近年の大学院博士学位論文 論文要旨



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横藤田稔泰
「第二共和政期におけるスペイン・ファシズムの思想と運動」

 本論文は第二共和政期(1931-1936)におけるスペイン・ファシズムの思想と運動を考察し、それによってスペイン・ファシズムの特徴を明らかにすることを目的としている。スペイン・ファシズムがどのような諸前提のもとに形成されていき、どのような展開を辿ったのか。またスペイン・ファシズムはいかなる思想構造によって構成されていたかを明らかにしようと試みた。
 まず、序章では本論文の方法と目的を確定した上で論を展開していく。具体的には、方法として、スペイン・ファシズム勢力を「ファランヘ」に設定し、第二共和政期において、この「ファランヘ」における思想と運動の両方で重要な位置を占めたファランヘ・リーダーであるホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラとラミーロ・レデスマ・ラモスの思想と行動を考察する。目的として、両者の思想の底流にある理念を抽出するとともに、その思想を再構成することによってスペイン・ファシズムの思想的特徴を明らかにした。
 1章ではスペイン・ファシズムの政治・思想・社会的前提を考察した。スペインのナショナリズムは19世紀のなかで自由主義的なナショナリズムの構築と保守的なナショナリズムとの角逐のなかで結果的に保守的ナショナリズムの優位に帰着した。保守的ナショナリズムはカノバス・デル・カスティーリョのようにスペイン国民を「王政とカトリック」という原理のもとに歴史的に形成された「神の御業」と捉え、人々の意志によって創出や解体できない神聖な「共同体」と見なした。このようなカノバスの理念に沿って生み出された王政復古体制は、カシキスモに依拠しながらエリートによる政治統括を行い、民衆を国民として動員すること(=「国民化」)や国民意識の形成を促進することに消極的であった。その結果、スペインでは国民意識が希薄なものとなり、それが「米西戦争」における国民の関心の低さに如実に表われていた。とはいえ「米西戦争」の敗北はその後のスペインの展開に大きな影響を与えた。こうした状況のなか、失われた祖国の自尊心を取り戻すためにホセ・マリーア・サラベリーアは「スペインの肯定」を主張し、祖国への義務を果たす「国民の道徳」の重要性を説いた。サラベリーアの「スペインの肯定」という主張や新しい人として青年へ期待しながら「国民の道徳」を説く姿勢は後にレデスマの思想にも見られた。1923年のミゲル・プリモ・デ・リベーラ将軍のクーデタは王政復古体制が動揺していくなかでアルバロ・アルカラ・ガリアーノのような保守層の社会秩序護持と権威主義国家樹立の要求と合致した。プリモ・デ・リベーラ独裁期において労働大臣に起用されたエドゥアルド・アウノスは当時激化していた労資対立を緩和し、社会の調和を達成するためにコーポラティズム構想を練り上げ、政治に導入したのであった。アウノスのコーポラティズム、失われた調和の回復、経済的自由主義の否定と社会問題の緩和といった事柄はホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラの思想にも見ることができる。
 2章ではスペイン・ファシズム運動の展開を時系列的に確認した。独裁から共和政へと政体がかわるなかで、レデスマは「国家の征服」、JONSを創設してファシズム運動を開始した。しかし、その運動は政府による弾圧も影響して勢力の拡大には至らなかった。一方で、ホセ・アントニオは共和国政府によるプリモ・デ・リベーラ独裁の政治責任の追及に対して敢然と立ち向かった。こうした過程でホセ・アントニオは政治運動を起こすことを決意し、ファランヘを創設したのであった。1934年にファシズム運動のさらなる発展を目的としてJONSとファランヘは合併し、一つの政治集団として活動した。この合併は、ファランヘにJONSのイデオロギーが注入されることによって、「国民ブロック」のような右派勢力との合流は不可能となり、結果的にエリセダ侯爵のような党内の保守勢力がファランヘから離脱した。他方で、ホセ・アントニオが全国指導者に選ばれ、党内の主導権を失ったレデスマはファランヘからの離脱を考えて、旧JONSのメンバーを引き連れて、革命行動を推進しようとした。しかしながら、レデスマに追随したのはごくわずかな人間だけであった。  3章においてはレデスマの思想構造を明らかにした。彼は「古きものの打破と新しきもの賞賛」とその新しきものとして「国民国家」の創出を基本的な理念としながら、自らの思想を構築した。19世紀末にヨーロッパを覆ったデカダンスの状況はレデスマにも影響を及ぼし、その超克が『キホーテと我々の時代』において叫ばれた。因習的な道徳が支配した社会の中で、既成秩序にとらわれず果敢に行動を起こしたドン・キホーテを擁護するとともに賞賛したレデスマは自身が20世紀のドン・キホーテとして「古きもの」を破壊するために立ち上がった。彼は現在のデカダンスを生み出した諸悪の根源をブルジョワ的世界観に見出し、その世界観の下に構築された自由民主主義国家を社会の中から葬り去ろうとした。20世紀において、世界の青年たるロシアのボリシェヴィズム、イタリアのファシズム、ドイツのナチズムが「国民国家」を樹立していく様を目の当たりにしたレデスマは、新しい時代の潮流を発見したのである。そして、彼はナショナル・サンディカリズムというイデオロギーを創出し、これによって大衆を引きつけ、スペインにおいても全体主義的「国民国家」を確立しようとした。
