教授・出岡 宏

出岡先生
「能」を通して人間を読む。能という言葉になりにくいものを言葉にする努力を通して、人間と自分自身について考えます。
出岡 宏
教授

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教員データ

氏名・職位  出岡 宏(IZUOKA HIROSHI) 教授
文学部開講科目日本思想史
日本の伝統芸能
基礎ゼミナール
ゼミナールⅠ・Ⅱ・Ⅲ
大学院開講科目日本精神史特殊講義
同演習
略歴1964年 東京生まれ
専修大学大学院哲学専攻単位取得退学
1999年から専修大学
専門分野日本倫理思想史
研究キーワード日本倫理思想史 日本人の自然観と神観念 謡曲の思想 芸道の思想 小林秀雄の思想
所属学会日本思想史学会/日本倫理学会/実存思想協会/専修大学哲学会

主要業績

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単行本(単著)
2018年『「かたり」の日本思想――さとりとわらいの力学』角川選書
2010年『小林秀雄と〈うた〉の倫理――『無常という事』を読む』ぺりかん社
単行本(共著・編著・論文集・事典など)
2012年『災害に向きあう(高校倫理からの哲学 別巻)』 (直江清隆・越智貢編) 岩波書店
2012年『生きるとは(高校倫理からの哲学 第1巻)』 (直江清隆・越智貢編) 岩波書店
論文(雑誌・紀要・研究成果報告書など)
2018年「饗宴と鎮魂の芸能――歌舞伎一側面」生田哲学
2007年「「無常ということ」をめぐって――〈思い出す〉ということ――」生田哲学
2006年「「小林秀雄の「当麻」をめぐって」専修人文論集
2003年「世阿弥の芸論における価値語」科研費成果報告書
2002年「小林秀雄の知的努力――『感想』をめぐって」実存思想論集
2002年「「つれづれ」という在りかたをめぐって」生田哲学七号(専修大学哲学会)
2000年「『徒然草』における人間の否定的側面」生田哲学六号(専修大学哲学会)
1998年「動性としての実在世界――小林秀雄のベルクソン論」生田哲学四号(専修大学哲学会)
1997年「謡曲『黒塚』をめぐって――個人性と日常性の相剋」日本思想史学第二十九号(日本思想史学会)
1996年「『善の研究』用語索引」(共著)宝積比較宗教文化研究所
1995年「純粋経験の発展をめぐって――『善の研究』における個性と実在」倫理学年報第四十四集(日本倫理学会)
1993年「戯曲『こゝろ』をめぐって――「先生」の過去を中心に」文芸空間第九号(文芸空間)
1992年「『野宮』――「懐かしや」の意味」季刊日本思想史第三十九号(日本思想史懇話会)
1992年「「純粋経験」の構造と問題――『善の研究』第一編第一章を中心に」の意味」文研論集20(専修大学大学院)
その他(学会発表・講演・座談会・インタビュー・書評・エッセイなど)
1999年「「つれづれ」という在り方」日本倫理学会第五十回大会
1996年「上田閑照著『西田幾多郎 人間の生涯ということ』」実存思想論集XI (実存思想協会)
1996年「『善の研究』用語索引」(共著)宝積比較宗教文化研究所
1992年「謡曲文学における(とむらい)の構造」
1992年「『善の研究』における純粋経験の発展」日本思想史学会

ゼミ紹介

 
日本の芸能や文学を通して〈人間とは何か〉を考える
謡曲(能の脚本)と、能の大成者である世阿弥の芸論を原文で読む。 謡曲には、さまざまな悲劇に引き裂かれた主人公(シテ)が登場し、相手役 (ワキ)がその心を聞き取る。それは日常の我々が普通に行う「あなたの辛さはわかるけれど」という類の慰めことばの、「けれど」の手前に立って相手と向き 合うことである。そのような謡曲を、上で述べた姿勢を維持しながら読み、討議を進めてゆきたい。また特に世阿弥の場合、悲劇に引き裂かれた人間が、曲全体 のなかでは何らかの形で救済される形をとることが多いが、そのことの意味を、世阿弥の芸論とも考え合わせながら議論していきたい。

実際の進め方 は、レポーターよる発表をたたき台として全体討議を行う。むろん、レポーター以外のゼミ生も事前にテキストを繰り返し読んだ上で、討議に積極的に参加する ことが要請される。また、ゼミ生には毎年最底1回の発表を義務として課す。平常授業中に全員が発表しきれない場合は合宿(年2回を公式行事として予定)な どの場で発表してもらう。
学生の声

