2025.06.18 Wed
経済学部経済学部での学び
経済学部での学び【国際経済学科】GDP推計からみる各国の歴史―イギリスとフランスの場合
専修大学経済学部 永島 剛
歴史的な1人当たりGDP(GDP per capita)データ
各国の経済規模を測るもっとも一般的な指標に、GDP(国内総生産)があります。それを人口で割ったものが「1人当たりGDP」で、その年におけるその国の人びとの平均的な所得水準を示す指標として使われます(※GDPについては、当サイト「経済学部での学び【現代経済学科】経済の成長とは」も参照)。GDPなどの算出方法についての最初の国際標準(SNA=System of National Accounts)が定まったのが1953年で、その頃から、欧米諸国を皮切りに各国政府による公式の統計値の発表が徐々に定着していくことになりました。つまり国際比較を可能にするようなマクロ経済指標の公式統計が毎年継続的に発表されるようになるのは、20世紀半ば以降のことでした。したがってそれ以前については各国政府による公式データは利用できないのですが、これまで研究者たちによって、歴史を遡って世界各地の1人当たりGDPを推計する研究が進められてきています。とりわけこの分野で大きな貢献をなしたのがイギリス出身の経済学者でありOECD(経済開発協力機構)のエコノミストもつとめたアンガス・マディソン(Angus Maddison, 1926~2010)で、独自の方法により西暦紀元以来の世界各地の1人当たりGDP推計値を発表しました。マディソンの没後も、後継者たちによって推計方法の見直し、時間的・地理的カバー範囲の拡大の努力が続けられ、その成果はオランダのフローニンゲン大学の“Maddison Project”のホームページで公開されています。
〔出典〕Bolt, Jutta and Jan Luiten van Zanden (2024), "Maddison style estimates of the evolution of the world economy: A new 2023 update", Journal of Economic Surveys, 1–41.
〔Maddison Projectのウェブサイト〕https://www.rug.nl/ggdc/historicaldevelopment/maddison/
〔Maddison Projectのウェブサイト〕https://www.rug.nl/ggdc/historicaldevelopment/maddison/
推計データの問題点
ここでは、このMaddison Projectのデータの一端をご紹介してみたいのですが、留意していただきたい点について先に申し上げておこうと思います。一言でいえば、それは「誤差の可能性を含んだ粗い推計値である」ということです。そもそも20世紀後半以降の公式のGDP統計も、データの集め方、採用された推計方法によっても値が変わりうるものです。それでも現在、多くの国においては、GDP算出を念頭においた組織的な調査が行なわれ、国際標準に従って推計がなされています。しかし20世紀前半以前については、そうしたものはありません。断片的に残された史料や先行研究から人口・所得・資産・物価・消費・産出高などに関する情報を拾い、状況証拠を勘案しつつ、さまざまな仮定を重ねて、現在の国の領域ごとにGDP値を推定しています。史料の残り方は時代や場所によってかなりバラつきがあり、一般的には時代を遡るほど依拠できる史料は少なくなっていきます。となれば、それだけ推測の占める幅が大きくなるわけです。
また、異なった時点間・地域間の比較を可能とするために、2011年の米国におけるドルの購買力をもとにした「2011年国際ドル」という価値単位を用いてすべての値が表示されています。今日的な通貨制度が確立する以前の時代・地域のGDPをもその共通単位で表すわけですから、そこに揃える過程でもだいぶ誤差が生じうることは、ご想像いただけるかもしれません。
