つ。 史記7  
10・16 筑紫より送られてきた唐人30名を、遠江国に居住させる 書紀          
この年         唐、買蘇川城を攻める 史記43金庾信 下  
676 2・6     高句麗余民の叛乱により、安東都䕶府を遼東故城に移す。 冊府991   天武5 上元3 文武王16  
旧唐5  
旧唐39  
新唐39  
通鑑202  
2・24 耽羅客に船1隻を賜う 書紀          
2 遣新羅使小錦上大伴国麻呂ら、新羅より帰国 書紀          
7・8 耽羅客、帰国 書紀          
7         唐軍、道臨城に来攻して之を抜き、県令の居尸知戦死 史記7  
9・13 諸蕃の人らに、百官人と共に禄物を賜う 書紀          
9*     新羅王金法敏、遣使して方物を献ずる。 冊府970      
10・10 大乙上物部麻呂を大使に、大乙中山背百足を小使に任じ、新羅に遣わす 書紀          
11・3 新羅使沙飡金清平、来朝して政を請う。また、汲飡金好儒ら調を進める。送使奈末被珍那ら、清平らを筑紫まで送る。粛慎人7人、清平に従って来朝 書紀          
11・8     改元       儀鳳1  
11・23 高句麗大使後部主簿阿于ら、新羅大使大奈末金楊原に送られて筑紫に到り朝貢 書紀          
11         新羅、所夫里(百済の旧都泗沘)州の伎伐浦で唐軍と戦う 史記7  
677 2・1 遣新羅使物部麻呂ら、新羅より帰国 書紀         天武6 儀鳳2 文武王17  
2・25     高蔵(高句麗宝蔵王)を遼東州都督とし、朝鮮王に封じて安東府に帰し、高句麗の余民を安撫させる。高蔵。靺鞨と通じて叛を謀るも発覚。配流 冊府966 唐、高句麗宝蔵王を遼東州都督とし、朝鮮王に封じて遼東に帰し、唐の諸州に居た高句麗人も共に帰国させる。また、安東都護府を新城に移し、遼東を統括させる 史記22  
冊府1000  
旧唐5  
旧唐39  
旧唐199上 高麗  
新唐39  
新唐220高麗  
通鑑202  
唐会要95高句麗  
2・25     扶余隆(百済義慈王の子)を熊津州都督とし、帯方郡王に封じて、百済の余民を安撫させる。また、安東都護府を新城に移し、これらを統括させようとするも、隆は還らず 冊府966 唐、扶余隆を熊津都督帯方郡王とし、帰国させる。また、安東都護府を新城に移して百済故地を統括させる。このとき新羅強勢で隆は入国できず、高句麗に寄留していたが、そこで死去。→則天武后、百済義慈王の子の扶余隆の孫の敬に王位を継がせたが故地は新羅・渤海・靺鞨に分割されていて、ついに国系は断たれる 史記28  
旧唐5  
旧唐199上 百済  
新唐220百済  
通鑑202  
2 多禰島人を飛鳥寺西槻下において饗す 書紀          
3・9     儀鳳令格式、成る        
3・19 新羅使金清平以下13人を京に召す 書紀          
3         新羅、所夫里州より白鷹の献上を受ける 史記7  
4・14 新羅送使被珍奈らを筑紫において饗す。ついで被珍奈ら、帰国 書紀          
5・3 大博士百済人率母に大山下位を授け、封30戸を賜う。また、倭画使音檮に小山下位を授け、封20戸を賜う 書紀          
5・7 新羅人阿飡朴刺破、従者3人・僧侶3人と共に血鹿島(値嘉島)に漂着 書紀          
8・27 新羅大使金清平ら、漂着新羅人朴刺破ら、共に帰国 書紀          
8・28 耽羅王子都羅、来朝し朝貢 書紀          
678 1・22 耽羅人、京に向かう 書紀         天武7 儀鳳3 文武王18  
9・19 律宗を学んで帰国した入唐留学僧道光、行法選定の勅命を受ける。ついで『依四分律抄撰録文』1巻を作る 伝通縁起 下 律宗          