私達出岡ゼミは、ゼミの中で唯一日本の思想を専門としているゼミです。能の脚本である謡曲を読み解き、自分が掴んだ考えや感覚を言葉にしていく作業をしています。謡曲は、源氏物語や平家物語、又、実物の人物に即したエピソードや日本の名所にまつわる物語を元にしています。ですから、謡曲を読むことで、そこに織り込まれた複雑で美しい思想や情景に触れることができます。年中行事としては、ゼミ合宿があり、夏は海水浴、冬はスキーと、四季折々の風景に触れつつ、普段のテーマからは多少はずれた、私達が合宿用に選んだ独自のテーマについて討論を行い、毎年思い出に残るゼミが展開されています。出岡先生は、常に私達の発言を優しく拾い上げ、私達の思考を豊かに展開してくれる人であり、毎回のゼミの後には(毎回ある飲み会も含めて)何かしら胸に残るものがあります。受験勉強のような暗記に頼る勉強ではなく、自らが考える本当の意味での「勉強」を体験したい人は是非来てください。

メッセージ

【ゼミでやっていること】

9つあるゼミの中で、唯一日本思想を専門とするゼミを開いています。
ゼミでは長らく謡曲(能の脚本)を読んでいますが、能の専門家を育てたいということではありません。そうではなく、能という寡黙な文学を読んで、自分が感じ考え始めたことを自分の言葉に定着させる苦労を、まずは、してほしいと思っています。そして、その苦労の中で形をとりつつある自分の考えを、今度は出来るだけ論理的に表現することを通して、みなで議論しながら、人間について、そして自分自身について、考えることができればと思っています。

能の登場人物は、亡霊や生きながら鬼になってしまった人が中心です。つまり、この世を、疑いや抵抗なくするっと生きてしまった人ではなく、何かに引っかかって苦しんだり、忘れることができないほど何かを深く愛してしまった人々です。そういう人々を、能の作者たちは、当時の倫理思想ともいえる仏教を深く理解した上で、それをかなりしたたかに読みかえて、登場人物たちそれぞれに独特の結末を用意しています。 だから、それを深く踏み込んで読むことができれば、日本人が長らく醸成してきた独特の宗教感覚と世界観にも届くことができるのではないかと思っています。そしてそこまで届けば、素朴な実感だけでものを考えている間は想像できなかったような、人間についての思索、そして自分についての思索が始まると思うのです。

【最近考えていること】

その1.〈うた〉とは何なのか。 人はなぜ〈うた〉を歌うのか。詠むのか。
その2.〈うた〉と普通のことばとの違いはどこにあるのか。
その3.神話や昔話で、人はなぜ「見るな」と言われているものを見てしまうのか。

【最近困っていること】

その1.ゼミのあと、ゼミ生と行く飲み屋さんの近くに、おいしいラーメンの店ができたこと。
その2.ゼミで飲んだあと、みんなでラーメンを食べるのが恒例になってしまったこと。
その3.wii fit の効果が出ないこと。

大学院

 
日本精神史特殊講義演習
「砂糖水を作りたいとすれば私は砂糖が溶けるのを待たねばならない」 この明快な事実から、ベルクソンは、人間の行動は科学のように時間を空間化するようには為されていない、という本質を導き出しました。このように、生きる身の上で常識とされる事柄について反省し、そこから人間の存在や可能性を思索したベルクソンを、小林秀雄は「感想」で論じています。「感想」は、雑誌に五年にわたり連載されながらも、小林がその刊行を禁じた、本人曰く「失敗」作です。しかし、それでも我々が「感想」を読むのは、それがベルクソン哲学の単なる注釈に終わってはいないからです。対象と共感し、「私」が揺さぶられつつも、なお「私」から表現しようとする、つまりは時代や言葉の相違を抱えながら「理解する」という行為が、そこにはあります。
本時では、「感想」の読解を通じて、ベルクソン哲学の理解のみならず、「読む」・「書く」ということ、そしてそれらを含めた上での「理解する」という人間的行為を思議することを目的としています。
 
日本精神史特殊研究 同演習
我々日本人は否応なしに日本語を背負って生きています。その、日常当たり前のように使用している言葉に、内的な動揺の要求で意識の照明を当てたとき、そこに表現の問題が立ち現れてきます。例えば、世阿弥の芸論は、能における「花」という、言葉では表し得ないものを、綿密に言葉で表現していきます。ここで「花」は、言葉と不可分にあります。しかし、言葉の連なりをただ目で追うだけでは、「花」を捉えることは不可能です。つまり、「花」という本質は、言葉という明示された現象によって、暗示されているのみです。論理や本質の一方に囚われると、我々は「花の美しさ」というありもしないものについて頭を悩ますことになります。