これらを含め、歴史的なGDPの推計値には重大な問題点がいろいろあり、研究者の間にも懐疑的な意見があります。したがって、そのまま「正確な値」とみなすことは適切とはいえません。それでも、世界各地の経済の長期的な変遷を捉えようとする際、一つの出発点にはなりうるのではないかと考え、以下では、研究の蓄積が比較的厚く、ある程度の信頼性はあると考えられる近世以降の西欧についてのデータの一部をご紹介してみたいと思います。
イギリスとフランスにおける1人当たりGDPの推移:1650~1850年
Maddison Projectでは、一応世界中のほとんどの国・地域がカバーされているのですが、その中でも時系列的にデータがもっとも揃っているのが西ヨーロッパ諸国です。とりわけイギリスとフランスについては、13世紀後半からすべての年の1人当たりの実質GDP値が推計されています。
図Aは、1650年から1850年までの英仏両国の各年の1人当たり実質GDPの推計値をグラフに示したものです。1650~80年代においては、両国の水準はほぼ拮抗しているように見えます。しかしその後、徐々に差が開き始め、18世紀後半から19世紀にかけては、イギリスの推計値がフランスのそれを上回る幅がだいぶ大きくなっています。こうした両国のデータの推移は、どのように解釈できるでしょうか。高校の科目「歴史総合」「世界史探究」などでも習う知識を使いながら少し考えてみましょう。
このグラフのカバーする年代の初期、フランスはルイ14世の治世でした。絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を自らの宮廷としたことで知られ、フランス絶対王政の隆盛期を象徴する国王です。領土的野心も旺盛で、南ネーデルラント継承戦争(1667~68年)、仏蘭戦争(1672~78年)、スペイン継承戦争(1701年~14年)をはじめ、数々の対外戦争に関与しました。贅沢な宮廷生活や軍事力の維持には当然、おカネがかかります。財務総監コルベール主導で国の財政を賄うための重商主義政策がとられましたが、一般市民や農民層をも含んだ国全体としての富の増大にはかならずしも結びつきませんでした。そうした構造がルイ14世の治世後も続いたことが、グラフ上、18世紀(1700年代)をつうじてフランスの1人当たりGDPが停滞していることと関係していると考えられます。やがて一般市民たちの不満は、1789年のフランス革命によって表面化することになりました。
武力行使も辞さず重商主義政策を推進したということについては、同時代のイギリスも同じでした。しかし名誉革命(1688年)をへて、国王権力はフランスに比べ抑制されるようになっていました。18世紀には、上述のスペイン継承戦争、北米におけるフレンチ⁻インディアン戦争(1754~63年)、インドにおけるプラッシーの戦い(1757年)などで、フランスと交戦しました。事態はイギリスに有利となるかたちで進行し、イギリスは北米やインドにおいて植民地支配をひろげることになったのです。
イギリスがこれらの戦争で優勢だった理由の一つは、国債の発行、イングランド銀行による引き受けをつうじた戦費調達が比較的うまく機能していたためという指摘もあります。ただし国債の利払いや償還のための北米植民地での課税強化が現地入植者の反発を招き、それがアメリカ合衆国の独立宣言(1776年)に帰結することにもなりました。とはいえ、こうした植民地獲得競争におけるフランスに対するイギリスの優位が、グラフに見られるようなイギリスの1人当たりGDPの持続的な上昇傾向に関係していたとみてよいでしょう。イギリスは綿工業における機械の導入を端緒として、18世紀後半に「産業革命」とよばれる時期に入ります。原料の調達地、そして製品の市場などとして、インド植民地はイギリスの経済発展にとって大きな存在となりました。
革命後の1799年、フランスで実権を握ったのがナポレオンで、1804年には自ら皇帝に即位しています。軍事力による勢力拡大をもくろんだナポレオンのもと、フランスはイギリスとも戦争することになりました。イギリスとヨーロッパ諸国との間の通商の妨害を意図した大陸封鎖令(1806年)がナポレオンによって出されたこともあり、長引くフランスとの戦争状態は、イギリス経済にも負の影響を与えたのです。グラフ上、19世紀初頭のイギリスのGDPが少し停滞気味なのは、そのことを反映しています。1815年のナポレオン失脚により、ようやく戦争は終わりました。