この年 新羅送使奈末加良井山ら、調使級飡金消勿らを送って日本に向かう。途中、海上で暴風雨に遭い四散。井山ら、無事着岸するも、消勿ら行方不明 書紀          
679 1・5 新羅送使加良井山ら、京に向かう 書紀         天武8 儀鳳4 文武王19  
2・1 高句麗使上部大相桓父ら、新羅送使奈末甘勿那に送られて筑紫に到り、朝貢 書紀          
2         新羅、耽羅を略す 史記7  
6・3     改元       調露1  
9・16 遣新羅使、帰国して拝朝 書紀          
9・23 遣高句麗使・遣耽羅使、帰国して拝朝 書紀          
10・17 新羅使阿飡金項那ら、来朝し朝貢。調物は10余種にのぼる。また、別に天皇・皇后・太子に金などを献上 書紀          
11・23 大乙下倭馬飼部連を大使に、小乙下上光父を小使に任じ、多禰島に遣わす。よって爵一級を賜う 書紀          
680 2・27 新羅の仕丁8人、帰国(→675.1.1) 書紀         天武9 調露2 文武王20  
          新羅、報徳国王安勝(高句麗王)に王の妹(姪?)を嫁がせる 史記7  
4・25 新羅使金項那らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
5・13 高句麗使南部大使卯問ら、新羅使大奈末考那に送られて筑紫に到り、朝貢 書紀          
6・5 新羅使項那ら帰国 書紀          
8・23     改元       永隆1  
11・4 斉明天皇の葬儀に参列したまま滞留していた高句麗使19人、帰国 書紀          
11・24 新羅使沙飡金若弼ら、来朝し調を進める。日本語を学ぶもの3人を伴う 書紀          
681 4・17 高句麗使卯問らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀         天武10 永隆2 文武王21  
5・26 高句麗使卯問ら、帰国 書紀          
6・5 新羅使金若弼を筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
7・1*     新羅王金法敏、薨ず。その子政明を冊立して新羅王とし、父の官爵を襲う。 冊府964 新羅文武王、死。神文王即位。唐高宗、遣使して新羅王に冊封、先王の官爵を継承させる 史記7 神文王1  
冊府966 史記8  
旧唐5開耀1・10・22条    
旧唐199上 新羅  
新唐220新羅  
通鑑202  
唐会要95新羅  
7・4 小錦下采女竹羅を大使に、当摩楯を副使に任じ、新羅に遣わす。また小錦下佐伯広足を大使に、小墾田麻呂を小使任じ、高句麗に遣わす 書紀          
8・10 三韓の諸人に詔、10年間の課税免除の特典はすでに終わるも、帰化の際に伴った子孫とともに課役を免除 書紀          
8・13         報徳国王、新羅に遣使して謀反の平定を祝賀 史記8  
8・20 多禰島に遣わした使者、帰国。多禰国図を進め、地理・風土などを報告。新羅使金若弼、帰国 書紀          
9・3 遣新羅使・遣高句麗使、帰国して拝朝 書紀          
9・14 多禰島人を飛鳥寺西河辺において饗す 書紀          
9・30     改元       開耀1  
10・20 新羅使沙■(口+彔)一吉飡金忠平・大奈末金壱世、来朝し調を貢す。また、別に天皇・皇后・太子に金などを献上 書紀          
10 新羅使、来朝し文武王の没するを報ずる 書紀          
12・10 小錦下河辺子首を筑紫に遣わし、新羅使金忠平を饗す 書紀          
