近年の大学院博士学位論文 論文要旨



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川口智江
「19世紀前半ヘッセン地方における社会運動
-ヘッセン‐ダルムシュタット大公国の1848/49年革命再考-」

 本稿は19世紀前半のヘッセン‐ダルムシュタット大公国における都市と農村それぞれの社会運動がどのような相関関係にあったかを明らかにし、その上で1848/49年革命を再考することを目的とする。1848/49年革命前史研究ではもっぱら1815年のウィーン会議から革命までをひとつの時代区分として三月前期と呼んでいる。だが、本稿では三月前期の政治的・社会的基盤を形成することになる領域再編成の役割に注目し、ナポレオン主導によるドイツ諸邦の領域再編成が開始された1806年からを考察の対象時期とする。また、領域再編成が及ぼした影響が最もよく現れている地域がヘッセン‐ダルムシュタットであった。ヘッセン‐ダルムシュタットは自由主義運動や革命運動では西南ドイツ諸邦と密接な関わりを持ち、反体制運動が活発に行われていた。これらの反体制運動や1848/49革命に関する地域史的研究は地域史・郷土史などの分野で進められてはいるものの、あくまでも地域内での分析にとどまっており、革命全体と地域的事象を関連付ける広い視野の研究にはいたっていない。本稿では、このような状況をふまえて、地域における三月前期社会の自由主義運動や農民運動から1848/49年革命の再考を試みる。
 三月前期のヘッセン‐ダルムシュタットでおきた社会運動の中で特に注目に値するのは、都市市民層を中心とする自由主義運動とその中から発生する立憲運動、そして農村部で起きた農民騒擾である。前者は都市市民層が市民的自由と権利を求めた運動である。ウィーン会議直後から西南ドイツ各地で立憲運動が起こり、憲法の制定と議会の設置が相次いだ。ヘッセン‐ダルムシュタットでも同様の立憲運動が始まった。都市市民層の運動は都市周辺のゲマインデの世論を獲得していき、最終的には農村を運動に引き入れることに成功した。ヘッセン‐ダルムシュタットで立憲化を実現するほどの世論が形成されたのは、市民層の立憲運動が農村の納税拒否運動およびゲマインデ自治制限にたいする抵抗運動と結びついたからである。しかし、その後の自由主義運動はメッテルニヒによる反動政策の強化によって抑圧された。他方、農民運動は農村社会の内部で行われていた。その最大の事件が1830年のオーバーヘッセン地域で発生した農民騒擾である。そこで見られた特徴はシュタンデスヘルにたいする攻撃であった。シュタンデスヘルとは1806年の領域再編成の際に陪臣化された旧領主を意味し、彼らは領地を併合されたにもかかわらず、旧領地にたいするさまざまな特権を付与された。シュタンデスヘル領はまさに国家の中の国家となったのである。住民は二重課税を負わされた他、裁判や警察に関して直轄領の住民と異なる扱いを受けた。そのため、住民の不満はたびたびシュタンデスヘルへと向けられた。1830年の騒擾はこのようなシュタンデスヘル領の村から村へと広がったが、この運動が農村社会を越えて広がることはなく収束した。
 このように都市と農村で社会運動が別々に展開していたのは、それぞれ求めていたものが異なるからであった。両者の利害を一致させ、世論の拡大に成功した例がすでに述べた立憲運動であるといえるが、その後革命までそのような現象は起きなかった。そのような状況の中で都市市民層の運動に農村住民を動員することの重要性に気付き、パンフレットによって農村住民を啓蒙しようとしたのがゲオルク・ビューヒナー(Georg Büchner)であった。当時の社会運動のあり方から見ると、ビューヒナーの書いた『ヘッセンの急使(Der Hessische Landbote)』はこれまでの市民的運動の範疇を超えるラディカルな考え方であったといえる。
 それから十数年後、1848/49年革命が勃発した。当初、ダルムシュタットでは邦議会を中心に市民層による革命が展開されていたが、そこでは市民的自由や権利の主張だけがなされた。他方、オーデンヴァルトのようなシュタンデスヘル領の農村では農村の利害を求めて農民騒擾が行われた。つまり革命の初期段階では都市と農村は全く異なる利害を求め、そこにはズレが生じていた。しかし、このズレはシュタンデスヘルの排除という点で解消され、都市と農村の利害は一致した。つまり、農村におけるシュタンデスヘルの特権排除と議会における政治的特権の排除である。このことによって1848/49年革命は都市の革命運動と農村の革命運動の合流点となった。
 最後に、以上のような19世紀前半の社会運動の展開を地域史、支配の重層性、公共圏といった点に重点をおきつつ考察した。そこで明らかになったのは、19世紀前半の領邦国家の近代化の問題である。領邦国家は社会が近代化することによって生じるさまざまな問題への対処を求められ、19世紀前半には土地改革や税制改革をはじめとする内政改革を行った。また、国家による一元的支配を貫徹させるために、ゲマインデやシュタンデスヘルといった中間団体・中間権力を排除する方向へと向かった。当時の社会運動にはこうした国家の近代化の問題が反映されているのである。



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