オンライン特別展示「専大スポーツの軌跡」

看板
ご挨拶
第1章
(1)書籍『OUTDOOR GAMES』(明治16年)
 著者・ストレンジは東京大学予備門で英語を教えていたほか、陸上競技やボート、野球といった競技の普及に努め、日本における近代スポーツの父とも言われています。明治18年に刊行された『戸外遊戯法』は明治期の体育教育に大きな役割を果たした一冊と言われていますが、『OUTDOOR GAMES』はその原典の一つとされています。そのことを示すのが、球場の解説図です。
第1章(1)F.W.ストレンジ(武田千代三郎『理論実験 競技運動』(博文館 明治37年)所収)F.W.ストレンジ(武田千代三郎『理論実験競技運動』(博文館 明治37年)所収
(2)書籍『野球部史』(明治28年)
 第一高等学校(東京大学教養学部の前身)校友会野球部が編集した野球解説書です。一高野球部の初代チームで二塁手として活躍した中馬庚が、ベースボールの訳語として「野球」という用語を考え出したと記されています。見開き箇所には、明治24年に行われた一高野球部と明治や慶応などの学生が集まって結成された連合軍との試合の様子が記されています。
(3)新聞記事(朝野新聞 明治22年4月4日)
 飛鳥山で開催された専修学校(現在の専修大学)の第8回目の運動会の様子を記した新聞記事です。専修大学は開校1年後の明治14年から運動会を開催しており、この時も1千人もの学生・卒業生、教職員が集まり、相撲や綱引きなどを行っていることがわかります。
(4)明治法律学校(現在の明治大学)の運動会
 現在の東京大学や一橋大学などの官立学校はもちろん、現在の法政大学、明治大学や中央大学などの私立学校も運動会を開催しており、なかでも私立学校は飛鳥山で開催することが多かったようです。明治大学には明治33年時の運動会の様子を知ることのできる写真が残っていますので、参考としてご紹介します。
 なお、明治21年4月28日の読売新聞には、翌4月29日に専修大学生250名と明治大学生1500名が飛鳥山において合同で大運動会を開催するとの告知記事が掲載されています。
1635725506097明治法律学校運動会集合写真(明治大学史資料センター所蔵)
1635725591053明治法律学校運動会(明治大学史資料センター所蔵)


第2章
(1)専修大学体育会各部の創設年
第2章-(1)専修大学体育会各部の創設年(創設年順)
(2)神田校舎で行われた第1回部旗授与式(昭和6年)
 統一部旗を制定した際に行われた授与式で、写真では11本の部旗を見ることができます。うち1本が学生会のもので、運動部として庭球部・拳闘部・野球部・陸上部・馬術部などの10部が参加しています。
第2章-(2)神田校舎で行われた第1回部旗授与式(昭和6年)神田校舎で行われた第1回部旗授与式(昭和6年)
(3)庭球部発会式における創立者・田尻稲次郎の始球式(大正10年頃)
 庭球部の発足は大正8、9年頃で、正式に部となったのが大正10年とされています。写真に見えるコートは当時としては本格的なものであったようで、このコートを会場として、大正14年から専修大学が主催した「全国中等学校庭球大会」が開催されていました。
第2章-(3)庭球部発会式における創立者・田尻稲次郎の始球式(大正10年頃)庭球部発会式における創立者・田尻稲次郎の始球式(大正10年頃)
(4)東都大学野球リーグの発足
 昭和6年、当時隆盛を誇っていた六大学野球リーグ加盟を断念した日本大学・国学院大学は、雑誌『野球界』の主幹・横井春野の周旋により、専修大学・中央大学・東京農業大学とともに、現在の東都大学野球連盟の前身となる五大学野球連盟を結成。その事務所が学内に置かれたほど、専修大学は中心的な役割を果たしました。
 専修大学野球部はリーグ戦発足当初から好成績を残し、その活躍は雑誌にも取り上げられています。
第2章-(4)−1 専修大学専修大学
第2章-(4)−2 中央大学中央大学
第2章-(4)−3 日本大学日本大学
第2章-(4)−4 国学院大学国学院大学
第2章-(4)−5 東京農業大学東京農業大学
