2021.03.30 Tue
歴史コラムキャンパスをめぐる今昔
専修大学校歌誕生秘話

専修大学校歌が誕生したのは大正15年(1926)のことです。作詞を担当したのは、「朧月夜」など数多くの文部省唱歌を手がけ、高い評価を得ていた高野辰之という人物です。この時、専修大学は儀式用と応援用の二つの校歌の制作を高野に依頼しましたが、もう一人、歌詞作りに深く関わった人物がいます。それが当時の理事・鶴岡伊作でした。
歌詞の作成にあたって鶴岡は高野に対して次のような要望を出しました。それは、儀式用は学校の場所がよりはっきりとわかるような言葉を、応援用は外部への宣伝も目的の一つとしているために校名を入れて欲しいというものです。
校歌は「宮城の北、枢地に立ちて」という歌詞で始まります。専修大学は皇居の北という崇高な場所に建っているという意味です。まさに鶴岡が希望した通り、高野は歌詞の冒頭に専修大学の立地場所を織り込んだのです。
大学や高校において校歌が盛んに作られるようになったのは大正期から昭和初期にかけてのことでした。「大学令」の公布により、多くの私立学校が「大学」へと昇格を果たす一方で、全国に旧制高校や商業・工業・医学を専門とした官立の旧制専門学校が次々と設立され、若者たちの高等教育機関への進学率が高まったのもこの時期のことです。
だからこそ多くの学校は、校歌の歌詞に学校の所在地やその風土の特色、さらには校風や理念を示す言葉を採り入れ、自校の存在を多くの人々にアピールしようとしました。鶴岡の狙いもそこにあったのでしょう。
もう一度、校歌の歌詞をよく読んでみてください。学風を示す「質実剛健」「真摯力行」、大学のシンボル「鳳の翼」、明治13年(1880)創立という歴史と伝統を称えた「世に魁けし」など本学を説明する言葉がいくつもちりばめられています。高野と鶴岡は二人で推敲に推敲を重ねながら、このような歌詞を作り上げていきました。専修大学校歌には二人の熱い思いが込められているのです。
歌詞の作成にあたって鶴岡は高野に対して次のような要望を出しました。それは、儀式用は学校の場所がよりはっきりとわかるような言葉を、応援用は外部への宣伝も目的の一つとしているために校名を入れて欲しいというものです。
校歌は「宮城の北、枢地に立ちて」という歌詞で始まります。専修大学は皇居の北という崇高な場所に建っているという意味です。まさに鶴岡が希望した通り、高野は歌詞の冒頭に専修大学の立地場所を織り込んだのです。
大学や高校において校歌が盛んに作られるようになったのは大正期から昭和初期にかけてのことでした。「大学令」の公布により、多くの私立学校が「大学」へと昇格を果たす一方で、全国に旧制高校や商業・工業・医学を専門とした官立の旧制専門学校が次々と設立され、若者たちの高等教育機関への進学率が高まったのもこの時期のことです。
だからこそ多くの学校は、校歌の歌詞に学校の所在地やその風土の特色、さらには校風や理念を示す言葉を採り入れ、自校の存在を多くの人々にアピールしようとしました。鶴岡の狙いもそこにあったのでしょう。
もう一度、校歌の歌詞をよく読んでみてください。学風を示す「質実剛健」「真摯力行」、大学のシンボル「鳳の翼」、明治13年(1880)創立という歴史と伝統を称えた「世に魁けし」など本学を説明する言葉がいくつもちりばめられています。高野と鶴岡は二人で推敲に推敲を重ねながら、このような歌詞を作り上げていきました。専修大学校歌には二人の熱い思いが込められているのです。

