専修大学文学部日本語学科

専大日語・コラム

専大日語の教員による、月替わりのコラムです。

2018年7月:商法口語化 文語意味の取りこぼし ―「之を以て」よ、さようなら―

これまで 商法の条文 が、文語体で書かれている箇所が少なからずあったと知って、驚きました。明治32年から変わっていなかったと。そして、つい先頃、それらを口語体にするという改正案が参議院で可決し、カタカナ交じりの文語体が口語に改正される見通しになったとのことでした。

重ねて驚いたことには、この新聞記事を一読、その改正法案(口語文体)が現行法(文語文体)の文によってあらわされている意味合いを正確に反映していない、と思われるふしがあったことです。須田には法的内容はちんぷんかんぷんなのですが、国語学資料として観たとき、不正確というよりは、意味が成立していないように読めたのでした。

《事例1》

次の改正例などは、日本語内容には特段の問題は無さそうです。文語文では濁点は表記されていませんので、補読する(カ→ガ)必要があることなどに留意して、念のため確認してみてください。

(A) 現行法条文:「運送取扱人カ運送品ヲ運送人ニ引渡シタルトキハ直チニ其報酬ヲ請求スルコトヲ得」
 ↓
(B) 改正法条文:「運送人取扱人は、運送品を運送人に引き渡したときは、直ちにその報酬を請求することができる」

なお、文法的には、格形の「―ガ」が、取り立て接尾辞「―は」に改変されている点に関しては、専大日本語学科の皆さんなら、次のことはすぐに理解できるかと思います。

即ち、(A)現行条文では、「運送取扱人」が、従属節(―トキ節)の主部として構文化されているので―ガ格で曲用していました。だから、「請求することができる」のは誰なのかは、文法的には不明です。

対する(B)改正法の条文案では、「運送取扱人」は、主節述語「請求することができる」の主語として構文化されている。「―は」によってトピックとしてハイライトされているわけですね。双方の文は、そもそも構文が異なっていることがわかります。この(B)改正案では、「請求することができる」主体は「運送取扱人」であるということが、はっきり分かるようになっています。これなら「改正」と呼べそうです。

《事例2》

ところが、次例はどうでしょうか。

(A) 現行法条文:「登記シタル船舶ハ之ヲ以テ質権ノ目的ト為スコトヲ得ス」
 ↓
(B) 改正法条文:「登記した船舶は、質権の目的とすることができない」

改正された(B)では、「之ヲ以テ」は、どこに行ってしまったのでしょうか? 「之ヲ以テ」(コレヲモチテと訓じます)があらわす意味は、改正法の文案にはどう翻案されているのでしょうか? 単に述語のモダリティーを安直に現代語に置き換えただけのようで、かえって、意味が不明瞭になっています。

商法はじめ法律の専門家なら、この改正法案の文意を誤りなく理解できるのかもしれませんが、一般の法律の素人から観ると、この文は意味をなしていないようにすら見えてしまいます。「船舶が~できない」という構文に見えてしまうからでしょうか。もちろん主語は、法律文ですのでジェネリックな人(全ての人)になるわけでしょうが、口語化して分かりやすさをめざすなら、主語をはっきり立てることを勧めたいものです。「人は」とか、「何人(ナンピト)も」などでいいわけですので。

一方、(A)現行法の文語体の方では、このような誤解を生じさせる余地がありません。その意味するところは、

 {質権を得るために船舶を登記する、というのは駄目ですよ}

という趣旨が、直ちに理解できます。

ちなみに「質権」とは、調べたところ、抵当権を設定するということのようでした。有り体に言えば、「質に入れる」くらいの義と理解しました。 この(A)の文語文の方を逐語的に通釈すると、こんな感じになるでしょう。

 {登記を終えた船舶は、登記したということを根拠として、質権を設定しようとしてはならない}

{~ということを根拠に}義、これが「之ヲ以テ」のあらわす意味合いです。この趣旨が(B)改正案の文案からは読み取れない、反映されていないので、誤読される余地が残るのでは・・・、と感じた次第です。

ですので、(B)とすべき改正案としては、須田ならたとえばこんな文にします。

 「船舶については、質権を目的として登記することはできない」

ところで、この「之ヲ以テ」ですが、歴史は古く、上代あたりまで遡れます。『續日本紀』などでは、「是を以て」(ココヲモチテと訓ずる)や同じく「比に依りて」(コレニヨリテ)なども頻出します。これらは、一定の根拠を示す際に用いられた定型表現です。概ね、{以上のことを根拠に}・{以上のことを踏まえ}・{以上のことを総合的に斟酌し}というほどの意味ですが、細かく観ると根拠づけ方にそれぞれ多少用法差があります。それらはいずれ講義で。

古くから主として公文書や公用文の重要な典型表現として用いられてきた、このとても息の長い「之ヲ以テ」。いよいよ商法を最後に、基本六法のすべてからコレヲモチテ見納め、ということになるのですね・・・ ありがとう、「之ヲ以テ」。君のはたらきぶり、専大日本語学の徒は、忘れません。

【追記】

別件のエッセイですが、同じく今月(2018年6月)発行の『ニュース専修』(第572号)のコラム欄「緑地帯」に、ショートエッセイを載せました。アプリ版の表計算ソフトなどでレポートを書こうとしているような方が万一いたら、そちらもご覧になってくださいナ。

須田淳一


<参考文献>
  1. コトバンク 項目「質権
  2. 『続日本紀』(新日本古典文学大系 ほか) [OPAC]

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