この年     高句麗王高藏、安東に至ると、靺鞨と通じて叛乱を謀る。発覚して召還され邛州に配流。その民は分けて移住させ、河南・隴右諸州に散る。、貧弱者は安東城傍に在留 冊府1000 高句麗宝蔵王が遼東に至ると叛乱を謀り、密かに靺鞨と通じたため、唐により卭州に召還される 史記22  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
  唐会要95高句麗  
682 1・11 筑紫において、新羅使金忠平を饗す 書紀         天武11 開耀2 神文王2  
2・12 新羅使金清平、帰国 書紀          
2・19     改元       永淳1  
4・22 越の蝦夷伊高岐那らが俘人70戸をもって郡を建てるを請うこと、許す 書紀          
5・16 遣高句麗使佐伯広足ら、帰国し、使旨を御所に報告 書紀          
6・1 高句麗使下部助有卦婁毛切・大古昴加、新羅送使大那末金釈起に送られて筑紫に到り、方物を貢す 書紀          
7・25 多禰人・掖久人・阿麻弥人に禄物を賜う 書紀          
8・3 筑紫において、高句麗使を饗す 書紀          
この年     高句麗宝蔵王、死去。唐は衛尉卿を贈り、京師に送致し頡利の墓の左に葬り、其の墓道に碑を建てる。其の民は、往々にして新羅に逃げ、残りは靺鞨や突厥に入った。高氏の君長は遂に絶える 冊府966 高句麗宝蔵王、死去。唐は衛尉卿を贈り、京師に送致し頡利の墓の左に葬り、其の墓道に碑を建てる。其の民は、河南・隴右の諸州に分散して移住し、貧者は安東城(新城)の傍らの旧城に留まった。往々にして新羅に逃げ、残りは靺鞨や突厥に入った。高氏の君長は遂に絶える 史記22  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
唐会要95高句麗  
この年         新羅神文王、父文武王の遺志をつぎ、倭兵を鎮めるため東海の辺に感恩寺を創立し、文武王の遺骨を東海口の大石(大王岩)に納める 三国遺事2万波息笛  
683 3・19 多禰に遣わした使者、帰国(発遣年次不詳) 書紀         天武12 永淳2 神文王3  
7〜8 旱により、百済僧道蔵、雨乞いをして雨を得る 書紀          
10         新羅、報徳国王安勝に金姓を賜い、蘇判位を授け、王都に住まわせる。 史記8  
11・13 新羅使沙飡金主山ら、来朝し調を進める 書紀          
12・4     高宗死、中宗即位、改元       弘道1
(中宗)
 
684 1・1     中宗退位、睿宗即位、改元       天武13 嗣聖1
(睿宗)
神文王4  
2・7     改元       文明1  
2・24 新羅使金主山を筑紫に饗す 書紀          
3・23 新羅使金主山、帰国 書紀          
4・20 小錦下高向麻呂を大使に、小山下都努牛甘を小使に任じ、新羅に遣わす 書紀          
5・14 帰化百済人僧俗男女23人を武蔵国に安置 書紀          
5・28 三輪引田難波麻呂を大使に、桑原人足を小使に任じ、高句麗に遣わす 書紀          
9・6     改元       光宅1  
10・3 県犬養手繦を大使に、川原加尼を小使に任じ、耽羅に遣わす 書紀          
11         報徳王安勝の族子ら、金馬渚にて叛乱。新羅に鎮圧され、住民は南の州郡に移住せらる 史記8  
12・6 これより以前、入唐留学生土師甥ら及び百済救援の役に出征して唐軍の捕虜となった猪使子首ら、唐より新羅に到る。この日、新羅大奈末金物儒に送られて筑紫に帰着 書紀          
685 1・1     改元       天武14 垂拱1 神文王5  
2・4 唐人・百済人・高句麗人合わせて147人に爵位を授ける 書紀          
3・14 新羅使金物儒を筑紫において饗し、ついで帰国。漂着新羅人7人、同行 書紀          
3     垂拱律令格式、公布        
