2021.03.30 Tue
歴史コラム専大を築いた人々
創立者・駒井重格

専修大学の創立者の一人・駒井重格は嘉永6年(1853)8月21日、三重県桑名市で生まれました。父の名前は駒井重周といいます。駒井家は桑名藩に仕え、代々学者を多く輩出した家で、駒井重格の父も祖父も儒学者でした。
駒井重格は14歳という若さで家督を継ぎ、翌年勃発した戊辰戦争にも、徳川幕府を支える桑名軍の一員として北陸・東北各地を転戦しました。桑名藩は出羽庄内(山形県)で降伏しますが、駒井重格は負傷していたこともあり鶴岡城下に近い大山(山形県鶴岡市)で療養後、帰藩しました。明治5年(1872)には旧桑名藩主・定教とともにアメリカ留学の準備のために横浜で英語を学びます。明治7年にアメリカへ留学。ラトガース大学にて経済学を学びました。この留学中に知り合った仲間たちと帰国後の明治13年に設立したのが専修学校(専修大学の前身)です。
帰国後、駒井重格は講師として、また経営者として専修学校の運営に尽力しつつ、一方で大蔵省、農商務省の官僚として近代国家の土台づくりにも力を注ぎます。
さらに晩年の明治32年には、高等商業学校(一橋大学の前身)校長に就任します。この時、駒井重格は専門部を二年に延長、学士号の新設など学校改革に着手します。しかしその在任中の明治34年12月9日に急逝。享年48歳でした。名校長と慕われた駒井重格の突然の訃報に多くの教員・生徒が涙を流しました。
駒井重格は14歳という若さで家督を継ぎ、翌年勃発した戊辰戦争にも、徳川幕府を支える桑名軍の一員として北陸・東北各地を転戦しました。桑名藩は出羽庄内(山形県)で降伏しますが、駒井重格は負傷していたこともあり鶴岡城下に近い大山(山形県鶴岡市)で療養後、帰藩しました。明治5年(1872)には旧桑名藩主・定教とともにアメリカ留学の準備のために横浜で英語を学びます。明治7年にアメリカへ留学。ラトガース大学にて経済学を学びました。この留学中に知り合った仲間たちと帰国後の明治13年に設立したのが専修学校(専修大学の前身)です。
帰国後、駒井重格は講師として、また経営者として専修学校の運営に尽力しつつ、一方で大蔵省、農商務省の官僚として近代国家の土台づくりにも力を注ぎます。
さらに晩年の明治32年には、高等商業学校(一橋大学の前身)校長に就任します。この時、駒井重格は専門部を二年に延長、学士号の新設など学校改革に着手します。しかしその在任中の明治34年12月9日に急逝。享年48歳でした。名校長と慕われた駒井重格の突然の訃報に多くの教員・生徒が涙を流しました。

