2021.03.30 Tue
歴史コラム専大を築いた人々
創立者・目賀田種太郎

専修大学の創立者の一人・目賀田種太郎は嘉永6年(1853)7月21日、本所太平町(現・墨田区)で生まれました。幼い頃から神童と呼ばれるほどの俊才で、幕府の昌平坂学問所で漢学を、ついで同じく幕府の洋学研究機関・開成所で英語や数学を学びました。幕府滅亡後は徳川家とともに静岡に移住し、静岡学問所で英語を教えるなど、ここでも頭角をあらわしました。
明治3年(1870)、目賀田種太郎は文部省の国費留学第1期生として、法律学を学ぶためにアメリカに旅立ちます。明治7年にハーバード大学卒業と同時に帰国するも、翌年には留学生を監督する立場で再渡米、引率の留学生には鳩山和夫がいました。この2回目の留学中に知り合った仲間たちと帰国後の明治13年に設立したのが専修学校(専修大学の前身)です。
目賀田種太郎は大蔵官僚として、貴族院議員としてさまざまな分野で活躍しました。大蔵省主税局長、枢密顧問官などの要職を歴任。特に税制行政に手腕を発揮し、酒税法、煙草税法などの新設・改正に尽力したほか、条約改正などの外交問題にも携わり、韓国の財政顧問も務めました。
また、目賀田種太郎は日本の音楽教育の土台づくりにも貢献しました。東京音楽学校(東京芸術大学の前身)の創立者であり、初代校長を務めた伊沢修二とともに、日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと研究も行っています。
大正15年(1926)9月10日、相馬・田尻両先生の後を追うように死去。享年73歳でした。男爵。
明治3年(1870)、目賀田種太郎は文部省の国費留学第1期生として、法律学を学ぶためにアメリカに旅立ちます。明治7年にハーバード大学卒業と同時に帰国するも、翌年には留学生を監督する立場で再渡米、引率の留学生には鳩山和夫がいました。この2回目の留学中に知り合った仲間たちと帰国後の明治13年に設立したのが専修学校(専修大学の前身)です。
目賀田種太郎は大蔵官僚として、貴族院議員としてさまざまな分野で活躍しました。大蔵省主税局長、枢密顧問官などの要職を歴任。特に税制行政に手腕を発揮し、酒税法、煙草税法などの新設・改正に尽力したほか、条約改正などの外交問題にも携わり、韓国の財政顧問も務めました。
また、目賀田種太郎は日本の音楽教育の土台づくりにも貢献しました。東京音楽学校(東京芸術大学の前身)の創立者であり、初代校長を務めた伊沢修二とともに、日本の音楽唱歌を欧米の音楽と同化させようと研究も行っています。
大正15年(1926)9月10日、相馬・田尻両先生の後を追うように死去。享年73歳でした。男爵。

