近年の大学院博士学位論文 論文要旨



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市橋一郎
「栃木県における横穴式石室の研究」

 古墳時代の列島内の政治形態は広域首長連合による統治であったとされている。その広域首長連合の紐帯となっているもののひとつとして、象徴物としての墳墓――古墳がある。古墳という墓制には、階層性が現出しており、しかもその副葬品は多彩であり、威信財的な遺物も含まれている。この古墳の動向から広域首長連合の動向ひいては国家形成過程の一部を構築できるのではないか。
ここでは古墳時代後期の関東における国家形成過程を古墳から明らかにしていくことを検討したい。対象としては、古墳時代後期から終末期まで継続する横穴式石室を取り上げる。
本論では、日本列島における国家形成段階のワンステップである東北地方の制覇という政治的目的のために働きかけた形跡を、ヤマト政権の東方における一大拠点である群馬県と対象となる東北との間に位置する栃木県の横穴式石室の受容とその展開から地元勢力の対応・動向を明らかにしたい。本論は以下のような構成にしている。
第1章では、栃木県における横穴式石室の研究史とその問題点として、研究史をまとめ、その問題点と課題を提示した。
第2章では、研究対象の遺構・遺物を正確に伝達するには、共通の用語を持つ必要があるという視点から、横穴式石室を構成する要素の名称の中で、玄門構造を構成する各部位の名称と腰石についてとりあげ、その問題点を論じた。 第3章では、栃木県における後期古墳群の様相を栃木県西部に所在する足利の地域首長墓の集まりである常見古墳群を、ついで前方後円墳を含む古墳群として足利公園古墳群、円墳のみで構成されている古墳群として栃木県北部の番匠峰古墳群を論考した。最後に終末期の古墳のあり方として、散在して群をなす古墳の例として下野中央部の栃木市岩家古墳を検討した。
 第4章では、栃木県における横穴式石室の変遷では、初めに栃木県における横穴式石室の導入について、導入時期の古墳の紹介と横穴式石室受容の様相とその理由を考察した。次に、有段構造の川原石積み横穴式石室にしぼり、その様相と展開について論及し、その淵源は東海地方にあり、その伝播ルートは原東山ルート、原東海道ルートと多様であることを指摘した。最後に栃木県特有のいわゆる切石石室の出現とその意義について見解を述べた。特に最高首長層に受容された大形切石石室の系譜や分布のあり方は重要なことであり、栃木県の場合、すでに擬制的集団の中にある時期(6世紀中葉から後半か)に中央勢力を構成する有力集団(この時点では代理勢力か)の介入があり、もともとあった複数系統の有力首長が割拠し、多くの大形古墳を出現させたが、すでに大きな紐帯が強く形成されていたため(所謂下野型古墳の成立)、墓制へは強く現出せず、各々の石室の構成要素にいくらかの相違が見られる程度であることを指摘した。そしてこの時期が、東北地方への陸路交通の確立とあいまって、中央勢力が栃木県に兵站基地を必要とした時期であったと想定した。
 第5章は、栃木県における古墳時代後期の特性として、横穴式石室から離れてひとつは隣の上野とはその様相が異なる横穴式石室墳の須恵器供献について検討し、いまひとつは栃木県の横穴墓について同時期の古墳との相違を明らかにしながら、横穴墓の分布や形態からその系譜や性格を考察した。また古墳時代後期は、陸路の開発が顕著になった時期であり、そうした陸路の要衝地である足利・太田地域の横穴式石室の様相から、この時期のこの地の歴史的意義を見出そうとした。
 終章は、古墳時代後期において原東山道を想定し、原東山道沿いの伊那谷地域や上野地域などの横穴式石室墳の動向を捉えることにより、当初、馬匹生産地の設定・人員機材の搬送そして馬匹の搬入に設営した原東山道が、ヤマト政権の東北地方への政治的経営のツールとなった実態の一部が表出されるよう務めた。



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