1820~30年代、蒸気機関を動力とする機械を備えた工場が増え始め、イギリスは工業化の本格期を迎えます。1830年には港町リヴァプールと綿工業の中心地マンチェスターの間で蒸気機関車の営業運転が開始されました。蒸気機関車や蒸気船の導入により原料や製品の迅速な大量輸送が可能になり、19世紀中頃までにイギリスは「世界の工場」といわれる存在になりました。
このグラフのカバーする年代の初期、フランスはルイ14世の治世でした。絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿を自らの宮廷としたことで知られ、フランス絶対王政の隆盛期を象徴する国王です。領土的野心も旺盛で、南ネーデルラント継承戦争(1667~68年)、仏蘭戦争(1672~78年)、スペイン継承戦争(1701年~14年)をはじめ、数々の対外戦争に関与しました。贅沢な宮廷生活や軍事力の維持には当然、おカネがかかります。財務総監コルベール主導で国の財政を賄うための重商主義政策がとられましたが、一般市民や農民層をも含んだ国全体としての富の増大にはかならずしも結びつきませんでした。そうした構造がルイ14世の治世後も続いたことが、グラフ上、18世紀(1700年代)をつうじてフランスの1人当たりGDPが停滞していることと関係していると考えられます。やがて一般市民たちの不満は、1789年のフランス革命によって表面化することになりました。
武力行使も辞さず重商主義政策を推進したということについては、同時代のイギリスも同じでした。しかし名誉革命(1688年)をへて、国王権力はフランスに比べ抑制されるようになっていました。18世紀には、上述のスペイン継承戦争、北米におけるフレンチ⁻インディアン戦争(1754~63年)、インドにおけるプラッシーの戦い(1757年)などで、フランスと交戦しました。事態はイギリスに有利となるかたちで進行し、イギリスは北米やインドにおいて植民地支配をひろげることになったのです。
イギリスがこれらの戦争で優勢だった理由の一つは、国債の発行、イングランド銀行による引き受けをつうじた戦費調達が比較的うまく機能していたためという指摘もあります。ただし国債の利払いや償還のための北米植民地での課税強化が現地入植者の反発を招き、それがアメリカ合衆国の独立宣言(1776年)に帰結することにもなりました。とはいえ、こうした植民地獲得競争におけるフランスに対するイギリスの優位が、グラフに見られるようなイギリスの1人当たりGDPの持続的な上昇傾向に関係していたとみてよいでしょう。イギリスは綿工業における機械の導入を端緒として、18世紀後半に「産業革命」とよばれる時期に入ります。原料の調達地、そして製品の市場などとして、インド植民地はイギリスの経済発展にとって大きな存在となりました。
革命後の1799年、フランスで実権を握ったのがナポレオンで、1804年には自ら皇帝に即位しています。軍事力による勢力拡大をもくろんだナポレオンのもと、フランスはイギリスとも戦争することになりました。イギリスとヨーロッパ諸国との間の通商の妨害を意図した大陸封鎖令(1806年)がナポレオンによって出されたこともあり、長引くフランスとの戦争状態は、イギリス経済にも負の影響を与えたのです。グラフ上、19世紀初頭のイギリスのGDPが少し停滞気味なのは、そのことを反映しています。1815年のナポレオン失脚により、ようやく戦争は終わりました。
1820~30年代、蒸気機関を動力とする機械を備えた工場が増え始め、イギリスは工業化の本格期を迎えます。1830年には港町リヴァプールと綿工業の中心地マンチェスターの間で蒸気機関車の営業運転が開始されました。蒸気機関車や蒸気船の導入により原料や製品の迅速な大量輸送が可能になり、19世紀中頃までにイギリスは「世界の工場」といわれる存在になりました。
写真:初期の蒸気機関車
(国際経済学科の科目「海外特別研修2」で、イギリス・スウィンドンの鉄道博物館を訪れたときの写真です)