第2章-(4)-6 東都大学野球リーグの前身となる五大学野球リーグ初優勝のトロフィーを受ける上原敏。後に上原敏は戦前、大人気を博した流行歌手としても活躍した東都大学野球リーグの前身となる五大学野球リーグ初優勝のトロフィーを受ける上原敏。後に上原敏は戦前、大人気を博した流行歌手としても活躍しました。
(5)箱根駅伝初優勝
 昭和13年、専修大学は日本大学に続く、第2位という好成績を収めました。メダルはその名称からこの時のものと推測されます(福島洋二氏(昭和34年商経)寄贈)。その翌昭和14年、満を持して出場した大会で、専修大学は2区以降、トップを守り抜き、4連覇中の日本大学を破り、見事に悲願の初優勝を飾りました。雑誌はこの優勝を特集したもので、優勝の軌跡、そしてメンバーの座談会が掲載されています。
第2章-(5)-1 往路優勝の瞬間往路優勝の瞬間
箱根駅伝優勝時のメンバー(web)優勝時のメンバー
1635722343478東京箱根間専門学校駅伝競走のメダル
第2章-(5)−3 『陸上日本』(表紙)『陸上日本』(表紙)
(6)ボクシング部の活躍(映像)
 これは専修大学に残る最も古い貴重な映像です。フランス人ボクシング選手を神田キャンパスに招待して練習を行っています。
 近年の専大ボクシング部といえば、世界チャンピオンとして12度の防衛を果たし、「神の左」とも呼ばれた山中慎介選手(平成17年商)の活躍が有名ですが、戦前から強豪として名高く、専大初のオリンピアンの一人はボクシング部の中野千代人選手(昭和13年経済)でした。
 なお、映像は無声のため、校歌を流しています。(映像時間4:19)

https://youtu.be/0JWp-dVtlQY


第3章
(1)専修大学報国隊の錬成大会と手帳
 写真は、報国隊の結成記念として開催された国防錬成大会を撮影したものです。当時、ほとんどの大学で名称はそれぞれですが、このような組織がつくられ、心身の鍛練を目的とした錬成が教育に組み込まれることになりました。
 学生たちは生徒手帳の代わりに、報国隊手帳を常備することになったのです。
1635491694867報国隊結成記念国防錬成大会(昭和16年)
1635725853980報国隊結成記念国防錬成大会における体育会(昭和16年)
(2)野球部員・山口吉国氏の出征時の寄せ書きと幟
 昭和16年に経済学部を卒業した山口吉国氏は、静岡中学(現在の静岡高校)卒業後、社会人を経て、専修大学に入学。予科・学部を通して野球部で活躍しました。山口氏の在籍時代は、東都大学野球リーグにおいて4連覇を果たすなど、専大野球部第一次黄金期と言える時代でした。
 寄せ書きは、昭和17年に山口氏が出征するにあたって野球部の後輩たちに書いてもらったもので、幟は当時、在籍していた会社がつくったものです。
第3章-(2)-1日章旗(野球部)日章旗(野球部)
第3章-(2)-2幟(祝入営 山口吉国君)幟(祝入営 山口吉国君)
(3)専修大学航空部
 報国隊の結成により航空部も国防訓練部隊所属となり、名称も航空隊と改称させられます。写真は昭和17年7月14日に神田キャンパスの中庭で開催されたグライダー命名式の様子を撮影したものです。浅見誠一氏(昭和19年専門部政経)より寄贈いただきました。
 グライダーの垂直尾翼には校章とともに「鳳凰第一号」の文字が見えます。空を飛びたいという若者の熱意から生まれた航空部も、飛行機搭乗員訓練の場へと変わっていきました。
第3章-(3)−1 専修大学航空隊グライダー命名式専修大学航空隊グライダー命名式
第3章-(3)−2 専修大学航空隊グライダー鳳凰専修大学航空隊グライダー鳳凰
(4)「錬成」の授業風景
 戦前の大学においては、現在のように体育の授業が行われることはありませんでしたが、大正末期になると中学校以上の学校では、軍事教練が必修となり、戦争の激化にともない、ますます盛んに行われるようになりました。当然、こうした動きに対して反対行動を起こす学生たちもいました。
第3章-(4)−1 「錬成」の授業風景「錬成」の授業風景
第3章-(4)−2 ペンを銃にかえてペンを銃にかえて