4・17 新羅人金主山、帰国 書紀          
5・26 遣新羅使高向麻呂ら、学問僧観常・霊観らを伴い帰国。新羅王の献上品の馬などを齎す 書紀          
8・20 遣耽羅使、帰国 書紀          
9・20 遣高句麗使、帰国 書紀          
9・27 帰化高句麗人に禄物を賜う 書紀          
10・4 年齢100歳の百済僧常輝に封30戸を賜う 書紀          
10・8 百済僧法蔵・優婆塞益田金鍾を美濃に遣わし、白朮を煎じさせる。よって絁・錦・布を賜う 書紀          
11・24 法蔵ら、煎じた白朮を献上 書紀          
11・27 新羅使波珍飡金智祥ら、来朝し政を請い調を進める 書紀          
12・4 筑紫に向かう途中の防人、海上で漂流し、みな衣裳を失う。よって、衣服料として布458端を筑紫に賜う 書紀          
686 1 新羅使金智祥を饗するため、浄広肆川内王らを筑紫に遣わす 書紀         天武15 垂拱2 神文王6  
2     新羅、遣使来朝す。唐礼(あるいは『礼記』)と雑文章を請う。則天、『吉凶要禮』・『文館詞林』などを賜う 冊府999 新羅、唐に遣使して『礼記』と文章に関する書を請う 史記8  
旧唐199上 新羅  
4・13 新羅使を饗するため、川原寺の伎楽を筑紫に運ぶ。よって皇后宮の私稲5000束を川原寺に納める 書紀          
4・19 新羅使の調物、筑紫より献上。合わせて100余種。また智祥ら別に60余種を献ず。また別に皇后・皇太子及び諸親王らに物を贈る 書紀          
5・9 百済人侍医億仁、病む。臨終に際し勤大壱位を授け、封100戸を賜う 書紀          
5・29 新羅使金智祥らを筑紫において饗し、禄物を賜う。ついで帰国 書紀          
6・2 入唐留学生らに爵位を授ける 書紀          
7・20 建元           朱鳥1(持統称制)  
9・9 天武天皇、没 書紀          
9・30 百済王良虞、百済王善光に代わって誄を奉る 書紀          
10・29 新羅僧行心、大津皇子の謀反に関与した罪で飛騨国の寺に移される 書紀          
閏12 筑紫大宰、高句麗・百済・新羅三国の百姓男女及び僧尼合わせて62人を送上 書紀          
この年     高蔵(高句麗王)の孫宝元を封じて朝鮮郡王とする 冊府966 唐、高句麗宝蔵王の孫の宝元を朝鮮郡王とする 史記22  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
687 1・19 直広肆田中法麻呂らを新羅に遣わし、天武天皇の喪を告げる(→689・5・22) 書紀         持統1 垂拱3 神文王7  
3・15 投化高句麗人56人を常陸国に住まわせ、田を支給 書紀          
3・22 帰化新羅人14人を下毛野国に住まわせ、田を支給して農業に従事させる 書紀          
4・10 筑紫大宰、帰化新羅人僧尼及び百姓男女合わせて22人を進上。武蔵国に居住させ、田を支給して、農業に従事させる 書紀          
9・23 新羅王子金霜林ら、来朝。国政を奏請し調を進める。学問僧智隆、同行して帰国。筑紫大宰、霜林らに天武天皇の死去を告げる。即日、霜林ら、喪服を着し東方に向かって三拝し、3度発哭 書紀          
12・10 直広参路跡見を任じて、新羅使を饗する勅使とす 書紀          
688 1・23 天武天皇死去の旨を新羅使金霜林らに宣す。霜林ら3度発哭 書紀         持統2 垂拱4 神文王8  
2・2 筑紫大宰、新羅の調賦10余種及び仏像など10余種、また霜林の献上した種々の珍奇の品物など80余種を進める 書紀          
2・10 新羅使金霜林らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