他方、革命期以来の混乱をひとまず脱したフランスでも、工業化は徐々に進んでいました。グラフからも、1830年代頃から1人当たりGDPが持続的な成長を始めていることが見てとれます(※19世紀フランスにおける経済社会のあり方については、当サイト「経済学部での学び【生活環境経済学科】社会経済史の視点から絵画を読み解く―ミレー「落穂拾い」が意味するもの」も参照)。
イギリスとフランスにおける1人当たりGDPの推移:1851~2022年
図Bは、図Aの続きですが、以前のペースをはるかに上回る両国の近現代における経済成長を1つのグラフに収めるために、目盛りの値はだいぶ大きくなっています。
1851年から1930年代まで、英仏両国の1人当たりGDPの推移は、おおよそ平行している感じですが、第二次世界大戦期には一時的に差が広がっています。イギリスについては、1943年まで成長が持続したのち、1947年まで下降という推計結果になっているのに対し、フランスについては、1940年から1944年にかけてかなりの幅で下降したと推計されています。第二次大戦の開戦は1939年ですが、翌1940年にはフランス国土の半分以上がナチスによって占領されてしまいました。1944年に連合国軍によって解放されるまでのフランス経済の混乱を反映した推計値とみることができます。
第二次大戦後における毎年の伸びはフランスのほうが顕著です。イギリスでは1960年代後半から70年代にかけて製造業の競争力低下が目立つようになり、経営者側のリストラ策に反発した労働者たちによるストライキが頻発し、それがまた生産性を下げるという悪循環がおこっていました。他の先進工業国に比べたイギリス経済の不振は、「英国病」ともよばれました。1969年には、フランスの1人当たりGDPがイギリスのそれを上回り、1675年以来、約300年ぶりに順位が逆転しています。
また、「世界史」や「日本史」の勉強は、どうしても試験のための暗記ということになってしまいがち、という方も多いかもしれません。しかしそれが無駄とも言いきれません。なぜなら、世界のいろいろな国や地域の経済のあり方や、現代の国際経済の成り立ちを考える際には、歴史の知識はけっこう役に立つからです。
ここではイギリスとフランスの経済史を例に話を進めてきました。かなり駆け足になってしまいましたが、高校までに習ったことを思い出しつつ、新たな知見をつけ加えながら、それらを幅広いパースペクティヴでとらえたり、あるいは興味をもった論点について深く考究したりできるところに、大学で学ぶことの面白さの一つがあるかもしれないということを、少しでも感じていただければ幸いです。
第二次大戦後における毎年の伸びはフランスのほうが顕著です。イギリスでは1960年代後半から70年代にかけて製造業の競争力低下が目立つようになり、経営者側のリストラ策に反発した労働者たちによるストライキが頻発し、それがまた生産性を下げるという悪循環がおこっていました。他の先進工業国に比べたイギリス経済の不振は、「英国病」ともよばれました。1969年には、フランスの1人当たりGDPがイギリスのそれを上回り、1675年以来、約300年ぶりに順位が逆転しています。
おわりに
GDPについては、高校の「公共」や「政治・経済」の教科書にも載っていますから、その用語自体をご存知の方は多いと思います。経済学部では、GDPがどのような指標であるのかについてさらに理解を深めるとともに、各国の経済のあり方をみるために、実際にデータを使っていきます。また、「世界史」や「日本史」の勉強は、どうしても試験のための暗記ということになってしまいがち、という方も多いかもしれません。しかしそれが無駄とも言いきれません。なぜなら、世界のいろいろな国や地域の経済のあり方や、現代の国際経済の成り立ちを考える際には、歴史の知識はけっこう役に立つからです。
ここではイギリスとフランスの経済史を例に話を進めてきました。かなり駆け足になってしまいましたが、高校までに習ったことを思い出しつつ、新たな知見をつけ加えながら、それらを幅広いパースペクティヴでとらえたり、あるいは興味をもった論点について深く考究したりできるところに、大学で学ぶことの面白さの一つがあるかもしれないということを、少しでも感じていただければ幸いです。