第3章-(4)−3 軍事教育反対デー軍事教育反対デー
(5)戦時下の運動会
 昭和17年に行われた運動会の様子。「必勝」と「玉砕」に分かれて戦う姿が、戦時下を物語っています。
1635726022032戦時下の運動会
(6)戦時下での甲子園出場
 長い甲子園の歴史のなかで、唯一「国」が主催した大会が昭和17年に開催されました。「幻の甲子園」とも呼ばれています。この大会に南関東地域の代表として出場したのが、京王商業学校、現在の専修大学附属高等学校の前身校です。惜しくも1回戦でこの大会で優勝した徳島商業学校に敗れはしたものの、専大附属スポーツの栄冠の一つと言えるでしょう。
第3章-(6)−1 文部省主催全国中等学校野球大会 南関東代表甲子園出場メンバー文部省主催全国中等学校野球大会 南関東代表甲子園出場メンバー(専修大学附属高等学校提供)
第3章-(6)−2 開会式での国旗の掲揚(早坂隆『幻の甲子園』(文芸春秋 平成24年)所収)開会式での国旗掲揚(早坂隆『幻の甲子園』(文芸春秋 平成24年)所収)
1635728301820試合風景(専修大学附属高等学校提供)


第4章
(1)アメリカンフットボール部
 昭和38年に創部したアメリカンフットボール部が強豪大学と互して戦えるようになったのは昭和50年代後半のことです。平成3年には惜しくも大学日本一には届きませんでしたが、初めて大学日本一を決める甲子園ボウルにも出場しました。
第4章−(1) 平成3年に開催された第46回甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)平成3年に開催された第46回甲子園ボウル(東西大学王座決定戦)
(2)ゴルフ部
 昭和38年、ゴルフ同好会として発足したゴルフ部は、昭和54年の全日本学生リーグ戦での初優勝を皮切りに、日本学生ゴルフ選手権において優勝した選手も多く、男子・女子とも後にプロゴルファーとして活躍する名選手を輩出してきました。
第4章−(2) 昭和54年に開催された朝日杯争奪日本学生ゴルフ選手権でプレーする羽川豊選手(昭和55年商)昭和54年に開催された朝日杯争奪日本学生ゴルフ選手権でプレーする羽川豊選手(昭和55年商)
(3)サッカー部
 創部は昭和37年と、他大学の強豪サッカー部と比べ遅れるものの、創部14年で関東リーグ入りを果たし、平成17年には悲願の1部入り、さらに平成23年には1部初優勝、そして全日本大学選手権にも優勝し、大学日本一の栄冠を勝ち取りました。
第4章−(3) 平成24年、全日本大学選手権において初制覇を遂げたサッカー部平成24年、全日本大学選手権において初制覇を遂げたサッカー部
(4)スピードスケート部・フィギュアスケート部
 スピードスケート部は昭和22年に山岳スキー部に所属する形で、フィギュアスケート部は昭和42年にアイススケート部の一部門として発足しました。両部ともに男女を問わず、オリンピックを始めとする国際大会で活躍する名選手を多数輩出してきました。
1635726161447昭和58年の学生氷上競技選手権で力強いスケーティングを披露する黒岩彰選手(昭和59年商)
第4章−(4)−2 在学中の昭和54年、世界フィギュアスケート選手権で銅メダルを獲得した渡部絵美選手。翌55年にはレークプラシッド冬季五輪にも出場在学中の昭和54年、世界フィギュアスケート選手権で銅メダルを獲得した渡部絵美選手。翌55年にはレークプラシッド冬季五輪にも出場
(5)卓球部
 大正13年創部という専修大学卓球部の長い歴史のなかで、ひときわ輝きを見せた時期が昭和30年代から昭和40年代でした。なかでも40年代の世界選手権には延べ19人もの代表選手を送り出し、3人の世界チャンピオンが誕生。その後も現在に至るまで、男女ともに1部リーグに在籍する強豪校の一つとして、躍進を続けています。
第4章−(5) 昭和29年、出迎える提灯行列の声援に応える世界卓球選手権大会の優勝選手たち昭和29年、出迎える提灯行列の声援に応える世界卓球選手権大会の優勝選手たち
(6)バスケットボール部