2・29 霜林ら、帰国 書紀          
5・8 百済人敬須徳那利を甲斐国に移住させる 書紀          
7・20 百済僧道蔵に降雨を祈らせ、まもなく雨、降る 書紀          
8・25 耽羅使佐平加羅、来朝し方物を献ず 書紀          
9・23 耽羅使加羅らを筑紫において饗し、禄物を賜う 書紀          
11・4 皇太子、公卿・百官人ら及び諸蕃の賓客を率いて殯宮に赴き慟哭 書紀          
689 1・1     改元       持統3 永昌1 神文王9  
1・8 遣新羅使田中法麻呂ら、帰国 書紀          
1・9 出雲国司に詔して、漂着の蕃人を上送させる 書紀          
2・13 詔して、筑紫の防人の年限が満ちた者を交替させる 書紀          
4・8 投化新羅人を下毛野に住まわせる 書紀          
4・20 新羅使級飡金道耶ら、来朝。天武天皇の喪を弔し、阿弥陀像などを献ず。また、学問僧明聡・観智、同行して帰国 書紀          
5・22 新羅使金道耶に詔して、種々の違例・無礼を指摘し、この旨を新羅王に伝えさせる 書紀          
6・19 唐人続守言・薩弘恪に稲を給う 書紀          
6・20 筑紫大宰粟田真人に詔して、学問僧明聡・観智らが、新羅の師友に送るための錦各140斤を支給させる 書紀          
6・24 新羅弔使金道耶らを筑紫小郡において饗し、禄物を賜う 書紀          
6・29 諸司に令1部22巻を班賜 書紀          
7・1 新羅使金道耶ら、帰国 書紀          
11・1     周制に依り、子月(11月)を正月とし、永昌1年11月を改めて載初1年正月とする。また、12月を臘月、翌年正月を1月とする       載初1  
690 1・1 持統即位 書紀         持統4
(持統)
載初2 神文王10  
2・11 新羅僧詮吉・級飡北助知ら50人、帰化 書紀          
2・25 帰化新羅人韓奈末許滿ら12人を武蔵国に居住させる 書紀          
5・10 百済人男女21人、帰化 書紀          
8・11 帰化新羅人を下毛野国に居住させる 書紀          
9・9     皇太后武昭儀、即位(則天武后)。国号を周とし、改元       天授1
(武則天)
 
9・23 これより以前、入唐僧智宗ら及び百済救援の役に出征して唐軍の捕虜となった筑後国の人大伴部博麻、新羅に到る。この日、新羅大奈末金高訓に送られて筑紫に帰着 書紀          
書紀 白雉5・2月条          
書紀 同年10・22条          
元亨21          
10・10 智宗ら、入京 書紀          
10・15 新羅使金高訓らを、筑紫において饗す 書紀          
11・7 新羅使金高訓らに賞賜 書紀          
11・11 儀鳳暦(麟徳暦)を通行の元嘉暦に併用させる 書紀          
三実 貞観3・6・16条          
12・3 新羅使金高訓ら、帰国 書紀          
691 9・4 唐人音博士続守言・薩弘恪、書博士百済末士善信に、各銀20両を賜う 書紀     持統5 天授2 神文王11  
692         唐中宗、遣使して、唐太宗(李世民)と廟号が同じため、新羅太宗(武烈王金春秋)の改号を命じる(但し中宗は廃立後配流中か) 史記8 持統6 天授3 神文王12  
4・1     改元       如意1  
7*     新羅王金政明卒す。遣使してその子理洪を新羅王に冊立し、父の輔國大將軍・行左豹韜衛大將軍、雞林州都督を襲わせる 冊府964 神文王死。孝昭王即位。唐則天は遣使して、新王を冊封して新羅王輔国大将軍左豹韜尉大将軍鶏林州都督とする 史記8神文王 孝昭王1  
