近年の大学院学位博士論文 論文要旨



 >>前ページにもどる


小林風
「近世後期、都市・周辺地域間流通の研究」

 本稿は、近年都市と地方、地方都市と農村の格差が一層深まる中、都市偏重の考え方を改めようとする社会的機運や環境に対する世界的配慮の中から生れたリサイクル・エコロジーといった現代社会における関心事に影響を受け、歴史学の中でこうした現代社会における問題意識をどう捉えていくかを課題とする。そのためのひとつの素材として、下肥の流通を取上げ、都市と周辺地域との関係を考えていく。近世史的視点としては流通史・農業史・都市史などの視点から、下肥流通を考えていく。
 第一章から第三章では、近世後期、下肥をめぐり江戸と周辺地域、または周辺地域内で発生した騒動を素材にし、江戸を中心として各周辺地域の下肥流通がどのように変化していったのかを概観する。
 具体的に第一章では、寛政期の下肥値下げ運動の出訴から大規模団結運動に至る過程、町方との下掃除代値下げ交渉、町奉行所からの申渡までの過程を分析する。本来下肥流通は百姓と江戸の下掃除場所(武家方・町方)との直接取引であったが、河川舟運による大量輸送が可能な江戸東郊・北郊地域では百姓と下掃除場所との間に下肥業者が介入する、新たな流通構造が誕生していた。このような下肥の利用やかかわり方が異なる人々の要求を取りまとめた存在として議定の作成があり、要求の違いを議定の改編により克服し、このことが大規模団結につながったと考える。しかし下掃除場所と直接取引をする者の要求と、流通過程の中に介在する業者の要求に応えようとした議定は、消費者である百姓にとっては不満が残る結果となった。こうした流通構造による地域分化は時代が下るにつれて加速していく。
 第二章では天保・弘化期の下肥値下げ願いについて分析をおこなう。この時期の値下げ願は大規模運動に発展した寛政期とは異なり、江戸東郊地域のみの参加であった。この事実を肥料としての下肥利用の重要性に地域差が生まれていたことの証拠と考える。しかし値下げ願い後、周辺地域で作成された議定への賛同は、地域的には寛政に匹敵する程の広がりをみせるが、賛同した村数についてはさほどの広がりをみせていないことを示す。これを江戸東郊・北郊地域以外でも依然として下肥利用はあるものの、地域内分化の深化のあらわれと捉える。そのため最初の議定は有名無実化し、議定内容を各地域にあった形に改編してこれに対応した。また下肥業者による下肥の商品化が進む江戸東郊・北郊地域では、輸送主体である船持・船頭の不正行為が問題となる。主に河岸に存在した下肥問屋は彼らの成長を阻止するため、公定相場の設置や判取帳所持の義務化という対策によって、河岸の下肥問屋による流通統制を企図した。
 第三章では慶応期の下肥値段をめぐる問題について分析する。慶応期の場合は先の二例とは異なり、幕府からの下肥値段引下げ命令として問題が発生する。これをもはや幕末期には周辺地域が団結よって解決ができないほど問題が細分化されていたことのあらわれと捉える。その事例として各地域に残る議定の分析をおこなう。その中で、従来まで下肥流通に関わるすべての者を対象としてきた議定が、取締り対象ごとに議定が作成され取交されていたことを示し、これを各周辺地域内における下肥取引をめぐる多様化・複雑化傾向の一層の深化と捉える。
以上第一章から第三章まで下肥流通をめぐる江戸周辺地域の動向を概観した上で、下肥が大量利用された江戸東郊地域を中心に、実際に下肥を販売していた下肥問屋に関する分析と下肥を利用した一名主家の農業経営の事例の分析から、下肥流通の実情にせまる。
 第四章では下肥問屋の分析をおこなう。その中で、下肥問屋の不安定な経営体質を明らかにし、その背景には乱立する同業者の存在があることを指摘する。こうした不安定な経営体質改善のため、自村への供給量を制限して販売に回し、得意先との関係強化といった手段を講じていたことを示す。また下肥業務に携わった奉公人の独立の背景には、肥船船頭の経済力の高さがあることを指摘した。
   第五章では江戸東郊地域の一名主家の農業経営の分析を通して、下肥利用の変遷について考察する。素材として扱った地域は現在の流山市域で、芝崎村名主吉野家の日記の分析をした。まず日記の記事の下肥購入状況から、従来指摘されていた下肥問屋からではなく、河岸の船積問屋から下肥を購入していたことを指摘し、これをこれまでの江戸東郊地域の下肥流通ルートに加えて、新しい流通ルートとして定義する。また吉野家の下肥利用が幕末に向かうにつれて減少傾向を示し、替わって魚肥利用が高まったことを明らかにした。この魚肥を新興河岸の問屋から購入している点に注目し、関東地方の商品作物生産の増加に伴って生じた、江戸の干鰯問屋を介さない、生産地と在郷商人による地域市場の形成が大きな影響を与えていたことを示した。また醸造業が盛んな流山市域にあって、醸造過程で生まれる大量の糠や酒粕などの肥料への転売は容易に想像できることであるが、吉野家での糠利用も徐々に減少する。この背景には流山市域では逆に醸造家が周辺地域から糠を集荷し他地域へ販売していたという事実が明らかになった。以上のような事例により、従来から江戸東郊地域では下肥の大量利用が考えられていたが、本分析地域では、江戸地廻り経済の発展が農業経営にも大きく作用し、下肥利用に大きな影響を与え、従来の考え方とは異なる事実が明らかになった。つまり江戸と周辺地域との関係だけではみえてこない事実が、江戸という存在によって発展した江戸地廻り経済がもたらした地域市場との関係を含めて、再考することにより、新たな側面をみいだすことができたと考えるものである。




Copyright(C) 2000 the Historical Association of Senshu University All Rights Reserved