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2017.11.21()
専修大学経済学部経済学部での学び

経済学部での学び ー「人間らしく働くこと」ー経済学部教授 高橋祐吉

 世の中には「働く」人もいるし、「働けない」人もいるし、また「働かない」人もいる。総務省の「労働力調査」では、こうした人をそれぞれ就業者、完全失業者、非労働力人口と呼んで区別している。「働く」人が生き生きと働くことができない社会、働きたい人が「働けない」社会、さまざまな事情で「働かない」人が働かなければならない社会に、私たちは「豊かさ」を感じることはできないだろう。現在働いている人の多くは、仕事に追われて日々忙しくしていることもあって、「働く」ということについてさほど深く考えもせずに暮らしているかもしれない。アルバイトに勤しんでいる大学生の場合も、おそらく似たようなものだろう。平穏無事な暮らしが日々営まれていくのであれば、それでもかまわないのかもしれないが、われわれを取り巻く現実は想像以上に厳しい。「働く」ことにゆとりが失われた社会では、「働けない」人や「働かない」人に向けられる人々の眼差しも、冷ややかなものになる。その気になれば、「何かしら仕事はあるはずだ」し「誰でも働けるはずだ」といった通念が、社会を覆いやすくなるからである。
 「働く」人もそうだが、「働けない」人も「働かない」人も、先々のことをあれこれと考えても不安が募るだけなので、余計なことは考えずに遣り過ごしている、そんなふうにも見えなくはない。例えば想像してみよう。勤め先が倒産したり自分がリストラの対象者とされたりして、40歳も過ぎてから職を失ったらどうなるのか。過大なノルマや長時間の労働に追われたあげく、身体を壊して仕事を辞めざるを得なくなったらどうなるのか。フリーターや派遣などの非正社員として、30代の半ば過ぎまで働いていたらどうなるのか。そこから浮かび上がってくるのは、先の見通せぬ現実を漂流し続けなければならないわれわれの姿である。自分はそうした現実とは無縁だと断言できるならば幸せだが、そうは断言できない人が増えてきており、今日の日本社会は、普通に働き生きていくことが何とも難しくなった社会のように見える。バブル崩壊後20年を優に過ぎても「閉塞感」を払拭できないのは、それ故なのではなかろうか。
 思い返してみると、この20年ほどの間にフリーターから始まり、ニート、ネットカフェ難民、偽装請負、日雇い派遣、名ばかり店長、ワーキング・プア、そして過労死・過労自殺とやたらに労働をめぐる問題がかまびすしく論じられ、世間の耳目を集め続けてきた。少子化問題が深刻化しているというのに、セクハラやパワハラに加えてマタハラ(マタニティ・ハラスメント=妊娠者や出産者に対して行われる嫌がらせ)なども登場している。なぜ次から次へとこうした問題が生起し続けているのであろうか。落ち着いて考えてみると、次のようなことが指摘できそうである。「働く」ということは生身の人間の生きる営みであるにもかかわらず、今日の社会がそうしたことを忘れて、マネーの支配する社会へと変貌を遂げてきたからなのではないか。少し難しく言えば、生産の一要素としての労働力の側面のみが強調されて、「市場」や「競争」、「効率」を重視した社会への過剰なまでの適応が求められてきたからなのではないか。
 一見するとキャンパスライフを謳歌しているかのような学生諸君も、就職活動の厳しさに直面するなかで、「働く」ことが厭になったり怖くなったりもしている。闇が深ければ、ひとは身構えて萎縮し内向きになるに違いない。若者たちが将来の安定を求めて就職活動に多大の時間とエネルギーを割き、大学までもがキャリア教育に気を取られるあまり学問の世界の落ち着きを失いつつあるのも、それ故であろう。こうした状況が生み出されたのは、私たち自身も人間らしく働くということにきちんと向き合ってこなかったことも一因なのかもしれない。ILO(国際労働機関)がいうディーセント・ワーク、すなわち「働きがいのある人間らしい仕事」に対する関心の弱さである。こうした社会に根を張りはびこってきたのが、世にいうブラックな企業なのではあるまいか。こうした暗鬱な現実があるためなのか、他方では、仕事の「やりがい」に対する過剰な期待が膨らんでいたりもする。ワーク・ルールが曖昧な社会において、「働く」ことが持続可能となることはありえないし、そこに「やりがい」が生まれることもない。
  人間らしく働くことを基軸に据えた市民社会とはどのようなものなのか―労働経済論が問い続けてきたし、いまも問い続けているのはまさにそうした課題である。

 

経済学部での学び(高橋祐吉)

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