冊府966 史記8孝昭王  
旧唐199上 新羅    
通鑑205    
唐会要95新羅    
9・9     改元       長寿1  
10・11 かつて僧として新羅に留学し、のち還俗した山田緒形に務広肆を授ける。 書紀          
11・8 新羅使級飡朴億徳・金深薩ら、来朝し調を進める。また遣新羅使に直広肆息長老・務第弐川内連らを任じ、禄物を賜う 書紀          
11・11 新羅使朴億徳らを難波館において饗し禄物を賜う 書紀          
12・14 唐人音博士続守言・薩弘恪に、水田各4町を給う 書紀          
12・24 新羅の調を、伊勢・住吉・紀伊・大倭・莵名足の5社に奉る 書紀          
693 1・15 故百済王善光に正広参を贈り、賻物を賜う 書紀         持統7 長寿2 孝昭王2  
1・16 漢人、踏歌を奏す 書紀          
2・3 新羅使沙飡金江南・韓奈麻金陽言ら、来朝し、国王の喪を告げる 書紀          
2・30 漂着新羅人牟自毛礼ら37人を新羅使朴億徳らの帰国に同行させる 書紀          
3・16 遣新羅使直広肆息長老・勤第弐大伴子君ら、及び学問僧弁通・神叡らに絁・錦・布を賜う。また、新羅王の賻物託す(帰国の日、不明) 書紀          
6・1 高句麗僧福嘉を還俗させる 書紀          
11・7 耽羅王子・佐平某らに禄物を賜う 書紀          
694 1・17 漢人、踏歌を奏す 書紀         持統8 長寿3 孝昭王3  
1・19 唐人、踏歌を奏す 書紀          
1・23 唐人7名・粛慎人2名に、務広肆等の位を授ける 書紀          
3・18 百済王の一族鵤大寺の徳聡ら、父母の恩に報いるため観世音菩薩像を造る 法隆寺蔵銅板造像記          
5・11     改元       延載1  
11・1     改元       証聖1  
12・6 藤原京に遷都            
この年*     新羅遣使来朝。この年王理洪卒、弟崇基(先天元年に興光と改名とする)冊立とする 唐会要95新羅      
695 3・2 新羅王子金良琳ら来朝。国政を奏請し、調を進め、物を献ず 書紀         持統9 証聖2 孝昭王4  
3・23 務広弐文博勢らを多禰に遣わして、蛮の所居を求めさせる 書紀          
7・26 遣新羅使直広肆小野毛野・務大弐伊吉博徳らに物を賜う 書紀          
9・6 遣新羅使小野毛野ら、出発 書紀          
9・9     改元       天冊万歳1  
12・11     改元       万歳登封1  
696 1・11 百済王南典に直大肆を授ける 書紀         持統10 万歳登封2 孝昭王5  
3・12 越の渡島の蝦夷伊奈理武志と粛慎志良守叡草に、錦等を賜う 書紀          
3・16     改元       万歳通天1  
4・27 唐に抑留されていた伊予国の人物部薬・肥後国の人壬生諸石に追大弐の位を授け、それぞれ絁等を給い戸の調役を免除 書紀          
697 8・1 持統譲位、文武即位           文武1 万歳通天2 孝昭王6  
9・9     改元       神功1  
10・19 陸奥の蝦夷方物を貢す 続紀          
10・28 新羅使一吉飡金弼徳ら、来朝 続紀          
11・11 務広肆坂本鹿田らを陸路より、務広肆土師大麻呂らを海路より、それぞれ筑紫に遣わして新羅使を迎えさせる 続紀          
12・18 越後の蝦夷に物を給う 続紀          
698 1・1 天皇、大極殿に御して朝賀を受ける。新羅使も拝賀 続紀         文武2 神功2 孝昭王7  
1・3 新羅使金弼徳ら、調物を貢す。ついで15日、これを諸社に供える 続紀          
