2019.02.07 Thu
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外国語のススメ【第90回】翻訳の事情あるいは二乗

文学部教授 大久保 譲(英米の小説)
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 村上春樹に『神の子どもたちはみな踊る』という短篇集がある。1995年の阪神・淡路大震災を受けて書かれた連作で、短篇集のタイトルの英訳は雑誌連載時のものを踏襲して『地震のあとで』After the Quakeとなっている。しかしここで問題にしたいのは、日本語版の表題作のことだ。英訳者ジェイ・ルービンはこの題名を“All god’s children can dance”と訳している。もちろん間違ってはいないのだけれど、ジャズの好きな人なら知っているとおり、「神の子どもたちはみな踊る」という題名は、スタンダードナンバー“All God’s Chillun Got Rhythm”(バド・パウエル『ジャズ・ジャイアント』の演奏が忘れ難い)の日本語タイトルを借用したものなのである。つまり、英語の曲の題名“All God’s Chillun Got Rhythm”を訳した日本語の題名「神の子どもたちはみな踊る」を再び英語に訳しなおしたとき、それは元の英語タイトルとはずいぶん違う“All god’s children can dance”になってしまったわけだ。言語を、いわば「訳し戻す」さいに生じるズレ。
 このズレを主題にした小説が清水義範の「スノー・カントリー」である。英語の小説を日本語に訳しなさい、という高校の課題に、英語の苦手な一人の生徒が選んだのがヤーサンアリ・クーワバッタの『スノー・カントリー』。何のことはない、川端康成『雪国』の、エドワード・G・サイデンステッカーによる英訳を、それとは知らず一生懸命日本語に翻訳したわけだ。結果として提出された訳文は、当然、川端の原文とは似ても似つかぬ代物になる。「その列車は長いトンネルの中を出て、スノー・カントリーに入った。地球は夜の空の下に横たわっていた。列車は信号の止まりに引きあげられた」。

 翻訳を繰り返すことによって生じる原文とのズレは、しかし創造的に働くこともある。アメリカの冒険的な文芸誌McSWEENEY’Sの42号(2012)では、さまざまな言語で書かれた12の短篇が、複数の翻訳を経由することでどのように変化していくか、という実験がなされている。例えばデンマーク語の短編が英訳され、オランダ語訳され、英訳され、フランス語訳され、英訳され、スウェーデン語に訳される。3回挟まれる英訳が、当然ながらそれぞれ全く違うのも面白い。同様に、宮澤賢治の「土神と狐」も英訳され、スペイン語訳され、再び英訳されたうえで、最後はウルドゥー語の短編へと変わる。18の言語が自由に飛び交うこの雑誌を眺めていると、異文化や翻訳に関するいろいろな思い込みが解きほぐされていくような気がする。