【特集】私のジンバブエ勉強記 涙あり。ショナ語の学習 商学部教授 吉國恒雄

▲「ムソジ母ちゃん」の孫・ハーヴェイ夫人からの聞き取り(左が筆者) |

▲レクリエーション・ホール「ムソジ母ちゃんのホール」前で |

▲白人の農地を占領したアフリカ人女性たち |
森と荒野のシベリアにある小さな町について、ドストエフスキーはたしかこう書いた。一部のロシア人は、ここが嫌で嫌でたまらず、ひたすら任期開けを待ち望みながら生活するが、しかし「人生の謎を解いた人」にとっては、それほど悪いところでもない、いやむしろ、豊かで、気持ちのいい人々の住む、じつに楽しい場所である、と。熱帯アフリカ・ジンバブエ(旧ローデシア)の首都ハラレでこれを書いているので、極端にちぐはぐな取り合わせなのだが、そしてまた、人生の謎を解いたなどと言う気は毛頭ないのだが、この土地の印象は何か、と聞かれれば、やはりこのロシアの作家の言葉を思い出さざるをえない。
人々は朗らかで、情はこの上なく厚い
たぶん150年まえのシベリアのように、モノがない、文明がない、生活が単調と、この土地を罵りながら去っていく外国人は多い。英語ニュースに接している人ならご存知のように、この国は近年白人農民の土地を没収して、英米から袋叩きにあい、国民生活は文字通り危機の淵に沈んでいる。こうした事情もあるので、たしかに不便、不都合は山ほどある。パン、トウモロコシ粉、ミルク、砂糖が店にない、燃料を得るため週1回ガソリンスタンドで並ばねばならない、200パーセントを超えるインフレの下で、家事労働者の月給はトイレットペーパー数巻き程度にしかならない、ローカルテレビは国営1チャンネルしかない、本屋の棚には粗末な文房具、聖書・教科書と安物の小説しか置いてない、夕方の5時になればたいていの店はさっさと閉めてしまう。
欠点が多いのは間違いないのだが、しかし、これが美点の少なさを意味するとはかぎらない。むしろ、ちょっと見方を変えれば、素晴らしいところもたくさんある。頭上から降り注ぐまぶしい陽光、土煙を上げて降る雨、昆虫の乱舞、人類の臭いがしない凄まじい大自然がある。日光をたっぷり吸い込んだ果物や青菜は香り高く、美味い。農村はもとより、都市においてすら、人々は空間のぜいたくを楽しんでいる。田舎は、「中央」に惑わされることなく、今の自分の姿に満足して生きている。人々はとにかく朗らかであり、情はこの上なく厚い。
謎に満ち満ちた「ムソジ母ちゃん」
本学の長期在外研究員として1年間のジンバブエ滞在(ジンバブエ大学史学科研究員)が決まった時、私は二つの仕事を自分に課した。一つは、近年のジンバブエ問題に評論を加えること。現状分析は私の専門ではないが、旧宗主国英国とBBCの発信をオウム返しするだけの没理性の報道・論評が多い中で、この国の歴史を勉強するものとして、一言言っておくべきという気持ちで強くなった。再入植地の訪問など現場の空気を感じ取ることに努めた後、昨年10月に筆を執った。主観と客観の区別に予想以上苦戦したが、昨年の大晦日に脱稿した(近日中に活字になるはずである)。
いま一つは、私の専門のアフリカ都市社会史に関わるもの。写真は、ジンバブエ最古の都市ロケーション(アフリカ人居住区、現ハラレ市ムバレ区)にあるレクリエーション・ホール(1934年建設)、「ムソジ母ちゃんのホール(Mai
Musodzi Hall)である。この「ムソジ母ちゃん」とは誰のことか、彼女は何をしたのか。なぜ「母ちゃん」と称され、なぜそれが、コミュニティー活動の中心場所の名になったのか、古いレクリエーション・ホールはすべて白人役人(男)に因んで命名されているのに、この場合にだけ、アフリカ人の、しかも女の名が使われている理由は何か。今日、これに答えられる人はほとんどいない。植民地政府の記録や新聞などにもめったに出てこないので、この女性(1952年死亡)は今や老人の記憶の中にかろうじて存在しているだけである。「ムソジ母ちゃん」を赤い糸として、女性の「パイオニア的」都市コミュニティーの姿、その形成・発展を跡づけること−じつは15年程前に気付いたテーマであるが、当時掘り下げることができなかった。そこで今回、年寄りの話を徹底的に聞いて、この仕事をまとめてみようと決めた。
