編集 2017/03/31
 時々インドネシアのバリ島に行きます。その地の音楽と舞踊に惹きつけられているのです。ちなみに最初の海外旅行は大学生の時で、バリに踊りを習いに行ったのでした。
 バリ舞踊の踊り手は神がかっているように見えます。型としての表情はあっても、個人的な感情には結びつかないものです。人に微笑みかけられれば、こちらも微笑み返すなり無視するなり、何らかの反応をするものですが、バリ舞踊の舞い手の表情はそのような働きかけをしません。それなのに、舞い手は大変な吸引力を持っています。講義で目にする質問に、「この絵の作者が何を感じて(考えて)いるかわかりません(だからこの絵がわかりません)。」というものがありますが、バリ舞踊と同様、絵と作者の感情(または思考)はたいして関係ないことが多いです。一度感情=表現説から離れてみると良いでしょうね。

 この3月、バリでニュピと呼ばれる新年を過ごしました。ニュピは沈黙の日です。人々は話をせず、出歩きません。電気もつけないので夜は真っ暗です。
 身体的になにもしないだけではありません。頭を忙しくさせることや心を乱されることも慎みます。この日は瞑想をする人も多いそうです。なにもしないことが公式に認められている日と言えるかもしれません。これが翌日の早朝まで続きます。あまりにも素晴らしいので、現代日本でも行えば良いのにと思います。
 誰もが頭のおしゃべりを止めるという状況においては藝術も哲学も成り立たないのでは、と考える人もいるかもしれませんが、むしろ事態は逆で、その沈黙の経験が、言葉にならないものへの関心を呼び覚ますのだと思います。
 今、藝術も哲学も、とまとめて書いたように、両者は異なるものとはいえ無関係ではありません。哲学が言語を使って行うところを、藝術は言語を使わずに行うことがある、といってもいいかもしれません。では、藝術に言葉は不要かといえば、全くそうではありません。言葉を使って藝術を理解することは困難ですが、不可能ではありません。そうした作業を行うというのは、人を理解しようとする事にも似たところがあるのではないでしょうか。

 中身が(中身?)若い、と学生さんに言われましたが、こうした好奇心のためかと思われます。このところ疲労困憊していたものの、十数年振りにバリに行ったせいか少し元気が出てきましたので、今年のゼミ合宿では筋トレも入れるかもしれません。頭の中だけ動かしているとわかりにくいことも多いですからね。

【心掛けていることなど】落ち込んだ時には、頭上の空を見上げながら、どこまで高く上昇できるかをできるだけリアルに想像するとやがて落ち着きます。あるいは視覚的に千角形を想像してみます。というのはウソで家に戻って寝ます。

【趣味】前職は学芸職でしたので展覧会の企画、運営に携わっていました。当然他の展覧会にも足繁く通い、内容や運営を研究していました。現在、そうした仕事をしていないにもかかわらず、相変わらず色々な展覧会を見ています。自分は無趣味と思っていましたが、展覧会鑑賞が趣味かもしれません。

|4文学部HP |4哲学科HP|4専修大学大学院HP |4大学院哲学専攻HP |4教員紹介(島津)