 戦後間もない昭和21年に創部したバスケットボール部ですが、平成14年には創部57年目にして男子が大学日本一の座を掴んだほか、近年では男女ともに関東大学リーグ1部に在籍し、好成績を残しています。
(7)バドミントン部
 昭和36年、同好会としてスタートしたバドミントン部ですが、昭和55年に関東大学リーグ1部入りを果たした後、現在にいたるまで1部に定着するなど大きな実績を残しています。全日本学生選手権だけでなく、世界学生選手権でも活躍する選手を数多く輩出しています。
第4章−(7) 平成26年、浦谷夏未選手(平成27年商)と篠田未来選手(平成27年文)のペアが世界学生選手権で準優勝(写真は関東学生選手権時)平成26年、浦谷夏未選手(平成27年商)と篠田未来選手(平成27年文)のペアが世界学生選手権で準優勝(写真は関東学生選手権時)
(8)バレーボール部
 昭和22年創部のバレーボール部が初めて関東学生バレーボールリーグ1部に昇格したのは平成12年のことで、その後も着実に力をつけてきました。平成24年の男子全日本大学選手権では初のベスト4に進出、そして平成26年には東日本大学選手権で創部初の栄冠に輝きました。
第4章−(8) 平成26年、東日本大学選手権で創部初の栄光に輝く平成26年、東日本大学選手権で創部初の栄光に輝く
(9)野球部
 東都大学リーグにおける連覇記録(6連覇)、そして最多の優勝回数(32回)を持つ大正14年創部の専修大学野球部。メジャーリーグでも活躍した黒田博樹選手(平成9年商)を始め、戦前・戦後の長年に渡り、数多くの選手をプロ野球界へと送り込むなど、日本における野球の普及・発展に寄与してきた大学の一つと言っても過言ではありません。
第4章−(9)−1 昭和40年に行われた全日本大学野球選手権大会で優勝し、悲願の大学日本一に昭和40年に行われた全日本大学野球選手権大会で優勝し、悲願の大学日本一に
1635726355023平成27年、東都大学リーグ戦において最多となる32回目の優勝を飾る
(10)ラグビー部
 昭和4年創部のラグビーは、昭和40年に関東大学ラグビーがリーグ戦と対抗戦に分かれた際、リーグ戦創設となったチームの一つでもありました。昭和43年のリーグ戦初優勝以来、リーグ戦や大学選手権においても好成績を収めてきました。
第4章−(10) 昭和58年にアイルランドに遠征して試合を行うラグビー部昭和58年、アイルランドに遠征して試合を行うラグビー部
(11)陸上競技部
 大正13年創部の専修大学陸上競技部。戦前は箱根駅伝優勝という栄誉を勝ち取り、戦後も箱根駅伝出場の常連校として全国に「専修」の名を広める役割を果たしてきました。令和3年には7年ぶり69度目となる本戦に「伝統への挑戦」を掲げ、出場しました。
第4章−(11)−1 昭和46年の第47回大会のスタート会場における応援合戦。この年の専修大学は10位入賞昭和46年の第47回大会のスタート会場における応援合戦。この年の専修大学は10位入賞
第4章−(11)−2 昭和59年の第60回大会に出場した陸上競技部。この年、10位に入賞しシード権を獲得昭和59年の第60回大会に出場した陸上競技部。この年、10位に入賞しシード権を獲得
(12)レスリング部
 レスリング部は、昭和7年に開催されたロサンゼルスオリンピックのレスリング種目に啓発され、昭和10年に誕生しました。昭和40年代以降、オリンピアンを次々と輩出したほか、全日本大学選手権においても好成績を残しています。
第4章−(12) 昭和63年の全日本学生選手権グレコ・フリーで優勝した中西学選手(平成1年商)昭和63年の全日本学生選手権グレコ・フリーで優勝した中西学選手(平成1年商)
(13)応援団
 応援団は体育会設立と時を同じくして組織化されたと言われています。観客をまとめあげ、客席に秩序をもたらす応援団は、無くてはならない存在で、専大スポーツの発展に応援団が果たした役割は非常に大きく、現在、応戦団は、応援を指揮するリーダー部、チアリーダー部、そして吹奏楽部の3部で構成されています。
第4章−(13)−1 昭和44年頃の応援団。旧神田校舎屋上にて昭和44年頃の応援団。旧神田校舎屋上にて