“英語”がアダに猛勉強を開始・・・
ということで、昨年冬口、北半球では夏口から、訪問、聞き取り、テープ起こしなどに相当の時間と精力を使った。老人たちは「変な白人」(ここでは黒人以外はすべて白人〈ムルング〉である)がドカドカと家の中に入り込み、長居をして、出産、結婚、家族関係など私生活について根掘り葉掘り聞いても、嫌な顔一つ示さなかった。むしろ、まさにこの時を何年も待っていたかのよう、熱心に、時には私が疲労困憊するまで話してくれた。こうした協力のおかげで、自分で言うのもおかしいが、かなりの成果を収めることができたと思う(第一草稿は、昨年11月、民博でのアフリカ女性史シンポジウムで発表)。
この作業をしながら、二つのことを思い知らされた。まず、年が自分とあまり違わない聞き取りの相手がニ、三いたこと。私自身がインタビューされてもおかしくない「古老」になりつつある−いささか困惑を覚えざるをえないが、これはなかなか面白い発見であった。もう一つは、私のショナ語のお粗末さ。この国では、私のような人間の場合、英語による会話が自然であり、また英語でほとんど全ての用が足せる(そこで、言い訳であるが、私のショナ語は上達しないのである)。しかし、老人に心の内を自由に語ってもらうとなると、話は別である。このため、私のインタビューはジンバブエ大学の学生の助けを借りねばならなかった。なんとかして言葉の壁をぶち破りたい、人間の感情や心理にもっとじかに触れたいという欲望がわき起こり、それに駆り立てられて、泥縄であることを知りつつも、ショナ語の手習いを(またまた)始めた。この勉強の進み具合と成果については、日頃学生諸君に、こんな単語が覚えられないのか、と叱っている立場上、秘密にしておく。いずれにせよ、今回は相当熱心にやり、これが当初予想しなかった第三の仕事になった。
超難解!なショナ語 頭痛のタネは名詞に
ショナ語(あるいはその上位範疇であるバンツー語)は「涙なし」で学習できるかというと、残念ながら、そうではない。頭痛のタネは、他の言語と異なり、名詞にある。名詞が21クラスあって、そのクラスが、スピーチの各部分、とくに語の頭に特有の(しばしば韻を踏むかたちで)影響を与えることである。日本語で、人間(につながる名詞のクラス)は、ひとり、ふたりとしてしか数えないのと同じである。これがショナ語の場合、全ての名詞に当てはまり、しかも、数だけではなく、「これ」、「ここ」などをも規定する。だから、名詞のクラスが分からなければ、まともに話はできない。もっとも、いい加減に言い放っても、一応意味は通じる。気まずい沈黙よりはましなので、私はこれで押し通している。ただし、「椅子が3匹、あちら様にいらっしゃる」としゃべっているようなものだから、相手が私をどうみているか、恐ろしい話である。
そうこうするうちに、雨季も終わりに近づいた。新年開けの頃は、また干ばつ・凶作かと懸念されたが、後半になって「慈雨」がやって来た。庭先のシリンガの大木が葉を茂らせ、レモンの実はいまやこぶしほどの大きさにふくらんでいる。名も知らぬ小鳥が次々とやってきて、庭の虫をついばんでいる。昨年、東京の雑踏から抜け出したばかりの私を、何とも言いがたく感動させたあの風景に、いよいよ似てきた。もう帰国の準備をせねばならないようだ。 (本年3月帰国)
(よしくに・つねお) サンフランシスコ州立大、ジンバブエ大学でアフリカ史専攻。アフリカ史(文学部世界史特殊講義V)も担当するが、主に担当科目は英語。新しいことを知るための外国語学習という「建て前」に執着すべし、が口ぐせ。