近年の大学院博士学位論文 論文要旨



 >>前ページにもどる


西澤美穂子
「幕末の日蘭関係」

 江戸時代を通して続いた日蘭関係は、近代化の要因の一つとして重視されてきたが、まさにその移行期である幕末において、研究関心は欧米列強との関係に移ってしまう。当時の日本が受けた衝撃や近代に入ってからの経緯を考慮すれば、それは当然のことではあるが、この衝撃に向き合った日本の対応を検討する上で、オランダの存在を欠かすことはできない。なぜなら欧米列強と日本との仲介役として、また外交に不慣れな日本の相談役として、他の国々とは違ったスタンスを取り続けたオランダとの関係を見ることは、欧米列強が押し付けてくる価値観の中で生き残りの道を模索した当時の日本の姿を見ていくことに、直接繋がるのではないだろうかと、考えるからである。
 この様な視点により、本論文では、対象年代を和親条約が締結されていった一八五二年から一八五六年に設定し、日蘭関係を中心に据えて、欧米列強に対する日本の対応を検討した。そしてそこから、当時の日本人の現状認識と、変化を受容していく過程を考察した。 各章の内容は、以下の通りである。
 第一章「ペリー来航前の日蘭交渉」は、一八五二年にオランダ商館長ドンケル=クルチウスが来日し、アメリカ使節ペリーが来航する前に、日蘭通商条約締結の交渉を試みた経緯と、日蘭通商条約草案及びその説明書の記述を取り入れた「商館長書翰」を検討した。この経緯より、当時の日本人にとってペリー来航前に条約交渉を行うことが如何に難しいことであったのかを指摘した。
 第二章「ペリー来航直後の日蘭関係」は、ペリー来航一回目から二回目までの半年間の日蘭関係を検討したものである。商館長ドンケル=クルチウスとオランダ通詞森山栄之助の動向に焦点を当て、日本が最初に締結した近代条約である日米和親条約が、日蘭関係と関わりが深いことを推察した。
 第三章「ロシア使節プチャーチンの長崎来航と物資供給」は、ロシア船来航により日本が対応を迫られた様々な問題の内、食糧や生活必需品等の物資供給を検討した。そして、オランダの仲介の重要性を指摘し、日露条約交渉とは違った形で、「鎖国之祖法」の維持が限界であることを認識していく日本人の姿を提示した。
第四章「長崎における石炭供給とクリミア戦争」は、第三章で検討した物資供給のうち、石炭に焦点を絞って検討したものである。ロシア船出帆後、日本はクリミア戦争の影響を受け、それまで供給していた石炭が戦時禁制品として供給できなくなった。その過程から、遠方で勃発した戦争にも巻き込まれる現実を日本人が認識したことを考察した。
 第五章「日英約定の締結」は、クリミア戦争戦時下、日本と参戦国イギリスとの間で取り交わした日英約定を検討したものである。交渉相手の海軍提督スターリングは、極東海域の作戦遂行のため日本の港を利用することを目的としていたが、日本側は戦争のための利用をあくまで拒否する姿勢を示した。この対立から、戦争色を排除した一般的な「条約」が成立するまでの過程と、そこから日本人が「条約」にメリットを見出していく変化を指摘した。
 第六章「日英約定の批准」は、日英約定締結一年後に行われた批准書交換を対象とする。この交渉において、スターリングは再び前年の交渉で話し合われた議題を蒸し返し、日英約定の変更を迫った。日本側はその対応に苦慮し、この件でもオランダ人の助力を必要とした。この経緯から、日本人が簡単に覆されない「条約」を必要と感じ始め、主体的に「条約」を作成する状況になっていたことを指摘した。
 第七章「日蘭和親条約の締結」は、一八五六年一月に、ようやく締結された日蘭和親条約を対象とする。この条約は、日本が初めて戦争の脅威から離れて交渉することのできた条約であったこと、また交渉相手がオランダという、日本にとって一番近しい西洋国だったことから、当時日本が外国に許可することのできたギリギリの許容ラインと見なしうることを提示した。
 そして終章では、第一章から第七章までの考察をもとに、日本人の「条約」認識の変遷として整理し直し、本論文のまとめとした。



Copyright(C) 2000 the Historical Association of Senshu University All Rights Reserved