2017/03/31 編集

   出岡ゼミ                4






■ 日本精神史特殊講義演習  「砂糖水を作りたいとすれば私は砂糖が溶けるのを待たねばならない」 この明快な事実から、ベルクソンは、人間の行動は科学のように時間を空間化するようには為されていない、という本質を導き出しました。このように、生きる身の上で常識とされる事柄について反省し、そこから人間の存在や可能性を思索したベルクソンを、小林秀雄は「感想」で論じています。「感想」は、雑誌に五年にわたり連載されながらも、小林がその刊行を禁じた、本人曰く「失敗」作です。しかし、それでも我々が「感想」を読むのは、それがベルクソン哲学の単なる注釈に終わってはいないからです。対象と共感し、「私」が揺さぶられつつも、なお「私」から表現しようとする、つまりは時代や言葉の相違を抱えながら「理解する」という行為が、そこにはあります。
 本時では、「感想」の読解を通じて、ベルクソン哲学の理解のみならず、「読む」・「書く」ということ、そしてそれらを含めた上での「理解する」という人間的行為を思議することを目的としています。
■ 日本精神史特殊研究 同演習  我々日本人は否応なしに日本語を背負って生きています。その、日常当たり前のように使用している言葉に、内的な動揺の要求で意識の照明を当てたとき、そこに表現の問題が立ち現れてきます。例えば、世阿弥の芸論は、能における「花」という、言葉では表し得ないものを、綿密に言葉で表現していきます。ここで「花」は、言葉と不可分にあります。しかし、言葉の連なりをただ目で追うだけでは、「花」を捉えることは不可能です。つまり、「花」という本質は、言葉という明示された現象によって、暗示されているのみです。論理や本質の一方に囚われると、我々は「花の美しさ」というありもしないものについて頭を悩ますことになります。

























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