近年の大学院博士学位論文 論文要旨



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伊集院葉子
「日本古代女官研究」

 古代日本の律令国家は、国家運営機構内に女性の排除と包摂という矛盾する二つの論理を有していた。この矛盾は女官の存在形態と職掌に端的に現れている。女官を通じて、日本古代国家における女性の政治参画のあり方を明らかにするのが本論文の目的である。
 第1章「古代女官研究の意義と課題」では、古代国家形成史研究の進展に比して、女性と政治の問題の解明が遅れ、とりわけ女官が検討対象にならなかった要因に、国家成立時点における家父長制成立論があることを指摘し、関口裕子氏によって家父長制未成立が実証された到達点に立って、女性を古代国家形成史に位置づけ直すことが国家成立史の進展に資するということをのべた。
 第2章「律令女官制度前史―古代国家の成立と女性―」では、第1節「臣のヲトメ」で、『日本書紀』の女性たちは恋愛譚・婚姻譚のなかで描かれたために、大王のキサキとして召し出されたと理解されてきたが、応神13年9月条を中心とする日向の髪長媛伝承の分析により、地方豪族と王権との人格的結合を女性も官仕という形で担ったことを示し、第2節「采女論再考」で、采女が、国造等からの「人質」や、大王の性的従属物ではなく、6世紀にミヤケを母胎に出仕し「大化改新」で制度化された存在であり、カシワデとの共労関係の中に本質が見いだされるということを考察した。
 第3章「律令女官制度の成立」では、第1節「女史と内記―内侍司の成立と宣伝機能―」で、律令制下で天皇の意思を法とする過程において、天皇の意思は、天皇から内侍司へ、内侍司から内記へは口頭で伝えられ、文章化するのは内記であったことを先行研究をふまえて考察し、口頭伝達と文書行政をつなぐのが内侍司の役割であったことを指摘するとともに、日常的な文書行政が確立する中で、内侍司に令外の職である女史が設置された経過を大同元年八月二日太政官謹奏を史料に考察した。第2節「女官の五位昇叙と氏―内階・外階コースの検討を中心に―」で、女官の授位が女性ゆえの特殊なものだとする通説を再検討し、神亀五年奏によって導入された内階・外階コースは、女性にも厳格に適用されていたこと、氏を基盤に出仕した女性にたいする族姓秩序の規制は強力だったことを示した。第3節「采女の外五位昇叙」で、律令女官の2大供給源である氏女(女孺)と采女の考選・授位を検討し、女孺は五位直叙等の特例を見いだすことができるが、采女は、内長上であり、六位以下の時点では内階をたどりながら、五位に昇る際には必ず外五位を経ていたことを明らかにし、その要因として、采女の資格要件が外位にあるべき郡領の一族であったからではないかという試案を提示した。
 第4章「氏(ウヂ)、家と女官」では、第1節「第宅とトジ―日本古代における行幸叙位時の「室」記載によせて―」で、従来、「室」は高位高官の正妻を意味する言葉だと考えられてきたが、六国史の行幸授位記事の検討により、『続日本紀』では女官として出仕し宅司という自身の家政機関を有して天皇の行幸を迎えた女性を「室」と記していることを確認し、授位記事の「其室」は、第宅のトジの意だったことを指摘した。第2節「女官から「家夫人」へ―六国史にみる貴族女性の公的地位―」で、夫妻という男女一組を単位として、夫、妻それぞれの社会的地位の変化をたどり、8〜9世紀の貴族層女性の地位の変化をみた。
 第5章「上毛野滋子論―9世紀の「キサキの女房」の出現契機―」では、9世紀の幼帝の即位によって母后の後宮支配が確立したことを受けて母后の「家人」であった女性が後宮に進出し、公的な地位を得たことを、典侍・上毛野滋子を素材に考察した。




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