専大日語・コラム
専大日語の教員による、月替わりのコラムです。
2020年10月:言語能力が向上しないのはなぜ?
つい一昨日、令和元年度「国語に関する世論調査」の結果を受けて、「“国語の乱れ”感じる人 減少」、「多様な表現に寛容に?」などとする新聞記事がありました。つまり、日本語は乱れてはいない、と感じる人が以前に比べて増えている、ということでした。寛容にはなっているのかもしれませんが、「“乱れ”感じる人 減少」というよりは、「“乱れ”だとわかる人 減少」、というのが本当のところではないでしょうか。
高等学校などの国語科を軸に、学校教育課程でも「言語能力の確実な育成」ということが、新学習指導要領下での大きな目標の一つになっています。(こちらの記事を参照)
これには、外国語力の国際的な低さも気がかりだ、ということも背景にあるのかもしれません。しかし、ともかくも、若い日本人の母語である日本語能力が大人たちには心配、ということなのでしょう。いよいよ、日本人が日本語をわざわざ(?)勉強しなければならない時代が来た、という印象を強く与える標語ですね。
実は、“最近の日本人の日本語はなっとらん”系のこうした指摘は、平安の昔からあったことが古典にも確認できます。“なっとらんので、学校でしっかり教えるべし”系のご指摘も、何十年も前から言われてきたことで、かつては“なっとらん”と言われてきた大人たちが、今は同じことを子供らに言っている。どこか牧歌的な感じがして、私はそれほど嫌いな現象というわけではありません。
でも、もし本気で言語能力の向上をめざす、というのであれば、いくつかの教育アプローチを改めることで、ある程度は可能になると考えています。今回は、そのための対策の一つをご紹介しましょう。
図1: 4つの技能(須田 2018 より)
これまでよく言われてきた対策は、言語の運用能力を4つのモード(聞く・話す・読む・書く)に分けて、それらにしっかりフォーカスして、各モードごとの技能を伸ばそう、という考え方ですね。
運用上の技能を伸ばせれば、まさにそれこそが言語能力の向上に違いありません。この考え方には、しかし、大きな見落としがあります。それは、言語のこれら4技能のことを支えているものにフォーカスしていない点です。
言語の4技能は、2つの重要な知能に支えられています。その2つの知能とは、語彙と文法とについての知能です。これは、いわば言語の構造原理のようなもので、われわれにすでに備わっていて、だからこそ気づきにくく客観化しにくい内在化してしまっている知能です。それは知識とも違うものでしょう。知識と言えるほど客観化できておらず、そういうものがあるということに気づかぬまま言語生活を営んでいるわけですから。
図2: 2つの知能(須田 2018 より)
なぜ、この2知能が言語能力の向上には重要なのかというと、コトガラの内容を伝える最小の言語単位である「文」というものが、語彙と文法という構造で成り立っているからです。縦の糸は語彙、横の糸は文法。
我々は、話すときも文を話し、聞くときも文を聞き、読むときも文を読み、書くときも文を書き、しています。その内容は、どのモードでも本来すべて「文」でできているわけです。それらが集まって、一連の文章や談話になっている。ひとつのsentenceという単位。それをどう運用するかという面(技能)と、それをどんな仕組みで成り立たせるかという面(知能)。この両面にバランスよくフォーカスする学びが、永遠の課題とも見える冒頭の問題の、最も基本的な解決策の一つになるはずだと私は考えています。
日本語を専門に学ぶみなさんは、言語がイメージ的にはこのように立体的に示せるような体系だということをまず確認しておきましょう。
<参考文献>