1635726452089昭和44年、神宮球場での試合を終えた野球部と応援団
(14)昭和35年頃の体育会(映像)
 昭和35年に専修大学が作成した「伸びゆく専修大学」という映像作品に収録された体育会の紹介部分を抽出したものです。懐かしいグラウンドや校舎の映像もあわせてご覧ください。(映像時間5:44)

https://youtu.be/jffb4IzZrH8
(15)昭和40年頃の体育会(映像)
 昭和41年に専修大学が作成した「鳳ははばたく」という映像作品に収録された体育会の紹介部分を抽出したものです。新設された伊勢原グラウンドのほか、野球部が大学日本一になった際の映像や箱根駅伝の模様を見ることができます。(映像時間10:26)

https://youtu.be/713SYpeUdI0
(16)昭和54年頃の体育会(映像)
 昭和54年、専修大学創立100年を記念して作成した「はばたけ若き鳳たち〜体育会の活動〜」と題した映像作品です。野球部を中心に、体育会各運動部のなつかしい姿を見ることができます。少し長い映像になりますが、興味のある方はご覧ください。(映像時間30:54)

https://youtu.be/Q0unIPBTFe0
(17)専修大学体育会の今(映像)
 戦後、野球、陸上競技、卓球、ボクシング、ラグビー、水泳、山岳、自動車、レスリングが復活。昭和21年、バスケット、空手に始まり、次年以降漕艇、テニス、スキー、バレー、準硬式野球、柔道、剣道と続き、昭和35年フェンシング、翌36年には合気道、以下ゴルフ、アメリカンフットボール、サッカー、硬式テニス、ローラースケート、洋弓、昭和53年、バドミントン・柔剣術が体育会に加盟。その後50周年の昭和58年には32部11同好会となり、平成14年に射撃、体操、日本拳法、ハンドボール、ボディビルがそれぞれ同好会から部へ昇格し43部2同好会となり、現在に至っています。(映像時間2:27)

https://youtu.be/EgX2bzaBcGI


第5章
(1)専大初のオリンピアン〜矢沢正雄と中野千代人〜
 専大生が初めて出場したオリンピックは、昭和11年にドイツのベルリンで開催された第11回オリンピック競技大会です。陸上競技に出場した矢沢正雄選手(昭和14年経済)と、ボクシング競技に出場した中野千代人選手の2人です。残念ながらメダルには届きませんでしたが、それ以降の専大オリンピアンの道をつくりました。
第5章−(1)−1 オリンピックでフィンランドの選手を下した中野千代人選手オリンピックでフィンランドの選手を下した中野千代人選手
第5章−(1)−2 日本陸上選手権大会での矢沢正雄選手日本陸上選手権大会での矢沢正雄選手
第5章−(1)−3 ベルリンオリンピックに出場した中野千代人選手と矢沢正雄選手の帰国歓迎会ベルリンオリンピックに出場した中野千代人選手と矢沢正雄選手の帰国歓迎会
(2)幻の東京オリンピック選手団(昭和15年)
 昭和15年、アジアで初めて開催される予定であった幻の東京オリンピックの選手団の記念写真です。専修大学からは陸上競技で山下勝選手(矢印)(昭和16年経済)が選ばれていました。山下は昭和14年の箱根駅伝優勝の際に当時のエース区間である3区を走り、区間新記録を樹立。そして昭和15年の国際大会・東亜競技大会では当時、国内最強と謳われていた中央大学の村社講平選手に見事競り勝ち、次代のホープとして脚光を浴びていました。
第5章−(2)−1 幻の東京オリンピック選手団幻の東京オリンピック選手団。矢印が山下勝選手
第5章−(2)−2 第27回日本陸上競技選手権大会において村社講平選手を追い抜く山下勝選手第27回日本陸上競技選手権大会において村社講平選手を追い抜く山下勝選手
(3)東京オリンピック1964の担当大臣を務めた川島正次郎総長(大正3年専門部経済)
