2021.03.30 Tue
歴史コラム専大生と専修人

幻のオリンピック選手 山下勝

3区の山下(右)から4区の堀へ襷がわたるhp箱根駅伝・3区の山下勝選手から4区の堀勇次選手へと襷がわたる(昭和15年)
平成25年(2013)、NHK-BSで「幻の祝祭~1940東京オリンピック物語~」という番組が放送されました。主人公は戦前、日本長距離陸上界の至宝と呼ばれた山下勝(昭和16年経済学部卒)です。今回はその山下勝をご紹介しましょう。
山下を語るうえで忘れてならないのが、昭和14年、専修大学初めての箱根駅伝優勝の際の活躍です。この時、当時のエース区間である3区を走り、区間新記録を樹立しました。
そしてもう一つが、その名を一躍世間に知らしめた昭和15年(1940)の国際大会、東亜競技大会における5000m優勝です。昭和11年のベルリンオリンピックで4位入賞を果たし、当時、国内最強と謳われていた中央大学出身の村社講平に見事競り勝ち、次代のホープとして脚光を浴びるようになったのです。
実は昭和15年、アジア初のオリンピックが東京で開催される予定でした。しかし昭和12年の盧溝橋事件を発端として日中関係が悪化、戦争へと突入します。そのため日本政府は開催権を返上し、アジア初のオリンピック実現はなりませんでした。山下の成績ならば村社講平と並んでこのオリンピックに選出されていたことは間違いありません。幻のオリンピック選手と言われる所以です。山下は専修大学卒業後、NHKに入社しますが、召集に応じて中国大陸へと向かいます。そして昭和17年、陸上選手としての将来を嘱望されつつも戦地に散ります。24歳の若さでした。
昭和22年、山下の功績を永久に伝えたいと願った専修大学関係者を中心にして、その名前を冠した大会が設立されます。それが山下の地元・藤沢で38回にわたって続いた「故山下勝選手記念賞争奪短縮マラソン」、通称「山下マラソン」です。それほど山下の走りは人々に感銘を与えたのです。専修大学陸上部の歴史に燦然とした輝きを放つ山下勝。その意志は箱根を走る選手たちに、今なお受け継がれていることでしょう。
昭和15年頃の陸上競技部員hp昭和15年頃の陸上競技部員、前列左端が山下選手
第24回山下勝記念マラソンメダルhp第24回山下勝記念マラソンメダル