専修大学国際コミュニケーション学部日本語学科

専大日語・コラム

専大日語の教員による、月替わりのコラムです。

2021年6月:日本語の再帰ヴォイス

ヴォイス(voice)という文法ジャンルは、「~態」という呼ばれ方で、能動態や受動態などがあることは、みなさんもご存知かと思います。このうち、再帰態というヴォイスも聞いたことがあるかもしれません。英文法などでは、再帰代名詞(herselfなど)という代名詞の一種類について勉強されたかと思いますが、その「再帰」です。Reflexive voiceと呼ばれるとおり、文字通り、その文の述語になる動詞があらわす活動が、活動主体本人に反射して戻ってくる(to reflex)、というわけでしょう。

I excused myself from the table.(座を離れる)とか He prided himself on ~.(~のことを自慢する)などは、学習参考書によく出てくる例文ですね。再帰代名詞が文のなかで直接補語になっている場合がほとんだと思います。現代では少し堅苦しい印象の表現になっているとも言われます。

ただ、実際の例文からは、あまりreflex感は感じられません。むしろ、活動主体自身が自分のことについて行う活動、という感じで理解できます。そうなると、自動詞構文の概念構造とそう変わらない構文、と言えそうです。参考書の類の説明でも、再帰代名詞が省略されることが多いとあります。例えば、hide (oneself), wash (oneself)のように。身を隠す≒隠れる、体を洗う≒入浴する、のように。これは、すでに普通の自動詞のようにふるまっている、ということになります。しかし、再帰代名詞を持つ用法では、活動主体自身に向けられた活動というニュアンスがはっきり出ていることがわかると思います。より古い英語では再帰代名詞が省略されなかったのだとしたら、ぐっとreflex感が出ているわけですので、再帰という命名から逸れた感じはしません。いずれにしろ、英語では、一部の動詞(「再帰動詞」とも)が再帰代名詞を直接補語に置いて述語になる表現によって、つまり、述語動詞の語形変化によってではなく構文として、再帰ヴォイス的な実態を表わせるということがわかります。

一方、日本語はどうでしょうか?一般には日本語には再帰ヴォイスは無いといわれています。本当にそうでしょうか? 活動主体が自分自身に対して行っていることを表わした文をいくつか見てみましょう。

  1. 花子が足をくじいた。
  2. 太郎が窓から首を出した。

この2例は、明らかに活動主体が行った活動が活動主体本人において実現している、という再帰ヴォイス的な構造をしていることが見て取れます。どちらの文とも、述語になる動詞の語形についてみると、通常の能動態と何ら変わりがありません。これらが能動態だとすると、直接補語(「足を」・「首を」)を持っている構文なのですから、例えば以下のように、受動態にも直せるはずです。

ところが、上の2例では、

  1. ×(花子の)足が花子にくじかれた。
  2. ×(太郎の)首が窓から出された。

となって、適格な受動態の文が作れません。

このことは、通常の能動態とは異なる性質をこの構文が持っている、ということを意味しています。その性質とは、まさにぐっとreflex感が出ているデキゴトであって、それを述語動詞の語形変化によってではなく構文として表わしている、ということにほかなりません。

この振る舞い、見覚えありますね。そうです。英語も日本語も同じように、述語動詞が再帰態を示すための特別な語形を持っているわけではない(動詞が再帰態というカテゴリーを持っているわけではない)ものの、一定の構文条件の下で、再帰的なデキゴトを表わす手段を持っていると言えます。

たとえばこんな現象からも、私には、日本語の文法と英語の文法とが心底同じものに見えてしまうのです。 そのうち、自分の物は自分の物、他人の物も自分の物、などと言い出すかもしれませんね。 私は私自身に気を付けたい。

須田淳一


<参考文献>
  1. 江川泰一郎(1991)『英文法解説』金子書房 [OPAC]
  2. 須田淳一(2017)『国語文法第二 ―英語と互換性のある日本語文法をめざして』デザインエッグ社
  3. 高橋太郎ほか(2005)『日本語の文法』ひつじ書房 [OPAC]

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