 川島正次郎総長がオリンピック担当大臣として国内外に認められるようになったのは、東京オリンピック開催に先立つ2年前のインドネシアで行われたアジア競技大会の時です。この時、インドネシアは台湾とイスラエルの参加を拒否します。アジアにおける内紛は東京でのオリンピック開催に支障をきたすと考えた日本政府は川島に問題解決を託します。この問題を見事解決したことによって、以降、オリンピック招致・実行の中心人物として職務に邁進。見事、東京オリンピックを成功裏に導きました。
第5章−(3)−1 昭和38年、東京オリンピック担当大臣として施設を視察する川島正次郎総長(『川島正次郎』(交友クラブ 昭和46年)所収)昭和38年、東京オリンピック担当大臣として施設を視察する川島正次郎総長(『川島正次郎』(交友クラブ 昭和46年)所収)
第5章−(3)−2 東京オリンピックの団体予選におけるフェンシングの大和田智子選手(昭和42年商)東京オリンピックの団体予選におけるフェンシングの大和田智子選手(昭和42年商)
(4)東京オリンピック1964を競技役員として支えた渋谷隆宏氏(昭和33年商経)
 在学時代から専大漕艇部員として活躍した渋谷氏は、第18回東京オリンピックにおいて相模湖で開催されたカヌー競技を大会競技役員として支えた人物の一人です。この時のカヌー競技には樫村勝房選手(昭和40年経済)と小林英男選手(昭和40年経済)がペアを組んで出場したほか、大会役員には漕艇部のOB会である緑漕会の面々が名を連ねています。専大スポーツは確かにオリンピックに数多くの選手を輩出しましたが、それだけでなく、支える立場でも大きな役割を果たしていたことを、このことから知ることができます。
第5章−(4)−1 専修大学漕艇部時代(昭和30年頃)の仲間たち(渋谷隆宏氏所蔵)専修大学漕艇部時代(昭和30年頃)の仲間たち(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−6 東京オリンピック1964の開会式(渋谷隆宏氏所蔵)東京オリンピック1964の開会式(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−2 競技役員委嘱状(渋谷隆宏氏所蔵)競技役員委嘱状(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−3 渋谷氏宛ての感謝状(渋谷隆宏氏所蔵)渋谷氏宛ての感謝状(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−4 ブレザーを着用した渋谷隆宏氏(渋谷隆宏氏所蔵)ブレザーを着用した渋谷隆宏氏(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−5 役員用ブレザー(渋谷隆宏氏所蔵)役員用ブレザー(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−7 昭和39年度日本カヌー選手権大会兼オリンピック代表選手決定競技大会(渋谷隆宏氏所蔵)昭和39年度日本カヌー選手権大会兼オリンピック代表選手決定競技大会プログラム(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−8 第18回オリンピック東京大会-カヌープログラム(渋谷隆宏氏所蔵)第18回オリンピック東京大会―カヌープログラム(渋谷隆宏氏所蔵)
第5章−(4)−9 カヌー出場選手のサイン帳。専修大学から出場していた小林英男選手と樫村勝房選手の名前も見える(渋谷隆宏氏所蔵)カヌー出場選手のサイン帳。専修大学から出場していた小林英男選手と樫村勝房選手の名前も見える(渋谷隆宏氏所蔵)
(5)専大初の金メダリスト・金子正明選手(昭和38年商経)
 専修大学レスリング部は、9人のオリンピアンを輩出し、4つのメダルを獲得しています。専大スポーツの歴史のなかで、最もオリンピックで好成績を残した部と言えるでしょう。
