専修大学・今村法律研究室
今村力三郎小伝
 専修大学にあって、唯一個人名を冠した研究所として「今村法律研究室」がある。こうした研究室が設立された理由は、この研究室の存立目的から解明されよう。これから紹介する今村力三郎(以下、敬称略)の全体像を知るためにも、この研究室規程の第一条に示された目的を解説することが必要なことと思われる。第一は在野法曹として活躍した今村であり、第二は専修大学総長としての今村である。以下、この二点に絞って順に説明することにしたい。(本文章を記すに際して各種の資料にあたったが、いちいち出典を明らかにすることなく省略させてもらった部分が多い。ご寛容願いたい。)

弁護士としての今村

 今村力三郎は慶応2(1866)年、長野県上飯田村(現在の飯田市)に鉢谷重造の長男として生まれた。今村姓は同村の今村むめ方に養子に入ったことによる。兵役を逃れるためであった。墓もこの飯田にあり、山に囲まれたこの地を生涯愛されたことが偲ばれる。一家は明治18年に上京、神田猿楽町に店を構えた。すでに青年になっていた今村は家業とは別の職を探さなければならなかったが、縁あって大審院(現在の最高裁)判事伴正臣の「玄関番」となる。ここから将来の代言人(弁護士)への道が、運良く開けてきた。本人が「僕の貧乏時代」と回想しているように、いずれにせよ苦学したことは間違いない。当初、今村は裁判所書記官になれたら良いかなと考えていたが、書記から判事補への採用がなされたことを聞き及んで、自分もその可能性を求めるために近くにあった専修学校に通うことになる。明治19年当時の専修学校は神田今川に新校舎を設け、夜間に開校されていた。また、同年8月に文部省は私立法律学校特別監督条規を定めており、専修学校もいわゆる東京「神田五法律学校」の一つとして帝国大学総長の下に置かれていた。この結果、この時期に新たに台頭してきた私立学校の学生にも監督試験の受験資格が与えられることになった。
 今村はたいして勉学しなかったと謙遜するが、昼は玄関番、夜は学生、帰宅後も判決書の浄書という多忙な生活を送った。しかし努力の結果、入学3年目の明治21年4月に代言人試験に合格し、同年9月に第七回卒業生の総代(一等賞)として卒業した。卒業講演として「刑制論」を論じている。居候弁護士の後、短期間判事を勤め、その後は明治・大正・昭和という激動の時代を主として刑事弁護士として名を残すこととなる。もちろん弁護士であるから、刑事だけでなく各種の訴訟に関わったが、今日残されている資料からして今村の名は刑事弁護に集約されている。後に著した著書は『法廷五十年』と題しているが、通年で50年に及ぶ弁護士活動の全体像を明らかにすることは困難である。また、今村の法律家としての思想を描き出すことも、残された著作が少ないがゆえに難しい。
 今村弁護士が関わった事件にあって、歴史に名を残した事件は多い。時代が必然的に今村をこうした著名な事件の弁護にあたらしめたと言えるのかもしれない。すでに30歳代で足尾鉱毒事件の弁護に連なり、自由民権運動・普選運動にも関わっていくのは、「反骨精神」(辻達也の指摘)の土壌に育ったからであるとも推定される。田中正造を介して幸徳秋水と知り合い、後に「大逆事件」の弁護を引き受けたのも、人権擁護の弁護士としての宿命であったのかもしれない。この心境を後に『芻言』として残している。専修大学には今村が関わった訴訟記録が残されている。すでに今村法律研究室が復刊した訴訟記録を時代順に記すと、「大逆事件、金剛事件、五・一五事件、血盟団事件、神兵隊事件、帝人事件」の六事件となる。それぞれ著名な事件であるが、60歳代の時に関わった帝人事件の弁護が最も今村弁護の特性が現れていると評されている。この時期「東京弁護士界の花形十人」に数えられていた。
 今村はその扱った弁護の関係で、徐々に有名になってきたようであり、当時の著名弁護士を記すと、原嘉道、岸清一、花井卓三、平出修、鵜澤聡明、といった弁護士の名があげられる。しかし、彼らが弁護士以外のところで活躍することにより名を残したのに対して、今村は「平弁護士」と自称し、官職に名を連ねることはなかった。今村は書を好んだと言われるが、その雅号として「徹堂」を用いた。「権力を恐れず、時流に流されず、被告・依頼人の人権擁護のために、長い弁護士人生を一貫した」(大谷正の指摘)が故に、この雅号を意識的に用いたと推測される。

専修大学の中興に寄与した今村

 専修学校は大正2(1913)年、専修大学と改称なった。今村は戦前にあって、この学校法人専修大学評議員(大正9年)、理事(大正15年)にすでに就任していたが、熱心ではなかったらしい。時は流れ戦後の専修大学のことに触れる。本学でも学生と教員による学園復興運動が興り、それは同時に専修大学の刷新運動になった。昭和21(1946)年、「学生管理委員会」が組織され、これがさらに教員・職員を含む「大学再建準備委員会」という形に膨れ上がった。この委員会は、当時の小泉嘉章総長に対してその戦争責任と経営不適切を理由として辞任を求めた。委員会の再三の求めに応じて、伊豆修善寺の別邸で半ば隠遁生活を送っていた今村が、やがて新たな総長に就任したのは7月であった。はじめての本学出身者としての今村総長の誕生である。今村は80歳を超えていたが、徹底して大学人になろうとした。
 時は戦後の混乱期であり、かてて加えて新制大学の要請からして、施設の拡充、人員の整備といった具合に、財政的側面だけでなく総合的な経営努力が求められた。男女共学が始まり、大学は様相を変えることになる。神田校舎の敷地では基準の20分の1にも足らないということで、昭和24(1949)年日本電気から生田敷地の獲得ということになり、同時に学部の拡張が図られた。この時期、今村総長が採った対応は大胆、かつ徹底したものであったと言えよう。今村は長き弁護士生活による、杉並に広大な屋敷と修善寺に温泉付きの別邸をもっていた。このほとんどの土地を新制専修大学に寄付するという大胆な行動を行った。今村は現在の地下鉄丸の内線、南阿佐ヶ谷と荻窪の間あたりに広大な屋敷をもっていて、その敷地は1万平方メートルもあり、その中にはボートが浮かべられる程の池があったという。その屋敷には客を迎えるためにいつも酒樽が用意されていたという。
 この屋敷のほとんどを寄付した後、今村総長は大学の一室に居を構えた。それは昔の本館の一隅であったり、靖国通りにあった旧図書館の一部であったりしたらしいが、ここで陣頭指揮にあたったという。今村はこの大学の一室で、昭和29(1954)年、享年89歳でその生を終えた。葬儀も大学内の体育館で行われた。この80歳を過ぎた老人が、このような晩年を選択したことの理由は定かではない。しかし、今村が最後の仕事として専修大学に格別の情熱を向けたことは間違いないことであった。この事実をさらに再考しながら、われわれは今日・将来の専修大学を考えていかなければならないであろう。

 さらに今村力三郎に関心のある方は、専修大学今村法律研究室編『今村力三郎「法廷五十年」』専修大学出版局、をお読みいただきたい。

 文責:石村 修(専修大学法科大学院長・元 今村法律研究室室長)

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