続紀          
1・19 直広参土師馬手を天武天皇大内山陵に遣わし、新羅の貢物を献ず 続紀          
2・3 新羅使金弼徳ら、帰途に就く 続紀          
3         日本国使、来朝。王、崇礼殿において引見 史記8  
4・13 務広弐文忌寸博士・刑部真木ら8人を南島に遣わし、国を覓めさせる 続紀          
続紀 文武4・6・3条          
6・14 越後国の蝦狄、方物を献ず 続紀          
8・20 高安城を修理 続紀          
10・23 陸奥の蝦夷、方物を献ず 続紀          
11・1     改元       聖暦1  
12・21 越後国に、石船柵を修理させる 続紀          
この年     高句麗宝蔵王を進授左鷹揚%大將軍とし、忠誠國王に封じ、安東旧戸を賜与し、統治させようとするも、事ついに行なわれず 冊府966 唐、高句麗宝蔵王の孫の宝元を左鷹揚衛大将軍とし、更に忠誠国王に封じ、安東旧郡を賜与して統治させるも行われず 史記22  
旧唐199上 高麗  
新唐220高麗  
この年 勃海建国 類史193延暦15・4・27条 渤海靺鞨において、唐の聖曆年間に高句麗の別種である大祚榮が自立して振國王となる(渤海建国)。使者を送り、突厥と通行す 冊府967     高王1
紀略 延暦15・4・27条 旧唐199下 勃海靺鞨
  新唐219勃海
通鑑210開元1・2条
699 1・26 京職、林坊の新羅人女性牟久売が1度に2男2女を産んだことを報ず。絁・布・錦・稲及び乳母を賜う 続紀         文武3 聖暦2 孝昭王8 高王2
2     新羅、遣使朝貢 冊府970 新羅、唐に遣使して方物を貢ず 史記8
4・25 越後の蝦狄16人に爵を賜う 続紀        
7・19 多褹・夜久・菴美・度感などの使者、朝宰に従って到り、方物を貢す。度感島との交通はこの時に始まる 続紀        
8・8 南島の献上品を伊勢大神宮及び諸社に奉る 続紀        
9・15 高安城を修理(→大宝1(701)・8・26、高安城廃止。その建物や種々の貯蔵物、大倭・河内の二国に移す) 続紀        
11・4 文博士・刑部真木ら、南島より到る 続紀        
この年*     安東都護府を改めて安東都督府となし、高句麗王の子高徳武を都督となす。これにより安東に居住する高句麗の旧戸は、しだいに減少し、突厥及び靺鞨等に分かれていった。ここに高氏の君長は遂に絶えた。後にしばらくして自立し、元和末年に至り、使者を遣わし楽工を獻ずるともある 冊府1000 唐、高句麗宝蔵王の子の徳武を安東都督とする。後に自ら国を建てる。(→元和13年(818)に、遣使入唐して楽工を献ず) 史記22
旧唐39
旧唐199上 高麗
新唐39
新唐220高麗
唐会要95高句麗
700 2・19 越後・佐渡両国に石船柵を修営させる(→和銅2(709)・7・1、蝦夷征討のため、諸国に兵器を出羽柵へ運搬させる) 続紀         文武4 聖暦3 孝昭王9 高王3
3・10 前入唐留学僧道昭、没(72歳) 続紀        
元亨1道昭        
5・5     改元       久視1
5・13 遣新羅使任命。大使直広肆佐伯麻呂、小使勤大肆佐味賀佐麻呂。この他大少位(祐か)各1人、大少史各1人 続紀        
6・3 これより以前、薩末比売・衣評督の衣君県・肝衝難波ら、肥人らを率い、武器を持って覓国使刑部真木らを剽却する。竺志惣領に勅して、犯に准じて決罰させる 続紀        
6・17 唐人勤大壱薩弘恪、大宝律令撰定の功により、刑部親王らと共に禄物を賜わる 続紀        
10・19 遣新羅使佐伯麻呂ら、帰国。孔雀及び珍物を献ず 続紀        
10・26 周防国に舶を造らせる 続紀        
11・8 新羅使薩飡金所毛、来朝。孝昭王の母の喪を告げる 続紀