 ここで紹介する金子正明選手も足利工業高校時代にレスリングを始め、在学中もトップ選手として活躍。卒業後は、幹部候補生として自衛隊に入隊し、自衛隊体育学校に所属しながら、オリンピック出場を目指すも、東京オリンピックでは代表選考会の最終予選で敗れてしまいます。階級を上げて臨んだ昭和43年の第19回メキシコシティー大会で悲願の金メダルを獲得。専修大学出身者として初の金メダリストに輝くとともに、28歳3ヵ月での金メダル獲得は日本人男子レスリング選手としては今も破られていない最年長記録です。昭和41・42年には世界選手権で連覇を果たし、平成19年には世界レスリング殿堂顕彰者にも選出されました。
第5章−(5)−1 昭和38年度の専修大学レスリング部昭和38年度の専修大学レスリング部
第5章−(5)−2 自衛隊体育学校時代の金子正明選手自衛隊体育学校時代の金子正明選手(金子正明氏提供)
1635468367776オリンピック代表合宿練習所前に立つ金子正明選手(金子正明氏提供)
第5章−(5)−4 試合中の金子正明選手試合中の金子正明選手(金子正明氏提供)
第5章−(5)−5 表彰台に立つ金子正明選手表彰台に立つ金子正明選手(金子正明氏提供)
1635468786629金子正明選手の勝利を祝う日本レスリング代表団(金子正明氏提供)
第5章−(5)−7 メキシコシティーオリンピック代表メンバーたちとの記念撮影(左から上武洋次郎選手・中田茂男選手・金子正明選手・君原健二選手)メキシコシティーオリンピック代表メンバーたちとの記念撮影
(左から上武洋次郎選手・中田茂男選手・金子正明選手・君原健二選手)
(金子正明氏提供)
(6)冬季オリンピックでの活躍
 冬季オリンピックにおいても専大スポーツ選手たちは華々しい活躍をしています。初めて専大生が出場した冬季オリンピックは、昭和35年、アメリカのスコーバレーで行われた第8回大会で、スピードスケート競技に長久保文雄選手(昭和34年商経)と高見沢初枝選手(昭和32年短期大学部商業)の2人です。翌第9回インスブルック大会にも2人は出場し、冬季では史上初となる夫婦日本代表の快挙を果たしました。以後、スピード・フィギュアの両スケート競技やスキー競技に数多くの選手を送り込み、近年では、平成26年の第22回ソチ大会では、スキーハーフパイプ競技で小野塚彩那選手(平成22年商)が銅メダルを獲得しました。
1635468944944昭和47年の札幌冬季五輪スキー大回転に出場した千葉晴久選手(昭和49年商)
第5章−(6)−2 昭和56年レークプラシッド冬季五輪のアイススケートフィギュアに出場した松村充選手(昭和56年商)昭和56年、レークプラシッド冬季五輪のアイススケートフィギュアに出場した松村充選手(昭和56年商)
第5章−(6)−3 アルベールビル・長野・ソルトレークシティーの3大会で冬季五輪スピードスケート競技に出場した白幡圭史選手(平成8年商)アルベールビル・長野・ソルトレークシティーの3大会で冬季五輪スピードスケート競技に出場した白幡圭史選手(平成8年商)
第5章−(6)−4 昭和63年カルガリー冬季五輪アイスダンスに出場した田中智子選手(右)(昭和56年法)昭和63年、カルガリー冬季五輪アイスダンスに出場した田中智子選手(右)(昭和56年法)
第5章−(6)−5 リレハンメル・長野・ソルトレークシティーの3大会連続で冬季五輪に出場した神津正昭選手(平成9年商)(写真は平成9年の全日本クロスカントリー出場時)リレハンメル・長野・ソルトレークシティーの3大会連続で冬季五輪に出場した神津正昭選手(平成9年商)(写真は平成9年の全日本クロスカントリー出場時)
第5章−(6)−6 平成4年のアルベールビル冬季五輪スピードスケート男子1000mに出場した藤本祐司選手(平成5年商)平成4年のアルベールビル冬季五輪スピードスケート男子1000mに出場した藤本祐司選手(平成5年商)


※ 専修大学体育会に関する資料や写真をお持ちの方は、ぜひ大学史資料室(03-3265-5879、archives@acc.senshu-u.ac.jp)までお知らせください。
 ※ 本展示に関して何かお気づきの点などがございましたら、大学史資料室(03-3265-5879、archives@acc.senshu-u.ac.jp)までお知らせください。
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