 4章ではホセ・アントニオの理念を抽出するために、彼の個人と国家に対する考え方、彼が抱いたスペイン像やナショナリズム論、そして社会問題への対応を中心に考察した。ホセ・アントニオは「自由な個人」や「人間の尊厳」といったことを自らの思想において重視する一方で、個人の国家への奉仕や義務も同様に重視した。個人と祖国の運命はホセ・アントニオの中で「調和」しており、結果的に「自由な個人」とは国家の中で達成されるのである。また、ホセ・アントニオは「国民」を原初的な言語や大地といったものではなく、同じ使命や運命のもとに結びついた共同体を「国民」と見なした。彼の思想の中ではカタルーニャやバスクといった諸民族は「普遍的なものにおける運命共同体」の名のもとに宿命論的にスペイン「国民」のなかに組み込まれており、その中で調和していた。ナショナリズムと社会問題の克服はホセ・アントニオの思想において表裏一体であった。彼は資本主義や農業問題に批判の矛先を向け、それがもたらした労資の対立や労働者の貧困の解決策を模索した。その中で看取できる論理は「持てるもの」から「持たざるもの」への富の再分配による社会の調和を達成するということであった。このようにしてホセ・アントニオの思想には「調和」という理念がその根底にあり、ファシズム思想の中にカトリックの精神が入り込んでいたのである。
 以上のような考察の結果、第二共和政期におけるスペイン・ファシズムの思想と運動はレデスマとホセ・アントニオによって形作られ、最終的にレデスマのファシズムではなく、ホセ・アントニオのファシズムに帰着した。言い換えれば、スペイン・ファシズムはレデスマの「強硬なファシズム」ではなく、ホセ・アントニオの「柔軟なファシズム」に帰結したのである。
レデスマの「古きものの打破と新しきものの賞賛」という世界観は他のファシストたちにも通底するものであったのに対して、ホセ・アントニオはレデスマのようにデカダンスをもたらしたブルジョワ精神そのものに批判の矛先を向けることはなかった。レデスマがカトリックを「古きもの」と見なし、スペインからカトリックを切り離すことによって宗教意識を世俗的な国民意識に転換しようとしたのに対し、ホセ・アントニオはカトリックの呪縛から逃れることができなかった。彼の「調和」という理念や「人間の尊厳」はカトリック的な世界観から生み出されていた。また、レデスマのナショナル・サンディカリズムは、アナルコサンディカリズムの直接行動という原則が色濃く反映されており、武装民兵ととともに組合を国家の征服のための革命的な運動体と見なしていた。それに対してホセ・アントニオはレデスマが主張していたような大衆動員や革命行動という視点が希薄であり、ホセ・アントニオの中で大衆の救済は必要であったが、大衆の動員はあまり重視されなかった。ジョルジュ・ソレルの影響を窺わせながら革命行動の中で暴力の持つ重要性を認識し、日々の暴力行為が革命的雰囲気を醸成すると考えていたレデスマとは対照的にホセ・アントニオの目から見れば街頭での暴力行為は無意味な行動でしかなかったのである。
このようなレデスマとホセ・アントニオの隔たりは二人の社会的出自の相違に由来すると同時に大衆動員によって「国民国家」を樹立するというレデスマのファシズムと、「調和」に根ざした「運命共同体」を構築するというホセ・アントニオのファシズムの差異に起因していたのである。
 だが、スペイン・ファシズムがホセ・アントニオのファシズムに帰結したとはいえ、この「柔軟なファシズム」も第二共和政期において大衆の共鳴を得ることができなかった。CEDAや国民ブロックなどの右派勢力とPSOEやCNTなどの左派勢力が大きな影響力を持っているなか、その挟間でスペイン・ファシズムは埋没し、人々はファシズムという選択肢を必要としなかった。
 スペイン・ファシズムはこうして道を閉ざされたかに見えたが、レデスマとホセ・アントニオの処刑後にファランヘは新しい政党としてフランコ体制を支える勢力となると同時に体制イデオロギーとしてレデスマやホセ・アントニオの思想が蘇ることになった。その際、ホセ・アントニオの「調和」に基づいた「柔軟なファシズム」は状況の変化による「読み替え」を可能にし、伝統主義勢力との親近性を持つことを可能にしたのである。



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